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集合

 電車に乗っているとき、トンネルを超えたところで雨粒が窓をたたいた。ぼんやりと外を眺めていた朔也は、唇だけで「雨」と呟き、目線を遠い空に向ける。

朝起きると、利玖から連絡が来ていた。

今夜必ず来てほしいという念押しと共に、夕方から雨が降るという知らせのおかげで、かばんの底には折り畳みの傘が入っている。

そういえば、大学を出たときから雨雲が風よりも速いスピードで流れていた。梅雨にはまだ早い、それでもたっぷり水分を含んだ湿度の高い風が強く吹いて、朔也の髪を乱した。


 雨が好きというと、物好きと扱われる。

実際、客商売をしている友人らからすれば雨は「面倒」であり、商売の「邪魔」ですらあるらしい。


 でも、朔也にとっては、「安寧」に繋がる。無意味で蕪雑な明るさにあてられることもないし、広げた傘の分だけ人との間にできる距離が、健全に安全な気がする。無意味に人が入り込んでこないので、自分に居場所を作れる。


中学校時代、幼さだけをかき集めたあの空間の中で、同級生は幼く、自分もまた、未熟だった。友達関係なる悩み事はどんな人気者でもあるらしいけれど、ある種一匹狼体質の朔也には遠くにありながら、影響力の強い問題だった。


あの集団生活の中で誰かに信頼を置けなかった日常は何処か不安と隣合わせで、普通など知らず、普通でいることもできなかったことを、大人は出来がいいからと片付け、クラスメートは協調性の無さを理由に朔也を煙たく見つめた。

痛みも、苦しみも、生来の気の強さでカバー出来ていたが、それは痛みを知らないということではなくて、そもそも朔也は一人を好む性質ではあるが、依存的な一面を自覚している。


無関心を意識することで何とか中高一貫校を卒業し、逃げるように関東に越した。


父や妹とは既に関係性は破綻していたし、愛に溢れた家庭を作りたがる母の愛にも、朔也にいつまでも従順な人間性の高い弟にも疲れ、家庭関係からも距離が置きたかった。

いい息子にもいい兄貴にもなれなくて、なれる者ならなってみたかった。


右耳にそっと手を寄せる。

オニキスの小さなピアス。

 

利玖の家の最寄り駅で降りると、押し寄せる雨の匂い。

夕立ちのように強い雨だった。軌道のはっきり見える、大きな雨粒。


 改札を出て、紺の傘をかざす。薄い布地が雨を弾く音に耳を澄ませ、穏やかな気持ちで歩き始めた。

 






 紺の薄手のジャケットの袖口を指先でいじり続ける女性客の話を簡潔にまとめると、二か月ぶりに会うはずだった友人が一時間待たせた挙句に断りの連絡を寄越した、というものだった。


「それで、連絡が来るまで待っていたんですか?」


 紅花は自分でも驚くほど嫌な声が出た。嫌悪というよりも、憎悪に近い、負の感情。雨粒をたっぷり含んだ重たい傘が、傘立てに寂しく見えた。


「えぇ、まぁ」


 困ったように笑った彼女は、紅花よりも若い。しかし、学生という若さでもなかった。


 紅花は彼女の、引け目だらけの視線にいら立ちを必死に抑える。不当な、ぞんざいな扱いを受けたというのに文句の一つも言わず悲しそうに笑い、その友達というのが男だというのが、何より腹立たしい。


「好きなんですね」


 紅花の言葉に、忙しない瞬きが一瞬彷徨った。


「どんな方なんですか?」


 紅花は自分でも白々しいと思いながら、丁寧な口調で問いかけた。逸る気持ちが感情任せにならないように、自分に言い聞かせる。


 彼女は目を眇め、感情を絞り出すように目を潤ませた。


「大学時代のサークル仲間でした。うちのサークルは大きいうえに外部との交流も多かったので、初めは知り合い程度だったんですけど、学部も同じだったので、一緒に授業を受けたこともありました」


