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できない相談

 真夏とは思えない肌寒い日だった。重たい雨雲に押さえつけられたように低い空をすぐそばに感じる、ビルの上層階。

 雨粒に滲んだ横浜の夜景は印象派の風景画に似た柔らかさで縁どられていた。

 たとえ今宵の空に艶やかな満月が浮かんでいるとしても地上では捉えることもできないが、奇遇にも今宵は新月だった。無いと知っているから、空を見上げてため息を漏らしたりはしない。

 期待は現実を否定的に捉える。

 幻想を追いかける瞳には、あるはずのものが見えていない。


 女性客はほとんど長袖の服を身にまとっていたが、窓を開けられない構造上、外よりも室内の方が蒸し暑いくらいで、彩りの鮮やかなカクテルがよく売れた。


 目の前で一人の女性客を口説く紅花もまた、例外ではない。


「うーん、それは、どうかしら」


 困ったように言葉を選ぶ横顔。仕事用の少し強めのメイクに、羽織った薄いラベンダー色のカーディガンはブルームーンに似ている。


「望みが薄いのはわかっているんです。でも、このまま終われないというか」


 女性客は、紅花の来る三十分ほど前からカウンター席で一人、カクテルを舐めるように飲んでいた。年齢的にも雰囲気的にも、お酒には慣れていないとわかっていたから、度数が低いピーチフィズを出した。

 向こう側が透けて見えそうな、ピンク色のソーダ。

 無理やり水に押し込まれていた泡が、グラス伝いに空気に溶けていく。


 相談事の真相が理解できたのは、およその客の引き上げた十時半過ぎ、当事者も紅花の口車で店を出て行った後、何処かぼんやりとした紅花とさしで会話ができるようになってからだった。


「片思い、ねぇ」


 壊れ物のようで口にすると何処か気恥ずかしさのこみ上げる単語だと内心思いながら、そう思ってしまう後ろめたさに気付かないふりをする。


 そんな柔らかさと繊細さ、自分はとうに捨ててしまった。


「片思いって、すごいよね」


「いきなりどうしたの?」


 しっかりと描かれた眉をひそめ、紅花は水を一口飲んだ。彼女の手にかかるとただのミネラルウォーターも華奢に見えた。


「だってさ、好きですって言われて相手を好きになるのは理にかなってるじゃん。自分のことを好きかどうかも分からない人を好きになれる。それって、凄くない?」


 紅花は戸惑うように目線を逸らし、直ぐにため息を零した。


「あなたは好きって言われたら、誰でも好きになるの?」


「無意味に窓口広げて俺を軽薄な人扱いしないでよ。誰でもなわけないじゃん」


「でも、それが条件なの?」


 目線を下ろすように紅花を見ると、彼女は笑っていなかった。酷く真剣に、心配そうま眼差しを向けてくるから、彰葉は揶揄うタイミングを逃す。

 彼女の鋭さに幾度となく救われてきた。口にしたくない過去も言葉にならない劣等感も押し殺しきれない苛立ちも、彼女は常に先回りして全部受け入れてくれた。わかってる。彰葉よりも彰葉の本心に近いところにいるのだから、その分、隠し事と嘘は彼女に対する冒涜になってしまう。


「そうだね。前提として、そういう相手にしか感情を持ったことがない」


 条件なのかと言われると、そのシビアな言葉選びに戸惑ってしまう。しかし、与える側になりたいと思ったかと問われると、背後にその記憶は存在しなかった。


「子供だから、俺。自分の愛情の方が重いとわかった状態で人を好きになるなんて無理」


 開き直った口調になってしまうのを、彰葉は取り繕わなかった。

 案の定、紅花は温い優しさを浮かべた微笑で、グラスをなぞっている。華奢な身体の線をなぞるような、丁寧だけれど濃密な動き。ふと、彼女の重たさを思い知ったようで、息が詰まった。


 遠くのテーブルの方から笑い声が伝わってくる。静かすぎるよりもマシなだけで、他人の幸せな声は嫌いだ。


「あなたを愛すのは簡単なのにね」


 いうに事欠いてそれか、と彰葉は心の中で彼女を罵ってみるけれど、それはまさしく理想的なエンターテインメントかもしれない。紅花の口にする戯言はいつも明後日の方向を向いているけれど、いつか辿り着く真相のようだった。


「俺は貰った愛はきちんと返すからね」


 等価交換だよ、と付け足す。

 心許ない彼女の指先に、自分の指先を重ねてみた。綺麗にネイルを塗った指先は隙がない。


 紅花に湧き上がるエネルギーの根源が、彰葉にはわからない。

 彼女だって渇望した愛情の一つや二つあるだろうに、なぜ枯渇せずに人に与え続けているのだろう。見返りを求めないというよりも、逆走はできない滝のように、彼女の思いはただ一方的に流れ続けている。


「それだけあなたの愛は軽いのよ」


 随分と辛辣なことを言う。


 彰葉自身、自分の短絡的な考えを大人として褒められないことは理解しているが、疎ましく考える紅花の当て擦りを簡単に受け入れるのも癪だった。

 

