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晴れのち雨

「おはよう」


 駄菓子屋の扉を開けると、一番最初に聞こえたのは、凛とした、爽やかな青年の声だった。

利玖のよく通る柔らかな声とも、朔也の響くのに気怠げな声とも、ましてやよく居座る子供たちの甲高い声でもない。

滑らかな滑舌と、癖のないしゃべり方。


「アキちゃん」


 雅はお店に右足から入り、顔をあげた。

引き戸のレール部分を踏まないようにと、利玖から言いつけられている。畳の縁を踏まないとか、箸で皿を引き寄せないとか、利玖は礼儀作法には案外口うるさい。

その理由を祖母と暮らしていた時期があったからだというけれど、十八から数か月ほど共に暮らしただけで、人の本質が変わるだろうか。


縁側に座っていた彰葉に駆け寄る。その隣には、あの野良猫。

雅はしゃがみこみ、寝転がった猫の身体を撫でまわす。

庇護欲をそそるような華奢なスタイルとはかけ離れているものの、ふくよかに感じる柔らかい全身を撫ぜまわすのは愉快だった。


「そのワンピース、かわいいね」


 明朗な微笑みで、彰葉はこともなく雅の格好を誉めた。


天気のいい土曜日。

新緑に負けない鮮やかな黄緑のワンピースはこの前買ったばかりの物で、今朝袖を通したときの高揚感は格別だった。今日という日のために新品の状態でとっておいたわけだし、おろすに相応しい天気になってくれたのは純粋にうれしいことだった。


「でしょ?」


 雅は立ち上がり、薄い緑地に黄色とオレンジの濃淡でデザインされた大人びたフレアがひざ元で揺れる。


「似合ってるよ」


 そういう彰葉は、袖の長い黒のシャツを着ている。傍に置いてある白い上着や、ピタリと細身のグレーーのパンツを見るに、今日はモノトーンでまとめたらしい。

その中で、手元のシルバーアクセサリーがやたらと存在感があった。


「あれ、みや。早いね」


 家の方から利玖が顔を出す。こちらは白いシャツにカーキのジャケットを着ている。いつものカジュアルな格好は彼の親しみやすさに繋がっている。


 なんというか、ここに集う彼らは皆、それぞれの個性を着ている。所謂、見た目は性格を表す、というのに近い。


その言葉がいいものか悪いものかは、雅にはわからないけれど。

ほとんど制服姿の自分の個性がどこにあるのかは、わからないけれど。


「朔ちゃんは?」


 雅はたくさんのテキストを詰めてきたトートバックを縁側におきながら尋ねた。


今日から高校がゴールデンウイーク休暇に入った。宿題が、いやというほど出ている。

かばんを覗き込んだ彰葉が、顔を歪めて首を振った。彼は勉強が恐ろしく苦手らしい。


「朔は、学校だよ」


 驚いて、顔をあげる。

ただでさえかなり差のある身長に、高い縁側のせいで随分と見下ろされている。


「え?」


「大学って、ゴールデンウイークは休みじゃないんだって」


 利玖は少し気の毒そうに笑い、縁側に腰かけた。


「大学生って大変だね」

 

 隣で聞いていた彰葉も驚いた声を出す。


「ね」


 大学進学をしなかった者同士、彰葉と利玖は顔を合わせていた。


「けど、ちゃんと行くんだね」


 彰葉は猫の腹部を撫でながら言った。元野良とはいえ、警戒心の無さは雅ですら驚いてしまう。

彼は誰にも、何でも、されるがままだった。


「朔は、人の少ないところに行くヤツだから」


 土曜日は電車もすくし大学も人が少ないしどうせ出掛けるにはどこも混雑するし、大学に行くのに丁度いい。

雅も、朔也からそう聞いたことがある。

午前に授業を受け、午後もそのまま大学の図書館で本を読んで過ごすらしい。


雅には考えられない彼の生活サイクル。

朔也とは頭の構造が違うと、雅は半ば本気で思っている。

それは事実としての面と、そうでなければ救われない感情面からも。


「人混みが好きな人なんて、いないだろうけどね」


 彰葉は苦笑しながら言った。

彰葉は壁のない性格をしてる。利玖や朔也より三つ上で雅に至っては七歳もの差があるのだが、基本的に年下扱いをせずフラットに見ている。

正直に言えば、同じくらい幼い部分がある気がする。


「人がいないところだって、誰でも怖いよ」


 人がいるべき場所に人がいない。静かさというよりも閑散とした、滲んだ空気がまとわりつくあの感覚。

 雅は利玖の指すものがなんとなく見えた気がして、そっと目を伏せた。


「居心地のよさって人それぞれのようで、似たり寄ったりなんだよね。性格とか性質云々の前に、生物学上同じ生き物なんだから」


 利玖の言葉に、切なさのような苦しさを覚える。彼の言葉は間違っていない。

 

