朝食と着信
『千津さん』と呼ばれることに慣れてきたのは一週間ほど過ぎたあたりだった。
朝の散歩から戻ると、正臣がリビングから顔を出した。
「千津さん、お疲れ様です。ちょうど今コーヒーをいれたんで、よかったらどうぞ」
「え、いいんですか?」
「もちろん」
ソファに座ると、セルジュが当然のように隣に居座る。
正臣がコーヒーのカップを差し出しながら、千津を見つめた。
「ところで千津さん、ちゃんとご飯食べてます?」
「食べてますよ」
コーヒーを受け取りながらきょとんとすると、彼は訝しそうな目をした。
「そうですか? その割に顔色がよくないなぁ。ちょっと気になってたんですよね。また倒れたらどうするんですか」
「うぅん、元々食べても太れないんですよね。ご飯は食べてますよ」
「三食きっちり?」
「いえ、朝はコーヒーだけなので」
正臣が顔を軽くしかめる。
「あんまりよくないですね。言ったでしょう? 朝日は栄養満点なんですよ」
「昔から朝食って食べたことないんです」
決まり悪そうに言うと、彼は少し考えてから、こう切り出した。
「千津さんさえよければ、朝食はうちで食べませんか?」
「へ?」
きょとんとした千津をよそに、彼はどこか楽しげだった。
「どのみちセルジュの散歩に毎朝来るんだし、朝食を作るのも一人分くらい増えても変わりませんからね。千津さんの分も用意しますから、散歩のあとに一緒に食べませんか」
「そんなわけにはいきませんよ。ただでさえ家賃を免除してもらってるのに」
「もちろんタダとは言いませんよ。一週間分として五百円いただきます」
「あの……どうしてそこまでしてくださるんですか?」
訝しげな千津に、彼はこう答えた。
「だって、千津さんの顔色が悪いのは本当だし。それに、そのほうが僕の気が楽なんです」
「へ?」
真意をくみ取れずにきょとんとしていると、彼がふっと眉を上げる。
「自己満足を兼ねて、君を利用しているんです」
「利用?」
「そう。セルジュの世話をしてもらって、朝食で副業しようとしているんですよ。せこいでしょ?」
一瞬、呆気にとられて、すぐに噴き出す。千津は何度も頷き、「そうね、少しせこいわ」と笑った。
「じゃあ、お願いしようかな」
「よし、決まり」
正臣はにっこりと笑い、作業場へ戻っていった。
彼に下心があるようには見えないが、ここまで優しくされる心当たりもない。自己満足だと彼は言ったが、自分によくすることで得られるものがあるとは思えなかった。それとも、あれは彼の照れ隠しなのだろうか。
「男の人ってわからないわ」
思わず足下のセルジュに話しかけると、彼は『僕も男だけど』と言わんばかりに首を傾げるのだった。
その翌日から、千津と正臣は向かい合って朝食を摂った。
パンの日もあれば、コーンフレークの日もある。ご飯に納豆、焼き鮭が出てきたかと思うと、翌日はフレンチトーストが用意されていた。決して豪勢ではないが、バランスの良い、堅実な朝食だ。
テレビを一切つけずに、クラシック音楽を聴くのは彼の習慣らしかったが、朝食のときはいつも同じピアノ曲が流れていた。クラシックに疎い千津には曲名はわからないが、テレビかどこかで聞いたことがあるような旋律だった。ゆったりとしたテンポで、どこか不思議な場所に迷い込んだような気になる曲だ。
ある日、千津は食後のコーヒーを飲みながら、いつものピアノ曲に耳を傾けながら尋ねる。
「これ、なんていう曲ですか?」
「サティの『グノシエンヌ第一番』です」
名前を聞いても、ピンと来ない。そう思ったのが顔に出たらしく、正臣が小さく笑った。
「いつも同じ曲ですみません。これは僕の儀式みたいなもので」
「儀式? なんの?」
「新しい一日を重ねるためのリセットです」
思わず小首を傾げた。
「なんていうか、不思議ですね」
「いえ、単に僕が変人なんです」
そう笑い飛ばす正臣に、「はぁ」と間の抜けた声を漏らした。
「バイオリン教師なのに、ピアノを聴くんですね」
そう言うと、正臣は少し戸惑ったようだった。
何かおかしいことを訊いただろうか。きょとんとした千津に、彼が「あぁ、いえ」と誤魔化すように笑みを繕う。
「僕はピアノも好きなんですよ。それだけです」
そう言って彼はコーヒーのおかわりを注ぎに行く。その背中が、まるで自分の顔色を見られたくなくて逃げたように感じ、千津は眉を寄せたのだった。
それから一ヶ月というもの、千津は庭とグノシエンヌと朝食のある暮らしの中に身を置いた。
セルジュはすっかり千津に懐き、正臣とも徐々に打ち解けていった。
新しい職はまだ見つからなかったが、有休消化を終えて失業手当の申請をし、ハローワークに通い続けていた。
ある昼下がり、庭の木蓮が咲いたのを見た千津は、ふっと唇に笑みを浮かべた。蝋梅は終わっているが、今度は白い鮮やかな花が咲き誇っている。
心がほっこりしている自分に気づき、思わず「私じゃないみたい」と呟いた。今まで、ゆったりと花や天気を気にかける朝なんて一度もなかったし、そこに喜びを見いだせる自分が新鮮だった。
窓から見える小道に目をやり、感慨深い顔になる。小道の先には正臣の家がある。自分が木蓮を見て笑顔になれるほどのゆとりを持てているのながら、それは間違いなく正臣とセルジュとの暮らしのおかげだとよくわかっていた。
正臣が自分にここまでよくしてくれる理由は未だにわからなかった。警戒したことがないと言えば嘘になる。だが、正臣には下心もなく、詐欺っぽいところもなかった。彼の善意には嘘の影は少しも見いだせないのだ。世の中にはこんな人もいるんだと驚いたものだが、もしかしたら自分が汚れているだけかもしれないとも思う。
「先生に木蓮が見頃だって教えてあげよ」
彼はのんびりと「春ですね」などと言うのだろう。そう思うと、笑みが漏れた。季節の移ろいを教えたい相手がいるのは初めてで、少しくすぐったい気もした。
そのときだった。千津のジーンズのポケットで携帯電話が鳴った。
平日の午後に電話をかけてくる友人はいないし、両親だろうかと画面を見ると、そこにあった名前に眉が上がる。
着信は中川からだった。
「どうして……」
思わず声が震える。だが、きつく唇を噛みしめ、千津はじっと立ち尽くした。
やがて電話は切れ、部屋がしんと静まりかえる。彼女は電話をソファのクッションの下に押し入れ、ハローワークへ向かったのだった。
結局、それっきり中川からの連絡はなかった。
真夜中のベッドに寝転んだまま、何度か着信履歴を見つめ、こちらから連絡してみようかと迷った。だが、そうしないほうがいいのはわかりきったことだ。用事があったなら、何度でも電話が来るはずなのだから。
千津は電話を置き、暗い天井を見上げた。早く朝になればいい。そうすれば、正臣とセルジュが胸に滲む淋しさを紛らわせてくれるはずだ。そんなことを考えていた。