ビビットピンク
学校帰りに、紅花に誘われてカフェで待ち合わせをした。横浜駅のデパートに入っている老舗のスイーツ店で、軽い洋食から豊富な種類を取りそろえたコーヒーまでバリエーションは様々に揃っていて、ファミレスの上位互換のようだ、と、雅はそっと周りを見渡す。自分たち同様に女性客が多く、男性は数人いるも、女性と同伴だった。
「パフェとか要らない?」
メニューのトップに掲載された季節限定のパフェを指さした紅花の爪先は、臙脂に近いカーマインだった。縁を、金で囲っている。
「お腹空いてなくて」
雅はそう言って、ハーブティーに決める。
一か月ぶりに学校に行ったのだが、緊張感や息苦しさが未だに残っていて、意識の大半が霧散してしまう。
スクールバックには、半分近く残したお弁当箱。
「じゃぁ、焼き菓子を頂きましょう」
紅花は近くにいた店員にコンタクトを取り、飲み物と焼き菓子の盛り合わせを頼んだ。
「紅花さんは今日、お休みですか?」
深緑と水色と青と白と、黒。様々な色が入った幾何学模様の七分ワンピースを着た紅花は、服装に合う清楚なメイクをしていた。アイラインはおそらく、引いていない。
「えぇ。一日オフなの」
にっこりと笑った唇にも、優しいピンクの口紅が滑らせているだけだった。
紅花は占い師という仕事柄、メイクは常にしっかりと描いている。眉にしても、リップラインにしても、アイラインにしても。抑々かなり華やかな顔立ちであり、その印象的なメイクをして身体のラインを隠さない漆黒のワンピースを着ていると、雅には別の世界の人に感じ、正直に言えば近寄り難さすらあった。
「良かったわ、雅ちゃんが来てくれて」
雅は愛想笑いを浮かべ、弄ぶようにお冷に口を付ける。
パーマを当てた金色の髪は、同じ金髪でも利玖のそれとは印象が違う。昔、蓮に理由を聞いてみた。地毛が違うのだと言っていたけれど、どう違うのかまではそういえば聞いていない。
白いシャツに黒いエプロンを掛けた店員が注文の品を運んできた。口調やしぐさを見ても新人であることは明らかだった。慣れない手つきで出されたハーブティーは澄んでいて、底の輪が浮いて見える。
「やっぱり、セーラー服が似合うわね」
運ばれてきたコーヒーの小さなデミタスカップを手に、紅花が手放しでそんなことを言う。
新学期に入って登校したのは初めてだが、始業式の日から制服は毎日着ていた。ただ、毎朝電車に乗ったところで気持ちが切れてしまい引き返してしまう。今日だって朔也に宣言し背中を押してもらわなかったら、恐らく諦めていた。
朝の満員電車に乗り込み、背の低さから大人たちに押し流され押し潰される度、自分がいない方がいいのではないかと思ってしまう。
自分がいたスペースの分、誰かが息をするのが楽になるんじゃないか。
端から電車に乗るのを諦めて、公園で暇つぶしをした日もある。この春は雨続きで、肌寒さを耐えながら公園の遊具で雨宿りした、あの空白の時間。自然といろんな人の顔が浮かんできて、言いようのない不安と絶望感に襲われて、そのくせ会いたいと願った。勿論紅花のこともしょっちゅう考えたけれど、彼女のところに行くことはできなかった。
雅はやはり言葉が出ずに、笑うにとどめる。今日自分から発した言葉の少なさに、自分でも愛想がないと分かってはいる。ただ、無意味な言葉を紡ぐには、彼女の傍は優しくて、温かい。自分をここまで手放しで認めてくれる十歳年上の女性に、雅は未だに感情が追い付かないままだった。
年は離れているし、抑々学生と社会人というわかりやすい違いがある。タイプが似ているわけでもないし、通ずる何かがあるわけでもない。同じように年の差があっても、朔也や利玖は彼女と同じ目線で会話をする。雅が利玖や朔也に感じている心の距離の近さに比べ、紅花ははるか向こう、スリガラス板の向こう側の妖艶な雰囲気だけを感じ取ってしまう。
