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骨董店シリーズ

シェ レ シュエット Ⅱ ―訳あり専門骨董店―

作者: かこ

剥製のマンショ

 船乗りの父は何よりも海が好きで、水が無ければ息もできない魚のように旅に出る。海風よりも自由で、秋の空よりも読めない人。それでも、父の周りは笑い声が絶えない。

 母が死んだ時も、海に出ていた。明くる日にたまたま帰ってはきたが、母の体はすでに冷たい。泣き疲れて声も出ないイヴァンを前にしても逝ったのか、と小さく呟くだけだった。

 イヴァンは鞄に入るだけの荷物を詰めさせられ、父に手を引かれて家を出た。

 家の解約と埋葬を終えた足で船に乗り、父はからりとした笑顔でイヴァンが同乗する許可を取る。悲しみにくれる暇もなく父と子の旅が始まったのだが、奔放な父が子の世話を焼くことはなかった。どこまでも自由な父は出来合いの食事をイヴァンに用意するだけだ。船長とカードゲームに興じ、調理場で芋の皮を剥き、船首で鼻歌まじりに空を見上げる。太陽が沈まない内から、海では船員達と、港では初めて顔を合わす者達と飲み交わした。夜とも朝とも言えないような時間にベッドに潜り込むような日ばかりだ。イヴァンが酒くささに呆れた顔を見せれば、早く酒が飲めるようになればいいと笑った。

 父は何処にいても、何処に行っても屈託のない人だ。言葉が通じないはずなのに、身振り手振りで伝え、生来の笑顔ですぐに肩を組む仲だ。どんな場所でも、水面みなものように輝く瞳で突き進んでいく。すぐに溶け込んでは、有益な情報や変わったものを手に戻ってくるものだから、泥棒も青ざめると笑われたぐらいだ。

 そんな父に引け目を感じていたイヴァンは働ける歳になって、船を降りる決意をした。話をしようにも、自分のことをできるようになった息子を放って飲み歩く男は捕まらない。自由な父を待つことは止めた。

 陸に足を着けたイヴァンは条件のいい下宿に入ることができ、父とは違う生活を送り始める。

 半年も過ぎればもう一生会うこともないだろうと思っていたのに、皮鞄を下げた父が現れた。神の目こぼしにも恵まれている男はイヴァンの部屋の隣を間借りして、そこを宝物部屋だと、胸を張る。

 お宝一号だ、と豪語して、ごとりと置かれたものは黄ばんだ白と黒の置物だ。


「なんだよ、それ」

「お前、剥製を知らないのか?」

「……知ってるけど」

「知ってるなら聞かなくてもいいじゃぁないか」

「見たこともない動物だから聞いたんだよ」


 これはな、と父が顎を上げた。そこまで言って思い直したのか、からりと笑う。


「教えないことにする。答えはお前が見つけろ」


 父は人を試す癖があった。イヴァンにはこれが顕著だ。

 一気に興味を失った息子は部屋から出ていこうとする。


「興味ないから教えなくていいよ」

「ヒントはなぁ……飛べない鳥、だなっ」


 茶目っ気たっぷりの言葉を背中だけで聞いたイヴァンは手を翻し、扉を閉めた。

 どんなことも堪えない父は三月分の家賃を先払いして海に戻る。一月で姿を見せることもあれば、家賃の支払いが切れる前日に現れ、平気な顔で手を振った。

 対の手には必ず得体の知れないものを持っており、あの部屋に押し込められる。天井に及ぶ面や、怪しげな模様の書かれた本。宝石が散りばめられた硝子細工を見た時はさすがに問い詰めずにはいられなかった。

