9. どうしても譲れない
フロラの部屋には見晴らしの良いバルコニーが付いていて、そこに小ぶりな白いガーデンテーブルが置いてある。
普段は起き抜けのフロラが半分まどろみながら庭を眺めたり、午後のティータイムをアースと過ごしたりするのに使われているが、今日そこに腰掛けているのは、ふわふわしたピンク色の髪を風に遊ばせる砂糖菓子のような少女──リリアンだ。
「まあ! お姉様、それは恋ですわ」
上品にティーカップを傾けていたリリアンは、フロラの話を聞くなり興奮気味にピョンと立ち上がった。
「げほ……っ、こ、恋?」
フロラは咽せて、慌ててカップを卓上に戻す。喉の入ってはいけないところに紅茶が入った。
以前リリアンとは、夜会で出会って仲良くなったにも関わらず、あの日は色々とあって結局挨拶もしないまま別れてしまった。それが気がかりだったので、今日はお詫びの気持ちも兼ねてリリアンをティータイムに招待したのだ。
そして話の流れで、先日のアースとの街歩きの話題になった。
二人で雑貨屋に行って楽しかったこと。帰りの馬車で、アースが自分をすごく気遣ってくれていることに気付いて、嬉しくて胸が苦しくなったこと。そして、なぜかアースの指先に触れたく──
「わああああ!!」
「きゃっ。お姉様!? 急にどうなさったんですの?」
「ちょびっと触れたくなったからといってそれが恋だとは限らないでしょう!?」
だってそんなはずがないのだ。
(もともとアースとは利害の一致で婚約しただけだし! 出会ったその日に婚約者になるなんて愛のカケラもないじゃない? だいたい私が人間界に来たのは仕事のためなのよ! 遊びに来たんじゃないんだから! やるべき事はたくさんあって。それをそんな……こ、恋とか! まさか!)
「そうだ! 人の温もりが欲しくなったとか!? 人間にはそういう瞬間があるって本で読みました!」
思い付いた!とばかりに若干の他種族目線で捲し立ててしまったフロラを、リリアンは不思議そうに見る。
「そういう可能性が、ないわけではないでしょうけれど。でも女性同士や家族ではなく、殿方に触れたいと思ったなら、やっぱり恋の可能性が高いと思うのですけれど。……でも」
次の瞬間、リリアンのルビー色の瞳が夢見るように潤む。
「アース様とフロラ様はいまだ恋人同士ではなかったのですね。もちろんフロラ様になにか特殊な事情がおありなのは存じておりますし、わたくしたち貴族の婚姻であれば愛のない政略結婚も当たり前に存在しますけれど。
でもわたくしが思うに、アース様はすでにフロラ様のことをこの上なく愛していらっしゃると思いますの。フロラ様を見つめる温かな眼差し!
──あぁ、でも。そうなのですね。フロラ様にはまだ時間が必要なのですね。
氷のような公爵の心を溶かしたのは、美しくも神秘的で、恋に臆病な女性。大切な人を驚かせぬよう、真綿で包むように優しく愛を紡ぐ公爵。数々の苦難を手を取り合って乗り越える中、二人の距離は少しずつ近づいてゆき、気付けば──!
ふぅ。なんてロマンチック。そうであれば、わたくしとしてはこれ以上何も申せませんわ。願わくば、そんなお二人が心を通い合わせる様をそっと垣間見させていただけますように祈るばかりです」
今の怒涛のストーリーは……妄想? 妄想だろうか。
フロラは目の前の愛らしい少女にほんの少しだけ恐怖に似た感情を覚えて、そっと身を引いた。
そうだ、恋だなんてきっとそれも、リリアンの夢見がちな想像に違いない。
若干の落ち着きを取り戻したフロラは、心臓に悪い話題を切り上げて、王都の怪しい噂について情報収集してみることにした。仕事ほど心安らぐものはないのだ。
「ところでリリアンはご存知ですか? 最近、王都の中心街付近で行方不明者が増えているとか」
リリアンが深刻な表情になる。
「聞き及んでおりますわ。恐ろしゅうございますね。わたくしの父は、あの辺りでドレスショップを経営しておりますの。ちょうどそこの従業員の女性も、一人いなくなったのですわ」
「まあ! それはどんな方なのですか?」
「ごく平凡なご家庭の方ですわ。ご両親と弟さんと四人家族で、ご家族の仲も良好だったそうで。……家出などする人ではないと、従業員は口を揃えているようです」
これほど身近にも行方不明者が出ているとは思わなかった。やはり只事ではなさそうだ。仄暗い何かが、ヒタヒタと足音を立てて近づいてきている予感に、フロラは背筋を寒くする。
「一体、何人が行方不明になっているんでしょうか…」
「今月に入ってからは、把握できているだけでも五人もの方が姿を消しているそうです。異常に感じますわよね」
「確かに、普通ではないですね」
考え込むフロラに、リリアンは躊躇いがちに付け加える。
「ここからは根も葉もない話ですから、お姉様のお耳に入れていいものか分かりませんが。──実は、人身売買ではないかという噂もありますのよ」
フロラは息を飲む。この国の歴史上、人身売買は遥か昔に法律で禁止されていたはずだ。たしかに、百年以上遡ればそういうことが公然と行われていた時代もあったが、現代において人を商品として扱うことは社会通念上忌避される行為だ。
この国で今まさに人身売買などという醜悪な商売が行われているとは、信じられないし信じたくない。けれど煙のないところに火は立たないのも事実。フロラの心臓がドクドクと嫌な鼓動を立てる。
「どうして人身売買だと?」
