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捜索と邂逅

「毎度言ってるけど、オレはボランティアで自己満足を得られるタイプの人間じゃねーから、こういう事があるごとに呼びつけるのはやめて欲しい」


 家を出る前、利玖に渡された猫缶をポケットの中でもてあそびながら、朔也は前を行く雅に愚痴を言った。もう何度目か、彼にもわからないほどに繰り返し同じ言葉を口にしている。

利玖と知り合ってからかれこれ二年、彼の善意には散々振り回されてきた。


「しょうがないよ。利玖ちゃんは趣味が人助けみたいなお節介人間だもん」


 前を歩く雅の足取りは朔也のそれとは対照的に、軽やかだった。一つにまとめたポニーテールの毛先が左右に振れる。太陽の光を吸収して内側から輝く様な漆黒の髪だ。化粧などせずとも艶やかで滑らかな肌に、小さなえくぼができる。


 そういうお前さんも大概お人よしだ、とは言わない。客観的に見て、雅の善意はどこまでも無垢だ。指摘するのが苦しいほどに。


「それにしても、猫探しって…」


 朔也は長い前髪を耳に掛ける。意味はなく前髪を伸ばしていたけれど、そろそろ切ろう、と思う。切りに行く面倒くささを、セットする面倒くささが凌駕した。

つい数週間前に前髪を切るのを拒んだ前科があるので、きっと、それ見たことかという顔をされるのは癪だが。

全体的に伸びてきて、生え際に誤魔化しきれない黒髪が現れ始めた。このアッシュグレーの髪色はとても気に入っているけれど、染める手間が難点だった。染めすぎて痛んだ毛先が、柔らかな春風にすら乱され、揺れている。







 カーテンの隙間から漏れる光がやたらと明るい朝は、なんだか得をした気持ちになる。アイスクリームの蓋をはがすような気持ちでカーテンを左右に引くと、まばゆい光が、広さが取り柄の自室に真っ直ぐに降りかかる。


いい天気だと一人嬉しさに微笑み、そうするだけで自分が幸せな人間だと思える。朔也に言えば安上がりな男だと一蹴されたけれど、彼の雨好きの習性もまた、自分のそれと似通っている。彼はからりと晴れ渡った空よりも静かに地面を打つ雨音に心を許している。傍から見れば笑みとはわからない程度に、端正な横顔が優しくなる。気張ってばかりの男がほっとしたように低い空を見上げる横顔。


春先の雨続きの日々、空を見上げては、朔也は安堵したようにため息をこぼしていた。

学年が上がり、朔也は大学の煩雑に心身を細らせていたことは傍から見ていても明白で、利玖は時の流れに小さな感謝をする。

時間が解決することの多さを、最近知ったような気がする。


対照的に雨を学校に行かない口実にしていたように見えた雅は、利玖の心配に反し、四月の下旬ごろから登校を始めたようだ。

うれしいことがあればうれしいとすぐ口にする彼女が、学校のことを口にしないということはそういう事だろうと察しはするものの、口出しはしなかった。

この手の相談事は自分ではなく、朔也にされていると気付いている。


 食パンにケチャップを伸ばし、玉ねぎを薄切りにしたものとソーセージとチーズをのせ、トースターに入れる。ケトルにマグカップ一杯分のお湯を注いでスイッチを押した。

次に、洗面台で髪を整える。手のひらにのばしたワックスを髪全体に揉み込ませながら、根元が少し黒くなってきたのを確認し、やはり金髪は手入れが大変だと思った。

それでも髪色を戻そうと思わないのは、自分にきちんと手を入れていることを確認したいからだった。

それに、蓮に会う口実にもなる。


 トースターを覗き込んで焦げていないかを確認する。チーズの表面がふつふつしているのを眺めると、規則正しい生活をしている胃がぐるりと音を立てた。

スイッチを切って皿にうつす。少しのミルクを足したインスタントコーヒーが、寝起きの身体に染み渡る。

マグカップを持ったまま、キッチンを抜けてリビングで窓の外を見上げる。

飛行機雲が西の方に伸びていて、その機体はどこに行ったのだろうかなどと意味のないことを考えた。行きつく先は遠い異国の街並みでもいいし、海沿いのリゾート地でもいい。有名観光地でもいいし、田舎の住宅地でもいい。