 言葉が過去形になっただけで、こんなにも色鮮やかになる足跡が、彼女の宝物になってしまうのだろう。

冷たいほどに、美しい。


 彼女はもう、完全に目線を失っている。

何処を見るでもない、ピントの合わない瞳孔。


「あの人に彼女がいることもありましたし、私に彼氏がいることもありました。それでも、何処かで彼を追っている自分を自覚していました。

 だから、今日も、彼が誘ってくれたから」


 言葉が途切れ、その隙間に彼女の必死の息継ぎ。可哀そうだと思わないわけではないけど、誰かが終わらせなければ行き詰まるだけの恋なんて、別に珍しくはない。


 男の方。どこの誰かも知らないし顔も仕事も知らないが、他人から向けられる好意を都合よく使うなんて碌な者じゃない。

紅花は机の下で自分の指先で爪を弾く。今朝、指先の剥がれた部分に、深紅のマニュキュアを塗ってきた。


大学の授業を一緒に受ければ代返やレジュメ、席の確保など様々な恩恵に預かれるし、相手の煮え切らない態度を逆手にとればこうやって都合のいい誘い相手にもなる。好意という引け目があれば、多少の粗相も見逃されるという算段か。


「相性、見てみましょうか」


 占い師を自称しそれでお金をもらう以上、こちらも主観でものを言うわけにはいかない。

それでも、自分以外の物に意図したことを含蓄させることは許される。客観的な意見がないままに潰されてしまわないようにと、悪意の無さは歪んだ正義の言い訳になるとも限らないけれど。


 アンティークな金具の取っ手を引っ張り、机の引き出しを開ける。ほんの少し迷いが浮かび、紅花は奥の方からいくつか並べたタロットカードの一束を取り出す。真っ黒のクロスの上に五枚並べた。


「自分の価値を決めるのは自分自身だということを、忘れないでください」


 出された紅茶のカップを持ち上げて一口飲んでいた彼女に、紅花はそう告げる。

牽制になるだろうか、そんなことを思いながら。


 迷いながら頷いた彼女に、捲ったカードを見せる。カードの意味など知らないだろうけれど、顔は曇る。

死神のカードを見せられて喜ぶ人間など、いるはずもない。







窓の外を見つめる雅の横顔に、彰葉はため息を隠す。彼女の安易に傷つく性分は、彰葉には羨ましくも恨めしい。

本人は労わられたいわけでも憐れんでほしいわけでもないだろうと分かっていても、口紅一つ似合わない横顔が寂しげな表情をするだけでこっちは焦ってしまう。気を逸らしてあげないといけないなんて、もとより自分にはありもしない善意が蠢く。


 第一、それはきっと、利玖のせいだと思うのは身勝手だろうか。


「紅花ちゃんが連絡寄越さないなんて珍しくないじゃん」


 慰めようとしたつもりが、その一言に反応した雅は彰葉を一瞥し、目を伏せた。

失敗した、と彰葉は自責の念に駆られ、その中で自分の間違いは何だったのだろうと思案し、最終的になぜ自分がこんな思いをしなきゃいけなんだあの女たらしの似非フェミニスト、なんて暴論が浮かんでくる。


 雅を誰よりも溺愛し、それは自分にないものを何気なく保持したその姿を僻み一つなく愛でているせいだろう。

紅花の余裕を持った対人関係は、ドライとも冷静とも、面白みがないともいえる。

彰葉に言わせれば、デフォルメ化した諦観をちらつかせる彼女のスタンスなど、好きにはなれない。


抑々、大切なものは一つに絞るべきだ。


「彰ちゃん。冷蔵庫に、昨日作ったプリンがあるよ」


 お店の方から利玖が顔を覗かせる。夕方も過ぎてこの天気では、客足などそう望めない。


 利玖は縁側から身を乗り出し窓際で座り込んだ小さな背中を見て、少し笑った。いじらしさを見出したとすれば彼は人がいいし、憐れんだというなら彼にもまた、同じ感傷があるのだろう。


「食べる」


 彰葉は立ち上がってリビングを出る。キッチンにはだしで降りると、タイル張りの床がひんやりと冷たい。独り暮らしの小さなアパートも大した造りではないもののそれなりに新しい建物だけあって機能性は悪くない。