 雅は猫の小さな額を指先で撫でる。


人間は緻密に、そして稚拙に互いをふるいにかけあうけれど、人間以外から見ればそれは心底どうでもいい差異なのだろう。

雅が猫の違いが判らなかったように。


「朔ちゃんがいないならしょうがない。」


 言外に手伝えというオーラを出すと、利玖はともかく、彰葉は眉をひそめた。


「みゃびちゃん、絵日記とかない?」


「私もう、高校生ですが」


「あったら、手伝えたけどなぁ」


 そうかもしれないと思う。

彰葉の画力は知らないし文章力などもっと知らないけれど、彼は口から出まかせをいう天才だった。ゴールデンウイークの連休を、ありもしない予定で豪勢に飾り立てるだろう。なんなら、国外旅行くらいならさせてしまう。

それでも彼の凄いところは、その本性を知っていてもなお、彼から軽薄さを感じないのだ。


「でも、英語のスピーチのプリントならあるよ」


「なに、それ?」


「英会話の授業で、一人五分のスピーチがあるの。弁論大会的なやつ。アキちゃん、日本語でいいから原稿書いてよ」


「いいけど、日本語でいいの?」


 彰葉は落ちてきた前髪をいじりながら怪訝な顔をする。彼は手先が不器用で、髪のセットがあまり上手じゃない。


「後で朔ちゃんに英訳してもらう」


 雅が言うと、利玖がその頭を軽く叩く。


「いいじゃん」


 ねめつけるように言えば、


「それは他力本願が過ぎる」


「でも、読むのは私だもん」


「自分のことくらい、自分で書きなさい」


「でも、政治家の答弁は全部他人が書いたものだって、朔ちゃんが言ってた」


 利玖は頭に手を当て、ため息をこぼす。いつもに比べて、真剣に悩んでいる。

彰葉は自分は関係がないと言いたげに顔を背け、笑う。しかしその顔には、朔也への好意が見て取れる。

 雅の朔也への思いと彰葉のそれは、おそらくかなり近しいものだった。


「朔の言う事は本気にしないでって、いつも言ってるじゃん」


 利玖はお店に降り、雅と彰葉が社長いすと名付けた椅子に腰かけた。

元々は利玖の祖父母がやっていた工場を改装した駄菓子屋は年季が入っていて、昼間こそ光をよく取り込み明るいけれど、日でも陰ろうものならたちまち室内が真っ暗になる。雅も、駄菓子の並んだ低い棚に幾度と脚をぶつけた。

雨の日なんかは最悪だと思う。あれだけ薄暗い足元ばかり見ているというのに、夜目がきかない。夜目以前に、きっと、何も見ていないのだ。都合の悪いものには、耳を塞ぎ、目を逸らし、それでも多分、嫌なくらい傷ついてきた。


「朔ちゃんも言ってるよ、利玖の言うことを全部聞いてたら普通の人は生きていけないって」


 雅が言えば、利玖は二の句が継げないようで、かすかに目を見開いてしまった。

そんな風だから、利玖はきっと、他人から良い人といわれるのだ。


言い返せばいいのに。


雅は否定的にそう思いながら、利玖が他人の言葉を強く詰る姿など想像がつかない。他人を傷つけることには何より抵抗があるだろう彼の生来的なボランティア精神を、朔也は冷ややかに見ている。


