下弦の月
蓮はベランダから、朔也に電話をかけた。彼は電話が来るとわかっていたとしか思えない速さと丁寧さで、電話に出た。
ことの顛末を話すのは簡単だった。言葉は伏せながらも、紅花と彰葉の悪ノリに、雅が気を許して口数はそれなりに多かったことを伝える。ただ、帰り道のことは言いだせなかった。
黙って相槌すら打たずに話を聞いていた朔也は、とても静かだった。独り言になっているのではないかと不安になる静けさが、携帯の向こうに広がっていた。
煙草の火を見つめ、時間を潰す。
「雅がすっきりした様子なら、よかった」
話し終えて暫くしてから、朔也は漸く一言いった。
「面倒見がいいのな」
朔也が雅にだけやたらと心を配っているのは知っていた。
「駄菓子屋で会ったとき、言葉は愚痴なのに表情が硬かったのが気になったんだ。あの様子は、自分が苦しんでいる理由が判然としていなかったんだと思ったから」
辛いと、雅は言った。理由はわからないけど辛いのだと。
朔也、正解だ。満点の解答だ。
「お前にとってさ、お前みたいな存在はいたのか?」
雅の痛みをここまで鋭く察知したということは、彼のデータベースの中に似たような事例がある、と思ったのは勘に過ぎなかったが、電話口で朔也が軽く笑った。
「いたらこんなに、間違った生き方してねえよ」
間違った、と彼は言う。
たかが二十年生きただけの中間地点で自分の人生に烙印を押す。大人びているというにはあまりに退嬰的な考え方だった。
「で、放っておけなくて、お節介を焼いてるってか。お前も意外に、ボランティア精神旺盛なんだな」
揶揄うことで本心に近づこうとするやり方を、昔はあまり好きではなかった。人を挑発して本音を引き出す、他人の本気をかわして逃げ回る。どれも姑息な大人の手段に思っていた。
しかし、直情的に思っていることをすべてを口にできる人間ばかりではないと知った。達者な口で触れさせまいとする本心の、如何に弱いことか。泣きたいときに必ず泣けるのならば、世界も人間関係も人生も、もっとずっと簡単なものであるのだろう。
「気付いた痛みからは目を逸らしたくない。干渉はしてくるけど面倒は見ない大人は、本当に多い。大人は都合のいい時だけ、大人になるからな」
「否定はしない」
「十分だ」
お互いが言葉を口にせず、僅かな沈黙が出来た。電話口からは何も聞こえず、携帯電話を当てていない左耳に改造車の大きすぎるアクセル音が響く。
「朔也」
「何?」
「先に謝る」
「なんだよ?」
「雅のこと、泣かせた」
電話口で息をのむ音がする。怒鳴り声が響くかと思って少し電話を耳から離したが、意外にも沈黙は長かった。
無意味に空を見上げる。六割くらいの半月が、零れそうな形で空に張り付けられている。
「そっか。想定外」
「俺だって、想定外だった」
「あ、違う。そうじゃなくて」
蓮は潰しかけていた煙草をもう一度、唇に当てる。じんわりとした熱があった。
「てっきり、佐野の姐さんがそうさせるかなって思ってた」
「あの人は、ただの汚れ役だったな」
バーでの、紅花の辛辣で遠慮のない言葉を思い出す。雅を苦しめるものなら正義だろうが憲法だろうが関係ない、という怒気を感じた。
過保護で、もしかしたら過干渉な存在かもしれない。でも、確かに、面倒見はいい。最後まで愛情を注いでくれると信頼するには十分なほど、雅を大事にしていた。指先を絡めとられ、時に足かせとなったとしても、その手があるから迷子になることも間違ったほうに歩くこともない。
「佐野の姐さんらしいな」
「でも、もしかしたら、雅の弱さは姐さんには救えないかもしれない」
蓮の呟きに、朔也は鼻で笑った。
「穴に落ちたとしてさ」
「は?」
「想像してみろよ。自力じゃどう頑張っても登れない穴に落ちた時に、誰に助けを求める?同じ穴に落ちたやつか?穴の外にいる人間か?」
「穴の外にいる人間だな」
「それが答えだろ。勿論、落ちた時の痛さとか、穴の薄暗さとか、湿り気を帯びた匂いとか、そういう事を共有するのは同じ穴に落ちた奴だろうけどさ」
朔也の例えはいまいちピンとこなかったが、はっきりと答えが出ているのなら話は進めやすかった。
「なんで、雅が泣くってわかった?」
「泣くきっかけを、探していた。彼女の算段では、利玖に慰めて貰って大丈夫って言って貰って泣く予定だったんだろうな。雅みたいないい子は、同情を愛情として受け取れる」
「その当てが外れたのか」
「勘が鋭いな、蓮。雅の愚痴に、利玖のヤツ正論ぶちかましやがった」