重厚で温かなこの家は、それでも二代前の住人の年齢分だけ古さを感じる。


利玖の祖母には会ったことがある。利玖の性格はこういう人に触れて育まれるのだろうと思うような、おっとりとしたおばあちゃんだった。


彰葉には愛してくれる家族などいないけれど、だからと言って自分に足りないものは別にそれじゃない、と思っている。


「野菜室にあるよ」


 背中から届いた声に頷いて、一番下の取っ手を引っ張る。

端っこに十個ほどの小さなカップが並んでいる。バカみたいにかわいい、彰葉はそう思った。


 両手に持てるだけ持ってみると、意外にも大きなカップは四個が限界だった。

脚で冷蔵庫を閉めると遠くからもの言いたげな目線が背中に刺さったが、敢えて愛想をもって振り向くこともしなかったし、彼もまた何も言わなかった。


「このプリンは甘くないように作ったから、メープルシロップかけると良いよ」


 亜麻色のビンを手渡される。

ついでにと、利玖は蜂蜜だとか黒蜜だとかまで出してきた。

似たりよったり、どれも上品な平べったい瓶に入っていて、並んでいるだけで妙に洒落て見えた。


「ほんとだ。全然、甘くないけど、卵の味がする」


 敢えて一口そのまま食べると、冷たい舌ざわりの後に卵独特の風味が広がる。

どの味覚にも属さない、卵らしさを感じる。


「先輩が好きそう」


 聞いたわけではないが、蓮は恐らく卵が好きで、実際卵料理は上手だ。目玉焼きだとかオムレツだとか卵焼きだとかシンプルな料理ばかりだが味は悪くないし、絶対に失敗しない。

それ以外の料理、カタカナが五文字以上の物は作れないというが、できる仕事は丁寧にこなすところがなんとも蓮らしい。


「ほんと?」


 利玖は嬉しそうに言った。

彰葉はお世辞でなく頷く。甘い物は好かない蓮も、これなら食べるだろう。


「実は、蓮くんが食べてくれればいいなと思って作ったんだ。朔とか彰ちゃんは甘い方がいいだろうから、少し滑らかに作ってシロップとの相性も上げたつもりなんだけど」


 この人は多分、生まれながらにして聖人なのだろう。

そう思い、ここまで無垢なならばむしろ、その方が隣にいても傷つかないなと思った。


 いつの間にか雅が隣に移動してきて、ひとつのプリンにいきなり、メープルシロップを黄色い表面が見えなくなる程かけた。


「いくね」


 思わず笑って言うと、


「私も、甘党だからね」


 開き直ったように彼女はスプーンを勢いよくカップに差し込んだ。


 彰葉は黒蜜をかける。初めはダミーかと思ったが、卵の風味の強いプリンは意外にも黒蜜の濃厚な甘みと混ざり合って、おいしい。


 甘い香りに満ちたリビング。

連絡を、人を、待つ時間。


本当は彰葉だって、待っている。でも、約束に対する意識が彼はあまりに高いから、別に心を配って待ったりはしない。


舌触りの滑らかなプリンの上質な暇つぶしが、望んだ時と繋ぐと知っている。







 自分が住んでいるわけではない駅の改札を抜けると、雨に濡れた風が流れた。

電車が過ぎ去る音が遠ざかるとともに、蓮は歩き出す。

休日の夕刻すぎ、駅前を抜けた住宅地の細い路地には人気もなく、車通りもまた、ない。


静かだけれど寂しさを感じさせない、重厚な家の立ち並ぶこの道のりは、いつの間にか見慣れてきた。

標識のセンスだとか高級車が偉そうにしている姿さえ、景色の一部のように目に馴染んでいる。見るとはなしに見ているひとつひとつを見回すと、不意に自分が今ここにいることを再認識する。


後ろからブーツの足音が近づいてきた。本人としてはおそらく控えめに、そっと歩いているつもりだろうけれど、如何せん存在感のありすぎる強硬なブーツは、踵部分が道路を蹴る音が派手に響く。繊細な雨音しかしない中、朔也を感じるには十分な足音だった。


