自己分析
普段自分が腰かけているソファに身を鎮め、膝を抱えて丸まって本を開く横顔がいつもより大人びて見えたので、ちょっと観察していたら、直ぐに視線に気づいた彼女が顔を上げ、紅花をみてにっこりと笑った。
夏休みに入ってから、雅の私服姿をよく見るようになった。デニムのショートパンツに水色の複雑なデザインのシャツを着た姿は童顔と相まって少女特有の明るさを纏っているが、それでも去年よりも少し顔のラインが絞られた気もする。
大人っぽくなる、という言葉が誉め言葉に感じる季節に、早熟で常に人目を引き続けた自分の過去を思うと、雅は対極の所にいる。同世代だったら、おそらく今の関係性はなかった。
仕事が終わるまで待っていたいというので職場の控室で待たせていた。正直仕事どころではなくて、彰葉を待たせているときは感じない罪悪感とやりにくさに、大人と子供の境界線を意識してしまった。
「どう?すすんでる?」
彼女が暇つぶしに持ってきたのは、読書感想文の為に指定された小説だった。先ほど少し見せて貰った感じだと、小説というよりハウトゥー本に近い気がした、もっと簡単に言えば、道徳の教科書を高校生向けにちょっと小難しい言葉に書き換えたものだろう。いずれにせよ、胡散臭い印象を受けた。自分の職業は、棚に上げて。
「まったく」
あっけらかんとした口調に笑いをかみ殺す。
従順そうで素直そうな雰囲気を裏切るように怜悧さを光らせる感性は、隠れた兵器にすら思う。
彼女を従わせたい、操りたい、思い通りにしたいと思う大人が彼女を疎む理由は言わずもがな、わかってしまう。
しかし紅花にとって、この感性に正直で芯があって頑固な雅の生き方は見ていて気持ちがいい。
「一言で終わりそうなことを言葉数だけ増やして説明されてるせいで、逆に何が言いたいのかわかんないんです」
「文字数制限がないと、人ってだらだら語っちゃうのよね」
話し手は言葉を重ねれば重ねるほど核に糸を巻き付けるように感情を固めるけれど、聞き手は聞こえてきた文字数だけ意味合いを薄めて理解しようとする。
「多分、目次だけで主張は終わっているんだと思うんですよね」
雅の感想によって、名言が短い理由が明白になった。言葉は時に文字面より色や匂い、形で人に響く。説教も忠告も告白も、短いほうがいいらしい。
小型の冷蔵庫からゼリーを取り出し、プラスチックのスプーンと共に差し出すと、彼女は小さな歓声を開けて受け取った。
ゼリーが零れないように蓋を慎重に剥がす真剣な姿に愛しさを覚えながら、温かい紅茶をいれる。
雅が座っているソファの隣には、大きめのボストンバックが置いてある。雅のお泊りセットだった。服なんていくらだって貸せるというのに自分の物を丁寧に梱包してくるとこは彼女らしい。
雅から熱烈なお泊りのお誘いに半ば折れるような形で実現に動いたのは、つい昨日の話だった。
もしかして家出感覚なのではないかと勘繰って利玖に連絡を取ってみたが、杞憂に終わった。
「純粋に、紅花姐さんと女子会したいんでしょ」
微かに突っぱねる色があった気もする。負い目はあるものの、彼に言われる筋合いの無さも主張したくなる。保護者としてどちらが適任なのかはお互い分からないけれど、抜け駆けを許しはしないという暗黙のルールが紅花と利玖の間にはあった。
「読ませてね」
手元に集中している雅に小声で声をかけてから、テーブルに置かれた小説のページを捲る。
「自分探し、ねぇ」
冷ややかな気持ちを拭えないままに呟くと、雅がじっくりと此方を見ていた。
「なぁに?」
「ううん」
目が合うと彼女は困ったように照れたように笑って、直ぐに目を逸らす。前髪から覗く手を入れ過ぎていない眉やまつげの自然な柔らかさを、自分は二度と手に入れられないのだと不意に思った。意図して手を入れているというのに、取り戻すことはできないのだと思うと惜しいような、苦しいような気持がせりあがってくる。勝手な感傷に支配されまいとティースプーンをひと回しして、香りを立てる。
「紅花さんたちは、自分探しに成功したって言えますよね」
零すように呟かれた言葉を拾うと同時に、手が止まった。華奢なティースプーンが指の間をすり抜けてしまいそうで、慌てて握りなおす。
「どうしたの、いきなり」
驚いたせいで、声が裏返る。それを取り繕うように、笑って見せる。
