プライベートスキル
はいていた金のハイヒールは足先が尖っていて、踵は十センチのピンヒール。当然、足が疲れる。飲むだろうと予感していたのに、体調がすぐれなかったのに、どうしてもこれを履きたかった。人の装飾品に目敏い彰葉にはカウンターに隠れて見えないとわかっていたから、これは完全に自分のためのお洒落だった。
横浜の中心地のタワーマンション。長いエレベーターから降りてドアを開けると、留守特有の静けさと暗さがぼんやりと広がっている。地上からはるか高い位置の角部屋だから、余計に冷えた匂いがする。悲しいだなんて今更思わないにしても、電気をつけた瞬間にぱきっと部屋を照らすLEDにはちょっと気圧されてしまう。
ハイヒールを投げ捨てる様に脱いで廊下を歩く。平然とした表情でここまで歩いてきたけれど、正直重心が下がったせいで爪先が押しつぶされて痛いし、ふくらはぎも攣った感覚がある。
やっとのことでリビングにたどり着き、バッグを置いて冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルをとって一気に半分近くを飲んだ。
一人暮らしには持て余すほどの広さ。
広さは、静けさに似ている。騒がしい空間に、奥行きや広がりは存在しない。
ソファに腰を下ろし、ストッキングを脱ぐ。着ていたワンピースの、脇のチャックを少し下げて仰向けに寝転んだ。
やはり眩しいなと高い天井を見上げ、眉を顰める。アルコールで視界がぐらつく。黒と白を基調にした部屋は明りを反射しやすい。
店で使っている間接照明を家用にも買おうか、と少しばかり真剣に考える。オレンジの火照るように灯る、明るすぎない光の包容力が、この部屋にも必要かもしれない。あれは人を無防備にさせる天才だ。
占い師という職を、蓮や朔也などの合理主義の人間は胡散臭いというが、あれは要するに、人のベールの奥にある本心を、丁寧に掬い上げて当人に気付かせているだけだ。
素直に生きるということは存外難しい。勿論他人と生きるためにある程度の思いやりは必要になるし、社会生活を送るための律する心掛けは当然にしても、占いにまで縋る人間というのは大抵、他人の期待だとか理想の自分に行動を狭められて戸惑っている。彷徨うように移ろう願望が強すぎて、はじめは些細だったはずの願いすら蝕まれてしまう。
おおよそ、欲の可能性が広がったせいだろう。知らなければ望みもしなかった理想を無意味に追いかけてしまうから、満足の仕方が分からなくなる。人間の幸せの条件なんて知らないけれど、そんなにピースは多くないと思う。
愛するように愛されていたいとか。
大事な人がほしいとか。
帰った家に温かい明かりがほしいとか。
相手にも幸せであってほしいとか。
その程度でいいと思う。
私にはちょっと、遠かったけれど。
紅花は起き上がってペットボトルを持ったまま寝室に移動し、鏡台で化粧を落とす。メイク落とし用シートで顔を拭っても、なかなか落とせていない気がするのはなぜだろう。
一度塗ったものを完全にふき取るというのは可能だろうか。濃いネイルやアイラインの滲んだ色はなかなか抜けきらない。うっすらと、汚らしく、残ってしまう。
唇にもシートを押し付け、拭う。唇の皮は三日で生まれ変わるらしい。ならば、口をついた言葉も、三日ほどで消えればいいのに。
引き出しに並べた見た目にもキレイな基礎化粧品を見て、少し気圧される。スキンケアが面倒だと常々思っているわけでもないのに、時々我に返る。そして、この行為は自分の幸福につながっているのだろうかと考える。
オールインワンジェルを取り出し、パール一粒大というアバウトな説明書きに従って掌に伸ばした。
女は見た目に頼る部分があまりに大きいから。
鏡を覗き込み、コンタクトレンズの淵を視線でなぞる。
ルージュ、マスカラ、アイライン。アイブロウ、ファンデーション、チーク。
これらを無くして自分に価値があるのかを、真剣に考えるときがある。
こんなに着飾らなければ生きていけない自分のプライドは、もう諦めた。
