1. 突然すぎませんか
よろしくお願いします。
「フロラレーテ様、でしたか。とりあえず、落ち着いて話せる場所に行きませんか?」
「あっ、敬語はやめてください」
「…………落ち着いて話せる場所に行かないか」
そんなやりとりを経て、現在フロラレーテは彼──名をアースと言うらしい──の屋敷に向かっている。
濡れそぼった人間仕様の身体は冷える。
一晩だけでも室内で温まれるのは、とてもありがたい申し出だった。
歩くこと数分、進行方向に見えてきた立派な屋敷に、フロラレーテは感心する。
「わぁ……アースは立派なお家に住んでいるんですね」
「ああ。これでもそこそこの身分は持っているからな」
夜なのではっきりとは見えないが、屋敷の右端と左端がいっぺんに視界に収まらないくらい大きいのは確かだ。
白い壁が月光を受けてぼんやりと浮き上がっていて、いったい何部屋あるのか、たくさんの窓からキラキラと明かりが漏れている。
「ちなみにこれは母家で、離れが三つある。あと君が現れた泉も我が家の敷地内だ」
「そんなに広くする必要が!?」
天上界にあった自分のこぢんまりした神殿を思い浮かべて、フロラレーテは驚愕した。あそこは、少し手を伸ばせば必要なものに大体手が届くのが便利だった。
こんなに家が広かったら、ちょっと物を取るだけでも軽い散歩になってしまうのでは。
例えば玄関まで行ってから、自室にペンを置き忘れたのを思い出したとしよう。
この広さだとそれはもうその時点ですでに"忘れ物"だろう。家の中で思い出したのにもかかわらずだ。不便すぎやしないか。
──という主旨のことをアースに述べてみたところ、使用人に届けさせれば良いとあっさり返された。
「忘れ物を取るだけのために、人を使うんですか?」
「使用人はそういう雑務のために給金を受け取っているからな。何でも頼めば、彼らは職を持ち続けられる」
「ふむ?」
(そこで、不便だから家を小さくしよう、とはならないのね。人間の偉い人ってすごいわ。すごい、よく分からない、って意味のすごいだけど。
きっと私にはまだ理解しきれない人間界特有のあれこれがあるに違いないから、あとで勉強してみようかしら)
そんなことを考えながら、フロラレーテは隣を歩く男をチラリと見る。
淡々と道を先導する姿には、神への畏れはすでにない。不思議なほどに。
「それにしてもあなたって、すごい適応力ですよね。さては結構何事も割り切れるタイプですか?」
「……それは褒め言葉なのか? それとも人間として扱ってくれというのはリップサービスで、俺はやはり跪くべきだということを示唆されているんだろうか?
他でもない女神様の言いつけだったので従ったまでだったが──やはり敬語でお話し奉りましょうか? 偉大なる女神様におかれましては」
「すみません私が余計なことを言いましたやめてください。今の私はしがない人間なので。身分もあなたが上なので」
「女神様にこちらが上と言われるのは妙な気分だな」
「そこは、今の調子で慣れてもらって。あ、あれが玄関ですね」
大きな玄関ホールが近づいてきたので、そこから入るのかと思ったら、アースは直前で右に曲がる。
「入らないんですか?」
「……色々と説明が面倒なんだ」
アースがふいと目を逸らすのに、フロラレーテは大きく頷いた。
「意図は分かりましたよ。たしかに、明らかに刃物でできた首の傷から出血している濡れそぼった女性と二人で家に帰ったら、説明はややこしくなるでしょうね。
私はこれまで長い間、天上界から人間界を見てきたので、ひと通りの一般常識は備えていると自負しています。……ねぇ、そういうことですよね? 合っています?」
「……その通りだ。だが人間界の作法に則るならば、そういうことは気付いても答え合わせしないものだな」
なんとも言えない表情で説明するアースの話を聞きながら歩くことしばらく、アースは一つの窓の前に立ち止まった。
フロラレーテは窓の様子を見て首を傾げる。内側から鍵がかかっているように見えたからだ。
「窓から入るんです?」
「ああ。ちなみに目の前の窓じゃなくて、上の窓だな。翼は目立ちすぎるので使用しないでもらえるとありがたいんだが、そうなると……。君、木登りはできるか?」
示された立派な木を見て、フロラレーテは真顔になった。
「できると思いましたか?」
「失礼。抱えても?」
「……許可します。家に招いていただく身ですから、仕方なくですからね」
飛翔できる女神に、木登りは不要なスキルなのだ。プライドがちょっぴり疼くが、背に腹は変えられない。
フロラレーテが渋々アースの首に腕を回すと、次の瞬間には軽々抱え上げられて、ぐんぐんと木を登っていった。すぐに、すとんとバルコニーに降ろされる。
「ようこそ我が家へ」
「ご招待感謝します」
連れ立って室内に入ると、誰もいないと思っていた部屋の隅からパリンと音がした。
「……いたのか。間の悪い」
アースが苦虫を噛み潰したような声で唸った。
「な、な、な──」
部屋の隅で、赤色の髪を一つに束ね眼鏡とスーツを身につけたひょろりと背の高い青年が、持っていたらしいティーセットを取り落としてこちらを凝視していた。
こうならないために窓から入ったのになぁと思いながらフロラレーテが眺めていると、青年はブルブルと震える指でこちらを指さす。
「全身ずぶ濡れの美女! 首からの出血! アース様、なんて事を。これはひどい。今までで一番ひどい!