「びっくりしたわ」
「失礼なこと言っていたらごめんなさい」
座る場所を間違えたなぁと紅花は内心で悔いる。雅の隣に座れば、今すぐその柔らかな髪を撫でることも、華奢な肩を抱くことも、なんてことない顔で聞こえなかったフリをすることもできたのに。
向き合うのって、実はすごく損なことが多い。
「雅ちゃん」
名前を呼ぶと、真っ直ぐに見つめ返してくる。大きな黒目に浮かんだ水分が何故か涙に見えて仕方ない。
「自分探しって、何処かにいる自分を探すんじゃなくて、自分を分析することだと思うの」
戸惑うように小首を傾げても、目を逸らすことはできない。愚直な子供に何を解こうとしているのだろう。
冷静な自分も、何処かにいた。
紅花さんたちは…。
雅の言いたいことを理解してしまう。透けて見えた彼女の劣等感を、紅花は見て見ぬふりできる程の楽観主義者ではないし、そのまま時を押し進めていけるほど泰然としてもいなかった。
探すという不明瞭で曖昧な言葉に、多分彼女は惑わされている。
自分探しというのは何も、一番得意で他者の追随を許さないような煌めく才能を見つけることじゃないと、どうしたら伝わるのだろう。
「ゼリー、食べて」
蓋を剥がしたまま放置されたゼリーに心許なさを感じて促すと、彼女は思い出したようにスプーンを手に取った。
透明の容器から覗く、丸っこいフォルムの白桃。つるりとした舌ざわりを、口にしなくても想像ができた。
得意なことと苦手なことを分けるとき紅花は、常に四分割の表を思い浮かべる。
結果が出せるか否か。
やるのが苦痛か否か。
大事なのは、潰れないことだ。
苦手なことや強制されることで疲弊してしまうことを自分で理解して、それを避ける。結果も出せない、やるのも苦痛なことを、可能な限り避け、その結果残った数少ない選択肢の中から選んだ道を、だからこそ愚直に信じている。ただそれだけだった。
先ほどまでのひりついた空気感はどこへやら、マイペースにゼリーを食べている雅を一瞥し、思案する。
雅に、その昔企業に就職していたことをいついうべきか、紅花はずっと考えている。
別に後ろめたい訳でも隠しごとなわけでもないのだが、占い師として自由に生きていると思われている立場として、現実的な軌跡が彼女の甘やかな妄想を打ち砕いたら忍びない。彼女は会社の一部分になる大人よりも、紅花や利玖のように自らの生き方を決めて進んでいく背中を求めている。ルールとか常識とか、その類の決まり事は社会には必要であっても、根が真面目な彼女には響かない。
言われなくても彼女が道を踏み外さないことは明白だった。そして、彼女にはその自負がある。人を傷つけるつもりがないから、悪意を向けられては戸惑い苦しむ。度を超えた悪意なんて初めから持っていないから、細やかな部分を穿り返されてびっくりしてしまう。
しかし紅花にとっては、ルールや常識に則って社会規範に従順でいることが、生きる上で必要な手続きだった。
頑張って生きてきたと思われたくなかった。
幸せだと思われたくなかった。
鋭利で他人を慮ったりしない冷徹さ、自分の目的のための代償を他者に阿る狡猾さを、自分の中に認めていた。
要領よく仕事を片し、持ち前の人当たりで順調に社会人生活をこなしている自分に違和感を持ったのはむしろ自然なことだったように思う。奔放な母の影に常におびえて生きてきた紅花は、当たり前の幸せというものに身を預けないと決めた以上、堅実な社会生活に忙殺される日々を何年も先まで続けることはできなかった。
咀嚼に合わせて動く雅の柔らかな頬は、小動物を想起させる。柔らかく肉付きの良い頬は子供特有の丸みをまだそぎ落としてはいなかった。
食事を生きていくための条件としか見られない人間もいれば、欲を満たす為の娯楽に出来る人もいる。可能な限り、後者を愛でていたい。
「最近気づいたんですけど」
食べ終えたカップをテーブルに置くと、雅が口を開いた。唇に甘みを帯びた膜を張ったままの唇を一舐めする仕草の一部始終を見てしまった罪悪感を誤魔化すように、紅花は優しい声で、何をと問う。
雅は自分の膝を抱えこんだ。短いショートパンツの隙間から太腿の柔らかな肌が折り重なって見えて、やはり目を逸らす。
「自分のことが好きな人こそ、人生の勝ち組だと思うんです」