少し乱暴に近づいて来たというのに、一定の距離を取ったまま、その足音は蓮の後ろを歩く。蓮はそれを怪訝に思うことはなく、むしろ彼の方から近づいてきたことの方が意外だった。

共に行動するとき、蓮と朔也は歩くのが早い遅いを互いに言い合う。互いに誰かに合わせて歩調を変える様な器用さを、持っていないせいだろう。


例えば、小柄な彰葉とはストライドが全く違うのだが、彼は口で言わずに、そっと蓮の袖や裾を引っ張ることでペースを落とすように告げてくる。

そうされると、早く歩けというのはなんだか大人げない気がするので、仕方なく彼に合わせる。


高校時代の後輩だった。既に身体つきのよかった自分と違って、高校一年生だった彰葉は周りに同級生と比べても一回り小柄で、精神的な面でも幼さがまったく隠せていなかった。その分甘えることも頼ることも上手だった。


そのくせ、一番大事なところで、逃げた。

姿をくらませた。


「朔也」


 蓮は脚を止め、振り向いた。駄菓子屋に顔を覗かせる子供たちのやる遊びの一つのように、光の強い電柱の下で、朔也は同じように足を止めた。

小さな傘を後ろに傾け、朔也は蓮を見て眉を上げた。端正で手入れの行き届いた表情は強気で、そのくせ雨に濡れた指先を気にしている仕草は幼い。

彼の綻びを誇大に嫌悪しているのはおそらく、この世でただ一人彼だけだろう。


「ストーカーじゃねーんだから」


 同じところを目指して歩くとしても、後ろを取られるのは何となく気分が悪い。


「なら、俺の前なんか歩くな」


 蛍光灯の白い明かりが雨に乱反射している。雨が粒だとしても、目に映るのはその軌道だけだ。


「じゃ、先行けよ」


 横暴な態度。

そこに嫌悪を感じないのは単に、この男には蓮の身勝手も許される気がするからだろう。

お互い様なのだ。

朔也のように無作為に攻撃的でもないけれど、利玖のように無条件に優しいわけでもない自分は、他人のことを考えるのが苦手だ。


「蓮は歩くのが早すぎる」


 朔也は文句をつけ、蓮を追い越した。


 人の悪意は見逃すフリをするくせに、好意は精査しようなんて傲慢さ。


「お前は遅すぎる」


 蓮は言い返し、ゆっくりと歩きだす。

元より、朔也の気配を感じてから蓮は随分と歩みを落としたし、朔也もまた歩調を早めて蓮に近づいた。

 