 イヴァンがどんなに凄んでも、もらったと涼しい顔で返されるだけだ。盗られたと怒鳴り込んでくる者もいないので、放っておくことにした。

 一人ではつまらないだろうに、父は不気味な石像に腰掛け酒をあおる。

 扉の隙間から様子を伺っていたイヴァンはその視線の先には必ず白と黒の剥製がいることを知っていた。

 飛ばないらしい鳥はいつも窓の傍らにいる。まるで空に焦がれるように外を見つめる姿が痛々しくて、劣化してはいけないと理由をつけて布を被せていた。

 息子の思惑を暴くようにその布は父によって剥ぎ取られる。

 調べても、下宿の者に訊ねてもわからない鳥を相手に父は寂しそうな横顔を見せた。

 今なら教えてもらえるかもとイヴァンは扉を押し開ける。


「そんなにその鳥が好きなのか」

「母さんに似てるからな」


 父はイヴァンの方を見もせずにとぼけた返事をした。信じられないものを見る目を向けられても、可笑しそうに笑う。


「つぶらな目をしてるだろう」

「最後も看取らなかった奴が何を言ってんだよ」

「死に目に立ち会えるっていうのは、大事なことなのか」

「好き勝手に生きてきたくせに、えらそうなこと言うなよ」

「じゃあ、てめぇの人生を他人に任せるのか?」


 何かを求める瞳は海の境のように未知で溢れていた。

 (コバルト)(エメラルド)が交じる双眸に映る姿をイヴァンは直視できない。


「飛べない鳥に勇気は要るか?」


 苦笑した父が静かに問いかけた。鳥に向けられたはずの言葉がやけに響く。


「お前も飲むか?」


 いつものようにかけられた言葉にイヴァンは思いっきり顔をしかめ、今までと同様にいらねぇよ、と背を向ける。その態度に空笑いが返されることも知っていても振り替えることはできなかった。


 泥棒が入っても何を取られたか分からない部屋になるまで月日は変わらなかった。

 白と黒の鳥はいつも窓の外を見つめている。

 気付けば、ごった返した部屋の管理もイヴァンの仕事の一つになっていた。



═•⊰❉⊱•═



 ミモザが咲き始めたその日、河は灰色だった。古びた桟橋がのびる船着き場は花とは縁遠い男達と荷物で溢れている。

 夜が明けても、雲で埋まった空は薄暗い。

 時に罵声が飛び交い、荷物が乱暴に投げられる。それを横目にイヴァンは仕事を進めていた。

 黒い煙が細く立ち上る蒸気船は急げとばかりに音をかき鳴らし、ぎりぎりの所まで沈んだ。運ばれる荷物の残りは片手で数える程だ。


「イヴァン、大変よ!」


 喧騒とボイラー音を押し退けて声は響いた。

 イヴァンは曲げていた腰をのばし、名を呼ばれた方へ向く。

 今朝、見送られたばかりの妻だ。着の身着のまま走ってきた様子で束ねた髪が乱れている。場所を移動しようとするイヴァンを無視して駆け寄ってきた。せっかちだが、ここまで無頓着な性格ではない。イヴァンがいぶかしく思うぐらいの慌てぶりだ。

 眉をひそめたイヴァンは、彼女が何か握りしめていることに気が付いた。

 夫の前に立った妻は胸の前で新聞を握りしめ、勢いのまま言う。


「お義父さんの船が沈没したらしいの! 船員の行方がわからないって」


 仕事仲間が顔を上げ、心配そうに声をかけてくる。喧嘩っ早い人達ばかりだが、情が厚いのだ

 それを向けられるのが自分であることにイヴァンの心は申し訳なく思うと同時に嫌気がさしていた。

 空を仰げば、雲の隙間から空がのぞいている。からりとした青だ。

 その色が奇しくも父の笑顔を思い起こさせる。イヴァンは、またかとため息を圧し殺した。



═•⊰❉⊱•═



 イヴァンは紹介されたクレーニュ通り五番地に立っていた。疲れはてた姿に道行く人が眉を上げ、避けていく。

 重い空気には理由がある。今朝がた足を踏み入れようとした博物館で荷運びで鍛えた体と無愛想な顔に目をつけられた。警備員に呼び止められ、事情を話したにも関わらず、いびつな文言と訛りのせいで警察を呼ばれる始末だ。

 やけに顔の整った警察官のおかげで事なきを得たが、何もしていないのに疑われるのは昔から変わらない。転々と海を渡る父のせいで言葉が十分に覚えきれず、かいつまんで覚えてしまった文法も言語もめちゃくちゃだった。酒の入らない海の男は寡黙な者が多く、言葉遣いが物騒なことこの上ない。屈強な男達のおかげで、恐れ知らずなことだけが救いだと諦めていた。