「それもまた、利玖の良さなんだろうけど」
蓮は先ほどの、バーでの空気を思い出す。一方的に鬱憤を晴らすように人を悪くいう事で場が盛り上がる。そんな薄暗さに、人の良い利玖が耐えられないのは無理もなかった。
「ま、でも、雅も落ち着いたらすぐに、利玖の所に戻るさ」
「そんなもんか?」
「楽しい時に一緒にいたくなるようなオーラあんじゃん、あいつ」
嫉妬はなさそうな声だった。からっとした、朔也自身がそう思っているのだろうと気付かせる声だった。
「あいつもあそこまで性格がいいと、教育者には向かないな」
「お前の教育論?」
「俺は一生教育者にはならねえよ」
似合っていると思うけどな、とは言わない。
雅の宿題を手伝うとき、朔也は雅をコントロールするのがうまい。駄菓子屋に集く小学生たちに対してもそうだった。
子供の力量と集中力とやる気を、彼は見抜くのがうまく、そうすると子供にとって絶妙なラインで課題を課すことができる。簡単な作業は手を抜かれるし、難しすぎる課題は人を潰してしまう。朔也は他人を見ていないようで、きちんと見極めることのできる怜悧な眼を持っていた。
「お前ってさ、褒められたこととか、実は大してないんだろ」
「一緒にすんな」
電話口でもわかる。朔也の眉間にしわが寄り、目線が鋭く床を睨んでいるのだろう。
「俺はこれでも出来の良い生徒だった時代もあるんだ」
誰がそんな、肩書の話をしているのだと笑ってやりたいのを、辛うじて抑える。
朔也の触れて欲しくない部分は、いまいちよくわからない。自虐的な部分と自尊心が似た色をしている。
「できて当たり前、そういう環境の中で生きて来たんだろ。努力を認めて貰った経験なんて、ほとんどないんだろ。雅だって利玖だってお前の能力は認めているけれど、それがお前の努力だとは思っちゃいないだろうな」
「そんなの、大抵の人間がそうだろ」
朔也は突っぱねるように言う。
「自己責任論と能力主義ってか」
「時代には合ってるだろ」
「俺は好きじゃない」
蓮の言葉に、朔也は少し言葉を濁し、やがて少し笑った。
「やめよう、こんな話」
朔也が嫌がるのも無理はなかった。
蓮のように初めから確かな境界線を越えようと思わずに生きてきた人間と違って、境界線の向こうの優美な生活を知っているのにも関わらず、いつの間にか境目を目の当たりにしてしまった朔也とでは、複雑な思いの度合いが違い過ぎた。
自分の現在地を確認する度に苦しみ続ける朔也に、蓮ができることはなかった。彼の苦しみに付き合うことはできるけれど、共感はできないし共鳴する過去もない。
それでも、朔也を身近に感じていたのは事実だった。
朔也が蓮にだけ話すことがある。勿論、利玖にだけする話も、雅にだけする話もあるのだろう。
「お前も、そろそろテストなんだろ」
「よく知ってんな」
「彰葉が嘆いてた。相手にしてくんないって」
朔也は少し困ったように言葉をまごつかた。
「あのさ、俺も、謝っとく」
「何を?」
「多分、彰葉にいらないこと言った」
最近の彰葉の様子を思い返しても、朔也に対して恨みや疎ましく思っている様子は一切なかった。朔也の取り越し苦労じゃないだろうかと首を傾げる。
「あいつが同情を欲しがっていないのはわかっていたのに。同情の余地を潰されると、俺、我慢ならなくなるんだ」
蓮はベランダの柵に背中を預け、煙草の煙を天井に向けて細く吐き出した。可能な限り長く息を吐きだしていると、朔也が煩いと文句をつける。
「お前、煙草止めろって言ったよな」
朔也は蓮が煙草を吸うことを、極端に嫌がる。彼の前では吸わないようにしているにもかかわらず、煙草の気配を感じるだけで露骨に嫌悪感をむき出しにする姿は、最早強迫観念に捕らわれているようだった。
「何が、同情の余地になるんだ?」
煙草についての深堀りは、出来ればしたくなかった。
朔也の嫌がる気持ちの根底に何があるのかは分からないけれど、蓮にとってこれが自分にとっての最大の過ちで、煙草を吸っているときの堕落に許されていたかった。
雅に話した通り、煙草を吸ったのは紅花の影響だった。自暴自棄で何もかもを投げやりに過ごしていたあの暗鬱の日々の中、母の身体を思って絶対に吸うことのなかった煙草を知って、背徳感に押しつぶされそうになりながらも、そこが確かな境界線と知った。自分にそれ以上の悪事は似合わないと悟った。
朔也程じゃないにしても、彰葉程じゃないにしても、生きていることが苦痛になることくらいある。生かされることの未知に踏み込む気にもならない、どうしようもなさと一晩を過ごすことなんて珍しくない。