「朔也」


「あ?」


 不機嫌に振り向いた朔也はおそらく、昨晩のことをまだ根に持っている。


「その前髪いいな」


 短くなった前髪が気に食わなかったのだろう。ワックスで濡らし、ピンでまとめ上げている。後ろ髪は下ろしていて、いつもより幼く見えた。


「覚えとけよ」


 睨みつける目線で捨て台詞を吐いているが、目的地は同じである。







 異国の言語をとりあえず学ぶことに意味などあるのだろうか、と真剣に考えることにはおそらく、意味がない。

目の前に広げた難解な文章と、発音もできない単語を前にそれを回避する理由を捜していると、そんな真剣な表情を取り違えた朔也に、教えてやろうかと優しく声をかけられた。


つい一週間ほど前の話だ。

顔をあげると、ブルーグレージュの瞳が柔らかな眼差しで自分を見つめていて、雅は少し申し訳ない気持ちになった。

朔也がこんな風に優しく接してくるのは自分にだけかもしれないなんておこがましい選民意識を持ち、そんな気分にさせてくれるところも好きだ、と思う。


誰かれ構わずに優しい性格をしている利玖には感心するけれど、自分も他人も同じだと言われている気がして、それはそれで面白くはない。

べつに、彼の一番は他に譲る。

でも、その他大勢では物足りないのも本音。


「前置詞って、どうやって使い分けるの?」


「前置詞は基本的に感覚で使い分けるものだけど」


 馬鹿正直に言われると、反論する気も失せる。これだから出来のいい人間は嫌いだ、できない側の思考が分かっていない。

朔也は自分が賢いと自覚をしている癖に、自分にできることは他人もできると思い込んでいる節がある。

迷惑極まりないパラドックス。

天才のパラドックス。


 朔也はテキストを覗き込み、小さく頷いた。


「to とforの違いか」


 朔也は雅の隣に腰を下ろした。触れた肩が細くて、骨っぽい。


「ひとつずつ覚えるしかないのかなぁ」


 雅は机に突っ伏す。ノートの表面は少し冷えていて気持ちいい。


「そりゃ、言い慣れて考えなくても出てくるレベルまで行けば間違えることもなくなるけど、最初は使い分けのルールで解釈した方がわかりやすい」


 つい最近までこたつとして足元を温めてくれていた机は、毛布がはがされ、薄いクロスが掛けられた。そのシンプルに清潔感の溢れる白に薄っすら反射した光を受けながら、朔也は妙に穏やかだった。


彼は自分の気分屋な性を自覚し、それを逆手に取るように人との距離を測る。彼から詰められた距離の分は自分が許される、そう確かに思って彼といられる時間は雅にとって何よりも安心できる時間だった。


彼の身勝手はいつでも善人でいようとするよりよっぽど健全な気がする、なんて思うのは皮肉かもしれない。

みんな、いい顔しすぎ。

裏では散々言うくせに。


「どうやって使い分ければいいの?」


 単純なペン回しをして、それを落とした気まずさで尋ねる。キャラクターもののシャープペンは本体が細身で軽い構造になっている。

朔也はそれを拾い、


「I hand it to you」


口紅だろう、赤みのある艶をのせた唇が滑らかに、流暢な英語を発音した。全く聞き取れず、首を傾げて見せる。角度を付けた分だけ斜めに落ちたポニーテールで、頭が重たい。


「I hand it to you」


 さっきよりもゆっくりと、丁寧に。

それを丁寧というのは、雅からしたらに過ぎない。


「私はこれをあなたに渡す、で合ってる?」


 朔也は目を少し見開き、頷いた。コンタクトレンズの色に映える白目が、少し充血しているのは見ていて痛々しい。

きっと、昨晩も、彼は夜更かしをしたのだろう。

利玖や雅と違って典型的な夜型のせいか、彼は病的に白く、血色感がない肌に、いつも隈を作っている。


「つまりは、相手が居るか否か。それさえわかれば、使い分けられる」


「へ?」


 雅は顔をあげ、先ほど利玖が入れてくれた何とかティーを飲む。すっかり冷えてしまったが、いい香りがする。

フルーツのような、香料のような、正直複雑でよくわからないけれど、甘い香り。


 朔也はついていた膝を崩し、


「例えば、与えるのgiveとか、話すのspeakとかは、toをつかう。これらは、相手が居ないと成り立たないものだろ?与えるのに相手が居ないとか、話をするのに相手が居ないってことはない」


「なるほど。確かに、sellだのexplainだの、相手がいる動詞はtoに分類されている」


「相手が要らない、makeやcookはforを取るだろ。その違いで、大体の第三文型と第四文型の書き換えはできるようになる」


 朔也はそう言うと、自分のカバンから取り出したミルクティーを飲んだ。

ペットボトルの飲み物をここまで優雅に呑む人を、雅は他に知らない。


この人は異常な自意識によって磨かれた感性で、美しい。弊害だらけのプライドに、それでもどこを切り取っても美しいから、虚構でも粉飾でも、彼の存在は唯一無二だ。


 憧れはしない。彼になる必要はない。


 チャイムが鳴っても、雅は違うとすぐにわかった。

蓮と朔也が仲良く駄菓子屋に着き、いつもと違う髪形をした不機嫌な朔也を、彰葉と利玖が交互に称賛しているの眺めていた。

どうも短くなった前髪を誤魔化す為に、ピンでとめているらしかった。


雅は賑やかさを増すリビングで一人、薄暗い気持ちになり、そんな自分がとてつもなく重たかった。


蓮が多忙と群れない性格ゆえに駄菓子屋にあまり寄らないことや、朔也が気まぐれに顔を出さなくなることには異論も反論もない。


ただ、そこに約束があるならば別だろう、と思う。


彰葉が運んだタオルでジャケットや鞄を拭う二人を見て、雅はやはり浮かない気分になった。

待ち人の帰宅に、嬉々と世話を焼く彰葉の背中に、どうしたって恨めしくなってしまう。


 Promiseも、toを遣う。それも、あの日朔也に教わった。

約束は誰かとするものだ。

ならば、今朝、夕方過ぎにはそっちに行くよと連絡を寄越したのは、約束ではなかったのだろうか。自分が約束だと思っていたそれは、ただの業務連絡?