最近女遊びが少なくなったと安心していたっていうのに、これはまた新しくどんな趣向に目覚めればこんな有様に!? これでは巷で密やかに噂される、エスエムぶほっ!」
青年がナニかを言いかけて昏倒した。
近くに落ちているのはきちんと鞘に収まっているアースの剣。どうやらそれが目にも留まらぬ速度で投擲され、青年に命中したらしい。
フロラレーテは倒れた青年と剣をまじまじと見比べたあと、アースに視線を戻した。
「女遊び」
「反芻するんじゃない」
「エスエムって」
「知らなくていい」
目を回していた青年がハッと身を起こすと同時にアースが唸る。
「ジュド。風呂に湯を沸かして下がれ」
「はいっ!」
ジュドと呼ばれた青年は、ピャッと立ち上がると隣室に駆けていった。
フロラレーテは初めての入浴に四苦八苦しつつも、その心地良さを存分に堪能した。
(ふぅ。人間の身体は気温の影響を受けるから少し濡れただけで寒くて大変だと思っていたけど、寒いという感覚のおかげで、温かい湯を浴びるのをとてつもなく気持ち良く感じることができるのね……)
常に一定で、環境に左右されることのなかった神の身体とは大違いだが、それも良い。
フロラレーテは準備良く用意されていた高級そうなふかふかのタオルで水滴を拭いてから、これまたいつの間にか用意されていた着心地の良い部屋着に着替えた。
至れり尽くせりを感じながら浴室を出て最初の部屋に戻ると、アースはソファで何かの書類に目を通していた。
伏し目がちな目を覆う長いまつ毛。すっと通った鼻筋。
(神族だと言われても納得できるほどに整っているわね。俯いたせいで額にかかる黒髪すら、独特の色気を引き立てててるように見えるってどういうことかしら。こんな人間もいるんだわ……)
先程ジュドという青年が、アースの女遊びがどうとか叫んでいたが、それも頷けるとフロラレーテは思った。
人間界において、アースはさぞモテることだろう。
まじまじと観察していると彼の視線が上がり、伏せられていた瞳が正面からフロラレーテを捉える。
「そんなところで突っ立って何をしてる。温まったか?」
「ええ」
「それは良かった。じゃあ、君について聞かせてもらおうか」
詳しく、と言い添えてアースは水差しからグラスに水をたっぷりと注ぎ、フロラレーテの方に置いた。
どうやら長期戦前提らしいことに苦笑しながら、フロラレーテはソファに腰掛ける。
「何から聞きたいですか?」
「とりあえずは、あそこに現れた経緯と目的を」
アースの返答に、フロラレーテは了承を返した。
初対面の人間にあれこれ話しすぎるのはリスクもあるけれど、ここまで会話した印象から、彼になら話しても悪いことにはならないだろうと自分の勘を信じることにする。
(……最悪、不利益がありそうなら記憶を無くすほど神力でボコボコにして逃げれば良いし)
不穏なことを考えていると、少し顔に出てしまっていたのかアースが胡乱げに眉を寄せた。
フロラレーテはごほん、と一つ咳払いをする。
「ではまず前提から。神族というのは、自分が司る世界を一人ひとつ持っていて、それを守るために生まれ、それを守りながら永い時間を天上界で過ごします」
「ちなみに君は何歳なんだ?」
「私は、まだ全然。おそらく二十四、五歳だと思います。先代の神から代替わりして間もないなので、神族としては生まれたての部類ですね。
ただ、代替わりのときはどうしても世界の均衡が乱れてしまうんです。人間界で言うところの、異常気象とか災害とかが増えてしまう。なので私は生まれてから今まで、それを元に戻したり、他の世界担当の神から回ってくる書類を捌いたりして、それなりに忙しく過ごしていました」
「興味深い話だな」
「あはは。神がどんなことをしているのか知る機会は、人間にはないですもんね。
で、去年までかけてようやく世界の均衡を戻したんですけど……ただ、それ以降は私が存在しているだけで世界は勝手に栄えていくので、手がかからなくなります。時折この世界を眺めながら、書類を捌いて、眠って。その繰り返しが始まりました」
そんな一年間を思い出して、フロラレーテは息をつく。あのままだとあれが今後数千年続くことが確定していたのだ。
「では、それが嫌で人間界へ来たのか?」
フロラレーテは曖昧に首を傾げる。
「半分正解、半分不正解ですかね。あの仕事自体が嫌という訳ではありませんでした。むしろ仕事は好きな方なんです。自分のやっていることが、人間界のためになっていると思えばやりがいも無いわけではなかったし。
ただ、仕事に余裕が出ると、それまで見えていなかったものが見えてきたりするでしょう? それが、私にとっては人間界の実情だったんです。それで気づきました。私は自分が司るこの世界を知らなさすぎるということに」