鏡台の引き出しの一番下に、ネイルを並べている。紅花は基本的に紅いネイルしか使わないので、種類はそう多くない。
使い慣れた、いくつか。
飽き性で浪費家のくせに、ネイルだけは使い勝手のいいものがいい。
明日はお店を開けるけれど、夕方過ぎには閉める予定だ。利玖に念押しをされるまでもなく、明日のことが気がかりなのは紅花だって同じことだった。
利玖は恐らく気づいてはいない。
雅がみんなで集まろうって言ってるから来て欲しい、と話を始める時点で、雅が彼を喜ばせる方法としてその手段を選んだことは、恐らく利玖の予想をオーバーラップしているのだろう。雅はこのメンバーで一番年下で一番かわいがられる立場にあるが、一番丁寧な心遣いができる人間だった。心根がやさしいという言葉は好かない。偉丈夫で強面の蓮を遠巻きにし、派手な身なりの紅花を蔑んでいる相手がよく使う言葉だ。
でも、雅は本当に、心の底が優しい人間だと思う。小石を落としても清水が水面を揺らすだけの池のように、彼女の心の底に巻き上げる澱がない。
朔也に今宵会えると予見にしていたにも関わらず、ネイルは持って行かなかった。朔也の好きそうな、濁りのない黒。勿論、彼が艶っぽいタイプが好きなのも熟知している。
あの男は本当にわかりやすい。下戸のくせに勢いで酒を飲み、早々に転寝してしまったら、起きてからも会話に入り損ねて狸寝入りを続けていた。
ネイルは明日、彼に渡す。
彼女の知らないところで、彼女のいないエピソードを彼女に感じさせるのは、あまり好まない。
ペットボトルからもう一口ミネラルウォーターを流し込んで、髪をとかす。ほとんど這いずるように、ベッドに倒れこんだ。白で統一したベッドは清潔な匂いがする。まだかすかに残った香水の香りはいつもと気分を変えてみたけれど、妙に不安な気持ちにさせられる。
酔いが回っていて寝返り打つことすら面倒だと思う身体が、それでも安心して眠りにつくこともできない。ぼんやりと、うんざりするほど考え続けている自我をまた疑って、それでも残るのは虚しさが堂々巡り。過去を変えることができないというのは、今の自分がそう簡単に変われはしないという裏付けに過ぎない。どんなに抗ってみたところで、今の自分は、あの日々に造られた。語るには足らない暗鬱な日々の中で。
家の扉を開けて、真っ暗な玄関で電気のスイッチを手探りでつける。鍵をかばんの定位置にしている内ポケットの奥にしまい、ブーツを脱ぐ。エナメルの黒のブーツは脚首の部分がかなり細身に作られているせいでチャックを下ろさないと脱げず、普段はその面倒すら値打ちの一つだと思ってるけれど、今は妙にまどろっこしかった。
コートを脱ぐよりも先に湯船にお湯をためる。お湯が湯船の底を打つ音が次第に弱まり、代わりにお湯同士がまじりあう音に変わったころ、やっと一息ついてワンルームでかばんを下ろしてジャケットを脱いだ。
蓮の寸隙をつくように、朔也は一人で自分の一人暮らししてる家に帰った。
着替えもそこそこに窓を全開にして空気を入れ替える。人工的な香りがまじりあうことを嫌い、朔也は愛用している香水以外の香り物は一切使っていない。石鹸もシャンプーも柔軟剤も、無香料だ。それでも部屋にどこか独特の匂いを感じ、それが恐ろしほどに苦手だった。
窓を開けると、五月の爽やかな風が、のびやかに部屋に滑り込む。大きく吸い込むと、身体のどこにも引っかかることのない柔らかく、温かな匂いがした。
冬の寒さと夏の暑さの間にこんなにもさわやかな季節があったことを、朔也は痛みに重ねて思い出す。
高校三年の時、本当に死んでいいと思いながら生きていた。あの一年は、今の朔也にとってどうしようもない過去だった。二年前の、手の施しのようない痛みに、今更何もいらない。
ただ、思い出す。
五月、こいのぼりが風に揺れていた時期、あの時期辺りからはっきりと感じた劣等感が、今も自分を支配する。今日の様に会話から脱落した夜などは特に、記憶が足音を立てる。匂いによって過去に戻される。この匂いは、劣等感の引き金。
