大人のルール
言葉より先に抱きしめてくれた長い腕の中で、微かな香水の甘い香りを感じた。上品さやオリエンタルな雰囲気、清潔な匂いとも違う、自分を包む空気が柔らかく感じる甘さだった。
「良い匂いしますね」
そういうと、紅花はにっこりと笑った。
「コットンキャンディよ」
コットンキャンディ。カタカナを唇でなぞる。
思わず、もう一度、紅花の胸元に顔を埋める。
なんでもよかった。心地の良い甘さと温かさに包まれて、雅はやっと深呼吸ができた。
利玖の家を飛び出した雅は、行く場所がなく途方に暮れていた。家に帰れば、一人になれることはわかっていた。両親は仕事に出ているし、自室は落ち着く。落ち着いて冷静になって、この状況をどうするかを考えればいい。
人の少ない電車に揺られて、空いている席に腰かけることなく窓際に立って、外を眺め続けた。手すりに背中を預けて、家に帰ってからのシミュレーションを繰り返すけれど、手を洗って服を着替えてからすべきこともしたいことも、何も浮かんでこないまま、気付いたら最寄り駅についていた。
家と駅の中間地点で携帯が鳴った。
利玖か朔也だろうと思ったが、彰葉からだった。
ココアをつくってあげるからお店においで。
簡潔な文章だった。
雅は読むが早いか、踵を返して駅に向かう。大通りに面した学習塾に、制服姿の生徒が吸い込まれていく。
多種多様な制服姿。シャツの形、色、ネクタイやリボンのデザインも、多岐にわたる。学ランやセーラー服姿も。それでも、そこに個性を一切感じないのは、何故だろう。
この集まりは、利玖か朔也の差し金だと、直ぐに気が付いた。自分が庇護対象として大人の手を煩わせているとわかっていたが、それでも甘えていたかった。
自分の足で立つことを、雅はかっこいいと思うことがあっても、自分がそうなることを望んだことなどない。
お店の扉には、クローズの看板がかかっている。そうか、今は昼休憩の時間なのかと気が付いて、心臓が緩やかに鼓動した。
いわれていた通りにワンコールすると、扉を開けてくれたのは紅花だった。
かき抱かれて、紅花の柔らかな身体に体重を預ける。近寄り難さとは裏腹に、一度傍に寄ると、離れ難い気持ちにさせる人だ。
「みゃびちゃん、意外と大胆だね」
揶揄う彰葉の声にも、しかし気遣いがあることはわかっていた。
小柄な雅では足のつかない、高い椅子に腰をかけて、彰葉が入れてくれたアイスココアを飲む。程よくきいた冷房と共に、火照った身体を優しく冷やしてくれる。
「それは、利っ君が悪いね」
ことの顛末を聞いた後、彰葉は直ぐに結論を下し、紅花もそれに同意した。
「良いか悪いかじゃなくて、愚痴ってそういうものよね」
憧れている人の言葉という付加価値もあって、雅はやっと、一日中抱えていた薄暗い感情に終わりを見出せた。
曖昧な理由に基づいたルールが苦手だった。複雑化し、迂曲して、結果的に重荷になってしまうルールを前に、それは理にかなっているかどうかを真剣に問うてしまう自分の性格が、大人にとって煩わしいのはわかっていた。
「でも、学校って、ほんとにルールが多すぎるよね。がっちがちの大富豪みたい」
「大富豪って、ローカルルールがすごいよね」
彰葉が楽し気に話に乗るが、なぜ学校の校則の話がトランプゲームに脱線するのか、雅にはわからない。
「一番シンプルなルールのままだと、強い人は延々強いし、弱いと中々上がってこれないじゃない。面白みには欠けるわね、確かに」
「イレブンバック、八切り、革命辺りは、そういう配慮だよね」
二人の会話を聞きながら、ココアを飲む。自分で作るときの粉っぽさはなく、ひんやりとした甘さとココアのほろ苦さが、喉をするすると通り過ぎていく。紅花と彰葉はウーロン茶だった。
「今度やる?六人揃ったらさ」
彰葉の言葉に、雅は頷いた。楽しい計画がなければ投げ出してしまうのは、時間の問題だった。
もう一度、紅花の携帯が鳴る。
「先輩?」
頷いた紅花に目配せをして、彰葉が扉を開けた。呆れた顔で現れた蓮は、元々浅黒い肌が一層やけて、濃い茶色に染まった髪と首筋の境目が曖昧になっている。少し会わない間に、よく焼けたようだ。
「お前ら、仕事の概念どうなってんだよ」
「昼休みだよ。見てわかんない?」
彰葉は挑発的に言った。
「私は、臨時休業中。個人事業主の特権よ」
開き直って笑う二人を横目に、雅は勿論居心地が悪い。
それを素早く察した紅花に、肩を抱かれる。やはり香水の甘やかな香りがした。