それこそ、傲慢かもしれない。

利玖のその精神に、誰より助けられているのは朔也の方だろう。


「よく言うよね。普通なんて、一番理解できてないやつがさ」


 やや低い声で、利玖がつぶやく。

彼は朔也への羨望を隠さない。


本人に届かせるつもりはないくせ、雅や彰葉には言うのだ。


まるで牽制でもするように。


「俺は帳簿つけないといけないから、彰ちゃん、手伝ってあげて」


 利玖がにっこりと笑った。いつもの、お人好しで明るい横顔に、嘘を見抜きたい自分の狡猾さを、雅は刹那的に後悔する。


「答えがあってるかどうかは別問題だよ」


 彰葉はそう笑ったくせに、妙にやる気のある顔で雅の腕を引っ張る。

少し早いと思いながらも靴箱から出した白いミュールの、足首のストラップを解いていた雅は、導かれるままに縁側に上がる。

 足を上げたときに目に入った、爪先の明るいピンク。今朝、重ね塗りをしてきた。


 彰葉の手から解放された猫は、雅が明けたときに開いたままだったガラス扉の数センチの隙間から外に出て行った。

その時の身のこなし、ぴんと立った亜麻色のしっぽ。


 キミはいいね。何処に行くのも、自由だ。


 





「雪宮くん。今日はもう、あがっていいよ」


 控室で冷蔵庫からペットボトルを取り出しキャップを開けたところで、後ろでシフト調整をしていた店長に声をかけられた。


「次のお客さん、キャンセル出た。明日も早いし、今日はもう上がって休みな」


 客商売の似合う柔らかな笑みを浮かべた店長を見ていると羨望とは違う、素直な敬意が浮かんでくる。

 自分に欠落したもの。

 羨ましいって程ではないけれど。


「良いんですか?」


 この後は常連さん、何故かこの美容院内では一番経験が浅い自分を指名してくる、女性客のカットとカラーを担当するはずだった。


仕事柄仕方がないことだが、直前キャンセルに振り回される度、蓮は舌打ちを堪えている。今日こそは、このまま帰ればいいだけの話だが、無断キャンセルで数時間待たされることもざらだ。

店長が客をまさしく神のように扱い尽力してしまう人なので文句は言わないようにしているが、如何せん人が良すぎる。


こちらはあくまで仕事として美容師をしているのであって、慈善活動をしているわけではないのだ。


その効率主義を、意外にも共感してくれるのは、蓮の周りでは朔也だけだ。

彼は蓮が知るなかでもかなりの効率主義者で、彼のそれはちょっと狂気じみている。


同じように客商売をしている紅花、利玖、彰葉は皆、何処かで面倒ごとを甘んじ、なおかつ面白がる余裕すら見せる。

深刻な表情の客を見れば首を突っ込んで共に傷ついてみたり、顔見知りの猫がいなくなれば他人を巻き込んで探してみたり。常連客に紛れて大して強くもない酒を飲み散らかしたり。


蓮には、それらの何一つも理解ができない。少なくとも、それらに付き合わされるのは御免だった。


店長の好意をありがたく受け取り、さっさと荷物をまとめてジャケットを羽織る。

陽が出ているうちは半そででも足りるほど暖かくなったが、陽が陰ると、羽織るものがないとまださすがに肌寒い。飾り一つないシンプルな黒いジャケットに腕を通し、かばんを肩にかけた。


さっき、常連客の一人が雨が降ってきたと教えてくれたので、ロッカーから折り畳みタイプの傘を出す。もう何年も遣っている年季ものだったが、折り畳みの傘など使う回数がほとんどないせいで、なかなか壊れない。


周りの同僚に軽い挨拶をして、裏口から美容院が入っている複合施設を後にする。雨に色を変えた歩道を転ばない程度に速足で歩く

「あんたって、面白みないわよね」


 紅花にしみじみと言われたことがある。悲しそうな、と表すには同情的ではなかったまでも、哀れみの深い口調ではあった。


言葉こそ乱暴そのものだが、紅花は多分、蓮の無関心を後天的な性格と勘違いしている。成長過程に経験したあれこれによって、他人への情が欠落したとでも思っているらしい。

まさか、生まれながらに他人に興味がないなんて言ったら、どんな憐れみの言葉をかけられるのだろう。


 可笑しくもない。


蓮は傘を打つ雨音に耳を澄ます。







降り出した雨を、雨粒に色を代え始めた道路を遠目に眺めながら、随分穏やかな日だなと、利玖は一人思った。


大型連休の初日、別に店を開ける理由などない。商売柄、紅花達と違って休日は繁盛しない店なので、本来ならカレンダー通りに硝子戸とカーテンを閉める方が正しい。


 儲かりたいと思って仕事をしているわけではないという言葉は利玖の中では本心であって、もちろん仕事である以上お金にならなければ続けてはいけないものの、成金になりたくてする職業では到底ない。