 妻の言ったように、ついてきてもらえばよかった。だが、身重の彼女をつれ回すのも気が引けたのは事実だ。

 重厚な造りの店ばかりが並ぶクレーニュ通り。左右交互に数えて五番目の扉の上には梟の銅像(ブロンズ)がかかげられていた。警察官が紹介した場所で間違いないだろう。イヴァンは右手に持つ鞄を見下ろした。膝を抱えれば子供が入れそうな大きさも彼の体で持てば小包みのようだ。睨むように目をすがめ、心なしか重たい手で扉を開ける。

 薄暗いにも関わらず、日の光を浴びて輝きを放つ貴金属。壁にはおびただしい量の絵画がはめ込まれ、威厳に満ちている様は見下しているようだ。

 場違いを肌で感じたイヴァンは踵を返そうとする体を努めて踏みとどめた。素早く目を配れば、小さな体躯を見つける。


「邪魔をする」

「こんにちは、お兄さん」


 声をかけたイヴァンに笑顔が返された。

 深い赤髪から覗く底の見えない黒曜石の瞳が細められ、子供特有の高い声が紡がれる。


「どういったご用件でしょうか?」


 完璧な笑顔は怯えも疑心の欠片も垣間見せず、愉しそうに彩られている。

 イヴァンは子供の異様な雰囲気に顔をしかめたが、もともと表情が薄いだけに凄みが増しただけだ。一番古い記憶の頃から子供が苦手だった。よそ者と石を投げつけられ、体が大きくなれば遠巻きに後ろ指を指される。最近になっては、何もしていないはずなのに子供が泣き出し、逃げ惑い、大人達に白い目を向けられた。

 (いか)つい顔を前にしても、目の前の子供は態度を崩さない。

 言い様のない奇妙さがイヴァンの底に居続け、睨む目を離さずに用件を口にする。


「売りたいものがあってきた」

「売却依頼ですね。かしこまりました」


 他の店員を呼びに行くかと思いきや、子供はどうぞとソファに手を差しのばす。

 イヴァンは仏頂面のまま足元に鞄を置き、高級そうなソファに腰をおろした。自分の言葉がちゃんと通じている。その妙な状況に内心戸惑っていたが膝に拳を置き、相手の出方を見た。


「申し遅れました。この店の主人、クリスと申します」


 向かいに腰を据えたクリスは胸に手を添えて名乗り、明朗に響く言葉と共にティーカップが差し出された。

 目を見開いたイヴァンが顔を上げると灰髪(アッシュブロンド)の青年が立っている。あまりに薄い気配と熱のない動きに人形かと見間違える程だ。


「今回はどういったものでしょうか?」


 クリスの言葉がイヴァンの意識を連れ戻した。

 状況に混乱しながらもイヴァンは皮貼りの鞄を持ち上げ、横にした状態で置く。

 中身は見る人によっては気味悪がる代物だ。妻もひきつった笑みを浮かべていた。開けていいものか悩み、クリスを盗み見る。

 そこには、たゆまぬ笑顔の店主がいた。


「剥製なんだが、警察官にこの骨董店なら引き取ってくれると聞いたんだ」


 イヴァンが忠告を言い終わる前に机が揺れた。

 箱に視線を落としていたイヴァンは何事かと周りを探る。

 そして、身震いするクリスを見つけた。目を見開き、口を両手で隠した姿は瞬く間に消え、すぐに身を乗り出してくる。


「どんな剥製でしょうか? 立派な角を持つ鹿ですか? 東洋の獣ですか? ああ、でもその箱に入るぐらいですから兎か(いたち)でしょうか?」


 クリスの勢いにイヴァンは体をのけ反らせた。

 それに構わず、クリスは弁を振い続ける。


「剥製ってロマンを感じませんか。造られた物ももちろん素晴らしいと思うのですが、生き物の生きた証は格別です。年月をかけて延びた毛に爪に、生を失ってもなお虚空を見つめる瞳。些細な傷もその命を()した煌めきに他なりません。朽ちることのない遺物、人間が作りし至宝。ああ、なんて素晴らしいっ」