 重ければいいのか、と思う。

 育てきれないものは、始めから持ってはいけない。

 生みだされ命を持ってしまえば、何を糧に育つかなんて育ってみなければわからない。育たずに朽ち果てるかもしれない。

 愛したい時だけ愛したい、そんな身勝手な想いには辟易とする。


 それでもどこかで、完璧な物語を求めている自分がいる。欠落を思い出で埋め合わせて、不安を空想で上書きした、そんな物語。


 なにやら重たいため息を零して、紅花は煙草を取り出した。


「ここは禁煙です」


 手を伸ばしてシガレットケースを取り上げる。外資ブランドの重厚な作りで、艶やかな革は手に収まりが良かったが、中身はスカスカの紙煙草とは思えない重さで、中身より重たいケースなんてくだらないという思いが喉元まで出かかった。

 

「ねぇ、秋月」


 彼女の眼の前でシガレットケースを揺すってみるけれど、彼女は一瞥もくれずにいた。


「あなたはさ、片思いの終わりは何処だと思う?」


「え?」


 少し騒がしかった四人組が帰る準備を始めたので会計にまわろうとした彰葉を、マスターが目で制してきた。

 彼は紅花と蓮に対して酷く丁寧な対応をする。彰葉からすれば気心の知れた相手故に他の客を優先すれば良いと思うのだが、親しき中にもなんとやらの気品ある対応でもてなすマスターの意見はどうも違っているらしい。そこまでしなくていいですよと思わず言ったこともあるが、彼はそっと微笑むだけだった。


「片思いの終わり?成就するか、玉砕するかの二択じゃない?」


「また。極端な選択肢しかないのね。恋じゃなくてもいいわ。誰かに、何かに、情熱をかけるとき、終わりは何処にあると思うの?」


 彰葉は思わず窓の向こうに目をやる。夜更けのこの時間帯、窓ガラスは鏡になる。夜空の濃い暗さを背景に、バーのこじんまりしたインテリアは、まるで夜空に浮かんでいるように錯覚した。


 話がややこしい方向へと向かっているのがよくわかる。わからないのは、紅花の意図だった。

 生来、彰葉には、物事をややこしく考えることは向いていない。悩むことも熟考することも得意じゃないし、そうすることで重みをもつ事実には向き合いたくなかった。紅花や蓮は短絡的だの極端だのと指摘してくるけれど、選択肢なんて抑々必要がなかった。二つあるだけで悩まなくてはならないし、三叉路なんて迷子の原因でしかない。


 朔也なんていい例だ、と思う。恵まれ愛され育ってきたというのに、ふんだんに与えられた選択肢の多さに面食らって動けなくなっている。


「振り返ったときに、あれが終わりのタイミングだったんだって、気づければいいんじゃない?」


 断ち切った思いのきっかけらしいきっかけなんて、本当のところ知りようはないのだろう。明確な、たった一つの理由で終わっていく関係性なんて、きっとない。取り巻く様々な変化や違和感が関係性に明確な終止符を打つ。


 それでも心に残った愛情を、人は宝物にしてしまうのだろう。


「俺ね、先輩の恋人のことだけは悪く言わない。あの人が選ぶ相手ならどんなに俺が嫌でも気に食わない相手でも、笑顔で祝福するつもりだよ」


 未来のことを口にしているはずなのに、何故か思い出話をしている気分だった。それくらい、思いをほり起こしている気がする。


「健気なこと。でも、悪いことは言わないわ。そんな、自己陶酔はおやめなさい」


 グラスを弄り続けていた紅花が顔を上げて、冷静な声で言った。


「なに、じゃぁ、あんな女って恨めばいいわけ?」


「だからどうして、秋月の頭には極論しか存在しないのよ」


 ほら、また。

 そう指摘したいのを、彰葉は飲み込んだ。

 それ以外に、何があるというのだろう。

 眉をひそめた彰葉の眉間に、紅花が手を伸ばす。恐ろしく冷たい指先だった。


「気にかけないのよ。恋に余裕は重要な切り札じゃない」


「恋は勢いだと思うんだけど」


「そうね。そうやって勢いで突っ走るから、収まるべき場所が折り合わなくて終わるのよ」


 彼女の手を顔から外し、指先を絡める。この人をどれだけ好きでいても後ろめたくないのは、彰葉にとって心強かった。

 それこそ、男女に友情が存在しないとしても、友情を超越した思いならば毒されずにいられる。


「紅花ちゃん」


「なに?」


「知らないよ。そういう余裕ぶっこいて、知らずに相手奪われていても」

 

 紅花の指先にほんの少し、力が入る。その姿を、彰葉は愛おしいと思った。年上の、冷静沈着として凛と華やかなこの人にも、花弁の重さに首をもたげる瞬間はあるのだと知れる。


「誰かに奪われるのってね、突然じゃないの。絶対何処かに兆しがあるわ。青天の霹靂なんてありえないのよ。なのに、見逃したやつに限って、いきなり不幸が目の前を横切ったような顔するのよね」


