繋がらなくとも
それからどれくらい経ったのだろう。玄関でへたりこみ、ぼうっとしていた千津が顔を上げた。時計は十一時をさしている。
重い腰をあげてDVDをケースに戻し、中川の飲み残したビールを流しに捨てた。
「空回りばっかり」
愚痴るように言うと、千津はゴミ袋を広げて片付けを始めた。
そのときだった。玄関のインターホンが鳴り、千津はぎくりと体を震わせた。
中川が戻ってきたのだろうか。恐る恐るモニターをのぞくと、目が丸くなった。
「先生?」
「あ、夜分にすみません、津久井です」
慌てて玄関を開けると、正臣が一本のワインを手に立っていた。
「どうしたんですか?」
「あの、すみません、すぐ帰りますから。これ、生徒さんからいただいたんで差し入れです」
いつもより早口でそう言った直後、正臣は置かれたままのゴミ袋に目を留め、気遣うように言った。
「あの彼、もしかして帰ったんですか?」
「え、えぇ」
「あ、そうなんですか。実は出先から戻ってきたら、彼が車を置いて歩いていくのが見えたんです。コンビニにお酒でも買い足しに行ったのかなって思って。それで、これも飲んでもらおうかと思ったんだけど、あの、そうか、残念」
しどろもどろになり、正臣が顔を赤くさせた。
「ごめんなさい、余計なことして。でも、あの……」
呆気にとられている千津に、彼がぎこちなく笑みを送った。
「なんだか、たまらなくなって様子を見に来たんです」
「えっ?」
「もし、彼が君とうまくいかずに帰ったんだとしたら、なんだかまた泣いている気がしたんですよ」
「じゃあ、そのワインって口実ですか?」
「いや、僕、ワインを飲みすぎると頭痛がするんで、飲んでくれる人を探してたのは本当なんです。でも、まぁ、はい……口実ですね」
そう言うと、正臣は耳まで真っ赤にして黙りこんでしまった。千津の口元からふっと笑みが漏れ、同時に涙までこぼれた。
「あぁ、ほら、やっぱり泣いてる」
顔をしかめた正臣に、泣きながら笑った。
「だって先生、その優しさは残酷です」
「すみません、振られた気がしたって言ってるようなもんですよね。失礼でしたよね」
「そうですね、先生ってば、ちょっと失礼かな。振られてませんし、彼とはそういう関係じゃないって言ってたのに」
「ですよね」
ワインのボトルを抱え、正臣が申し訳なさそうにうなだれる。千津はそのボトルを手に取り、ラベルを見つめた。
「赤ですか?」
「は、はい。ドイツワインです」
「どれくらい飲んだら頭痛がするんですか?」
「七分目くらいかな」
「これ、私一人では多すぎます」
「そうか、そうですよね」
「ですから、先生も手伝ってください。半分くらいなら大丈夫でしょ?」
正臣が目を丸くした。
「はい。喜んで」
二人は顔を見合わせ、静かに笑った。
並んでソファに腰を下ろすと、正臣が手早くワインを開けてグラスに注いでくれた。まるで血のように濃い赤が揺れ、照明を反射している。
静かに乾杯をした。口当たりはいいが鼻に突き抜ける香りは重厚だった。
二人の間には、言葉がなかった。正臣は何もきかなかったし、千津も中川についてあれこれ話すつもりもなかった。ただ、時計の秒針が鳴る音だけが二人の間に流れていた。
千津は微笑みを浮かべ、赤ワインを揺らした。中川との沈黙は確かに気まずさがない。けれど、正臣との沈黙もまた心地よく、そればかりか嬉しさまで沸き起こるのだ。
『私、先生が好きなんだ』
ほろ酔い気分で、隣の正臣を見やった。正臣はお酒に強いほうではないらしい。グラス一杯ほどでもう顔が赤くなっていた。
『私といるから赤くなってるんだったら良いのに』
そう考えながら、正臣の手を見る。骨ばって大きい手だ。指先は長年弦を押さえてきたためかヘラ状になっていて、深爪だった。今までこの手で抱きしめた女は一体どんな人たちだったのだろうと思った。
その手を引寄せたかった。けれど、グノシエンヌの影がよぎり、臆病になる。
そのとき、正臣が静かに言った。
「よかった、誰かと飲めて」
「へっ?」
「せっかくいただいたんですが、僕ね、ドイツワインは嫌いなんです。絶対に一人では飲まないんですよ」
嫌いと言いながら、その顔には笑みが浮かんでいた。
「嫌いって顔してませんよ」
「うん、でも嫌いなんです」
正臣の目に浮かんだものは、切なげな影だった。やりきれないと言いたげな口元に、千津は思わず優しくキスをした。
「千津さん?」
正臣の赤くなった顔がますます染まる。酔ったせいか、はっきりと自分の気持ちがわかったせいかわからないが、我ながら思い切りがいいと、千津は笑った。
「泣きそうな顔してたから、つい」
冗談めいた口調で言ったものの、本当のことだった。彼の切なそうな顔を見ると、ますますグノシエンヌの女性がよぎって不安になるのは確かだ。けれどそれよりもそっと抱きしめたくなる。
「参ったな、どっちが年上かわかったもんじゃないですね」
苦笑した正臣を見据え、千津は口を開いた。
「ねぇ、先生。男って、大事な人がいても他の誰かを抱けるものですか?」
「抱ける人もいると思います。けれど僕は抱けません」
「どうして?」
