グノシエンヌのひと
翌朝、千津は早めに起きると、正臣の家に向かった。
「おはようございます」
そう声をかけながら玄関に入る。だが、返事はなかった。
「先生? いないんですか?」
リビングに行くと、セルジュが尻尾を振って走ってきたが、正臣の姿はない。
いつものようにリビングのテーブルの上には朝食が用意されている。だが、どの皿にもラップがかけられていて、卓上に一枚のメモ用紙が置いてあった。
千津がそのメモを見ると、角張った字で『すみません、今日は遠方で出張レッスンがあるので、朝イチで出かけます。朝食は用意してあるので、どうぞごゆっくり』とある。最後には『伝えるのを忘れてごめんなさい』と追伸が添えられていた。
「なんだ、そっか」
千津は思わず拍子抜けした声を漏らす。
中川のことを考えて暗い気分になっていただけに、彼の穏やかな笑みを見られないことが、思ったより残念に思えた。
「でも、セルジュはいるもんね」
そう言って撫で回すと、彼は尻尾を千切れそうなほど振っていた。
いつものように散歩を済ませて戻ると、千津は食卓についた。
この日の献立は和食だった。焼き魚とだし巻き卵、ほうれん草の和え物、お新香、豆ご飯。目にも鮮やかだし、正臣の手料理はいつも美味しい。とりわけ千津は彼の作るだし巻き卵があると心が躍る。
だが、このときばかりは、どうにも落ち着かなかった。真っ先に箸をのばしただし巻き卵を頬張っても、すぐには飲み下すことができなかった。
「……なんだか、味気ないなぁ」
正臣と一緒に食事をし始めてまだ日にちも浅いが、目の前に彼がいないことが、どうにも寂しい。
「そうだ、音楽もないんだ」
いつも流れている『グノシエンヌ第一番』が聞こえれば、少しは気が紛れるだろうか。そう考えた彼女は箸を置いてオーディオの前に向かった。
グノシエンヌ第一番のCDは探すまでもなく、オーディオの上に無造作に置いてあった。再生するといつもの神秘的な旋律が流れ出し、千津をほっとさせる。
「グノシエンヌってどういう意味なんだろう?」
彼女は首を傾げ、解説文を読もうとジャケットを取り出した。そしてブックレットをめくったそのとき、千津の指先が動きを止めた。
ブックレットには一枚の写真が挟まっていた。一人の女性が撮影者に微笑みかけている。
「綺麗……」
千津は思わず感嘆の声を漏らした。女性は涼しげな目許をした美人で、華奢だった。左手には譜面を抱えているが、なんの曲なのかはわからない。
写真は最近のものではなかった。カラーではあるものの、女性の髪型や化粧もどこか古めかしい。それでも、彼女が綺麗なことには違いなかった。
ふと、見てはいけないものを見てしまった気がした。千津は慌てて写真をブックレットに挟み直し、ケースに戻す。
結局、グノシエンヌがどういう意味か知ることもなく、もやもやした気分で朝食を食べた。胸の奥が妙に重く、口に入れたものを飲み下すのも億劫だった。朝食が味気ないのは、写真の女性が気になるのか、それとも正臣がいないからだろうか。そう考え、千津はかっと顔を赤くさせた。
正臣の食事の所作や声を恋しく思う自分を誤魔化すように、冷たい麦茶を飲み干した。
今の生活を崩したくない。その一心で彼女はよぎった気持ちに蓋をしようとした。なのに、胸に疼く痛みは無視できなかった。
その日の午後、千津はハローワークの隅で、人知れずため息を漏らした。求人を見ていても、グノシエンヌのブックレットに挟まっていた写真の女性だったが頭にちらついて離れない。
独身を貫いているとはいえ、正臣だって恋愛くらいはしたこともあるはずだ。顔立ちも整っているし、雰囲気も人好きがする。もう少し若い頃はさぞかし女性に人気があっただろう。実際、今でも教室では生徒たちから好かれているようだった。
だが、彼も恋愛することがあるという、そんな当たり前のことに驚きを覚える自分が奇妙に思えた。
正臣といると、男性といるというより、まるで家族といるような安心感に包まれるのだ。
その一方で、時々すべて見透かすような目が怖くなることもある。自分のごたごたした過去を話してあるとはいえ、ねっとりと黒いものがへばりついた心のひだまで覗かれるような錯覚に陥るのだった。
しかし、正臣は千津に対して必要以上に干渉しなかった。千津が来たからといって、自分の暮らしを変えることもなく、ただただ「そこにいてもいいよ」という雰囲気を醸し出しているのだ。そこが千津にとっては楽なのだった。
気がつけば、毎朝のように流れる『グノシエンヌ第一番』と、そのブックレットにしまいこまれた女性のことばかり考えていた。
おそらく、それは正臣が心の奥底に大切にしまいこんでいるものなのだろう。
それを無断で垣間見てしまった罪悪感と、あの正臣も男なのだという当たり前のことにショックを受けている自分への驚きで、千津は上の空だった。
求人検索をしても気が乗らず、彼女はとぼとぼと家路につくことにした。
外はあたたかい春の陽気に満ちている。だが、千津の心の奥はどこかひんやりとしていた。そろそろ仕事を見つけなければと焦る気持ちと、見つけてしまえば正臣やセルジュとの日々がなくなるという淋しさに挟まれ、もやもやする。
「いつまでも甘えちゃ駄目だよね」
思わず呟き、彼女は唇を噛む。正臣は親戚でも恋人でもない、他人なのだ。どんなに居心地がよくても、いつまでもこのままではいけない。そう意気込むと、彼女は顔を上げた。