0. ひたむき女神は人間界に舞い降りる
ぼう然とした。目の前の悲劇にも、何もできない自分にも。そして彼女は、異世界へと身を投げた。
***
ザブン! という音が耳に飛び込み、冷たい水がフロラレーテの全身を濡らす。
(ああ、寒い)
生まれて初めてそう感じて、自分が人間界へ降り立ったことを──人間になったことを確信した。
「ここは」
湿ってまとわりつく豊かな金の髪を掻き上げて、長い睫毛に彩られたエメラルド色の瞳をゆっくりと瞬かせる。
先ほどまで居た天上界──神の住まう世界では感じ得ない、濃い草いきれの香り。
手のひらを慎重に開け閉めすれば、ほんの少し濡れただけなのに指先がすっかり凍えてしまっているのが分かる。
つい先ほどまで神力の塊でできていたために、暑い寒いなどを一切感じなかった自分の身体。それが小刻みに震えていることが、今や人間の身体を受肉したのだということを、フロラレーテに生々しく実感させてくれる。
「成功したんだわ!」
喜びのあまり、フロラレーテは「やったわ!」と叫びながら両腕を三回も振り上げた。いわゆる"バンザイ三唱"というやつだ。
しかも、たまたま落ちた場所までも運が良かった。
世界間を転移する場合、いかに神といえども転移先を選ぶことはできないから、噴火中の火山地帯や広大な海のど真ん中に落ちる可能性だって大いにあったのだ。
フロラレーテは、そうなった場合に生き残るためのシミュレーションまで何パターンもしていた。
けれどそれも、どうやら杞憂だったらしい。神と相性の良い聖水の満ちた泉に落ちたのだから、相当ツイている。
夜の静かな空気の中、泉の水面に美しい満月が反射してキラキラと輝く様子が、まるでフロラレーテの門出を世界が祝福してくれているかのようで。
("人間"一日目にふさわしい、順調な滑り出しね!)
これからしなければならない事がたくさんある。何から、どうやって手をつけようか。
自分の愛するこの人間界を、この手でどれだけ素敵な場所にできるだろうか。
浮き立つ気持ちに背中を押され、フロラレーテは泉のふちに一歩踏み出した。
──すぐそばに忍び寄る人影に気付かずに。
「ひゃっ!?」
首筋にヒヤリとしたものを感じて息を呑む。
(なにか鋭いものを押し当てられているような。気配なんて感じなかったのに)
チリ、と焼けるような痛みを覚えて、フロラレーテはひとまず完全に動きを止めることにした。そして細く息を吐き出す。怯えではない。深いため息だ。
("人生"というものはなかなか思い通りに行かないもの。それは知っていた……。だけど。だけどよ!
せっかくの記念すべき瞬間に、いきなり水を差す輩はいったいどんな顔なのか、一応確かめておいてやろうかしらね!?)
女神にあるまじきことに、ほんのちょっと、イラッとしてしまったのは許してほしい。
フロラレーテはゆっくりと視線を上げる。
最初に視界に焼きついたのは、夜闇を閉じ込めたような漆黒の髪と瞳だった。
「おまえ、何者だ?」
低く唸るような声。漆黒の瞳に鋭い威圧を宿らせる様子は、まるで獲物を狩ろうとするしなやかな獣のよう。
その手の剣は牙だ。無駄な装飾を排した真っ直ぐで冷たい牙は、一片の油断もなくフロラレーテの首に沿わされており、彼が納得する答えを返せなければ、その牙が瞬く間に喉元を食いちぎるだろう。
そう分かっていながら、フロラレーテは一歩も怯まず、むしろ堂々と微笑んでみせた。
だって、恐れる理由がないから。
「私は、フロラレーテ。この世界を守護する女神でした」
たじろぐ男から寸分も目を逸らすことなく宣言するとともに、フロラレーテは神の力を解放した。
凄まじい神気が、のたうつようにその場に渦巻く。
相当な手練れらしい男は、常軌を逸したその"気"の動きを生々しく感じ取ったことだろう。
周囲の空気が畏れをなすように震えた次の瞬間、小さな泉などいとも簡単に覆い尽くしてしまうほどの荘厳な翼が、フロラレーテの背から姿を現した。
聖なる光の粒子が、羽根の一枚一枚から立ち昇っては虹色の雫となって弾ける。
光を受けたもの全てを捻じ伏せ、跪かせ、浄化し尽くす。理不尽で暴力的なまでの、神の証。
「身分証明書代わりになるものがあって良かったです。だって怪しい奴と思われたままで、もし切られたら痛いし。かといって怪しい私を警戒しているだけの罪なき人間に酷いことをするのもアレでしょう。……それでなんですが、剣は納めてもらえそうですか?」
などと呑気に問いかけるフロラレーテだったが、何の心の準備もなくいきなり神の威を目の当たりにさせられた男の方は、たまったものではない。
彼はまるで雷で撃たれたかのようにフロラレーテの首から剣を離すと、その場に跪いたのだ。
「なっ!?」
フロラレーテは一気に慌てる。
「ちょ、やめてください! 本当に、ちょっと身分を証明した方がいいかなと思っただけなんです。決して跪いてほしいわけでは……っ」
フロラレーテは役割を終えた翼を急いで仕舞って、男の動作を押しとどめにかかる。
「この身はすでに人間の身体を受肉しました。私はこれからは人間なんです。人間として生きていきたいんです。だから跪くのはやめてください!」
相手の瞳を覗き込むようにして言い募るが、彼にとっては理解し難い要望だったようだ。男は眉を顰めると、口を開いた。
「許されるのであれば、何故人間界に降臨なさったのか、その御心をお聞かせいただきたく」
「ああっ、その恐ろしく丁寧な敬語もやめてください! 何故このような行動に至ったか、という質問ですね? それなら今すぐお答えしますから!」
とにかくこの場を収めたくて、フロラレーテは急いで質問に答えようと思考を巡らせ始めた。
(理由……、理由……。あれ、何でだったかしら)
フロラレーテは、無数に存在する理由の中から一番の物を突き詰めようとする。が、しっくり来るものがなかなか出てこない。
(世界を救うため? ……そんな大層な理由じゃないわ。人間界を見てみたくて? ……これもちょっと違う)
人間界で起こった数々の悲劇。
天上界からそれを眺めるだけで、何もできなかった自分。
自分が司る世界なのに、手が届かない。役に立つことができない。
そんな歯痒さに、フロラレーテは──そうだ。
「ムシャクシャしてやりました!!」
これだ。しっくりくる表現を弾き出して満足したフロラレーテは、この世のものとは思えない天上の美貌に、爽やかで艶やかで軽やかな満面の笑みを浮かべた。
男が、あり得ないものを見る目でフロラレーテを凝視した。