 立ち上がらんばかりのクリスをわざとらしい咳払いが(いさ)めた。

 呆気に取られているイヴァンにそんな行動をとる余裕はない。残るは生気の薄い青年だ。

 はたりと止まったクリスは灰髪の青年に目だけ向け、繕うように笑顔をかぶった。


「つい興奮してしまいました。驚かせてしまったようならお詫び申し上げます」


 胸に手を当て深く頭を下げる子供の所作は大人顔負けだ。鼻息荒く語っていた者と同一には見えない。

 笑顔で先を促されたイヴァンは迷いながらも鞄に手をつける。


「今回はこれだけだが、売りたい剥製なら他にもある。希望のものもあるかもしれない」


 イヴァンがそう言ったのは全部買い取ってもらえると淡い期待を抱いたからだ。今回は、数あるガラクタの中でちょうど鞄にはまり、なおかつ一番難解なものを直感で選んだ。

 腰を半分浮かしたクリスを灰髪の青年が押し止めた。口元に拳をやり、準備万端の状態だ。笑顔のまま固まったクリスは何事もなかったように戻る。

 静かな攻防に気付かないイヴァンは包んでいた麻布をはぐり、中の物を机に置いた。ごとり、と音が鳴り、黄ばんだ白と黒の鳥が黙座する。木にとまる鳥と比べて、寸胴が長く羽も小さい。


オオウミガラス(グランド パングワン)……いや、羽や目の模様が違いますね。僕の記憶と合いません」


 顎に手をあて考え込む店主がそう言うのも仕方なかった。白と黒の鳥と聞けば、たいていのものがその鳥を思い浮かべる。

 かつてのイヴァンもオオウミガラス(グランド パングワン)かと訊いたが、父は可笑しそうに首を横に振っていた。

 白と黒の寸胴のオオウミガラス(グランド パングワン)は嘴も顔も黒く、境がわからないことを誤魔化すように、目の回りは白く縁取られている。細い羽は鎌のように曲がり明らかに飛べそうにない。食用や剥製として乱獲され半世紀ほど前に絶滅したと言われている鳥だ。

 目の前の剥製もよく似ているが、目の回りには白い縁取りがなく、赤い皮膚が見えた。羽は真っ直ぐにのびている。


「親父が知ってるだけで、誰も知らないんだ。買い取ってもらえないだろうか」

「何物かわからなくても、買い取れることは買い取れますが、正当なお支払ができなくなります。触ってもよろしいでしょうか」


 頷いたイヴァンはクリスの前に剥製を置き直した。

 恐れ入ります、と店主は微笑み、手袋をした手で細部を確かめていく。顔、見分けのつかない首元を下り、腹を覆う短く白い体毛をかする程度に撫でる。白い腹にはまばらな黒い斑点があり、それを黒い弧が大きく囲む。わずかに見える足先はアヒルのように分厚い。黒い背から小振りな羽の先まで丁寧に眺めた。

 鳥の体を傾け、なかなか立派なものですね、と眉間に力を込めた店主が続ける。


「やはり、記憶にないですね。剥製と言うからにはちゃんと生きていたはずなのですが」


 困ったように眉を下げたクリスは部屋の端に控える青年に顔を向ける。満足のいく答えをもらえず、細く息を吐いた。

 イヴァンの淡い期待が霧散していく。


「お父様は何かおっしゃられていませんでしたか?」


 イヴァンは脳裏に不可解な父の言葉を思い起こす。


「飛べない鳥」


 クリスは続きがあることを汲み取って、微笑みで促す。


「飛べない鳥に勇気は要るか、と言っていた」

「飛べない鳥、となると……ウミガラス(ジユモ)、は違いますね。オオウミガラス(グランド パングワン)か、|オオハシウミガラス《ベリ プチ パングワン》。しかし、二つとも特徴が一致しない……僕が知らない動物でしょうか」