夕方など、とうに過ぎた。霧雨を降らせ続ける雨空の向こうにも、もう光は宿っていないだろう。







 やっとのことで職場を後にした時、ビルの出口で傘を忘れたことに気付いた。

せっかく雨が降っていると教わったというのに。


占い師など、第三者としての視点を失ったら終りだと理解はしている。

でも、どうしたって、目の前で涙を浮かべた瞳や悲し気にそらされた視線には、惹かれてしまう。

同情ではないと思ってはいるけれど、同情以上に腑に落ちる理由は未だに見つけられていない。


 ビルの外に手を差し出し、駅まで歩けるかと確認する。霧雨は雨粒の姿を見せずに手首までを、まんべんなく濡らす。まだ雨に濡れてしまったら寒い時期だと諦め、傘を取りに行く。

このピンヒールでは、駅まで早歩きもできやしない。


 彰葉から、催促の連絡も来ていた。彼は他人の悲しそうな顔にはめっぽう弱い。

純粋で気が強くて優しい子。

自分に無いものをたくさん持っている人は、見ていて面白い。彰葉にしても、蓮にしても。


 紅花は先ほど急いで駆け上がった階段を、のんびりと下った。もういっそ、言い訳でも考えた方がいい。文句を言う気も失せる様な、ばかばかしい理由でもあれば。

それで許されないものはたくさんあるけれど。

嘘はつかない方がいい。

素朴で真面目で内向的な子。

大人の欺瞞にも狡猾さにも耐性がない。悲しいくらいに無垢な瞳を思い出し、紅花は憂鬱にため息を漏らす。







 人の家はどうも落ち着かない。

蓮は座り込んだ畳の折り目正しい網目を指先でなぞりながら、浮かない顔をした雅にさりげなく話題を提供し続ける彰葉を見つめる。


この男の底抜けに実直な対人態度を見る度に感心し、そして真似できないと感嘆する。

 

小生意気で、高校の先輩である蓮に対しても、果ては五つも上の紅花に対しても臆することない物言いをするところはどうかとも思うが、七歳年下の雅には疑いたくなる程に優しい。


朔也にしても彰葉にしても、生意気で勝気な人間ほど庇護欲が強いのはなぜだろう。


例の猫はふらりと姿を消して戻ってこないという。

わざわざ来てくれたのにごめんねと眉を寄せて利玖は笑ったが、動物愛護の精神など特別持ってもいない蓮からすれば、どうでもいい事だった。彰葉と利玖が来いというから、来たまでだ。


騒がしい空間は好まないが、ここの空気感は好きだった。


美容院などという美意識の支配する場所に缶詰めになると、ふと人間の本質を猜疑してしまうときがある。

流行が横行する日々に、他人の持つ何かを自分に取り入れることにどこまでの自意識があるのだろうと考え、自分を変えるという大義名分がどこまで意味を成すのだろうと冷めた気分になってしまう。