その時の衝撃を思い出して、俯く。悔しかった。
「上から眺めているだけでは何もできません。知ることさえできれば。もっと近付ければ。学ぶことができれば。他にもたくさんできることがあるはずなのにって。
現場を知らずして何が神なんだ! って、そんな気持ちが抑えきれなくなってしまって」
「急にやり手の領主みたいな発想になったな」
「領主! そう、領主です!」
我が意を得たりと身を乗り出す。
「私はこの広大な人間界を束ねる領主なんです! もっと知らなければならないと思いました。私の世界を。人間を。それに」
フロラレーテはキュッと唇を噛む。
「天上界からでは、一人ひとりを救うことができないから……」
人間界には飢饉がある。災害がある。搾取がある。理不尽な暴力や犯罪がある。
それで困っている人が見えても、天上界からでは遠すぎて何もしてあげることができないのだ。それが悔しかった。もどかしかった。
「なにか手助けしたいと思ったんです。この手で」
そう言ってアースの目を真っ直ぐに見る。
アースはフロラレーテの真意を読み取ろうとするかのようにじっと見つめ返した後、頷いた。
「なるほど。つまり君は神であるにも関わらず現場主義で、わざわざ人間界に来て人間になってまで忙しく仕事をして暮らしたいというわけだな」
(そのまとめ方だと何だか私が救いようのない仕事中毒みたいでは!?)
抗議したいような気もしたが、解釈は間違っていない。フロラレーテは不承不承ながらも肯定した。
するとアースは少し考えてから、それなら、と口を開いた。
「俺が力になれるかもしれない」
「あなたが?」
「ああ。ちゃんとした自己紹介がまだだったな。俺はこの人間界でも有数の大国・オルラリエの国王の叔父だ。広大な領地を持つ公爵であり、皇帝直属の騎士団を束ねる団長でもある。この国に異変が起これば全て俺の耳に入り、重要な場合は直接出向く。
たとえば俺が得た情報を君と共有して……君がもし、特殊な能力かなにかで仕事を手伝ってくれるのならば、それは俺にとって大きな助けになるだろう」
「それは──私にとってもすごく理想的です」
その方法であれば、フロラレーテがしたかったことを今考えうる限りで最も早く実現できるに違いない。
いくら元が神とはいえ、今は人間の身。自分ひとりでできることには限界があることを、フロラレーテはきちんと分かっている。
身を乗り出すフロラレーテを見て、ただし、とアースは続けた。
「そうは言っても君をやみくもに連れ回すわけにはいかない。俺の行く先にはたいてい危険が伴うからだ。君には、何ができる?」
「なるほど。私の能力が重要ということですね」
それも当然だ。自分を連れ歩いたところで、元女神という以外に特に能力がなければ、アース側にメリットがなさすぎる。
フロラレーテは、改めて人間になった自分の神力の具合を探ってみることにした。目を閉じて、ゆっくりと神力を体内に循環させる。
「ええと、そうですね……。人間の身体が耐えられる範囲内でなら、神力の使用が可能のようです」
「身体が耐えられる範囲、か。考えたことがなかったな。具体的には?」
「うーん。とりあえず無理そうなのは、天候を操ったり、死んだ生き物を生き返らせたり、時間や空間を越えたり。そういうのは人間の器だと耐えられないです。
それ以外のことなら大体できそうですが、神力の容量が限られているから……。限界は試しながら探っていくしかなさそうですね。少なくとも二、三十人規模の結界を展開するとか、重症の患者をまとめて治癒するとかくらいはできそうなんですけど」
「は。十分すぎるくらいだ。そうか……」
そう呟いたアースは、真剣に思考する様子でしばらく無言になった。
(やっぱり出ていけとか言われたらどうしよう? こんな好条件、絶対に逃したくないんだけど)
フロラレーテが固唾を飲んで見守っていると、アースはやがて決意したように、指を三本立てて見せた。
「よし。君に三つ提案したい。これらを受け入れてくれるならば、共に行動できるだろう。
ひとつ、フロラレーテという名は人間が名乗る事を許されない貴き女神の名だ。人間として暮らしてもらうためにも、君のことはフロラと呼ぶことにする。ふたつ、女神だと知られたら自由に動きづらくなるから、君の正体を伝えるのはごく一部の人間に留める。それからもう一つ」
アースはおもむろにソファから立ち上がるとテーブルを回り込み、フロラレーテの目の前に跪いた。
「俺と、婚約してくれ」
フロラレーテは生まれて初めて、驚きのあまり真後ろにひっくり返るという経験をした。