 それでも、どれだけの海を越えても、どれほどの国をまたごうが、飛行機が行きつくのは必ず空港なのだろう。


二年前から入退院を繰り返している祖母に託された小さな駄菓子屋は、利玖にとって何よりも居心地のいい場所だった。自分がここにいることを他人が認め、そして自分がそれに満足してる。疑いさえしなければ壊れないものは、確かなものと呼んでいいはずだ。


 いつも通り、朝九時にお店を開ける。

開けるといっても、自宅に併設されたお店に移動し、古びた硝子戸の鍵を開けて遮光もされていない薄緑のカーテンを開けるだけだ。

それでも、そうするだけで人が来てくれる。自分が人好きする性格だと自覚している。そして、同じかまたはそれ以上の好意を向けられる性格もまた、自負している。

好意の返報性。

愛想よくすることは嫌いじゃない。それを八方美人という言葉で一蹴されても気にならない。


「おはよう、利玖さん」


 レジ用のデスクに肘をつきながら小説を読んでいると、開けたままだった扉から三原さんが顔を出してくれた。


「おはようございます」


 雅が好きだという児童書寄りの小説にしおりを挟む。小学生の息子を持つ三原さんがこの小説に気付いて話を盛り上げられたらなんだかいたたまれない気がし、咄嗟に引き出しにしまった。


「悠太のお菓子ですか?」


 彼女は息子の名前が出ると必ず笑う。その横顔は、息子がそっくりそのまま受け継いでいる。


「えぇ。今日、テストなんですって。昨晩、かなり張り切って勉強してたんだけど、どうも理解してないみたいだったから、点数に期待はできないのよ」


 子供の好みそうな、水を加えて作るタイプのお菓子は大しておいしいわけでもないのにやたら値が張る。

うちに来る度に子供たちはそれをモノ欲しそうに見ているが、大人が見ればいかにも添加物ばかりで子供に与えたいものでないだろうことは、どちらかと言えば保護者側に近づいた利玖はわかっていた。


 迷うことなくそれを手に取り、ついでのように近くにあった飴やガムもいくつか小さなカゴに入れる。子供たちが数枚の小銭をどう使うか真剣に悩む姿も、こうやって子供のためにさっと物を決めていく大人の姿も、どちらも貴い。


「だからね、誉めてあげたいの」


 三原さんは照れるように、気恥ずかしそうに笑った。その微笑みに利玖は、優しさを見る。親の気持ちというのは強いと、こんなにも美しいだと、大人にならなければ気付けないらしい。

そしてそれを強く感じるのは、他人という立場に居るからだ。


「悠太、喜びますよ」


 利玖はなんだか充てられたような気分になり、無心を意識して会計用のそろばんを弾く。

人の好意を見ると、利玖はいつも言葉よりも先に感情が動かされる。頭では追いつかないほどに胸を押し上げる激情に自分でも呆れるほどだ。


「小三で自分は勉強は得意じゃないかもしれないなんて、思わないで欲しい」


 小奇麗なブランド財布から僅か数百円が取り出される。何度見ても不思議な気持ちになる。お金の価値は物理的に言えば誰にとっても同じであるはずなのに、どう見たって貴重さが違う。


「今日、朔也さんと雅ちゃんは?」


 三原さんはすっと気を逸らすように話題を変えた。


「二人とも、学校に行っているはずです」


 雅は学校に行っているだろうけれど、朔也はどうだろうか。一瞬考えたが、三原さんもまた、確かな情報が欲しいわけではなかろう。


「そう。この前、朔也さんに宿題を手伝ってもらったって嬉しそうに言っていたの。お礼を、言伝できますか?」


「はい。でも、あいつも大分楽しそうでしたから、お気になさらず」


 お釣りを返しながら言う。三原さんは買ったお菓子を小さなハンドバッグに入れ、頭を下げて帰って行った。


 背中を見送りながら、悠太の先週の発言が頭から離れない。

算数がわかんない。

投げやりよりも深刻そうにそう呟いた悠太に、真っ先に言葉をかけたのは意外にも朔也だった。


「大丈夫、別に人生で分数はそう使わねーよ」


 名の通る大学に通っている朔也はここの常連さんからは完全に一目置かれている。

大人の態度は子供に直に伝わるものだ。朔也の優秀さなど知り得ない子供たちが、朔也の言葉を妙に真剣に聞くのだ。

朔也の言葉はまやかしでなく説得力があるらしい。少なくとも、その場凌ぎの優しい言葉よりも悠太を元気づけるのに最善だったようで、彼は生えかけの永久歯を見せて笑っていた。