 十分以上の知識だ。白と黒の鳥は似た名前が多く、イヴァンに言わせれば同じ名前だ。聞きかじった全てを並べても、父は首を立てに振ることはなかった。

 唇に指をあて考え込んでいたクリスは居ずまいを正し、依頼主に真っ直ぐに目を向ける。


「差し支えがなければ、お父様のご職業を教えていただけませんか」

「船乗りだ」

「失礼を承知で申し上げます。一介の船乗りがこのような珍しい剥製を持てるとは考えにくいのですが」

「稼ぎを全て酒につげこむのくせに、不思議とよく物をもらってくる親父だった。それもその一つだ」


 目の前の子供は考え込む顔をしつつ、なるほどと意味が薄い言葉を呟いた。丁寧な接客の割に言葉に感情が乗りやすいらしい。

 顔を上げたクリスは笑顔を全面に出し、丁寧な言葉を紡ぎ始める。


「他にも売却予定のものがあるとおっしゃられていましたね。それは当店が買い取るという形でもよろしいでしょうか?」

「一部屋分のもの全てでも構わないのなら、頼みたい」

「むしろこちらからお願いしたいぐらいです。都合のいい日に馬車を向かわせます。それまでに、こちらの依頼品について調べるという形でもよろしいでしょうか?」


 頷いたイヴァンは、長居は無用だとばかりに手早く剥製を納めた。冷めた紅茶を一気にあおり、割らないようにそっと置く。


「では、一週間後に。ノワイエ通り十二番地、ジロドーの部屋まで頼む」


 今更ながら、名乗っていないことに気が付いたイヴァンは口を歪めた。苦いものを飲み下すように引き結んだ口を開く。


「イヴァン・ジロドーだ。よろしく頼む」

「一週間後、ジロドー様のお宅に伺わせていただきます」


 一つ頷いただけで気にしてないことを示したクリスは優雅に手を前に差し出した。

 イヴァンは慣れないことに一瞬戸惑うが、服で手を拭い差し出された手を握る。


「世話になる」

「ええ、喜んでお引き受けします」


 イヴァンが出口に向かうと、その後ろにクリスと青年がついてきた。

 手厚い待遇に背中がかゆくなったイヴァンは踵を返し扉を開ける。


「よい一日を」


 見送りの言葉はひどく耳に残った。



═•⊰❉⊱•═



 中身のない墓石は他と同様に何を申すでもなく、静かに鎮座していた。

 それに酒をかけたイヴァンは、残りを自分の臓腑に流し込む。やけに鞄の重みが増したような気がして、投げ出すように地面の上に腰を下ろした。

 曇天の下、墓石の色が余計に暗く見える。

 うろんげな瞳が石に刻まれた文字に向けられた。自分と同じ姓を持つ名前だ。


「どこに行ったんだろうな」


 いつものように唐突に消えた父は、いつものように帰ってこない。

 今までも、船が沈んだという話は何度かあった。父の墓に苦心しながら帰ると、海の藻屑となったはずの張本人が酒を片手に座っている。怒鳴るイヴァンを可笑しそうに眺めて、おかえりと言うものだから、余計な疲れを感じたものだ。

 息子の元に訃報が来ても、父は前払いした家賃三ヶ月分を踏み倒すことはない。心配するのも馬鹿らしく、期限内に舞い戻った父を摘まみ出すことが挨拶代わりになった。おまけに訳のわからないものが自称宝物部屋に放り込まれ、ため息をつくまでが恒例の作業だ。

 しかし、今回ばかりはそうはいかなかった。とうに家賃の期限は切れ、三回分を支払ったのはイヴァンだ。子供が生まれる前に型をつけなくてはと思ったのが一週間ほど前。みるみる大きくなる妻の腹にせっつかれて、やっと腰を上げた。

 そこまできても、イヴァンは父が亡くなったという実感が湧かない。心のどこかに風が吹き抜け、穴の存在を示す。

 酒を入れていた携行缶を墓に投げつける。甲高い音は墓地に吸い込まれていった。

 子供が店主をするような変な店を訪ねてから、なぜか父のことを色濃く思い出す。博物館までは確かに見切りをつけようと思っていた。そのはずなのに、滅茶苦茶なはずの言葉を通じることに安堵して、余計なことまで言ってしまった。