そもそもが、祖父母の老後の優雅な暇つぶしであって、年金も貯金も堅実にあっただろう彼らが大事にしたかったものはそんな安いものではなかった。

人とのつながり。

此処に確かに根付いている。


 店を開ければ来てくれるのはもちろん近所の子供たちと、祖父母の知り合いの方々が大半だが、利玖が今日わざわざお店を開けてまで待っているのは、明確な存在だった。


雨の匂いにつられる様に窓に寄り、空を見上げる。今朝の時点で雨の予報は出ていた。この雨は明日中続くらしい。


猫はいつの間にかいなくなっていた。引き留める理由はないから立派な体格を見送ったけれど、あの子は今どこで、雨宿りしているのだろう。

傘を持つのは人間だけか?


雨を避けられずにしゃがみこんだ背中を、利玖は思い出す。


朔也に出会った日も、こんな繊細な雨の夜だった。

今よりずっと蒸し暑く、薄い酸素が雨粒に溶けてしまったように、外にいても室内にいても息がつまった。


 背後からバタバタと歩幅の小さな足音がして、それだけで現実に引き戻される。


「利玖ちゃん」


 大きな声。おかしい、と利玖は思う。

引っ込み思案なくせに明るいなんて、別に不思議でもない。


「どうしたの?」


 振り返り、自分を呼んだ少女に優しく問いかける。

扉越しに身を乗り出した雅の、片手に握られた携帯電話が自分と同じ機能を持っていることが、ふと不思議に思える。


「朔ちゃん、そろそろ着くって」


 雅はおそらく、人が好きなのだろうと思う。自分を大事にしてくれる人をそっくりそのまま受け入れ、自分もまた好意を返す。

好意の返報性。


期待を寄せたのはどちらか。

いずれにせよ、この子は愛されることが向いている。


「なんで俺に連絡しないで、みやに送ってくるんだろうね」


 利玖は窓を数センチだけ空けたままにして、レジにしているデスクへと戻る。

そこにある背もたれの大きな椅子に社長椅子、と名付けたのは雅だ。


網戸のないドアは開けたままで放置すると、虫が入ってくる。きっと朔也は強く文句を言うだろう。


朔也の名言の一つ。

どんな大きさをしていても脚の数が四本を超えたらわかり合えない。

線引きはいつだって一方的で身勝手だけれど、慣れ合えば正義というのも綺麗事だろう。


「朔ちゃんだからだよ」


 雅が笑う。何が可笑しいのか、大きな目を大袈裟な瞬きで輝かせて。


「紅花さんもね、そんなに遅くならないって」


 羨ましいと、不意に思った。

人を待つことをこんなにも大っぴらに話せて、がっかりしたらちゃんと慰めてもらえる。


年下の特権か、雅の性質か。


 リビングから顔を覗かせた彰葉と目が合った。彼の大きな瞳にも、同じ感情が映る。


感受性が自分の感情を持て余し、それでも痛みも切なさも優しさも、確かに感じてしまう。コントロールなんて、できるわけもなく。







「雨、か」


 紅花は携帯の画面を覗き込みながらつぶやいた。さっき火をつけたタバコを挟んだ指先が、疲れから僅かに痙攣する。


一人で仕事を切り盛りしている以上、手が離せないことがままあり、そうすると水分を多くとれず、いい加減雑務を手伝ってくれる誰かが欲しい、と思い始めた。

同じ施設内で働く蓮や彰葉が度々手伝いに来てくれるこの環境が居心地よく、なにより自由がほしくて始めた仕事だけに、人を雇うという選択は全く現実的ではないのだけれど。


 何とか客を捌ききって奥の事務室のソファに腰を下ろした時には、ため息がこぼれた。

煙草の淵に口紅が色を残す。

お茶も満足に取れなかったというのに、それでもリップを塗りなおし白粉を直すことは手抜かりなくするのだから、これはもう職業病だろう。


雨が降ってきたと、気を遣って連絡をくれたのは雅だ。雨が降ってきましたよと短いメッセージだけれど、こちらをじっと見つめるみたいなメッセージだった。


彼女からは何度も、拾い猫に会いに来ないかと誘いを貰っていた。