 引き出しから小説を取り出す。

あのとき朔也が真っ先に思い浮かべたのは雅だろうと、利玖は勝手に思っている。ふつうの人よりも勉学に長けているというのに、朔也は勉学で人をふるいにかけることを愚かだと言う。


 猫と会話ができるというファンタジーな小説はテンポよく進んでいく。学校で友達ができないと泣く少女に猫が、自分が友達だから大丈夫だというシーンで思わず涙腺が緩んだ。


 その後も十分おきくらいに常連さんが顔を出してくれ、その度にたくさんの世間話が弾む。

お菓子は意外にも年齢を問はない商品で、子供たちが幼稚園や学校に行っている時間でも近所の人が気まぐれに足を運んでくれるのは商売抜きにしても有難いことだろう。

 十二時に蕎麦を茹で、それを食べている間も客が来次第、対応する。忙しい事もまた、自分の性に合っている。


 少し強い風が吹いたので誰かが閉めないで帰ってしまったガラス扉を閉めようとしたとき、外をふらりと歩く姿に見覚えがあった。


「川西さん。おはようございます」


 言いながら、おはようございますよりもこんにちはの方があっていたかもしれない、と少し考えた。


「あら、利玖くん」


 軽装で歩いていた川西さんは利玖の声に脚を止め、少し早い口調で言った。いつもならもっとおっとりとしているし、更に言えばお店の前を行くのに顔を出さないことが不思議だった。


「どうかされましたか?」


 ガラス戸から身を乗り出し、尋ねる。眩しい日差しに、少し目を細める。


「実はね、タマがいなくなってしまって…」


 タマは川西さんの飼っている猫だ。早くに旦那さんをなくされ、一人娘が九州に嫁いでしまった川西さんにとって、唯一傍にいてくれる家族だと言っていた。


「家の外に出てしまったんですか?」

「えぇ。お庭で遊んでいたのは見ていたんだけど、どうも出て行ってしまったみたいで…」


 彼女は心配そうに眉をひそめる。

圧倒的な行動力は既に無くなってしまった人がこんなにも落ち着かなそうに猫探しをしている姿を見てしまうと、時期に帰ってくるんじゃないですかとは言えない。

利玖は逡巡し、川西さんに笑いかける。


「オレたちも一緒に探しますよ」

 






「なんであいつがいい顔して、俺らが肉体労働してんだよ」


 猫探しを始めてから一時間も経ったというのに、まだ後ろで独り文句を連ねる声に、雅は振り返った。


「引きこもりの朔ちゃんには、丁度いい運動だと思うよ」


 男性にしては華奢な身体は、一回り大きい黒一色のパーカーによって、より一層中性的に見える。

大学から直接来たという朔也は駄菓子屋に現れたときは細身のジャケットを着ていて、光沢を見てもチェーンの飾りっ気を見ても、そこそこの値段のブランド品であることは一目瞭然だった。

そんな格好で猫探しなど当然できるわけもなく、仕方なくといった感じに利玖から貸し出されたパーカーは、彼らの体格差を浮き彫りにさせていた。


「いいじゃん?たまには外出るのも悪くないよ」


 雅は日の出の長くなった空を見上げる。太陽は傾いているものの、まだ自然の光で景色がよく見える。


「俺は物理的な労働は好かない」


 体力がないと自称する彼は確かに肉体系とは程遠いが、猫探しもできないほどやわではないだろうと振り返り、捲った袖から覗く手首の細さに思わず見入る。まだ現役高校生の自分の方が体力があるかもしれない。


「でも、店番と猫探しで、こっち選んだのは朔ちゃんじゃん」


 利玖は学校終わりの雅と朔也を呼び出し、二人に尋ねた。店番と猫探しのどちらがいいか、と。猫探しを選んだのは紛れもない朔也自身だ。


「あんな小学生のたまり場に一人でいるとか、俺には無理」


 朔也が肩を竦める。

彼は子供嫌いではないけれど、人嫌いだ。更に言えば、頭の中と顔が整っている反動のせいか、愛想を振りまいたり品行方正を演じたりすることが全くできない。

人間何かしら美点があるのと同様に何かしらの欠点を持っているものだが、彼の場合長所と短所があまりに極端だった。


「とりあえず、タマちゃんが心配だね」


 雅は縁あって川西さんにかわいがってもらっている。お家にお邪魔する度に、タマとも遊んでいた。特別動物を好いている訳ではないが、猫は人間と違って感情以外で人を選ばないところが好きだ。