「だって、やっと雅ちゃんに会えるっていうのに、仕事なんてできないわ」
「仕事はしろ」
「なんであなたに言われなきゃいけないのよ」
「勤労は法律で決まっている義務だ」
紅花と彰葉が目を合わせ、同時に笑い出した。
「先輩の間の悪さは才能だね」
蓮が、当たり前のように口にした義務という言葉が、確かに場にそぐわない。
散々笑う二人に代わって、雅は蓮に、隣に座るように促した。遠慮がちに、それでも雅の背中にそっと添えられた手に、人の温かさを感じた。
話に加わった蓮は難しい顔で頷いて、炭酸水を飲み干した。
「頭の固い先生が多いんだな」
「先輩に言われるなんて、可哀想」
彰葉が茶化すが、雅はそうは思わなかった。彰葉や紅花は蓮を堅物だというけれど、蓮は限界まで人を許すことに長けていると思う。
利玖の醸し出す、猶予をあげているという空気感とは違って、蓮のそれは、相手の自制心や倫理観に信頼を置いている気がするのだ。だから、利玖は他人を見捨てられないけれど、蓮は、一度切ったら容赦ないだろう。そんな気がした。
「チャイムが鳴った瞬間に席についてなかったらアウトとか、定規もってスカート丈測られるとか、携帯がみつかったら三日間没収とか、息苦しいくらいに見張っているくせに、気付いて欲しいことには気付いてくれないんだなって思ったら、全然信じられなくなった」
紅花が頷いて、机の下で雅の手を取る。冷たい華奢な指先に絡めると、自分の指先の体温が高いことを自覚した。
「確かにねぇ。教師はいじめに気付かなかったなんて科白、ことが起こる度に聞いたけど、ちゃんと見ていれば気付くと思う。少なくとも、異変は読み取れる。事実、親は大抵、気付いている」
親。
雅は苦労して息をのんだ。
両親に連絡はいっているのだろうか。
「私も学生時代に、スカート丈については常習犯だった。しょっちゅう呼び出されてたわ」
「紅花ちゃんは、やっぱり反論する派だったの?」
「なんでスカート折るのかを真剣な顔できかれた時は、深い意味はありませんって真剣に返していたわ」
「嫌な生徒」
「でも、深い意味はなくスカートは折るけど、意味なく学校を休んだりはしないわよね」
紅花の声が鋭くなる。カウンターの向こうで高い椅子に腰をかけていた彰葉は唇の端で笑った。
「俺は高校中退したけど、確かに話を聞いてくれた先生なんて、いなかったな。最後なんて、厄介払いだったもん」
彰葉の視線は蓮に注がれたけれど、蓮は窓の向こうを眺め、何も言わなかった。
蓮の瞳は、美しい横浜の街並みと、今にも崩れそうな空、どちらを見据えているのだろう。
「何もなければ平和でいいはずなのに、何かしなきゃいけないからって、指導しやすいルール違反ばっかり摘発するのよ。本当に問題にすべきことは大抵、複雑で面倒だからね」
そうこうしていると、マスターがバックヤードから顔を出した。
「盛り上がっているところ申し訳ないけれど、そろそろ、準備しようか」
「あ、すみません」
紅花が直ぐに立ち上がり、蓮が続いたのを見て、雅も頭を下げてお礼を言った。
「雅。送っていくから、準備しろ」
「うわっ。先輩、それは女の子に言っちゃいけないセリフだよ」
「そうそう。雅ちゃん。合コンの後にこういう事言う男は、信用しちゃだめよ」
「お前らな。つい先週、家に送らせたやつらの言うセリフかよ」
蓮が呆れたように言った。眇めた切れ長の目に、笑うような含みがあるのを、雅は見逃さなかった。
顔を見合わせて悪戯に笑った二人の横顔にも、楽しそうな色が見えてしまって、それすら雅には、微かな痛みに思えた。
同じふりしているけれど、私は同じようには笑えない。
似たふりをして、同じような気持ちでいたいけれど、半端者のまま、自分は何処にいたって居場所らしい居場所なんかない。
蓮と並んで歩くのは、不思議な気持ちがした。おまけに自分は制服を身にまとっていて、周りの目線も何処か、異質なものを見るものだった。
「俺は犯罪者か」
思わずという雰囲気で蓮が呟いたのを、雅は受け入れて笑った。
「朔ちゃんと歩く時は、もっとやばい目つきされるから、大丈夫」
「そういうのは大丈夫って言わないんだよ」
蓮の腕時計が目に入った。革のベルトを巻いた腕の太さと硬さに、自分との差をはっきりと意識する。
「でも、あの目で見られたとき、朔ちゃんのこと好きだってことを無意識に確認するの。すれ違うあなたは朔ちゃんを知らなくても、私は朔ちゃんが好きだって思えるの。あれって、優越感っていうの?」