「紅花ちゃんって、実は結構重たいタイプ?」


 茶化すつもりで言ったが、彼女は真剣な表情で瞬きをした。


「あなたの経験だけで私の愛の重さをはからないで」


「そうだね。でも、紅花ちゃんの物差しはバグってるからさ」


「おかしな話よね。物差しっていうのは絶対的なものであるはずなのに。いつから個人の持つ勝手な尺度になってしまったの?」


「多様性って言葉が多様性を無意味に肯定したせいじゃない?皆、悪者になりたくないからね」


 彰葉の言葉に、紅花は何も言わなかったが、代わりに表情を硬くして、何やら不快感を飲み込んでいるようだった。


「物差しに自分で数字書き込んで、測らずに殴り合ってんだよ。嫌だね、道具の使い方も知らないで力業に出るなんて」


 嫌な記憶ばかりを追憶する。感情を自分のものにしないことで現実を推し進めて生きて来た。

 押し付けられる正義感には、彰葉は気が付かないふりをする。差し伸べられた手はなるべく取らない。助けてくれそうな大人を嗅覚で見つけ出す方が正確だからだ。自分の意志で後悔することも納得することも苦手ではなかったけれど、他人に委ねて憂うなんてことだけはしたくなかった。


「便利なものほど、使い方を間違えると手に負えないものよ。良い人ほど、道を間違えると面倒なようにね」


 彼女の指す、道を間違えるという行為がどの線引きまでを指摘しているのかは分からなかったが、しかし、紅花の言葉はいつも妙な説得力がある。

 彼女の経験してきた過去など知らない。

 それでも、彼女が慎み深く隠しこんでいることは察しているし、例えば面倒という言葉に含まれた意図が誰に対するものなのかは、敢えて知ろうとは思わない。


「俺からも一つ、聞いていい?」


 すべての客が引き上げたのを、横目に確認する。


「いくつでもどうぞ」


 余裕な笑顔で言う紅花に、アイラインのきつさがよく似合う。

 この人には強くあって欲しい。

 言葉にしたら角が立つとわかっているから言わないけれど、彰葉は紅花の女としての凛とした強さと品の良い悪女ぶりを愛し、そして尊敬していた。


「紅花ちゃんは、一目惚れする?」


 出会った瞬間に、無表情を崩したいと思ったこと、ある?

 去っていく背中を、見えなくなっても追い続けたこと、ある?


「一目惚れって、振り返ると、あれは一目惚れだったかもしれないってこと、ない?」


 紅花の柔らかな口調に彰葉は頷き、グラスの残りを一気に飲み干した。アルコールなど感じることもできないくらい薄く割った、ウイスキー。香りを楽しめれば十分だし、彼女とアルコールを共にしているという事実さえあれば、それでよかった。


「気付いた瞬間、自分の鈍さに驚くよね」


「恋は自覚して初めて、感情を伴うのよ」


「そういえば、朔也君からの受け売りなんだけどさ、恋と愛って、英語だとどっちも同じ意味なんだってね」


「ラブってこと?」


「そう。だから、宗教的な愛が、日本人には受け入れられなかったって聞いた」


「坂口安吾ってところね」


 彼女の呟きを、彰葉は理解できなかった。

 紅花はグラスに残った氷を少し眺めてから、追加でペリエを頼んできた。


「もう、ラストオーダー終わってるよ」


 時計を見ながら、しかし彰葉は手早く準備を進める。


「色は付けるわ」


 彼女はそういって、無色透明のグラスを傾けた。色鮮やかなアルコールに比べると見た目にも味覚にも味気ないだろうに、人は時折その存在に何かの暇を感じるのだろう。


 紅花の滑らかな喉元が上下するのを見つめ、彰葉は何故か自分が乾く感じがした。

 満たされない思いが、いつも身体の何処かにあった。虚しさや肉体的な欲望ならばどうにだって埋めようがあるけれど、自分でも掴み切れない、捉えどころのない焦燥感と喪失感は厄介で、手強い。存在を忘れようとすればするほど、意識のど真ん中に鎮座し、何をするにも足を引っ張ってくる。


 見つめ過ぎたのだろう、紅花と目が合う。綺麗な人だけど、何故か手放しで幸せそうと形容するのは憚られる、影を感じる。よく身に着けているネックレスの、小ぶりなのに存在感のある輝きに似ている。


「人を大事に思う気持ちって時々自分でも驚くくらい大きいものなのに、恋愛感情に絡めないと説明がつかないのって、難儀よね」


 彰葉は彼女の零した言葉に重なる感情を意識して、曖昧に笑った。

 

 大事にしたい気持ちがある。

 それが人を思う気持ちだとして、しかし愛だ恋だという関係性に落とすこともできず、進むことも戻ることもできない。

 友情よりも恋人の優先順位が高いのが此処に集う女性のほとんどの意見であって、やっぱり、恋人の座はとても美しいものらしい。


 「愛してる」で始めることも、「さよなら」で終わらせることもできない恋をしている気分だった。







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