「猫にだって、帰巣本能くらいある。日でも暮れれば帰るさ」


 彼はそう言いながら、広い公園を見渡す。かれこれ一時間探し回っているものの、野良猫一匹見かけはしない。


 雅は重たいセーラ服のスカート丈を直しながら、道路を確認する。この町は自然も多く公園も小さな森林も川辺もあるけれど、一本道を挟めば都会に続く大通りを車が飛ばす。

横浜の外れの住宅街はいろんな要素を含めている。


「キソウホンノウって、何?」


 朔也の言葉はいちいち小難しい。

時々、迷惑なほどに。


「本能的に、自分の家に帰るってこと」


 古びて正しい使い方をされなくなっているベンチに飛び乗り、朔也は大きく伸びをした。めんどくさがりで省エネ主義のわりに、随分と軽い身のこなしだ。

風に、男性にしては長い銀色の髪が靡く。それを見て雅は自分の長いポニーテールが風に巻かれるのを右手で抑える。


「この前言ってたやつ?右にも左にも我が家に勝る家はない、だっけ?」


 朔也の隣に、雅もまた勢いをつけてベンチに飛び乗った。

足に馴染んだローファーはそれでも硬く、振動が身体に響く。


「正確には、西にも東にも、だな」


 隣に並ぶと、あんなにも華奢だと思っていた男の、男としての存在感を知ることになる。

見上げないと表情を窺うこともできなければ、足元のワックスの利いたブーツは雅の靴とは比べ物にならないほど大きい。男女差だけでは語れない、差がある。


「帰りたくなんて、ないけどなぁ」


 雅は思わず呟く。

小学生が騒がしく走り回る姿を見渡すと、それは遠い記憶のようだった。


「一人暮らし、羨ましいよ」


 高校生の雅は当然家族のいる家に帰るわけで、帰れば学校はどうだったのと聞かれ、勉強は大丈夫かと心配され、野菜を食べろや早く寝ろなどと小言を言われる。

そのすべてを否定したいわけではないけれど、考えただけですべてが面倒になる。


その点、大学のために関東に越してきて一人アパートで暮らしている朔也は、雅の目には自由気儘な暮らしをしているように見えた。


 朔也は表情を変えずに髪をかき上げ、ゆったりと巻き上げるように吹く柔らかな春風に髪を預ける。

アンニュイな人だと、雅は改めて思う。


自分が綺麗なことを知っていて、そのくせそんなものは何の役に立たないと平然と言ってしまう人。

自分の学力が高いことを知っていて、そのくせそれはただ一つの指標に過ぎないと自慢にすらできない人。

そのくせ、自分という人間を他人に預けられるほどの強さはまた、持ち合わせてはいない人。


「俺は自分の家より、利玖のところの方がいいと思うけど」


 朔也は静かに言った。

子供たちの悲鳴に似た騒ぎ声は途切れないけれど、朔也の言葉はそれを潜り抜けて真っ直ぐ聞こえる。

朔也の声は綺麗だ。男性にしては高めで、癖がない。滑舌も滑らかなせいか言葉が明瞭に届く。

それはもちろん、皮肉も、嫌味も、暴言も含め、すべてが。


「ずるいよね、そうやって利玖ちゃん家に居座ってるんだもん」


 夕刻を過ぎると帰るように諭される自分と違い、朔也は気の向くままに利玖の所に泊る。  手入れの行き届いた、隣には駄菓子屋の併設された、二階建ての家に。


「居座る言うな」


 朔也は迷惑そうに目を細める。切れ長の目はアイラインで強調されている。薄い瞼にはブラウンのアイシャドウがのせてあるのだろう。

血色感の悪い彼は事あるごとに、雅の肌は健康的だと言ってくる。校則を遵守して日焼け止めしか乗せていない肌とファンデーションで整えた彼の肌を比べるなど、彼らしからぬ愚行だ。