本当は幼い日々にもたくさんの絶望に晒され、それと同じくらい自分という人間の欠落と向き合ってきたはずだが、それらを忘れることのできる余裕がどこかにあった。自分には指標になるアドバンテージがたくさんあった。
しかし、あの一年間は、そんなものは何の役にも立たなかった。努力の仕方が分からなくなり、まっすぐ立ち続けることが難しくなって、逃げ道なるものを捜すしかなかったのに、前後左右、どちらが逃げ道かもわからなかった。
小さな、ほとんど身動きが取れない程のバルコニーに出る。大学生の一人暮らしにしてはそれなりのアパートらしいが、実家に比べるとやはり不便が多い。実家の自室には十分洗濯物を干せるほどのベランダがあった。
その昔、一度だけ、自室でサボテンを育てたことがある。実家近くのスーパーの店頭で安売りされていたにも関わらず全く売れていなかったのを見て、何故か買ってしまった。
中学校一年生の時だった。
同情心ともいえるし、共感性でもあった。
手のひらに乗るほどの植木鉢。
サボテンのくせに、無防備に見えた。
水はあまりやらなくていいと書いてあったので素直に従ったら、数か月と持たなかった。
買ったときはあれだけ青々しかったサボテンが、茶色く変色したのをみて、なるほどサボテンも枯れるのかと思った。
昔から、自分以外の命ある者との距離感が取れないでいる。自分で枯らしたくせに、裏切られた気持ちになったことには、今になっても忘れられない。
つっかけたサンダルが冷たい。手をかけた金属の手すりも恐ろしく冷たかった。
帰ると告げたときの、蓮の曖昧に困惑した表情を朔也は思い出す。想定外だったのだろう。横に大きく切れ長の目がそうとは悟られない見開き方をして、人相のよくない表情に僅かな隙間ができた。自分よりも十センチ以上上背があってそれだけじゃなくもう身体付きからして敵わないほど威圧的で、顔立ち以上に目つきの鋭さが高圧的で、そのくせ思慮深い奴だから美容師なんて仕事をしていてもそれなりに上手くいっているらしい。
風に揺れた髪を指先で弄ぶ。
染めた後にしてもらった値の張るトリートメントの効果はやはり値段相応によく、指通りと言わず指に触れる感触が昨日とは別物だった。髪自体は何一つ変わってなどいないのに、ただ厚塗りしたトリートメントの保湿効果がこんなにも違う感覚を与えてくる。面白いけれど、なじまない感覚。
部屋に戻り、窓を開けたままレースカーテンだけを引き、朔也は着ていた白いVネックと細身のパンツを脱いだ。お湯を止め、脱衣所で着ていた肌着類を脱衣籠に投げ入れる。
クレンジングで化粧を落とし、そのまま髪を洗う。熱めに設定していた温度が、頭皮に強く染みる。顔にも身体にもよくない温度。匂いのきついトリートメントの効果がいいことと、この匂いが自分に纏わりつくことは全く別問題だと、朔也は真剣にシャンプーを泡立てる。こういうのを強迫観念というのだろう。
身体まで洗い終え、やっと湯船に入る。冬場の風呂場が冷え込む時期でも、このルーティーンは崩さない。崩せない。
利玖や蓮から、よく潔癖症だといわれる。蓮は割と、露骨に、嫌みに。
自覚はしている。
潔癖症になったのは、きっと、自分を嫌う感情が芽生えたときだった。中学受験を通して、自分の立ち位置を知った。元々、幼いながらに自分が周りに溶け込めない現状は痛いほどわかっていた。仲間意識や身内意識が低く、必要以上に人となれ合うことが苦手だった幼少期、仲間ノリが一番大事な時期に周りに合わせる努力を怠った。そのせいか、人の流れに乗り遅れた。それでも、顔の良さ、頭の出来、それなりの運動神経が幸いしてか、自分が陰でこき下ろされることがあっても生活に支障のある痛みを覚えることはなかった。
だから、それでいいと思った。
そこから、多分何も変わっていない。自分は相変わらず他人が嫌いで、他人もまた、朔也のような人間を好まない。ただ、それだけのこと。