雅の調子の上がらない様子に穏やかな表情を浮かべ、紅花はクッキー良かったら食べてねと言った。
「そう言えば、今日午前中に秋月が笠木君のところを訪ねたんだけど、クッキーがおいしかったって言ってたわ」
あぁと、雅は先週のことを思い出す。
「朔ちゃんがあのクッキー気に入ったみたいで、おいしそうに食べてたの。それを見て、利玖ちゃんが張り切っていた」
利玖の朔也に対するそれは、食の細い我が子に向ける親の愛情と同じだ。朔也が褒めた料理や手作りのお菓子は、必ず間を置かずに提供される。朔也は独り暮らしのうえに偏食で小食なせいか、体質もあるだろうけれど痩せすぎなのは事実だ。雅ですら入るか怪しい位のスキニーパンツを履いている姿を見ると、利玖のお節介もお節介と指摘しにくい。
「あの二人は常にセットね」
雅はクッキーに手を伸ばす。優しいカモミールティーのお陰か身体のこわばりが解け、小さな空腹感を思い出すようだった。
「磁石なんです。正反対だから」
「秋月と雪宮みたいなものね」
ジャムの乗せられたクッキーは齧りにくいので一気に口に入れる。よく練られたジャムはイチゴ味で、中に粒らしく歯触りがあった。
「正反対な性格って意外と相性がいいものよね」
紅花は何気ない口調で言った。
「でも、離婚の理由でよく、性格の不一致って言いますよね」
雅もまた、何気なく返す。向かい合った紅花がほんの一瞬目を見開いたのに気付き、あまりポジティブな返答ではなかったなと直ぐに後悔する。雅は会話のテンポを守るのが下手だという自覚はある。
デミタスカップを置き、彼女はテーブルの上で手を組んだ。濃いネイルによって、肌の白さが強調される。さり気ないピンキーリングには飾りもなく大人しく見えた。
「そうね。うちにもよく、そういう相談を持ってこられるお客さんがいるわ。主に、女性ね」
女性の方が占いなどのスピリチュアルなものを頼りがちとは言うが、雅にはよくわからない。それは決して消極的に思っているからではなく、誕生日とか、星座とか、名前とか、自分が選択したわけではない何かに委ねることへの不安が拭えない。
「性格が一致するよりも違った方が、絶対的に惹かれ合うものなのにね」
紅花もクッキーに手を伸ばした。
「笠木君と神崎君なら、明るくて社交的な笠木君と、クールで孤高な神崎君は、性格的には正反対。でも、あの二人が並んでいても、お互い無理をしているとか我慢をしているとは感じない。なぜなら性格が違っても、自分にない部分を補ってくれていると感じることが出来るから」
利玖と、朔也。
雅は目線を少し遠くに向け、考える。彼らに出会って、約一年。濃い付き合いの中、彼らの人となりは多少分かったつもりだ。勿論、雅に見せてくれる面だけだが、彼らに裏の顔があったとしても私に見せる面も偽物ではない、という確信はあった。
「雅ちゃんもそうでしょう?気分によって、頼る相手を変えてない?笠木君に話した方がいいこと。神崎君に相談したいこと。それぞれ違うでしょう」
「そうかも」
正反対の二人。利玖の明るさと優しさに救われているし、朔也の冷静さと理知さに助けられる。
自分の気持ちが明るいときは利玖とあれこれ楽しみたいし、落ち込んだ時は朔也のことを考える。朔也の教えは雅にとっては、ツラいときに心を支える、唯一の対抗馬だった。落ちていく心に対して、誇大化する劣等感に対して、穿っていたとしても忖度のない先人の教えや創造の世界を揺るがす倫理観。朔也の教えてくれる言葉や考え方は、教科書には載っていないし、まともな大人は教えてくれない。
「朔の傍が安心するの、ちょっとわかるよ」