「飛べない鳥って何だよ」


 帰り道で父が好きだった酒が目に入り、気付けば墓まで足を伸ばしていた。決して答えることのないものを相手に話しかけている。かつての父の姿と酷似しているが、認めたくなかった。寂しいという簡単な言葉では表せない。海の底のように暗く冷たく、曇り空のように重苦しい。

 よかったじゃないか、買い手が見つかって。奇怪で不気味でガラクタにしか見えない不要品の世話を焼かなくてもいい。持ち主がいないのであれば、管理人がどうしたっていいだろう。吹き払うように言い聞かせても何かが淀んでいる。


「帰ってこないのが悪いんだからな」


 ぼやき声に拍子抜けするあの笑顔は返ってこない。

 海賊が出る海には行くなと何度言っても、父はその海を渡っていった。海賊と一緒に酒を飲むのも乙だぞと言った日にはのぼせたものだ。

 立ち上がったイヴァンは携行缶を拾い、石に振り返る。

 あんなに苛ついていたのに、あの顔が見れないのが虚しいとは大概だ。

 風のようにぶつかっても止まらない人だった。それならばと方向を変えて我が物顔ですり抜けていく。


「何様だよ」


 吐き捨てられた言葉は忍び寄る夕闇に溶け消えた。




「それ、鳥だったの」


 イヴァンが骨董店でのいきさつを話していると、妻は目を丸くしてそう言った。

 イヴァンが何だと思っていたんだと問えば、悪魔と返され脱力する。

 疲れきったイヴァンの背中を叩き、出迎えてくれる妻はざっくばらんとした性格だ。気遣いはできるが、細かいことに捕らわれない。


「悪魔の剥製があるわけないだろう」


 イヴァンが目をすがめて低い声で言っても、けらけらと笑える肝っ玉の持ち主は父にも気に入られていた。

 意外と人を誉めない父が、いい女をもらえてよかったな、と言ったぐらいだ。


「ほとんど真っ黒だからそういうものかと思って。よくよく見れば、目元があなたに似てるわ」


 そう言った妻の視線の先には、白と黒の剥製がいた。

 鞄の中でもよかったのだが、息もしてない相手に息苦しいかと思ってしまい、窓の近くの棚に置いている。

 自分は悪魔ではないと無言で抗議する夫に妻は手を振って笑う。


「違う違う。ほら、あの眼がそっくりじゃない。つぶらで可愛い」


 イヴァンは顔をしかめた。可愛いと言われたことが気に食わないのではない。何かが引っ掛かる。

 固まるイヴァンを見かねた妻は困ったお父さんね、と膨らんだ腹に話しかけた。

 イヴァンはつぶらと表された目を瞬く。父はこの剥製を誰と似ていると言っていたか。幼い頃、自分はよく誰に似ていると言われていたか。

 ずっと悩んできたのに、呆気なく転がりこんできたものは鳥の名前でさえない。完璧な答えでもない。答え合わせができるわけでもない。

 それでも、間違ってはいないと直感が訴える。

 父はなぜ寂しそうに見てたのか。

 彼が、自分が抱いていた感情は何だったのか。

 飛べない鳥は《《誰》》を指すのか。


「俺かよ」


 くぐもった声が笑い声になる。妻が訝しむのも放って、イヴァンは沸き上がる衝動を吐き出し続けた。



═•⊰❉⊱•═



 約束通りやってきた御者と一緒になって詰め込んだ荷物は荷台が軋む程の重さになった。

 飛べない鳥が入った鞄は、誤って落ちないように席の間に置いた。妻に見送られ、引っ越しのような荷物と共に骨董店(シェ レ シュエット)に向かう。


「こんにちは、ジロドー様。お待ちしておりました」


 出迎えてくれたクリスにイヴァンも挨拶を返す。

 御者と灰髪の青年が全ての荷物を運び込むのに時間がかかったが、その都度、鑑定を行うので時間をもて余すことはなかった。

 魔神の盾、錬金術師の覚書、空挺の石碑などと一見したクリスが簡単に見立てていく。

 無駄のない動きにイヴァンは閉口した。いくら可笑しげな単語が出てきたとはいえ、邪魔するのは気が引けるほどの集中力だ。剥製を見る際になると異様な高揚が見てとれたが、ついでに黙っておいた。前と同じように言葉と情熱の渦に巻き込まれるのは御免だ。

