単純接触効果
「抱いたら愛着が湧くのは、むしろ本能じゃないかしら?」
単純接触効果と似た感覚でしょう。
ワイングラスを左手に、右手は頬杖をついて小さな顔を支えたまま、紅花は断言した。小さなバーのカウンターで、紅花の言葉は戯言にも真理にも聞こえるから手に負えない。
「それは何、女の本能?」
彰葉は、母性という言葉は敢えて伏せた。あまりにナンセンスじゃないかと思ったからだ。しかし、紅花はカウンター越しに彰葉と目を合わせ、冷たく笑った。冷たく感じたのは、彼女の大きな目を囲うアイラインがあまりに滑らかだったせいかもしれない。普段同じくらいにある目線が見上げるようにこちらを見据えると、長いまつ毛の存在感がより一層際立った。
「私、男になったことないから、知らないわよ」
どうなの、なんて話を振られた利玖は、苦笑いをした。その隣には、一杯の梅酒も飲み干せずに潰れた朔也が顔を伏せている。
「男にだって、その程度の甲斐性はあるはずだけど」
利玖が傾けるグラスは朔也から押し付けられたものだ。ぬるいだろうグラスの淵は、そのくせ妙に光り輝く。さっきよく磨いた甲斐があったと、彰葉はぼんやりと考えた。
金曜日の夜のバーには、人の入りが多くなる。主にカップルが多いのは、観察するだけ下世話というものだろう。利玖の腕に巻かれた大きめの時計を眺める。長針がもう半周もすれば、店を閉める時間になる。横浜の中心地、観光地の一角。モールの屋上のバーはぎりぎり健全でなくてはならない。
「一度のふれあいで愛情抱けるくらいなら、それは初めから好意的ってことでいいんじゃない?」
店じまいの算段を考えながら、彰葉は思ったことを口にした。例えばそう、こういうことを言うと哀れみを向けてくる女は、多分男の自分より幸福だという自信がないのだ。
「感情と肉体の倒錯なんて、今時なんの指標にもならないわ」
鼻で笑われると気に障ってしまうのが自分の悪いところだと、自覚がないわけじゃない。それでも、思ったことをあまり考えずに口にしてしまうから、自分はいい人になれないのだ。
「よく言うよ、大事なものほど手籠めにできないのは、紅花ちゃんの悪い癖だよ」
「知ったように言わないで頂戴。あなたが知らない世界が、この世にはたくさんあるのよ」
「それこそ知ったような口じゃない?」
へぇと、紅花が目を細める。
意地の悪い、薄ら笑い。
軽佻浮薄。
でも、すっごく綺麗。
「それは保護者係として聞き捨てならないわね。私はあなたに、可愛くない遊びを許可した覚えはないわ」
ねぇマスター、と、カウンターの端でグラスを磨いていたマスターに、彼女はグラスを持たない方の手を振る。微かに、香水が香った。ラストノートが甘い蠱惑的な物を、いつから使うようになったのだろう。
彰葉は鼻が利く。紅花が常に愛用していたのは、リゾート地の花の様な、聡明さと官能さが調和した香りのものだった。
「誰の許可もいらないよ。相手の同意さえあればね」
ねぇマスターと、応酬のようにマスターを見ると、彼は何も言わずに鷹揚とした表情を浮かべた。
「二人とも、その辺にして」
利玖が呆れたように口を挟んだ。彼はあまり香水をつけない。つけても、固定ではなく、数種類をさりげなく身に着けている。
「なぁに?疚しいことでも?」
標的を代えた紅花は顔色一つ変わっていないものの、それなりに酔っているらしい。そうでなければただの悪絡みだ。酒豪だけれど、彼らよりも二時間ほど前からここにいるのだから、飲んでいる量が比にならない。
「疚しいことも後ろめたいこともないわけじゃないけど、マスターの迷惑になりたくないし、とりあえず蓮くんの怒りがそろそろ手に負えない」
利玖は隣で寝入っている朔也の髪を遊びながら、その奥隣の蓮が帰りたそうに顔を歪めているのを知らせてきた。
「雪宮。あんたには、縁がなさそうね」
紅花は憐れむように言う。とってつけたような憐憫だった。
「生憎、あんたらと違って、そういう所は割り切って生きていけるんで」