勝ち組、という言葉の選び方が酷く鋭利に感じる。勝ちの反対側に負けを意識することがこんなにも苦しいのかと、紅花は戸惑いをいつもの柔らかなポーカーフェイスに隠した。
「どうしてそう思うの?」
「すごく勝手な分析結果ですよ。自分の周りで幸せそうな人とそうじゃない人を比べてみて、私なりの結論です」
直ぐに、その題材が利玖と朔也だとわかってしまうのは、紅花にとっても心苦しかった。
雅を問いただせば違うといわれるだろうし、事実紅花は雅の交友関係のすべてを把握しているわけではないのだから、彼女にそうと思わせる赤の他人の存在を否定はできないのだけれど、それでも、雅が根幹にあの二人の影を踏み続けているのは明白だった。
「この前、自信って言葉を辞書で引いたんです。漢字のままですよね。自分に対する信頼があるってことだって出てきて、なるほどなって腑に落ちました」
雅の声は乾いていた。
感情過多なくらい感受性が強く、心を揺さぶられがちな少女の姿を裏切る、強く冷たい口調。
意味を把握していないわけでもない言葉を原点回帰で広辞苑を開く、そんな芸当を彼女に教える人間には、一人しか心当たりがない。
良くも悪くも、雅は朔也の影響を受けすぎている。影響し合うような関係ではないはずなのに、心理的な距離が不用意に彼女たちの関係性を甘やかに惑わせている。
一番の問題は影響を及ぼしている側も影響を受けている側も、その自覚がないことだった。雅は朔也を好きなだけだと思っているし、朔也は雅を愛でているだけだと思っている。強い感情は時に第三者の方が的確に把握をしていて、その登場人物が狡猾であれば漁夫の利、なんて滑稽な結末が待っている。
「私、それなら、一生不幸でもしょうがないのかなって諦め始めたところです」
こういうところ。
紅花はため息を飲み込んだ。
言葉は衝撃的だったけれど、驚いて見せてしまったら彼女は、おそらく衝動性の価値を知ってしまう。それは決していい学びではない。
「雅ちゃん。その話をね、神崎くんにするといいわ」
自分でも意地が悪いとはわかっていた。案の定、唇に不満げな影を残し、彼女は目線を逸らすように膝に顔を埋めてしまう。
「朔ちゃんには無理かな」
「なら、私にも言っちゃだめよ」
「どうして?」
顔をあげた瞳に、薄っすら涙が浮かんでいた。痛々しさは少女の赤さで、柔らかさだ。
「付け込まれるからよ」
紅花の返答の意図を掴みかねた顔つきで首を傾げた雅に、答えを言うつもりもなかった。
雅はじっと紅花の瞳を見つめ続けた。そうすればそこに何かが浮かび上がってくると信じているような真剣すぎる眼差しに紅花は心が揺れて、何か言葉を探そうと唇を開きかけた時、それよりも僅かに早く雅が話し始めた。
「朔ちゃんにはできない。利玖ちゃんも厳しいかな。理由は全然違うけど。そしたら、紅花さんに聞いてもらうしかなかった」
紅花さんしかいなかったの。
雅の弱弱しい笑顔に、紅花は先ほどまでの毅然さを忘れてしまった。忘れたどころか、捨て去って、出来ることならば始めから持ってなどいたくなかった。
雅にとってどういう人間でありたいという理想像を、紅花は持っていない。彼女が望むものになることが、紅花にとって最優先事項だった。
十歳も下の、まだ柔らかさと純真さを忘れていない少女に、何を望んでいいのだろう。この子にとって理想の存在でいることで、自分自身の欲望をも満たせると信じていた。そんな都合のいい話なんてなかった。大人の狡猾で身勝手な理想と欲望が顔をのぞかせた途端、理想なんて向こう側の物になる。結局は即物的で満たされない焦燥感は、与え続けるだけでは維持することはできない。人間相手に神様と同じ理論で向かい合うなんて、出来るわけがないのだ。
あなたにしかできない、なんて言葉は退嬰的だと思う。そんな甘ったるいだけの言葉で誤魔化されたり面倒事を押し付けられたりしていたら、直ぐに潰される。
「紅花さんの一番ずるいところは、自分をずるい人間だって言うことだと思う」
それでも、他人に期待をしないと生きていけないというのならば、あなたでよかったと相手に言わせることだ。それが、自分を他人に認めさせるということだろう。
「それも、紅花さん自身の自己分析は全くあてにならない」
そして、私はあなたに出会えてよかった。
それを告げるのはもう少し未来に取っておこうと、紅花は心に決めている。




