挿話: 出会い
──神なんていない。ずっとそう思ってきた。
アース・オルラリエ。国の名を背負って生を受けた俺の生い立ちは、決して恵まれたものではなかった。
先代の王の腹違いの弟として生まれたものの、物心着く頃には兄がすでに王太子として地位を確立していたからだ。
さらに悪いことに、母の身分は低かった。
俺と母は、王族であるにも関わらず、無駄な争いの火種にしかならない存在で、国にとっては邪魔者だったのだ。
王族として必要な保護を得られず、幼少の頃は常に暗殺や誘拐などの危険にさらされた。初めは、どうか助けてくださいと神に祈った。しかし助けが得られないことが分かって、祈ることをやめた。
それからは毒殺されそうになるたび、胃がひっくり返るほど吐き。暗殺者に付け狙われれば、騎士たちの訓練場に押しかけて独学で剣術を学んだ。
ただ、自分と母を守るために。
しかし結局、母は暗殺の憂き目に遭い、若くして命を落とした。殺したのは、俺に唯一優しくしてくれた人だった。その優しさは、俺に近づくためだけのニセモノだったのだ。
母は王族としては頼りなかった。いつも俺を通して父を見つめているような、物静かで夢見がちな人。けれどそれでも俺は母を唯一の家族として愛していた。
だから母が殺された日、俺の世界から、神はいなくなった。
自分の身を自分で守れるようになってからは、今度は俺を取り込み甘い蜜を吸おうとする者たちの標的になった。そのような人間は男女問わずいたが、特にタチが悪いのは女だった。
狡猾な彼女たちは、俺に取り入るために、俺のことを愛するかのように振る舞ったのだ。
母を亡くして孤独な身の上で、人としてもまだまだ未熟だったかつての俺は、自分のことを好いてくれる人の存在に喜び、時には胸を高鳴らせた。いつか家族ができ、孤独が癒えることを期待した。
しかし彼女達が見つめているのは俺自身ではなく俺の身分。悟るのに、長い時間はかからなかった。
それからは彼女達を無視するようになり、気が向けば効率の良いストレス発散の手段として扱ってやることで、心の平穏を保つようになっていった。──若気の至りというものだ。
まあ、そんな生い立ちで、精神を病むような柔な性格でなかったのは幸いだろう。ただ全てが面倒になっていたのは確かだった。
生き残るために、たくさんのものを切り捨てた。神を信じる心。人を信じる心。
いつのまにか、襲い来る暗殺者にも、しなだれかかってくる女にも心が動かなくなった。
そうして気付けば俺は、何事にもあまり感情が動かない性質になってしまっていた。
そんな俺が、本物の女神と出会うことになったのだから、運命の悪戯というのは実在するに違いない。
フロラの出会いは屋敷の東側にある泉だった。
その泉は建国よりもさらに昔から自然と湧き出続けているという歴史の長いもので、その昔世界の一番初めの神が沐浴に使ったことで聖水が満ちるようになったという言い伝えがある。
と、その話自体は眉唾だと思っているが、とにかくそんな有難い泉を守るという意味合いもあって、古い昔にその泉を敷地内に取り込む形で、この公爵邸は建てられたという。
泉付近の空気は聖水の影響を受けてか、いつ行っても澄みきっている。俺は単にその澄んだ空気が気に入っていて、あの辺りを剣術を鍛錬する時の定番スポットにしていた。
そしてあの夜。いつも通り俺が一人で剣を振っていると、誰もいないはずの泉からぱしゃんと水を蹴る音がした。
直感的に、単なる動物ではなく人間が立てた音のように感じて、剣を振るのを中断すると俺は泉を確認に行った。
昔ほどではないが、公爵という立場上、暗殺や間諜のリスクは常にある。今回もその可能性を捨てきれないと判断したからだ。
──そうして俺は、月光に照らし出される一人の女性と出会った。
まだ冷える春の夜に、全身ずぶ濡れになりながら立つその姿は異様でもあり、しかしそれ以上にどこか神聖不可侵のように感じられた。一瞬、全てを忘れて魅入られていた事を否定はできない。
しかしどんなに美しくとも公爵家以外の人間が敷地内に入り込んできていることは事実だ。これだけの美貌。もしかするとハニートラップを前提とした暗殺者かもしれない。
そう自分に言い聞かせた俺は、気配を殺して女に近づくと、持っていた剣をひたりと白い首筋に当てた。
暗殺者であれば抵抗するだろうと予想していたが、相手は無抵抗に刃を受け入れ、大人しく俺の腕に閉じ込められた。
あまりにも従順。しかしそのエメラルド色の瞳だけは、恐怖も動揺もなく、ただ意志の強さを持って真っ直ぐに俺を射抜いた。
認めよう。この瞬間、最近ではとうに忘れ去っていた感情の発露が心の奥底から湧き上がってきたことを。動かないはずの心が、ほんの少し動かされたことを。
彼女は本物の女神だった。圧倒的な白銀の翼でその正体を証明した彼女は、至高の扱いを求めるのかと思いきや、もはや自分は人間だと宣言し、異様なまでに気軽な態度でこちらに話しかけながら俺の屋敷まで──さらには俺の部屋まで付いてきた。
見たところ警戒心が全くないわけでもなさそうだったが、出された水を疑いもせず口に含み、俺の一言ひと言に素直な反応を返す彼女の態度は、あまりにも世慣れておらず危うい。
最初こそ、「幼い自分を助けてくれなかった神はこいつか」「文句でも言ってやろうか」なんてことを考えていたが、話を聞けば聞くほど、その素直な気性と純粋な言葉に毒気を抜かれた。
──神は存在した。
ただ、神は、人間が思い描いているほど圧倒的な存在ではなかった。ただそれだけだ。
守りたいのに守れない。救いたいのに届かない。
高次の存在でありながら、人間の命と向き合い、葛藤し足掻く彼女が、過去の自分と重なった。
そしてそれは、俺の凍りついていた感情を強く──強く、揺さぶった。
そのせいだろう。一緒にいて彼女を守ってやりたいと。やりたいことをどうにか手助けしてやりたいという衝動に駆られ、とっさに俺は婚約を申し出てしまったのだった。
突然のことに目を白黒させる彼女は、とても神とは思えないような様子で、何だか可愛くて。そんな感情を抱いている自分に、少し驚いた。