そう言って、蓮は大して好きでもないお酒を、大しておいしくなさそうに呑む。疲労で隈のある横顔はついさっきまで仕事をしていたことを雄弁に語る。
「まぁ、そうだよね。愛憎に振り回されている時点で、それだけ自分はつまらない人間だって言ってるようなもんだ」
彰葉は客が少なくなったことを言い訳にし、自分のグラスに、シャンパンとジンジャーエールを半分ずつ注いだ。本当はシャンパンだけをいきたいところだが、如何せん彰葉は酒に弱い。この後バーを片し明日の仕込みをすることまで考えると、とても今から呑気に呑む気にはならなかった。
「三人とも、シビアだよね」
朔也からのオーダーで出したカプレーゼの、見事にモッツアレラだけ抜き取られたトマトをつまみながら、利玖はぼんやりと呟いた。
朔也は基本野菜全般が嫌いで、何ならチーズもクリーム系以外は一切ダメだ。一度ブルーチーズをつまんだ後、黙ってお手洗いの方へと消えてしまった。
「愛と憎しみは確かに二律背反だけど、等価値ではないでしょ。片方だけで成り立たないにしても、内側に隠すことだって出来るんだし」
利玖の手はなおも朔也の髪の毛先をいじる。朔也が起きたらすぐさま手をはたかれそうなほど、優しい手つきだった。
紅花がグラスを置き、利玖を見据えた。
「憎しみのない愛はいざ知らず、愛のない憎しみなんてうんざりするほどこの世にあるわ。そのひとつひとつに愛を見つけ出そうって言うなら、見上げた精神論よ」
憎しみを抱くことでしか自分の正義を見出せない。それは彼女の業だろうか。
相手ありきの絶望に、どんな理由があれば許されるのだろう。そもそも、この人は誰の赦しなら受け入れるだろう。
彰葉は不穏な気持ちになり、蓮を見る。うまく会話を逸らしてほしいと思ったのに、彼は目で制してきた。傍にいるのに何処か蚊帳の外に一人脚をはみ出す蓮は、そのくせちゃんと話は聞いている。
利玖は愛情の目線で語るし、紅花は憎悪を根底において話す。会話がかみ合うわけがないのだ。
「でも、疎ましかったものをいつしか受け入れて、時にそれ以上に内側に入れ込んじゃうことだってあるでしょ」
的確に彼女の喉を突く利玖は、おそらくその自覚がない程度には酔いが回っているらしい。
彼は無垢な瞳で、紅花を見返した。潔癖な人というのは、無意識に他人の心まで洗い晒してしまうことがある。
「さっきも言ったでしょう。それは単なる、単純接触効果よ」
紅花が少し歯切れ悪くなったと思うのは、彰葉の思い過ごしだろう。
紅花にとっての雅の存在はあまりに重たい。三十近い年齢と、とてもそうとは思えない美しさを備えた紅花が何故こうまでして雅に執着しているのか、彰葉は未だに知らない。彰葉に限らず、ここにいる彼らも知らないだろう。ただ、わからなくもなかった。
それこそ、彼女の愛を俺たちには語れはしないだけで。
「でも、どんな感情にだって、支配する何かが少なからずあると思う」
「少なくとも、今二人を支配しているのは、間違いなくアルコールだよ」
彰葉は思わず口をはさみ、甘ったるさと炭酸が倍増したドリンクを少し口に含む。弾けては消えていく、炭酸の粒。
時計を見て、彰葉は一気に残りを呷った。
「先輩。どの酔っぱらいを持って帰りたい?」
蓮を見て、ルーレットのように三人を一人一人指さす。蓮はその行儀の悪さを目で咎めながら、
「利玖、帰れるか?」
グラスに残っていたワインを一気に流し込んだ。
「俺は帰れるよ。ただ、この朔也を連れて帰るのは骨が折れそうだから、引き取ってくれると嬉しい」
利玖は諦めた顔で朔也を見下ろす。微動だにしない彼の、呼吸すら感じない滑らかで小さな背中。背中に沿った薄手のニットに、身体のラインがくっきりとうつる。
「こいつ、染料つけてる時からほぼ意識飛ばしてたからな」
朔也と蓮はここに来る前、蓮の美容院で髪を染めていた。間接照明にすら、彼らの金だの銀だのどぎつい髪色は自己主張をする。そんな派手な色にするからメンテナンスに苦労するのだと思うけれど、彼らが気に入ってそうしているおかげで結果的に、こうして集まる機会ができていると思うので、敢えて何も言わない。