「あいつはぬらりひょんって、利玖ちゃん言ってたよ」


 雅はまるで告げ口だと意識しながら、暴露する。


「だからあいつ、良い妖怪がいるとかいないとか言ってたのか」


手入れの行き届いた細い眉を歪め、ついでに薄い唇も不服そうに吊り上がった。

彼の表情はいつも作り物じみて見える。おそらく、整い過ぎていて、且つ手入れに抜かりがないせいだろう。


「そんなくだらないことで、喧嘩しないでね」


 同い年の利玖と朔也は度々意見の食い違いを起こすが、大抵くだらないので関わらないに越したことはない。

基本、朔也の生活習慣の適当さを利玖が咎めるか、拘りの塊である朔也が利玖の大雑把なやり方にケチをつけるかのどちらかだ。

巻き込まれるだけ損になる。


「タマちゃん、どこにいるんだろう。もう、寒くなるのに」


 朔也の腕に巻かれた高級そうな腕時計を、彼の手を取って確認する。

感覚を刻まない秒針の、滑らかな動き。

雅はそれが苦手だった。うまく言えないが、不安な気持ちになるのだ。大きな、古い時計の重たいほど重厚な針の動きの方が、時間が刻まれていると実感できる。


「そもそも、意思を持って動くものを捜すという行為がナンセンス」


 朔也はそう言って肩をすくめた。


「そんなこと言ってたら、はぐれた人とは一生会えないよ」


 雅の頭の中には、その昔大型スーパーで迷子になったときの記憶が呼び起こされた。感情の一つも思い出せはしないが、トイレの入り口で泣いていたところを店員に声をかけられ、迷子センターで母を待った記憶がある。


「双方が捜しているというなら、邂逅もあり得る。けど、一方的な捜索は数ありきだろう。そもそも猫がなぜ家を出てしまったのか、なぜそれを俺たちが捜しているのか」


「朔ちゃんて、物事を必要以上に考えすぎじゃない?」


 食い気味に言うと、彼はわずかに目を細め、暇だからだろうなとつぶやいた。


「兼好法師と同じ。時間があるから、考え込むんだよ」


「噂には聞いてたけど、大学生って暇なんだね」


「文系は、な」


「学費高いのにね」


「金で時間を買ってる感じだな。金で買えないものはない」


 朔也が言うと恐ろしく聞こえる言葉だった。でも、雅は賛同しかねる。

金で買えないものがないのならば、どうして朔ちゃんはいつもそんな憂鬱な顔をするの?


「朔ちゃんはさ、自分をお金で売るとしたら、いくらは付けて欲しい?」


 頭一つ上にある朔也の、小さな顔を一瞥する。

私があなただったらもっと上手に、もっと幸せに生きていくよなどと、一度でいいから言ってみたい。そんなことを思いながら。


 朔也はほんの少し考えるそぶりを見せ、


「どうやって売るか、じゃないか?」


「と、言いますと?」


「買われた先に何があるかによっても違うし、その際の金が誰のもとに入るかにもよるだろう?」


「確かに」


「売るものが、自由なのか、肉体なのか、命なのか。対価に何がもたらされるのか」


 朔也は指折りそんなことを謳う。

雅は聞きながら、この人のはぐらかす様な言い切らない性はいっそ卑怯なほど隙がない、と思う。

例えば人の命はカネでは買えないなどと諭すように言ってくれれば、全てを諦めることだってできるのに。

自分の人生をサイコロに任せることも、自分の意思で生きていくことも、彼に自分を理解してもらうことも、彼の足元には及ばない自分を憎むことも、すべて。


「でも、俺は、売らない」


「え?」


「例えば、塩狩峠みたいな状況になっても、俺は自分を犠牲にしたりはしない」


 それは「しない」ではなく「できない」ではないか。そんな皮肉じみたことを考えた自分は、だから朔也の足元にも及ばないのだ。


「お金で買えないのは、多分お金だね」


 雅は思い付きで言う。


「ドルは円で買える」


 あっさりと論破し、朔也はベンチを降りる。

雅は朔也の肩を借り、飛び降りた。公園の砂利を踏んだ音がじゃらりと響く。


「どうすんの?」


 朔也に聞かれた。


「どうする?」


 首を傾げ返すと、彼は短い瞬きをして、


「もう時期暗くなる。雅は帰れ」


「朔ちゃんは?」


「俺は少し散歩して帰るわ」


「一緒に行く」


 歩き出した朔也の背に張り付くと、もう彼は何も言わなかった。こういうところは雅の知る限り、朔也が一番理解が早いというのは子供のいい分だろう。


進学塾のリュックを背負った子供と自転車を並走する奥さんとか、スーパー帰りな野菜の入ったエコバックを持ったおばさんとか、少し早い帰宅をするサラリーマンのおじさんとか、とにかく自分で良し悪しを判断する大人が、道すがらに朔也を見る目線が好意的でないことはもう、雅ですらどうでもいいことに思っている。朔也が心底どうでもいいと態度で示すのだから、そうだと認めるのがこちらの筋なのだろう。