 最後を締めくくるのはイヴァンの横に控える鞄の中身だった。ごとりと白と黒の剥製を机に取り出す。

 向かいに座ったクリスは素晴らしい品々ですね、と一言置いて冷えきった紅茶を口にした。

 イヴァンのものはとうの昔に空だ。いくら手早い鑑定とはいえ、茶を飲む時間では収まらなかった。

 疲労を微塵も見せない洗練された笑顔で店主は口火を切る。


「飛べない鳥、でしたよね。彼の名前がわかるまで僕なりに考えました。あの謎かけは、お父様のことだったのではないか、と」

「親父?」


 クリスの言葉がイヴァンの意表を突く。


「渡り鳥のように海を渡っていた人が自分は飛べない鳥だと言っても可笑しくありません。こちらの残された鳥もお父様の想いが隠されているように思います」


 この鳥も飛べない鳥、ですけどね、とクリスは笑みを深める。黒い瞳の奥で例えがたい何かが姿を垣間見せた。

 イヴァンは飛べない鳥を自分だと思い、クリスは父だと言う。鳥を思い出の姿に重ねてみた。空を見つめる鳥と寂しそうな横顔。

 飛べない鳥()は勇気がほしかったのだろうか。

 懐かしさがこみ上げ、無彩色の剥製が熱を持った気がする。ただ、いくら後悔しても答えはわからないのだ。

 一つだけ残る事実は鳥の正体だ。

 クリスはその答えを手にしている。

 肌で感じ取ったイヴァンは生唾を飲み込み、店主を注視する。


「飛べない鳥に勇気は要るか?――の答えは見つかりましたか?」


 イヴァンの期待とは裏腹にクリスは問いかけてきた。口に弧を描いた天使とも悪魔とも取れる顔でイヴァンを見上げる。

 イヴァンは目を伏せ、想いを馳せた。父にもう一度同じことを聞かれたら、こう答えるだろう。


「勇気が要っても要らなくても、なかったとしても、変わらなかったんじゃないか。誰が止めても、できないと言っても飛んでいっただろうから」


 飛ぶのも飛ばないのも、泳ぐのも泳がないのも、走るのも走らないも、自由だ。父は何にもしばられなかった。

 海から離れるのも、イヴァンが決めたことだ。飛べなくても、飛びたいという衝動にかられても、勇気を持つほどではなかった。

 親子でどうしようもない頑固者なのだ。

 イヴァンは窓に目を向けた。奇しくもからりと晴れた空は父の笑顔を思い起こさせる。


「自分を曲げる勇気なんて必要ないだろう」


 そう言った心は軽かった。

 もしかしたら、飛べない鳥に囚われていたのは父かもしれない。イヴァン自身かもしれない。


「その鳥の名前を知りたいですか」


 通告のように確認されたイヴァンが首を縦に振るのは一瞬にも満たなかった。

 笑みで応えたクリスは抑揚を控えた声で語る。


ペンギン(マシュ)と言われる動物です。オオウミガラスグランドペパングワンと間違えられたこともありますが、彼らのように滅んでいません。空を飛ばず、海を飛ぶ鳥だそうです」