風呂上り、携帯電話に蓮からの電話が履歴を埋め尽くすように来ていた。別れ際、家に着いたら電話を寄越すようにと言われていたことを今更思い出す。
このまま蓮の家について行ったら風呂には間違いなく入れてもらえないと、夜風に毛先を吹かれながら察した。蓮がそうするために、わざわざ毛嫌いしている朔也の世話を買って出たのだ。
しかし、帰るといった朔也を、蓮は止めなかった。ただ、家に着いたら一報入れるように、と言ってきた。
「お前は俺の恋人かよ」
まだ少しアルコールが気持ちよく残っていた勢いで、嫌味を返した。
蓮は途端嫌な顔をして、
「お前は女に心配されるような奴じゃないし、俺は女を心配するような男じゃない」
この手の冗談を彼が好かないことくらい、知っている。それにしても、蓮の口調は酷く冷たいものだった。
恋だの愛だのを、彼は忌み嫌っている。
わからないだろうなと思う。蓮の様に、確実に掴める感情以外には流されたり惑わされたりしない男は、五感以外で何かを得ようとする感覚など、わかりはしないのだ。
「俺はお前がどこかで死んでても気にしないけど、利玖に合わせる顔が無くなる」
そう真顔で重ねた言葉に含まれた蓮の感情が本物であればあるほど、朔也からすれば都合がいい。
とはいえ、あのやり取りで電話の約束を取り付けたつもりだというなら、存外身勝手な野郎だ。
ワンコールで聞こえた、厭味ったらしい遅いの言葉に、朔也は少し笑った。濡れた髪から滴る水滴をタオルにしみ込ませながら、
「蓮、今どこにいる?」
当然の様に、家にいると返ってくる。
「外出て見ろよ」
「何かあるのか?」
「月がな」
電話口の向こうで、窓が開けられる音がした。
「月なんて、見えないけど」
不機嫌な声。
「今日、新月だから」
「は?」
「朔日に相応しい、朔日」
微かな吐息が漏れる。電話を通すだけで、ため息すら遠くに感じる。
「それで?新月眺めていろって言うのか?」
「新月を見る能力が、お前にあるならば、な」
「バカらしい」
彼はそう言って、家に戻ったらしい。ドアが閉まる音がして、そのあとに鍵をかける音。少し乱暴な手つきが、考えるまでもなく脳裏に浮かんできた。それでも、カーテンを引く音はしない。
「人を散々待たせて、もう少しマシな話しろよ」
「マシな話って、なんだよ?」
「それをお前が考えろ。頭いいんだろ」
横暴な言葉に呆れながら、タオル越しに髪を梳く。毛先の量を減らしてもらったせいか、いつもとわずかに感触が違っている。
「春休みに、仏教にはまったんだ」
「この前キリスト教の本、読み漁ってなかったか?」
「次はイスラム教かもな」
呆れたように、鼻で笑われる。
「神様なんて信じてないやつが、よく言うよ」
「だからだよ」
僅かに間ができる。
蓮が見た目よりも深い感受性で、朔也の身勝手を処理している。そんな、暇。
「そういや、ちょっと前に、利玖が神様信じるかとか妙なこと聞いてきたな。あれ、お前のせいか?」
「いや。あれは、雅の持ってきた厄介ごと」
蓮が微かに息をついた。呆れとも、感嘆ともとれる、静けさがあった。
「お前たちは飽きないね、毎回そういう話で」
言われてしまうと、確かに駄菓子屋で繰り広げられる話の八割はその類の、どうしようもないことだろう。
「姐さんたちも。しょっちゅう客の話聞き齧っては、邪推と理論の発展で泥仕合」
今日もそうだったなと、朔也は内心で同意する。半分ぐらいは寝ていたけれど、半分は聞いていた。
単純接触効果とか、愛と憎しみだとか、二律背反だとか、本当に答えのないものばかりを話題の俎上に載せ、アルコール任せに自白を繰り返す。
「なあ蓮」
なんだよと、少し乱暴な口調で返ってきた。
「前髪、切りすぎてない?なんか、目線上げても、見えないんだけど」
乾いてきた前髪を引っ張るも、眉のあたりまでしか長さがない気がして不安になって聞くと、笑い声が漏れ聞こえた。
「そりゃ、自分で乾かすと一層短くなるからな」
「死ね」
勝ち誇った笑いを消すように、電話を、切る。慌てて洗面台で確認すると、想像より数ミリ短い前髪がふわふわと眉の上で舞っていた。