「姐さんは?」
「帰れるわよ」
柳眉をひそめる。
やはり、今日の彼女は機嫌が悪い。
「とりあえず、明日の夜、家に集合だよ。いいね?」
利玖が通る声で、全員の顔を一人ずつ見ながら、念押しする。
「俺は休みだから、絶対に」
そう約束した彰葉を見る利玖の瞳には、疑いの色がない。
ほかの三人はともかく、彰葉は雅に並んで集まりへの出席率が高いし、約束への忠誠心もあるつもりだった。
「わかったわ」
「善処する」
紅花と蓮が続けて頷く。
顔を伏せたままの朔也は無反応だったけれど、それについて利玖は何も言わなかった。
帰り際、一番最後まで席に残った蓮はグラスをテーブルの奥に下げ、彰葉を見た。
無防備に晒された首筋に、男らしさを見る。
「彰葉、お前も、なんだかんだ結構飲んでるぞ」
「ご馳走様。お会計、先輩に付けとくね」
彰葉は人受けする笑顔で言った。
うっかり本心での笑顔なんて向けてしまったら、たまらない。
髪色に個性を見出す人間はナンセンスだと思うけれど、似合う髪型や髪色を的確に自分に慣らす意識の高さには感心させられる。
「狸寝入りとか、趣味悪いよな、お前って」
「それを送り狼ってのも、大概じゃねーの?」
嫌味に間髪入れずに応酬が返ってくる。ここで可愛げがないなどと言ったら、その五倍は皮肉を言われるのだろう。
「お前も、処世術を身に着けたな」
蓮は振り向き、先ほどまで本当に眠っていた朔也の、少し虚ろな横顔を見る。美容院でもバーでも、彼は眠たげにうつらうつらしていた。開けば鋭利な目も口も、そうしていれば作り物の様に美しい。姐さんから習ったアイラインの引き方も、自分で探し当てたカラーコンタクトの淡い色合いも、事実作り物であった。
あくびを一つ、少しずつ暖かくなった初夏の夜風に消えていく。
薄々感じてはいたが、帰り際の朔也は既にアルコールが抜けていて、その気になれば自力で帰ることなど問題ではなかった。むしろそれを見抜けなかった彼らの方がよっぽど酔いが回っていたのだろう。
朔也はつぶれるのも早いが、回復も早い。そもそもが下戸のようなものだ、大した量飲めないのだから、ぬけるのだってすぐに決まっている。
蓮の手を借りることもなく、いつもより少しだけ締まりのない顔で彼はゆったりと歩く。アルコールはないものの、睡魔は確実に朔也の意識を曖昧なものにしているようだ。
「面倒だったか?」
駅までは広い歩道を道なりに進むだけなので、こうしてゆったりと歩くに向いている。
「面倒だろ。蓮だって、関わりたくなさそうにしていた」
まるで見ていたような口調じゃないか。
「オレが間違えた気がする」
朔也は歩道橋の下で足を止め、上を見上げた。入り組んだ道路と歩道と、大型ショッピングモール。最上階は近くに並んだ高層ビルに比べれば、そこまで高くはない。
「雅が猫に情を向けることなんて、わかっていたのに。なんで、あのとき、離したくないって言葉を受け入れたか」
悔恨の言葉など、その整った横顔には似合わない。朔也の顔を見ればそれぞれ思うことはあるにしろ、大抵の人が整った、端正なと称するだろう。事実、遠目に見れば美しく、近くで見れば怜悧な顔立ちだ。母親譲りだと言っていたけれど、中性的な横顔を見れば、女性と見間違う程に美しい。
「目つきの悪さも、軽薄に見られがちな口元も、母親そっくり」
そう吐き捨てたとき、彼はまだ未成年だった。今と違ってもう少しぎらつきを持っていて、そのくせ妙に潔癖で、既に完成していた横顔には、それでもここまで厚い化粧は施されていなかった。瞳の色を変え肌の色をなくし、より人間味を失った横顔に、人間らしい後悔など安易に浮かべるものではない。
髪を、ハーフアップにまとめてやった。トリートメントのお陰サラサラになった髪を鬱陶し気にしていたので、耳より上の髪をアップにしたのだ。
すっきりした耳元に、小さなオニキスのピアス。左側にだけつけている。とんだ悪趣味。
「雅が大事にしたものは利玖も守るさ。わかってたのに」