「残念ながらそこまでもてないんですよ」
正臣はにこやかに言ったが、千津は信じなかったし、笑わなかった。
「私は先生に抱いてほしいです」
「千津さん、酔っ払いました?」
彼女の眼差しに真剣なものを見出し、正臣は笑みを消した。
「えっと、まさか、本気で?」
「えぇ。やっぱり大事な人がいたらダメですか?」
「へ?」
「ごめんなさい、私、見たんです。グノシエンヌのCDに挟まってた写真」
正臣は小さく何度か頷き、「あぁ、あれですか」と呟いた。
「それを知っても僕を誘うんですか? 千津さん、僕はそんなつもりでここに来たんじゃないんですよ」
「知ってます。気を悪くしたならごめんなさい」
「そうじゃないんです。僕は心配してるんです。あなたに心の声を聞くように言ったでしょう? いっときの慰めでは、同じところをぐるぐる回るだけですよ」
「先生、鈍いのね」
無性に苛立ち、正臣を睨みつけた。
「その心の声が『先生がいい』って言ってるんです!」
とっさに抱きつき、奪うようにキスをした。千津から誰かにキスをするのは、これが初めてだった。
正臣は目を丸くした。突き放すべきか迷ったものの、しっとりと柔らかい唇の感触に熱を帯びていく。手から力が抜け、唇の隙間から熱を帯びた吐息が漏れた。
「参ったな」
一瞬、唇が離れ、正臣の呟きが零れ落ちる。
「僕も男なんですが」
「知ってます。でも、どんな男か、もっと知りたいです」
「困った人ですね」
今度は正臣から千津を抱き寄せキスをした。千津は目を閉じ、正臣の感触と匂いを感じていた。彼のキスはその人柄と裏腹に情熱的で目眩がしそうだった。
ソファにもたれ、繰り返しキスを交わす。そのうち、千津のスカートをまくしあげ、冷たい手が太ももを撫でた。一瞬、その手は怯んだように思えたが、すぐに曲線をなぞるように奥へと滑っていった。
二人はベッドになだれ込み、ひたすらキスをし、互いの形を確かめ合うように抱き合った。
正臣が何を考えているかわからない。ただ、考える隙を与えたくない一心で、夢中で唇をねだった。千津を味わうかのように伝う舌先から躊躇は感じられず、そのことが彼女を有頂天にさせた。
千津を組み敷いた正臣は、白い肢体を見下ろし、半ば呆然と囁いた。
「綺麗ですね」
返事はしなかった。ただ、そのときの千津の微笑みは正臣の知らない、そして目の覚めるような美しさを帯びていた。
互いが繋がった瞬間、痺れるような歓喜が身体を突き抜けた。千津の胸に押し寄せた嬉しさは今までにないものだった。自分から欲したものが手に入った満足感と共に、正臣への愛おしさが溢れ出る。
千津は夢中で求め、やがて頭が真っ白になるほどの悦びを得たものの、正臣にその気配はなかった。
彼はそのうち体の動きを止め、黙って千津に抱きついた。深いため息が漏れ、彼の大きな手が千津の背中を優しく撫でる。
「先生?」
「……すみません。今日は駄目みたいです」
「私だからですか?」
「え?」
「やっぱり、あの人じゃないと……」
「千津さん、違います」
彼は慌てて否定すると、気まずそうに口ごもる。
「お酒を飲んでしまったでしょう? つまり……その、年齢的なものもあるかもしれませんが、僕は飲むと駄目なんです。最後までいけそうにない」
千津が真っ先に感じたものは、老いへの哀れみだった。しかし、すぐに彼にそんなことを言わせてしまった自分を悔い、首筋に抱きついた。
「先生、一緒に横になって背中から抱きしめてくれませんか? 私、後ろからぎゅっとされるのが好きなの」
「えぇ、いいですよ」
少しほっとしたような顔で、正臣は即答する。だが、すぐに「でも、それってキスができませんね」とぼやいた。
その不服そうな声に、千津が噴き出した。じゃれるように二人は寄り添い、ベッドに横になった。正臣は背中から千津を柔らかく抱く。
「あったかい」
背中にじわじわと広がるぬくもりに呟いた。和哉と同棲していたときは、繋がらないと不安で仕方なかった。それなのに、こうして腕を回し包まれているだけで、言いようのない安堵を噛みしめている。
もしかしたら、これが幸福というものなのだろうか。そんなことを思うと、指先から力が抜けるほど安心した。
『なぁんだ。繋がらなくても、いいんだ』
千津は自分を包み込む彼の手をゆっくりと撫でた。最後まで出来なかったのは、男性としては惨めなことなのかもしれない。けれど、千津にはこうして寄り添ってくれることのほうが、大事な気がした。
セックスのあと、こんなに満ち足りた気持ちになったことなど未だかつてなかった。同棲していた和哉ですら、千津から不安を取り除けなかった。そればかりか繋がれば繋がるほど心が遠くに感じられて寂しくなるばかりだったのだ。
付き合っているわけでもない。最後までしたわけでもない。それなのに、誰よりもあたたかく、愛おしいなど、なんという皮肉だろう。
しばらくして、千津は背中を向けたまま、思い切って口を開いた。
「先生、グノシエンヌの彼女とはどういう関係なんですか? 毎朝、あの曲を聴くのはどうして?」
しかし、返事はなかった。その代わり、正臣の静かな寝息が聞こえていたのだった。