 イヴァンは海を飛ぶ鳥を想像してみた。どうしても池を泳ぐ鴨が出てきて、全く想像がつかない。


今も(・・・)最南の海で飛ぶように泳いでいるそうですよ」


 その言葉に、胸を鷲掴みにされた。

 子供の前でみっともなく泣きたくなる。イヴァンは、投げ出しそうな心を意地で締め上げる。

 しかし、遠い海に思いを馳せるのは誰にも止められなかった。消えた父でも不可能だ。


「このような貴重で、想いの詰まった品を買い取ることはお父様にも忍びないです。ご遠慮いただけますでしょうか」


 目の前の凄んだ顔にも臆しないクリスは完璧な笑顔で断りを入れる。

 それに異を唱える者はおらず、灰髪の青年が剥製に手をつけた。布を巻き付けるために持ち上げようとして固まる。


「君ならいける重さだよ」


 主人に静かに命ぜられた青年は表情を変えずに仕事をこなし、瞬く間にペンギン(マシュ)は鞄に収まっていった。

 その様子を見ていたイヴァンは心の中で首をひねる。自分ではそうと感じていなかったが、子供や細身の青年からしたら十二分に重い代物かもしれない。


「よい一日を」


 驚く程の買取金を受け取ったイヴァンは、店主と青年に見送られ骨董店《シェ レ シュエット》を後にした。通貨を詰め込んだ鞄は重さを増したが、体は軽い。

 イヴァンは父を見限ろうとずっと足掻いていた。切り捨て楽になりたいと。今なら、無駄に意地を張っていた心を許せそうだ。

 その心の上にある空は笑うようにからりと晴れていた。



═•⊰❉⊱•═



 客を見送った青年は無表情の仮面を脱ぎ捨て、主を睨み付けた。


「腕がもげるかと思いましたよ」

「たいそうな物言いだね」


 クリスは肩をすくめて従者の苦言を受け流した。怨めしそうに半眼を向けられても素知らぬ顔だ。


「中身が何か《《わかって》》いたのでしょう?」

「逆に訊くけど、わからなかったの?」

わらの詰め物(オンパヤージュ)と言う認識でしたが、そうとは限らないというわけですね。勉強になりましたとも、ええ」


 青年は足音荒く部屋に戻り、食器は丁寧な手捌きで片付けていく。クリスから気品にかけるよ、とわざと大袈裟に注意され、わなわなと震えた。


「事情を話さない主もどうかと思いますよ」

「察せない従者もどうかと思うよ」


 立て板に水のクリスは青年に睨まれても機嫌が良かった。買い取ったばかりの骨董品を端から順に眺めていく。中には模倣品も混ざってはいるが、大切に使われている形跡があった。


「早く(さば)かないと骨董店ではなく、物置になります」


 青年は模倣品を愛しそうに撫でる主に忠告する。

 悪意さえ無ければ、模造品も文化だと言っていたのは当のクリスだ。鑑定士としては失格かもしれないが、愛にはいろいろな形がある。

 クリスは鹿の角でできた魔除けを撫でながら、歌うように応える。


「ちゃんと考えてあるよ。今回、世話になったリュビトレスク博士には礼として剥製(オンパヤージュ)を見繕うつもり。あとはオンションモトール侯爵にも宝石を何点か。この呪いのタペストリーはエセ紳士に贈ってやろう」

「変質者にも物をくれてやるのですか」

「上客にここを紹介してくれたのは、アレだからね」

「変な客を連れてきたら、即刻、その場で、消滅させましょう」

「アレでも使えるときは使えるんだけどね。まぁ、いざと言うときは頼むよ」


 クリスの乾いた笑みにリュカは心得たと礼を取り、別室に食器を片付けに行った。

 残されたクリスは手紙をしたためるために椅子に座る。紙を取ろうとして、ペーパーウェイトに目を止めた。

 黄銅の平たい板には蔓模様と数枚の羽が彫られ、取手代わりの鳥が立つ。見た目は一番価値のある貴金属に似せてあるが、本物ではない。

 反対もしかり、外見と中身が違うものなんて、この世に溢れかえっている。

 肘を付き小さな体躯を椅子に預けた店主は、指の腹で落ちた羽の輝きをなぞった。

 今回の依頼品は何かと問われただけで、中身のことまでは求められていない。

 不粋でも世話焼きでもないクリスに言わせれば、剥製に価値があることなんて一目瞭然だ。善良な鑑定士として猫ばばしないだけの配慮を持ち、剥製を愛でる者として暴かれないように善処しただけ。

 父が詰め込んだ物があると、それとなく示したつもりだ。不審な行動やわずかにこぼしたほのめかしにも気付かないのであれば、自己責任の域になる。例え、知っていても(・・・・・・)、こちらに利が無ければ手助けしてやる義理はない。


「|L'amour des《親の》| parents descend et 《心》|ne remonte pas《子知らず》とは言うけれど――彼は、死ぬまで気付かないかもね」


 独りごちたクリスはペンを取る。

 父の想いなんて知ったことではなかった。


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