唇に歯を当てる仕草が彼なりの悔いだというなら、不器用すぎる。いつの間に塗り直したのか、薄っすら色のついた唇は街灯で艶やかに見えた。
「飼えるわけでもない猫をなんとなく居座らせて、それって残酷だよな。お互いに」
蓮は彼を無視して歩き出す。この時間で終電を逃すのは惜しいと思った。蓮には裕福な実家からの仕送りで暮らす朔也と違って、金銭的余裕などない。
「お前って、動物園とか苦手にしてたか?」
大人しく後ろをついてくる朔也に尋ねる。
「好んでは行かない」
曖昧な口調だ。
「雅に行きたいって言われたら?」
「行くだろうな」
そこは、はっきりと。朔也が一番優しくする相手は、おそらく雅だろう。
「でも、あいつは、そう言ってはこないだろうな」
そうかもしれない。雅は人の感情に敏感なところがある。敏感というよりも、過敏だ。神経を尖らせ、気の毒なほど怯えている。自分が十七そこそこの時にそこまで周りに気を配っていたかと考えると、彼女は聡明さとはまた違った気配りのできる子供だと感じる。
「もし雅がそういう所に行きたがったら、佐野の姐さんに情報売るわ」
冗談には聞こえない口調でそういうと、朔也は近くの自販機で足を止め、迷うことなく紅茶花伝を買った。
「雅が猫に名前付けるのだけは、阻止しろよ」
オレは隣に並んだ朔也に忠告する。
「もうついてるって言ったら?」
温かな紅茶を一口飲んで、すこし温かな声で朔也はひっそりという。
「手遅れじゃねーか」
言いながら、思わず笑ってしまった。声が出る様な笑いではないけれど、滲みだす様などうしようもなさだった。
「こっちは、気が気じゃねーんだよ」
朔也が眉をひそめる。途端、不幸にも不機嫌にも、彼は見えた。
「一週間居座ったなら、きっとこの先も居座るさ」
蓮の楽観的なのか消極的なのか自分でも測りかねる発言に、朔也はゆったりとした瞬きをした。
「有為転変。諸行無常。会者定離」
生きにくい奴だ。
大通りを抜けると駅が見えた。駅前はそれでも人が多い。花金なんて言葉がある様に、金曜の夜は羽目を外すのに都合がいいらしい。客商売にとっては土日が稼ぎ時なので、明日も昼過ぎからきっちりシフトが入っている。好きで始めた仕事だ、不満はないけれど、時々堪らなく憂いてみたくなる。不幸な気になれば、自分はどれだけだって不幸者になれるのだ。もちろんそれは、自分に限った話ではなく。
「変わんないことなんてないけど、そう言っている自分だって変わるんだから、どうしようもないよな」
朔也は定期券を左手に、窮屈そうに改札を抜ける。
朔也らしくない感傷だ。そう思う一方で、朔也が変化に弱いことは今に始まったことではなかった。つい最近まで、彼は大学が新学年になったストレスで睡眠障害を起こしていた。深夜に眠れないからと人の家の本棚から動かなかったときは、電気が消せずに蓮が寝不足になった。
華奢な背中にどれほどの不安をため込めば、彼は自分の不幸を自覚するだろうか。心配することで解決するのなら心などいくらでも預けようと思うけれど、心配だなんて言おうものならば、想像もできないほどの罵詈雑言が飛んでくるのだろう。
「帰る」
朔也はそう言うと、蓮の家とは反対方向のプラットホームへと消えていった。二言三言言葉を交わしてからは諦めて、蓮はその背中を見送った。
今さっき髪を染めて、シャンプーもトリートメントもしてやったのに、一人家に帰したら朔也がどうするかくらいわかっている。
ニットの上にひっかけた黒いジャケットに包まれた華奢で小柄な背中はすぐに人波に流され、蓮の目の届かない所に消えていった。
蓮には朔也は荷が重いのが正直なところだった。
繊細で、お育ちのいい、自分と対照的なところにいる彼の、本能と理性の危ういバランスはみているだけで疲れる。
でも、気になるのはなるのだから、厄介だ。
同じ思いを、利玖や雅もしているのかと思うと、お坊ちゃんってのはまったくもって理解のできない存在だ、と思うことで、蓮は自分自身を納得させる。