しかし、それを真似るように、朔也のせいぜい半分も生きていないような子供が異物を見るような目線を送ってくるのは未だに好かない。彼の髪色は確かに異様に見えるが、朔也が凄んだところで正直怖くも危なくもない。

むしろ、この男の怖いところは内面にある。それはそれは、嫌な男だ。


 彼は行きかう人々の視線には反応もすることなく、質のいい手入れの行き届いたブーツのローヒールを響かせる。

方角的に河原に向かっているのだろう。

彼は水場が好きだ。緑の多い、広い河原。少し高い場所を電車や車が通り過ぎる音を聞きながら、彼はよく高架下あたりで小説を読んでいる。

彼は河原の傍に住みたいという理由だけで、大学から少し離れたこの町を選んだという。

彼らしいという言葉は好かないけれど、彼らしい。思考への感情の織り交ぜ方が、彼らしいのだ。


 目の前を歩いていた朔也が急に足を止めるから、その背に顔をぶつけた。


「どうし…」

 彼の視線の先、見覚えのある猫の姿があった。


「タマちゃん」


 河原の歩道近くの茂みに丸まったその姿に、雅も声をあげる。

 二人足音を忍ばせながら、近づく。


「朔ちゃんのさっきの定説、私は支持することにする」


 捜すという行為がナンセンス。語呂だけの響きかと思ったが、あながち間違いでもないかもしれない。


「よく言うよね。ライブやコンサートのチケットとかもさ、当たってくれないと発狂しちゃう人とかは意外と外れて、当たればいいなくらいの人の方が案外当選しちゃう説は多分、本当だね」


 二人で早足に石畳の階段を駆け下りる。


「あれは、そういう熱狂的な感情は一時的なくせに人様に迷惑かけるからむしろ、世間のため」


「穿ってると思うけど、論破する気にもならない持論だね」


「冷静に考えて、その熱を一生持って生きるわけじゃなんだから、もっと理知的になるべきだろう」


 何かに、誰かに、夢中になってそれを失ったら生きる気力まで無くしてしまう程何かに傾倒したことがないのはおそらくお互い様なのだろう。それでも、まだその対象に出会えていない雅と、その感情に出会えていない朔也とではきっと、見ている景色が違う。

 






 猫に詳しいわけなどなく、むしろ小学生時代に通学路で猫が群衆で道を塞いでいたせいで帰るに帰れなかったトラウマはある。もしかしたら、群集心理をじかに学んだのはあの時が初めてだったかもしれない。

猫は自由で身勝手で可愛い。

そう、無垢な笑顔で言い切る雅や、無意識型聖人の利玖を見ていると、ペットや動物園に心の一切も動かされない自分は欠陥があるのだろう、としみじみ思ってしまう。

昔から、協調性の無さと他人に対する感情の薄さと喜怒哀楽の無鉄砲さを咎められて生きてきた。


「ふんふふーん」


 でたらめな鼻歌を上機嫌で繰り返す雅の両手でしっかりと抱かれたタマは、それはそれは呑気に寝入っている。

こんな風に無防備に眠れるのは愛された証拠だろうか。


 結局、眠っていたタマを雅が抱きかかえ、川西さん宅に向かっている。ただでさえ小さな身体にそれなりに大きな猫を抱き、雅は妙に幸せそうに、お世辞にもうまいとは言えない鼻歌はとぎれとぎれに続いている。


誰かのペットを見たら可愛いと言い、足元もおぼつかない他所の子供を見たら可愛いと言い、容姿の綺麗な女を見たら可愛いと言い、見た目に気を遣った女を見たら可愛いと言い、人間は忙しい生き物だ。

自分にとって可愛いものは、自分自身で決めればいい。

そう思って生きてきたけれど、利玖に出会って朔也は考えを変えた。

本当に何でも愛でる、感性すらお人好しな人間というのは実際に存在するらしい。朔也にとってそれはむしろ、犯罪者が存在することよりも不可解だったが、利玖の中に虚勢も見栄もないから、これはきっと事実なのだろう。

常識的に短い制服のスカートのひだを揺らしながら歩く雅も、好意を可愛いという言葉で包含的に表す癖があり、語彙の問題は別として、お世辞ではあっても嘘ではないという事らしい。

