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ないものねだり

 差し入れにもらったプリンの箱を持ち上げて裏側を覗き込み、それからカレンダーを見る。もう一度賞味期限の日付を確認して、蓮は小さくため息を零す。

 有難い行為だとは思う。常連さんから差し入れを頂けるということは好意故だと理解し、それはつまり客商売としては仕事ができる人間だという言いかえることも可能だと知っていた。


 しかし、蓮にとって対価以上の愛情や気遣いは、どちらかと言えば重荷だった。嬉しくないとは言わなくとも持て余し、なにより素直に受け入れられない後ろめたさと迂曲した自分の感性を意識してしまう苦痛が、どうしてもつきまとう。


 蓮は甘いものを好んで食べない。

 高価なプリンは箱からして重たくて、洒落た包装紙の艶っぽい紙質からも、女性向けであることは確かだった。多分、プリンよりも包装紙の方が高価だと内心で笑っていると、ちょっとした虚しさを覚える。


「雪宮君、モテるね」

 

 バックヤードで店長が横目でそう笑うから、どろっとした嫌悪感が晴れる。

 後悔に似たこの重たい気持ちを、柔らかな恋愛のそれに仮定して考えてしまえるのなら、むしろ今は救われると思った。


「二個ってところが絶妙ですよね」


 もしも、個包装されたクッキーや焼き菓子などの日持ちも良く個数もそれなりに揃っているのなら、バックヤードのテーブルに置いておけばいい。スタッフが好き勝手に取って食べてくれれば、罪悪感も薄れる。

 

 如何にも高価で気の利きすぎたお菓子は、誰かだけに渡すのは忍びなく、かといって自分ではとても処理できない。


「彼女は?」


 そんな気の利いた存在がいないことを知っているくせに、彼は時折人が悪くなる。


 店長の言葉を無視し、さてどうしようかと首を傾げて浮かんでくるいくつかの顔を一つ一つ考えると、直ぐに朔也に白羽の矢が立つ。

 

 甘いものが好きで、意外と玄関の鍵が緩くて、何だかんだと他人の好意に弱い。

 条件は完璧だった。

 なにより、洒落た手土産を一番喜ばれる人に渡したいという、蓮なりの罪滅ぼしの気持ちがあった。

 

 さっそく連絡を入れる。強いて言えば、連絡が遅いのが彼の難点だった。

 それでも、帰りの準備を済ますと同時に冷蔵庫から箱を取り出し、大事に抱えて店を出る。


 外は蒸し暑かった。

 太陽が沈んでからかなりの時間が過ぎたアスファルトからは太陽の熱は放出されたはずなのに、身体の熱は逃げ所を失ったまま汗となって身体を伝う。


 朔也からの連絡は返ってこないけれど、家に突撃してしまおうと考える。

 今までの経験から、連絡がないということは彼が家でのんびりと時間を過ごしているせいであることが圧倒的だったし、もしからぶったとしても、歩いて利玖のところに行ける。


 そんな保険までかけて朔也の家のチャイムを鳴らすと、彼は緩慢な動きでドアを開けた。


「何?」


 何故か警戒心丸出しの口調に笑いを堪え、プリンを差し出す。瞬きひとつでことの顛末を察した美丈夫は、あっさりとした対応でそれを受け取った。


「あがれよ」


 朔也は既にお風呂上がりだったらしくメイクは落とし、着ているのも緩いジャージと薄手のTシャツとラフだった。


「いや、別に、俺は」


 オフになった朔也と向き合うことに蓮は妙な抵抗感を覚え、身体を少し引く。

 男性とは思えないメイクを施し、信じられないくらい細いパンツを履きこなし、こまめに髪を染め、自分自身をつくり込んでいる姿を見慣れてしまっているせいか、素顔を見るだけで戸惑い、蓮の方が気おくれしてしまった。芸能人のプライベートを知りたくないような、アーティストの裏の顔を知りたくないような、微妙なやりにくさだった。


「いいから」


 言うが早いか朔也は部屋に戻ってしまったので、蓮は仕方なく少し開いただけだったドアを大きく開けて玄関に入った。


 彼の部屋はこざっぱりしているようで物が意外と多くて、でもやはり統一感のお陰か、ごちゃっとした印象を受けない。その気になれば居心地がいいともいえた。きちんと並べられた本の数々や戸棚に並べられた化粧品には多少圧倒されるけれど、黒と白を基調に揃えられた家具はまとまりが良かった。


「丁度、休憩にしようと思ってたから」


 冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出してグラスに注ぎながら、朔也はぶっきらぼうに言う。


「ビールにする?」


 さらさらの銀髪を揺らす姿に妙な気持ちになりながら、頷く。

 朔也の気分の高低差は砂漠の気温並みに不安定だ。太陽の熱を容赦なく受けて上がるときは何処までも上がっていくのに、陰れば熱を保持することが出来ずに急降下してしまい誰にも止めることができない。緩衝材不足なのだ、彼の感性は。