そう言ったのは利玖だ。
去年の十月あたり、朔也と中々会えずにいたとき、雅は落ち込んでいる気分が一層重たくなってふさぎ込んだ。学校行事目白押しの時期で、雅は既に学校から遠のいた脚が張り付けられたように重く、それまでは学校に行かないにしても着る様にしていた制服を着ることすらできないほどだった。
何が嫌だと大人は問うてきた。明確な理由もなく学校に行かないことは放恣なことだと言いたげに、いつも答えを求めてきた。裏を返せば、正当な理由があるのならば許してやると言いたげな瞳。
形のない嫌悪感を、正確な色のない恐怖心を、なんと説明すればいいのか。うまく言えずに口を紡ぐしかなった雅に、それでいいと言ってくれたのは朔也だった。もちろんそう言ってくれた人はいくらかはいた。誰もが雅を責めたわけじゃない。親だって遠目に見守るにとどめてくれたし、数人のクラスメートは学校に行けば声をかけてくれる。紅花や利玖達も、決して学校に行かないことを問題だとは言ってこない。
今でも奔放な大学生生活を送っている姿を見れば想像に難くないが、朔也自身、高校はさぼりがちだったと言っていた。
「居心地悪いんだよな」
そう言うにとどめたけれど、この上ない的確な表現だった。
俯瞰的に考えれば、朔也と雅とでは状況はかなり違っているようにも思う。賢く、容姿もいい朔也は学校という場所で孤立してもあまり困らなかっただろう。大人受けのいい性格とは言い難いけれど、一部の大人には信用される職人気質なところもある。
彼は選択肢の一つと学校に行かなかったのだ。
それでも、朔也に味方されると、雅は純粋に安心が出来た。学校に行けない日、雅は朔也の傍にいたくなる。明るい笑い声から遠い場所で、静かに眠りたくなる。
しかしそもそも性質的にいえば、雅よりも出不精の朔也だ。彼は気が乗らなければ独り暮らしをしているアパートに一週間でも二週間でも閉じこもる。
雅は朔也の家に行ったことはない。聞いたことはないけれど、利玖だって訪れたことはあるのかわからなかった。秘密主義で潔癖で清廉。そして掴みどころがなく厄介だ。
利玖の家で朔也が来るのを待ちながら、雅はやる気のないテキストを開いてみたり、朔也の読み終えたまま置いて行かれた小説を手に取ってみる。どれも集中力など続かず、自然とため息だけが漏れた。そんな雅を泰然と受け止めながら、利玖は励ましてくれるのだった。
「いつ来てくれるかな?」
雅は窓の外を眺め、決して多くはないが時折車両の通行する、幅の広い道路を眺める。自家用車は平日らしく小型のものが多い。
「さぁ、どうだろう。俺にも、朔のことはわからないからな」
苦笑いを浮かべた利玖に、そうだよねとだけ返す。
雅はやはり外の高い空を見上げ、息を漏らす。紅花から御下がりで貰ったニットは薄手で、肩に引っ掛けたカーディガンが柔らかい。
朔也を彼は、わからないと言った。確かに、わからないだろう。朔也は本能に忠実なところもあるし、理性に誠実なところもあるし、精神に打ち勝てない弱さもある。計算尽くで読めるようなタイプではない。なにより、彼自身己を持て余している印象すらある。
なのになぜ、わからないという言葉には、あんなにも拒絶の色が見えるのだろう。拒絶が大げさにしても、距離を取られた感覚が否めない。
明確な線引き。
男と女。
学生と社会人。
光と影。
月と太陽。
黒と白。
線引きをすることに意味がある、という場合、何方にも身を置きようのない私は何方の顔をすればいいのだろう。
「そうそう。今日ね、これを渡したかったの」
何かを思い出したように紅花がかばんを手に取った。外資ブランドのロゴが入った、ベージュのショルダーバック。