ここに集まるやつらには、そういう薄暗さが一切ない。

年も、性別も、趣味も、職業も、共通点など見出せないし、一癖も二癖もあって面倒ごとばかりだけれど、自分の色を見失わないところは強さだと感じる。


 チャイムが鳴ったとき、誰よりも先に駆け出した雅に、料理途中だった利玖が振り向いて、わざとらしく笑う。朔也ですら、何やら分厚い小説から目をあげ、微かに目を眇める。


「あーあ。なんか、彼女取られた気分」


 彰葉が呟く。


「ごめんね」

「仕事ですか?」

「そう。延びちゃったわ」

「仕事と私どっちが大切なのって聞いてほしいんですか?」

「答えは決まってるけど、聞いてもいいのよ?」

「結構です。言い訳なんて要りません」

「せっかく、沢山言い訳考えたのに?」

「そんなもの、用意しないでください」

「なら、正直に謝れば許してくれるの?」

「言い訳しなければ正しいわけじゃないです。正直であることと、約束に遅れるのは別問題です」

「なら、どうしたら、許してくれるの?」

「時間が経ったら、許します」


 ドア越しの二人のやり取りは、水分を含んだもったりとした空気と共に、部屋に充満する。彰葉が耳を澄ましながら懸命に笑いを堪えている。


 紅花がこんなにも下手に出ることも、言葉の応酬で嫌味一つ口にしないことも、蓮や彰葉からしたら噴飯ものだ。

オセロのように正反対な二人にはそれでも、男には踏み込めない特別な友情があるようだ。


男と女では根本的な違いがあまりに多い。それはおそらく、均さない方がいいような、差異。

平等であることと個性が認められないことが紙一重では生きていけなくなるのは、誰も同じだろう。


 なんだかんだ明るくなった雅は陽気な足取りで、キッチンで料理を進める利玖の背中に引っ付き、あれこれ騒いでいる。


解放された紅花は、蓮の隣に腰を下ろした。香水の、今にも消えそうな冷たい匂いに紛れて、微かにタバコの匂い。これでも雨に溶けたのだろうことは、想像に難くない。


「で、どうしたの?」


 彰葉は囁くように、紅花に尋ねる。

蓮の伸ばした脚をまたいで身を乗り出すものだから、目の前に差し出された薄い背中に、蓮はなんとなく目のやり場に困る。彰葉の身体の華奢さは健全そのものであるはずなのに、自分を不安にさせる。