 誰か、の影響を受けすぎてしまう。

 そのくせ、その誰か、の選択を間違える。


 ビールとグラスを差し出してきた朔也の伏せた瞼。長いまつげは自前だったんだと、当たり前のことすら不思議に思えた。

 朔也を女性と同じ感覚で見ている自覚は勿論あって、むしろ知らない女性よりもはるかに扱いにくいと感じている自覚もあった。常に母親に感じていた恐怖心とははっきりと違っているはずなのに、あの頃持ち続けた絶望感を思い出させる横顔。気の強さと精神力は全く比例しないことを、蓮は朔也から教わった。肉体的な強さとも比例しない。それは母との生活で覚えた。


隣に置かれた分厚い紙袋を指さす。


「それさ、賞味期限が明日なんだ」


「それで、直ぐに食いそうな俺を選んだわけね」


 朔也は淡々と言いながら、包装紙を慎重に剥がす。


「別に捨てるんだし、そこまでしなくてもいいだろ」


 思わずそういえば、彼はすこしむっとした表情になった。

 しっとりとした髪を耳に掛け、覗き込むようにテープに長い爪を引っ掛けている。


 包装紙を剥がし、箱のふたを開け、更にかぶせてあった緩衝材をどかしてやっとこさ出てきたプリンに、朔也が小さな歓声をあげた。


「すげぇ。カラメルソースが別になってる」


 朔也は感動をお裾分けでもするように目を見開いて、蓮を見つめる。あまりに無邪気な表情だったので蓮は面食らったものの、化粧がない分幼く見える表情に、朔也が年下だという事実を思い出した。

 

「ほら」


 朔也が嬉々として一つこちらに寄越すので、いらないというタイミングを逃した。大きな、くびれのある瓶は重たくて、冷たい。朔也が喜んだカラメルソースはパウチで別付けされていて、白に近いオフホワイトのプリンは瓶越しに艶っぽかった。


 柄の長いスプーンをわざわざ手渡しで受け取ってしまえば、もう引き下がることもできそうになかった。諦めてカラメルソースを全てかける。


「いきなりかけるんだ」


 案の定、目の前から文句が聞こえる。立膝をついて食事をしている人間に言われたくない、と内心で思いながらも、言葉は返さなかった。

 思っていた以上にカラメルが本格的な味をしていて、甘すぎるプリンのミルク味を程よくうち消した。いける、と多めにカラメルを掬っていると、案の定配分がおかしくなっていく。


 どのタイミングで朔也に残りを押し付けようかと思案しつつ無言でスプーンを動かしていると、朔也の隣に本が置いてあるのが見えた。


「読書中だった?」


 彼のお気に入りのブックマークが本のちょうど真ん中あたりを射抜いていた。


「まぁね」


 そういうと、彼は何故か本をこちらに寄越してきた。

 受け取って表紙を開く。


「知らない作家だわ」


「だろうな」


「なんで?」


「俺の趣味じゃねぇかんな」


 立膝をついた右足に瓶を載せ、朔也は言った。


「なんでそんなもん読んでるんだ?」


「雅の宿題」


 あぁと、目の前で疑問がほどけていく。朔也を精神的な意味で動かせるのは、雅だけだった。

朔也を身勝手で利己的な性格だと言い表すことを、蓮はできる。しかし、それは彼を悪辣に言うための言葉でしかなかった。

 日常的な原動力は大抵自分のためで、そうでないとやってられないことが多い。そんなの、朔也だけではない。蓮にも、他の人間にだって、眠った本能だろう。そのくせ、いざって時の原動力は大抵他人のためであることまで含めて、朔也は正直な人間だった。


「高校生になってまで読書感想文を提出させる学校なんて、俺はちょっと信じらんないけど」


「お前の行っていた学校とは違うんだろ」


 何かを否定したり嫌みを言うことは簡単で、しかし結局のところ嫌悪感の強化でしかないことも多い。流されればいいわけじゃない。でも、逃げようのないことは可能な限り淡々とこなす方が負担は少ない。

 それは決して、消極的なわけでも自尊心がない訳でも、ましてや主体性の無さの象徴ではないということを、蓮は朔也に知っていてほしかった。


 朔也はちらりと蓮の手元を見て、自分の分のカラメルソースを差し出した。お礼を言う空気感でもない気がして少し笑いかけると、照れるように目を逸らす。なんだかんだ、兄弟の多い長兄だ。何も見えていないわけではない。