そんな時、煙草を手に取る。たいして好きでもないけれど、人に疎まれると知っていても、転がり落ちそうになる自分にブレーキをかけてくれるのは、大切な存在でも優しい言葉でもなく、一番の過ちだと思っている白い煙だった。
朔也は何かを言いたげだったが、溜息を一つ挟んで話し始めた。
「さっきも言ったけど、雅は同情されてやっと、自分の努力と痛みに気付けるんだと思う。雅みたいに努力が簡単に実らないタイプは、他人から十分頑張っているって言われて、認められて、やっと自分を受け入れられる」
でもさ、と朔也が息を吸った。
「彰葉って、そういうの無いじゃん。その場その場を生きているタイプで、だめなら次、みたいな思い切りの良さがあるって言うか」
「良くも悪くも執着心がないな」
朔也が濁そうとした続きは、その類のものだろう。
「うん、だから、過去はもう何もないどうでもいい、みたいな顔されるとさ、どうしても我慢できなくなる」
朔也がまだ何かを言い淀んだ気配を感じ、続きを促す。背中をつけた時はシャツ越しにひんやりとしていた金属の手すりに体温が馴染んできていたが、むき出しの肘をかけると、飛び上がる程冷たかった。
朔也は逡巡したのち、話し出した。
「俺とかはさ、未来の為にいろいろ頑張ってきたんだよ。勉強すれば将来が楽だ、努力は必ず報われる。そうやってそこそこの努力を強いられてきたんだ。雅だって、きっとそうなんだ。蓮はさ、小学生時代に十時間塾にこもったことがあるか?」
「縁のない話だな」
「俺は、必死に頑張れば、自分の未来が保障されているんだと信じて疑わなかった」
朔也の言う無垢さを、蓮は笑うことはできなかった。
正直に言えば、ほんの少しだけ、嘲笑う気持ちがないわけではなかった。親の庇護のもと高い塾代を払ってもらって勉強さえすればいい環境下にいた彼の温室育ちを、妬む気持ちがないと言えば嘘になる。
母一人子一人で母の為に家事をこなしてきた小学生時代、母親の介護に明け暮れた高校時代、遠く離れた閑静な住宅街で自分の将来の為に勉強に向き合い続けた朔也の方がよっぽど恵まれている。
でも、彼の理想や未来は今、宙づりの疑い深いものになっている。
一度裏切られた努力への挑戦に、朔也が歩き出せていないのはわかっていた。努力したことを後悔している。努力した分だけ、裏切られたという喪失感が強い。形容し難い暗鬱を前に、朔也は生きる気力を捨てることを選んだ。綺麗事に押しつぶされる前に、おとぎ話のような未来予想図を捨てて、彼は享楽主義に徹している。根の真面目さが鎌首をもたげる度に今の自分の立ち位置に絶望しながら、それでも振り向く過去の純真過ぎた心に負のレッテルを貼ることで、今という瞬間を少しでも前に進めようとしている。
残酷だ、と思う。
朔也の痛々しさを見る度に、彼の救いの無さを実感する自分がいる。比較で誰かの幸せを測りたくないけれど、胸を焦がしても手を伸ばしても蓮には手に入れることが出来なかった条件を揃えながら、朔也は苦しみから抜け出す方法が分からずにもがき続けている。
彼の欲している言葉を、蓮は本当は知っていた。
「朔也は、大丈夫だと思う」
「は?」
「お前は大丈夫。なんだかんだで、きっと大丈夫」
いい加減なことを言っているとわかっていたし、朔也からそう指摘されると思っていた。しかし、彼は軽い声で笑うにとどめた。
「そうなればいいけどな」
その場凌ぎの相槌のようでもあったけれど、朔也の本心に近いという確信があった。
諦めている。嫌だ。どうなってもいい。
そんな諦観を口にするくせに、大学にはそこそこ真面目に通っている。テストとなれば計画的に勉強をし、レポートの為に重い本を持ち運ぶ。
やっぱりお前は真面目だよ。
ちゃんとやっておけばよかったなんて後悔、お前には似合わない。
恵まれたお坊ちゃんらしく、将来の展望に期待を込めて、出来る限りの努力をしていればいい。
目先の結果に執着しないで、いつかの自分を救えばいい。
「なぁ、朔也。今日の月って、これ、なんていうんだっけ?」
朔也はベランダにいなかったのだろう。微かな足音と、ベランダの扉を開ける音がする。
この、相手への無防備な愛情と濃やかな優しさを、彼は自覚していない。
「下弦の月。あと一週間で、新月になる」
余計な言葉は挟まないくせに、ほんの少しの気持ち添えで言葉を付け足す。
やはり朔也のことはよく、わからない。