目を逸らすと今度は、誰にも関わるまいと片膝ついて本を読みふける朔也が目に留まる。

これは少し、健全ではない細さと白さをしている。蓮の視線に気づきながら敢えて反応しない、澄ました瞳は嫌いじゃない。


「どうもこうも、客の相手してたら時間がのびたのよ」


 避けようのない斜めの雨に少し広がった髪を手櫛で整えながら、紅花はキッチンの雅の背中を見つめていた。

蓮が染め上げた長い金髪が、少し痛んでいる。


「早く帰ろうとはしたの?」


 彰葉は珍しく切り込むような口調で言った。


「みゃびちゃん、可哀想なくらい時計ばっかみてたよ」


 言葉尻がいちいち、刺々しい。

普段小生意気ながらも愛想のいい男だが、機嫌を損ねると扱いが面倒だ。ふり幅がある故の弊害だろう。


「俺は当て馬じゃないからね」


 わざとらしい言葉選びをした彰葉は少し眉を歪め、キッチンへと逃げるように去っていった。

黒いエプロンを締めた利玖の背中に、小柄な二人で張り付いている。動き難そうだが、利玖の笑い声は穏やかに響く。

人に囲まれて人に愛されて笑うことが似合う、利玖の天賦の才だ。羨ましいとは思わないが、そうなれるものならそうでありたかったかもしれない、とは思う。


「あの子、当て馬なんて言葉、知ってるのね」


 紅花は驚いたように呟いた。瞬く度に、重たいまつげが上下している。


「姐さんが思ってるよりは、大人だろうな」


「なによ、それ」


 彼女はワンピースに包まれた肩を窄め、微かに笑う。

紅花はワンピースをよく選ぶ。

細身でスタイルの良い彼女はさらりとした着こなしが上手で、どんなものでもよく似合った。否、自分に似合わせる。


「でも、そうね。わからないものよね。大人っぽさと子供っぽさが正反対ってわけじゃなんだもの」


 自分に言い聞かせるような口調だった。

 きっと、彼女はずっと大人びた少女だったのだろう。


「姐さんの、その、仕事にかこつけたお節介も、身勝手なもので子供っぽさともいえるんだぜ」


「この年でそんな上等な子供らしさがあるのなら、むしろ人がいいってものだわ」


 紅花はそう言って、壁に背を持たれる。


「皮肉なものよ。男に約束を反古にされた女の子の相手をして、肝心の自分の約束が守れない」


 これだから、情の強い人間は嫌いだ。もっとドライに、簡潔に、人と結ばれていればいいものを。


「まぁ、甘えよね。雅ちゃんにはここがあるから大丈夫、秋月が面倒見てくれているはず、そう思ったから、迷いなく仕事取ったんだもの」


 そこは嘘でも、いや、実際に嘘なのだから、雅のことが頭の片隅から離れなかったと言えばいいものを、こうやって嫌味を演じれば悪い女でいられるとでも思っているのだろう。

持っている感情と理想的な精神がない交ぜで不安定だから、損な役回りになるのだ。


「あーあ。マニュキュア、とれてきてる」


 自分の手を見つめ、紅花は悲しそうに言う。

横目に見やれば、彼女の細い指先の深紅が欠けている。そうとはわからないくらい、小さく。


「そうだ。神崎くん」


 名を呼ばれ、小説にしおりを挟んだ朔也が紅花を見る。

やはり前髪を上げている分、顔の小ささが際立つ。色の白さや、額の狭さ、細い眉も。


「あはは、可愛い髪してるのね。似合ってるわ」


 紅花は勿論朔也の髪型を見逃すことなく実直な感想を述べてから、ネイルポリッシュを手渡す。

客からのもらい物で、お裾分けと言っていた。


 それを受け取りながらしっかり蓮を睨んだ朔也の指先には、今日も黒いネイルが施されている。

艶っぽい、漆黒。

紅花が深紅を落とさないのと同様に、朔也も小さな爪に一枚、ベールを載せないと気が済まないらしい。


「雅ちゃんにも、この前、違う色を渡したわ」


 へぇと朔也は小さく呟き、彰葉とキッチンでじゃれていた雅を呼んだ。


「何?」


 近寄ってきた雅に、足を出すように言う。


「これ、貰ったやつか?」


 裸足でキッチンは危ないと何度言われても一向に聞く耳を持たない彼女は当然、足先のネイルを輝かせていた。

 雅は紅花を一瞥して、そうだよと頷く。


「乾きも早いし、派手だけど綺麗で気に入ってるの。でも、これのために新しいミュールで来ちゃった」


 言葉の端々に不機嫌を滲ませる姿が、本当に幼い。


「めっちゃ降ってるな」


「白だよ、しかも」


 真剣に訴える熱意が、蓮には不思議にさえ映る。一生懸命生きているなと、その生命力が眩しくなった。


 朔也が雅をかわいくて仕方ない気持ちは、わからないでもない。

 紅花や彰葉、利玖のように露骨に可愛がることはないのに、朔也の愛情が一番重力があって、覆いかぶさるように包み込む。


 隣で大人しく口を閉じている紅花を横目に見ると、彼女は頬杖をついて緩頬を隠していた。


「蓮くん、タコ焼き機を出してもらってもいい?」


 キッチンから、利玖の声がする。蓮は立ち上がり、戸棚から大きな器具を取り出す。さすがに両手にずっしりと重たい大型のそれは、昔利玖と近くの大型家電量販店まで買いに行った。

六人も集まると食卓は狭くなるし、食事量もメニューも面倒だ。料理がまともにできるのは利玖だけなこともあり、それならば粉もので自由に作れるようにすればいいと考えた。


彰葉と雅が積極的に焼くたこ焼きは中身のレパートリーが豊富なうえに、ギャンブルだから恐ろしい。確証もないのにチーズだとか明太子だとかイカが入っていると適当を言う彰葉には困りもので、好き嫌いの激しい朔也が毎度眉をひそめている。

最も、朔也の嫌いなものなど、利玖は用意しないというのに。


 ペーパーナイフにもなるというしおりを挟んだ小説を置き、朔也が立ち上がる。ブックカバーの美しい艶。

トイレにでも行ったのだろう背中を見つめる。なだらかな肩口を掠める、昨日染めた彼の銀色の髪。

その髪が艶やかで美しいことに、蓮は妙に満足した気持ちになった。


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