「その本ってさ、結構センセーショナルな内容なんだ」


 スプーンを咥えたまま、朔也が切り出した。

 タイトルからしてその手の意図は感じていた。道徳的な内容。高校生に、生徒に、大人として学校として恣意的なものを感じるには十分なあらすじと、帯に書かれた文言。

 限りなく小説に似せただけの、ほとんど自己啓発本に近い内容であることは、斜め読みでも明確だった。

 朔也の一番苦手としているところのものじゃないか。そう思いながらも、それは彼の蜃気楼に近いとも思わずにはいられない。

 朔也のルール。

 朔也の掲げる生き方。

 朔也だけが祈り続ける終焉。

 神崎朔也が望み、考え、戸惑い、辿り着くものを筋書きにしたら、そこらの自己啓発本なんておままごとのシナリオ程度に扱いやすくて、可愛いじゃないか。


「人生は一度きりって、妙な言葉だと思わないか?」


「は?」


 朔也の唐突の言葉は常に難解で面倒だ。

 結露したビールの缶を手に取り、プルタブを引く。甘ったるいプリンに、海外の筆記体で書かれた読めない銘柄のビールの組み合わせはどう見てもセンスは感じられないが、出されたものは素直に受け取る性分だった。


「一度って言葉のスパンが何十年って時点で、ちょっと価値観の差を感じる」


「それは、確かに」


 相槌を打つと彼はこちらを見て、色素の薄い唇の口角を上げるだけの笑みを浮かべる。

 人の話は聞かないし人の価値観を斜に見ているくせに、自分の思いは自分で守り抜こうとする無垢さを、朔也は持っていた。


「一つの決断が何年も尾を引く。やり直しは楽じゃない。後悔は役に立たない。平均寿命で考えて七十や八十まで、下手すりゃ百まで生きなきゃいけないから、こんなに苦労して人生設計してるんだろって話」


「なぁ、朔也。この話、つい最近もしなかったか?」


 記憶を探らずとも、これに近いことはしょっちゅう朔也から聞いている気がする。

 まだ二十歳そこそこにして、彼はもう生きることへの執着心がない。

 いや。

 多分二十歳に過ぎなくてまだ大学生という庇護されている立場だからこそ、安逸な日々に終わりを見出したくて仕方がないのだろう。

 今の自分が一番、安寧の森で日差しを浴びながら背伸びをしていると知っているのだろう。


「常に考えているから。したかもしれない」


 あっさりとした口調で言うと、彼はグラスに注いでいたお茶を飲んだ。小量ずつ喉を鳴らす動き。その一定の仕草と同様に、彼が常に生と死とを同等か、後者に重きを置いて考えずにはいられない性分だと思うと、難儀だった。


「ま、だからって、お前は二度目の人生なんて望んだりしないんだろう?」


 当然だと言わんばかりに、彼は返答をしなかった。代わりに、蓮のグラスにビールを注いで泡を立てて楽しみ始めた。


「趣味には合わないし、気に障る文章も多いけど、読んでみると面白くないわけでもないのが、腑に落ちないところ」


 それは朔也が、他人の形を参考に自分の欠落と長所を知っていくタイプの人間だからだ、とは言わずにおいた。


「俺もこれは、好きじゃないかもな」


 目次に載る「自我と主体性」というタイトルをなぞりながら呟く。


「休憩なしには読めないだろ?」


「じゃ、もう少し甘いもん食っとけ」

 

 残りのプリンを押し付けると、彼は呆れたように唇を歪めたが、受け取ると同時にスプーンを刺した。


 未来が長いと仮定されればされる程、死ぬより生きることのほうが怖いのは何も、おかしなことではない。

 生きるという長期的な過程が一度という言葉のスパンで言い表せないという朔也の考えに同意するのは、死ぬという行為が本当に一瞬のことと思えたからだった。


 自分の膝を抱えて膝頭に置いたプリンをつついている小柄な青年の思いを、彼が思うよりも理解している自信はあるのだけれど、彼の望むほど理解はしてあげられそうにない。


 生きているからこそ、ふと死を意識する。死ぬ間際に母が生きることを考え続けたことも、相対的に理解している。

結局のところ、どちらも究極のないものねだりに過ぎないのだろう。


 理想を高く持てば人生は難解で困難なものになる。甘受という快楽に流され、その生きざまにプライドが揺るがないのならば、可能な限り底を泳ぐ方が波風は少ない。能動的であるのか受動的であるのかだって、心持ち一つで変わるのだろう。


 誰かのために死にたいとか、自分を死ぬほど愛してほしいとか、現実と乖離している理想を身体の何処かに切り札のように持ち続けることで生かされ続けている精神なんて、それこそ水底に自重で沈み込んで、二度と顔を出さなければいい。

 


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