全くもって、理解ができない。


「おなかすいたね」


 雅は猫一匹を抱いているとは思えない軽い足取りで振り返り、そう言った。

十代の体力は意外にも侮れない、まだ二十代も始まったばかりの朔也は羨望の眼差しで雅をみる。

高校時代など全く戻りたくないけれど、高校生である雅を羨む心は、まだ朔也にもあった。


「朔ちゃんは、今日は、お泊り?」


 朔也は明日の予定を少し考えた。

明日は全休で大学はない。大学三年生にもなると必修の教科はほとんど取り終え、学校に行く日数もかなり減りそうだ。


「もう、帰るのも面倒だな」


「いいよね、大学生は」


 恨めしそうに言われる。

雅は過保護の利玖の判断で、計画性のない泊りは禁止されている。

利玖は雅を子ども扱いはしないけれど、未成年扱いはする。その潔癖性には硬さを感じることはあるが、賢明な判断だろう。

事実、だからこそ雅の母親から信頼されているのだ。


男の方から門限を突き付けている姿に、紅花は口元に手を当てて笑いを堪えていた。

 本当に雅の貞操に危機をもたらすとすればそれは利玖ではなく紅花の方だろう、と朔也は確信しているが、言葉にしない密約が自分たちの間にはある。


「高校生は大人しくお帰んなさい」


 川西さんの家の前につき、両手が使えない雅の代わりにインターフォンを押し、そのまま三歩下がる。

雅を可愛がってくれている川西さんに、何も自分が挨拶しに行くことはない。

朔也の後ろ向きな自己自認に敏感な雅は、瞬き一つでインターフォンに近づいた。


いつ見ても重厚な、如何にも豪邸な二階建ての屋敷は見た目に違わず広いらしく、なかなか応答がなかった。

日暮れの道路を、街灯が静かに照らす。

少し前まで桜が咲いていた大通りの大樹を見上げ、朔也は時間の流れを感じずにはいられなかった。

つい数週間前も、気が付いた時には過去になっている。関東に出てきたのが二年前。あの時から、何が変わっただろうか。


少し肌寒くなった空気が頬に冷たい。利玖から貸し出されたパーカーは袖も胴回りも一回り大きく、さっきまで感じなかったがやけに風通しがいい。

こうやって他人の好意に傷つきながら生きるのは苦しいものだ。

僅かに痛んだ右腕に力を入れようと掌を握りしめてみても、奥歯をかみしめる様な悔恨しか思い浮かびはしなかった。


 やがてインターフォンから声が聞こえ、雅がにこやかに返事をする。

大きな重たい扉から川西さんが顔を出し、そこで朔也と雅は驚愕と困惑で顔を見合わせた。







「どっからどう見ても、似ても似つかないじゃん」


 利玖はわざとらしくため息をつこうとし、その深い呼吸の間に堪え切れずに噴き出した。

かれこれ二十分ほど、利玖は断続的に訪れる笑いの波とずっと戦っている。

その正面で苛ついているのを隠せていないポーカーフェイスの朔也は、態度悪く駄菓子を齧る。お店と家を仕切る縁側に立て膝をつき、その右隣にスナックを中心に置かれた駄菓子と、左隣には食べ終えたビニールゴミが散らばっている。


「途中で、おかしいなって思わなかった?」


 半笑いで尋ねた利玖に、朔也は舌打ちをする。利玖に聞かせるための、大きな舌打ち。


「思ってたら、こうはならなかっただろ」


 忌々しそうに、朔也は言う。

それもそうだろう。猫探しに行って、全く違う野良猫を拾ってきてしまうなど、いくら生き物に興味がない朔也言えども失態だろう。

彼らしからぬミスに、しかし利玖は妙な親近感がわいた。


朔也は少し浮世離れしているところがあり、もちろんそんなところまで魅力的な男だとは思うけれど、見つめるとこちらの心が落ち着かないような張り詰め方をしている。

プライドと危機管理能力の両方が高い人は、どうも生きるのに必要以上の苦労を自らに課してしまうらしい。


「それで?この子、どうするの?」


 利玖は家の前の道路横で猫缶をおいしそうに貪る大柄の野良猫を撫でながら、朔也に尋ねる。

自分でも意地が悪いと思いながら。


「俺は元居たところに返せって言ったぜ?」


 スティックタイプのスナックを齧り、もそもそとしゃべる彼に、利玖はペットボトルの緑茶を差し出す。朔也が好きだというから段ボールで購入しておいたというのに、彼がなかなか遊びに来なかったのでお店の奥にしまい込んでいたものだ。