「いなくなった方々が、みな容姿の美しい女性や子どもなのだそうです。父の店のいなくなった従業員も、お店の看板娘でしたわ」
「そんなの、ほぼ確定じゃない……」
今月に入ってから最低でも五人。偶然に、見目の良い女子供ばかりが失踪した? ──そんなこと、どんなにタイミングが重なってもあり得ないことだ。彼女たちは人為的に攫われて、今もどこかで囚われているのだ。
どこで、どんなふうに? 辛く心細い思いをしているに違いない。
「でも、お姉様。心配ありませんわ」
深刻な顔をするフロラを怖がっていると勘違いしたのか、リリアンは励ますように明るい声を出す。
「きっともうすぐ騎士団が動いてくださいます。そうすればすぐに、悪いことは起こらなくなりますから」
無理に微笑んでくれるリリアンの心遣いに、乱れていた心が少しだけ落ち着いた。
リリアンは、見た目は儚くてたまに怖がりなところもあるけれど、その実とても芯の強い女の子だ。私の素敵な友人。フロラはそっとリリアンの手を取る。
「ありがとう、リリアン」
***
「アース、事件です! 人身売買ですっ!!」
「なぜ君がそれを知っている!?」
「フロラ姉上、久しぶり」
アースの執務室に駆け込むと、いるはずのない人が親しげに片手を上げた。決して小さくはないオルラリエ王国の現国王陛下、その人だ。
「イザーク様?」
「私も、まさにその人身売買の件で来たんだ。義姉上は耳が早いね」
イザークに同席してもいいか訊ねると快く空いている椅子を示してくれたので、着席して机に広げられた資料を覗き込む。
「これは……王都の地図ですよね?」
「その通り。このバツ印をつけた場所が行方不明者が出た位置。年ごとに色を分けていて、三年前から今にかけて赤、緑、青、黒で表してるんだけど──」
「あれ? 中心街よりも、下町の方がたくさんバツが付いてる。それに中心街のバツは黒いものばかり」
「そうなんだ。どうやら犯人は数年前から下町を中心に誘拐を繰り返して、ここ最近急に中心街に手を出し始めたらしい。下町では身寄りのない人間も多いし、治安もあまり良くなく人の出入りが激しいから、ある時突然誰かがいなくなっても中心街ほど気にはされない。
そうやって足がつかないよう長年人身売買を続けてきた奴らが、ここへ来て急に中心街へ手を出したというのは、何か意味がありそうだね」
「なるほど。中心街なら下町よりも身綺麗にしている人が多いでしょうから、急にお金が必要になって効率よく稼ごうとした、とか?」
「うん。私もその線が濃厚だと思うよ。そしてこれだけの規模のことをできるのなら、おそらく元締めは貴族だろう。最近急に金が必要になった貴族」
「候補者は何人いるんですか?」
イザークは指を折り数えて候補者を羅列した。いずれもエバから教えてもらった貴族リストの中にいた名前ではあるが、特に怪しげな経歴もない、一見普通の貴族たちだ。一人だけ何だか気にかかる名前が含まれていたが。
「最後の人って」
「夜会で姉上に絡んだ女性の父親だね」
「その人はどうして?」
「そりゃあ、フロラ姉上に関しては猫の額ほど心の狭いアース叔父上が執拗に経済制裁──ごほん、何でもない。中流以下の貴族ならまあ資金繰りが上手く行かないなんてよくあることだよね」
「ふぅん……? でも、結構人数がいて特定できませんね。アースはどう思います?」
何故か黙りこくっているアースに話しかけると、彼は眉を顰めて唸った。
「俺は婚約者として、こんなキナ臭い事件に君が関わるのは反対だ」
シーン、と執務室内に沈黙が流れる。
「……ええと。アース? そもそも私たちが婚約したのは、こういう事件が起きた時に私の力を活かせるようにですよね?」
「この事件でなければ君の力も活かせるだろう。だが今回は駄目だ。これは危険な組織犯罪だ」
「でもこの前の馬車では納得してくれたじゃないですか」
「それはこんな事件だとは思わなかったからだ。奴らが狙ってるのは"高く売れる美しい女性"だぞ。今回の君は解決する側じゃない。犯罪者のターゲットになりうる存在だ。当然、汚い犯罪に巻き込まれないよう身を慎むべきだろう」
今回だけは駄目だ、絶対に。とめずらしくキッパリと宣言するアースに、フロラはポカンとする。
「でも、私はこんな時のために人間界に来たのに」
「悪いが今回だけは許可できない」
「そんな……」
取り付く島もないアースに、フロラは途方に暮れる。
「あー。うん。アース叔父上はフロラ姉上のことを綺麗な箱に入れて大切に保管しておきたいんだな。気持ちは分かる。私だって姉上を危険に晒したくはない」
取りなすように告げたイザークは、だけど、と続ける。
「私は国王として、姉上の力を今回活かさないのは勿体無いと判断せざるを得ないんだ」
「イザーク」
「私は姉上のやりたいことを、叔父上の意思に関係なく後押しすることができる」
「やめろ、イザーク」
「つまり──すでに正式な指令書を用意してある」
ペラリと渡された紙にフロラは目を輝かす。
たった一枚の薄い紙だが、そこにはしっかりと国王の御璽が押されており、言葉では言い表せない重みがある。
「フロラ。貴女を国王の権限で、騎士団の非常勤魔法士に任命する。その至高の力で、存分に私の民たちを救ってやってくれ」
「謹んで拝命いたします」
フロラは血の滲むような努力で身につけた貴族の跪礼でもって、指令書を押し抱いた。
感想やサイドストーリーのリクエストなど、いつでもお待ちしております〜