渡されたのは小さな紙袋だった。触った感触でなんとなくわかったのだが、小さなマニキュアの小瓶だった。濃いピンクをしていて、ラメも散らばっている。
「それね、つい最近常連さんが置いて行ったの。化粧品会社にお勤めなんですって。いくらか頂いたんだけど、マニキュアはそんなにもたないし、私には合わない色も多くてね」
紅花はいつも綺麗なマニキュアをしているけれど、職業柄原色を使いがちだった。
「もしかして、朔ちゃんにも?」
あたり。
紅花はにっこりとほほ笑んだ。
「まだ渡せてないから、近々お呼び出ししないと」
「呼び出しじゃなくて、紅花さんから来て。朔ちゃんなら、最近、ずっと利玖ちゃんのところにいるよ」
そうしたら私にも会いに来てほしい。
そうは言えなかった。
紅花は生まれつきのネコ目を細め、そうね、と考える様に頬に指先を添える。自分が十年後、彼女のように美しい女性になる夢は諦めている。雅は彼女より十四センチ背が低くて、彼女のように女性的な身体付きでもない。未だに中学生に間違われる童顔で、彼女の妖艶な顔立ちとは対極ともいえる。
「仕事が一段落したらそうね、行きたいわね」
「アキちゃんとユキちゃんも来てほしいな」
およそ共通点のない六人が揃うことを一番心待ちにしているのは、利玖だ。博愛主義者で、他人をもてなしたり、喜ばせるのが心底好きらしく、確かに欲のない彼らしい趣味だと雅は感心してしまう。朔也は容赦なく、意味が分からないと切り捨てるけれど、朔也の排他的な態度もまた極端なものがあった。
「いいわね。久しぶりに、全員集合」
十六歳の雅にとって、約束は守られるものであってほしい。誘いは現実のものであってほしいし、契りは永遠であってほしい。
でも、大人のそれは所謂社交辞令に過ぎず、言葉にするところまでがプロセスであって、手続きにまでは落とされない。
目線を落とした雅の髪を、紅花が撫でた。大きな手だ、と思った。華奢だけど、包み込むように大きい。
「まだ忙しい時期が続くし予定を合わせるのは少し先になってしまうかもしれないけど、必ずやりましょう」
雅が顔を上げると、紅花は強く頷いた。
目が合った時は他人を信用してもいい、雅はそう信じている。少なくとも、紅花はその法則に当てはめていい。
意識はしていなかったが、思わず顔がほころんだ。約束自体にも、約束を取り付けるという手続きにも、雅は満たされる。
利玖が雅のことで気を揉んでいたことは知っている。彼は心配性で、慎重派だ。だから雅のことだけじゃなく、朔也のことだって友人のことだって店の顔なじみのことだって、ちょっと深刻になりすぎる。「心配」が解決してくれる問題など、この世に一つもないのに。
その日の夜、雅は校則に反しないように手ではなく足の爪に、貰ったネイルを塗った。原色にラメを入れるタイプは珍しいなと思いながら、塗った直後の爪先をうっかり崩さないようにと足を延ばす。冬が終わると同時に自室のカーペットは取り外していて、直接触れるフローリングは冷たい。
紅花は真紅を多く使う。
朔也は漆黒ばかり。
利玖は時折朔也の実験台に使われて、彰葉と蓮は仕事柄爪に色はのせていない。
雅はペディキュアはよくするけれど、いつでも学校に行ける様に手は避けている。塗るのはほとんど、ピンク。今つけているようなビビットピンクから、薄紅まで様々な色を使い分ける。
匂いを逃がすために全開にした窓から、遠くのマンションの理路整然とした蛍光灯や窓の並びをみる。当たり前に丁寧な並びを見ていると、なんだか心細くなってくる。
朝礼の整列、教室の席順、テスト用紙の格子柄。
乾いたかなと、足を引き寄せ、親指爪を左手の腹でそっと押してみる。ラメが多いネイル特有の、ザラッとした感触。散らばった大小様々なラメが多角的に輝きを放っていた。