夜ならば時間はいくらでもあると言いたいところだが、何せ相手は外泊すら勝手にできない高校生だ。

とんでもない相手と連絡を取ってしまったものだと思っても今更だろう。

第一、捨て猫に名前を付けてしまうあたり、紅花の価値観ではありえない。


 紅花の職場である占い館は地下にあるので、一度出勤してしまうと外の天気など情報でしか分からない。客の格好、髪の乱れ方、表情の機微。僅かな情報も見逃さないようにと眇めた瞳で、紅花は外の情景まで見て取る。


 今日もそうだった。五月の長期休暇はどの企業も休みになるらしく、客が途切れずに息つく暇もなかった。

大抵は若いカップルの相性診断ばかりで、それはもちろん同じ仕事の中では格段に楽な部類に入るが、紅花の心はあまり穏やかではなかった。

何が楽しくて他人の幸せを延々と聞かされるのだろうと嫌味に思いながら、それでも愛想よく煽て、気分良く帰ってもらう。カップルが上手くいくか上手くいかないかなど、このご時世本人の意思次第だろとしか思えない。

それでも、占いで救われる心なら言葉くらい粉飾する。

紅花はこの職業を自分の天職と認識している。


混雑する時期は基本予約客しかとらないようにしているが、延長されるとどうしても時間が押してしまう。

幸せなカップルには、延長料金など何の足かせにもならないのだから、恐ろしい。そのお金でカフェなりホテルなり行く方がよほど建設的なのにと思うのは、紅花が占う側だからだろうか。


 人が休む時こそ儲け時。

サービス業のからくりだけれど、そういう人間同士の付き合いは気も楽だった。

美容師、バーテンダー、駄菓子屋。それと、休みの不規則な大学生。

その中で、カレンダー通りの休みを浮かない顔で迎えた少女。


 短くなったタバコの火を消し、マグカップを取り出した。一年前の誕生日に、雅がくれたものだ。壊れるものは贈り物には向かないという利玖の言葉に反論していたことが印象深い。

曰はく、壊れ物だからこそいくつあってもいい。

 彼女は女性的な女の子だと思うが、妙なところが潔くて、そこも気持ちがいい。


紅茶を熱湯で出し、茶葉は数十秒で引き上げた。個包装のパックには三分から五分と書いてあったが、疲れた身体はカフェインを求めていない。


アールグレーの入ったマグカップを顔の近くで香らせ、その香り高さに心の底から安心する。

昔から、アールグレーが一番好きだ。イギリスの、敢えてハイブランドでないものを愛飲している。

ブレンドティーもオリジナルブランドもおいしいけれど、シンプルな茶葉は、入れ方さえ変えなければ味も変わらない。その安心感は、目まぐるしく変わる環境、心持ち、己の選択の中で、ただ一つの指針であってくれる。


 隣の占いの部屋でヒールが床を打つ足音がして、紅花ははっとして控室の扉を開ける。

開けてから、紅茶カップの淵にリップ跡を移し取れかけたルージュを直していないことに気付いた。


 控えめに佇んだ女性を見て、紅花は咄嗟にほほ笑む。女性に対して優しい女でありたいというフェミニスト気質の自覚はあった。


「いらっしゃいませ」


 その昔、朔也に、多情仏心という言葉で揶揄された己の性を、紅花は恥じてはいない。


「占い、ですか?」


 赤みの入った透明感のある紫のワンピースの裾を気にしながら、彼女はこわばった表情で固まっている。足元を見ると、クリーム色のパンプスの端が濡れて雨に跳ね返った砂が飛び散っていたのが見て取れた。


「予約とか、してないんですけど。今からお願い出来ますか?」


 遠慮がちに声を絞り出した彼女にほほ笑んで椅子に座るように促すと、彼女はほっとしたように目を伏せた。

紅花は扉にクローズの看板を掛けるのを忘れたことを後悔するような、感謝するような、どうしようもない気持ちになった。


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