「だけど、雅が、愛着涌いたとか言い出すんだから、どうしようもないだろ」


 朔也が言うところには、川西さんの家には既にタマは帰っており、雅が抱きかかえていたのは比較してみれば似ても似つかないのんびり屋な野良猫だった。

玄関から顔を出した川西さんが抱えたタマを見たときは絶望だった、そう言うのはどうも誇張ではないらしい。二人は徒労だけではなく、大柄な野良猫まで持て余し、仕方なくうちまで帰ってきた。朔也の言う通り、野良猫だったのだから河原に返せばいいのだが、雅がそれを拒んだ。

せっかくだから、少し一緒にいたい。

そうはいっても、雅の家はマンションで、いきなり野良猫を連れ帰るわけにもいかず、朔也のアパートもペット不可ときたら、結局利玖のところが預かるしかない。幸か不幸か、利玖の祖母の家は庭も広く、その昔飼っていた犬小屋がある。野良猫一匹が一晩過ごすくらいは何の不都合もない。


「ダメだ、笑っちゃう」


 利玖は一向に引かない笑いに、もう堪えることなく肩を震わせる。恨みがましい、冷たい目線も気にならないほどに面白い。


「雅も、この猫になんでそんなに愛着涌くかね?」


 朔也は傍にあった利玖のサンダルをつっかけ、猫缶に夢中の野良に近寄り、恐る恐るその背に触れた。

彼は生き物が苦手だ。

河原の散歩道で犬の散歩をしている人とすれ違う時、彼はさりげなく犬との距離を取る。理知的な人は本能的に動く動物の行動が読めないのだろうか。そこまで考えて、辞めた。それじゃまるで、朔也を妬んでいるようだ。


「小さな、子猫とかならわかるけどね」


 朔也にされるがままになっている猫を見つめる。何処か無頓着に大人しい大きな猫には、人間の求める猫らしさはなく、ここがペットショップならば間違いなく冷遇されるだろう。


 名残惜しそうに帰り際、雅は何度も利玖に念を押した。


「逃げ出さないようにね?明日、会いに来るから。逃がしちゃだめだよ?」


 追い出さないでくれ、ではなく、逃げ出さないようにしてくれとは、また得意の無理難題を吹っ掛けてきた。

居座るのなら猫だろうが人間だろうが追い出すつもりは毛頭ないが、去り行く者を引き留めるのは骨が折れる。

来るもの拒まず去る者追わずは多分、一番傷つかない処世術だろう。


「朔也、泊っていくか?」


 暮春の空に浮かんだ月はまるで満月の様に、満ちている。

それでも数日前に満月だとニュースを見たから、今日の月は何処かが欠けている。

そんなのわかりはしない、第一、欠けていたって月は綺麗だった。


「うん」


 その短い返答に安堵する、そんな自分に疲れてしまう。なぜ、他人の答えに心を左右されなければならないのだろう。自分にとっての幸せは、安心は、自分で作っていたい。人の顔色を窺うのは、自分の悪い癖だ。


「夕ご飯、何食べる?」


 野良にしては体格のいい猫はやはり毛並みもよかった。朔也が撫でる度、蛍光灯に毛並みが光る。もしかしたらこの猫もまた、元は飼い猫かもしれない。


「駄菓子食いすぎた」


 朔也が食べたお菓子は全て賞味期限間近だった。彼のこういうところを、利玖は優しいと思っている。


 食事を終えたらしい猫がふらりと道路を渡ろうとしたのを利玖は慌てて抱き上げる。想像よりもずっしりと腕にきた。


「こいつ、明日の朝にはいない気がする」


 朔也が真顔で言い放つのを、利玖は恐ろしい気分で聞いた。それはむしろ自然なことだからこそ、恐ろしい。


 抱きあげたまま、家とお店の裏にある庭に連れていく。塀だって簡単に乗り超えてしまう猫を、ここに閉じ込める術などない。


「なぁ、雅のこと、悲しませないでくれよ?」


 いっそ家に上げてしまおうかとも考えたが、家の中を荒らされでもしたらひとたまりもない。たかが駄菓子屋いえど、食品を扱う店だ。何処の野良かもわからない猫を放し飼いにはできない。残念だが、今日は猫の、雅への好意にかけるしかない。


抱き上げた猫は意外にもずっしりと腕に来た。それをあの河原から川西さん宅まで抱いたというのだから、雅のちょっとした愛着はわからないでもない。


 利玖は大人しくこちらを見つめる瞳に笑いかけ、家へと戻る。お店の戸を閉め、今日の営業は終わりとなった。


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