蓮がこちらを一瞥する。目を合わせると、意外にも茶色い瞳をしていた。
「あいつが俺に連絡を寄越してきた」
「え?」
「仕事を切り上げてでも、雅を回収しろって」
「朔ちゃんは、私をゴミかなんかだと思ってる?」
「あいつは、お前がかわいくてしょうがないんだよ」
言葉にされると照れだか気恥ずかしだかわからない、むず痒い戸惑いが溢れ、やがて直ぐに冷静な思いが胸を突く。
「そう思ってもらえなくなったときって、私には何が残るんだろう」
自分が人に可愛がられる性格だという自負はあった。器用さも柔軟性もなく、けして上手に生きているとは思っていないけれど、人の優しさを貰える運の良さを、もっと言うのなら、特定の大人を引き留める巡り合わせにあると思っていた。
しかし一方で、その癖の強さのせいか、規則的な大人には全く自分がはまっていないこともわかっていた。朔也や紅花のように、奇抜さを個性とあっさり受け入れるタイプの大人の懐の居心地に慣れていた雅にとって、学校で出会う大人の硬さと真面目さには、息が詰まる。まるでビニール袋を被せられた気分だった。
何が不満だ、と聞かれた。
生徒の出入りも激しくなった放課後の職員室の片隅で、担任の言葉は常に心を上滑りしていった。他の生徒が教師と軽快なやり取りをしているの、耳の端でとらえる。
わかってほしいと思わなかったから、口を開かなかった。テーブルの下で、スカートの中に手を入れて、膝に爪を立てた。散々切って来いと言われた爪先で、膝辺りに曲線の跡をつけていく。この爪で誰のことも怪我させたことはない。でも、誰かの言葉に傷つくくらいなら、明確な痛みに支配されている方がましだった。
彼らの『何故』は、理解をしようとするための『何故』ではなく、論破をするための『何故』だった。
自分の本音がどこにあるのか、雅はもう分からなかった。従えば許され守られる規則ならば、甘んじて受け入れようと思っていた。しかし、なんとか乗り切ったテストも点数について説教ばかりされ、何とか学校に向かえば遅刻はするなと怒られ、スカートを長くしても髪を結んでみても、今度は爪にまでけちが付く。支配の色がちらつくルールを前に、何処まで従えば許されるのか、雅には分からなかった。
「雅。もうその、つんけんした態度を俺にまでとらなくていいから」
蓮の手が雅の髪を撫でた。美容師の手は、人の髪に触れ慣れている。関係ないとわかっていても、心地の良い手だった。
「お前らしくないことは、しなくていい」
猶も髪を撫でる手に少し身を寄せて、雅は小さく息を整える。身長差があるとこういう時に便利なんだなんて、どうしようもない感傷が彼に満たされようとしていた。
「ユキちゃん」
「うん?」
「ツラい。なんかすごく、わけわかんないくらいツラい」
「うん」
「でも、何がツラいかわかんない。落ち着かないし、押しつぶされそうだけど、確かな理由がない」
言葉と同時に、涙が溢れた。あっと思った時には頭の奥が痺れて、目の縁から涙が滑り落ちた。一度流れた涙が作った軌道は、もう留まることを知らない涙で、上書きされていく。
「なんでこんなに、上手くいかないんだろ。なんでもっとうまくこなせないんだろう」
滲んだ涙でぼやけた視界に足元がふらつくと、蓮が肩を抱いて誘導しながら路傍に寄り、足を止めた。横浜の港町らしさを強調するタイル張りの道幅は広く、蓮のスニーカーは大きかった。
「なんでもっといい場面で泣かないんだよ」
「知らないよ。黙って慰めてよ」
「俺の一番、苦手分野だ」
蓮はそういって、本当に戸惑ったように指先を不安げに揺らしていた。抱きしめたり涙を拭ったり、そういうことを自然にできない彼の愚直な不器用さが、雅にはありがたかった。
紅花と彰葉が雅に合わせて悪ノリを貫いていくれていたことは、もちろんわかっている。
でも、満たされはしなかった。本心とは遠いところで、その場凌ぎに理性的に自分を処理しようとして、持て余しただけだった。
「雅。お前はさ、優しんだよ」
「あんだけ人を悪く言っていた場面に出くわして、よくそんなこと言えるね」
ハンカチで目元を拭うと頭の奥が痺れた。声の震えを抑えることができない。
「でも、お前、嫌だと思うことは口にしたけど、相手を否定するようなことは言わなかった。こんなひどいことをされた、こんなひどいことを言われた、だから嫌いだってことは愚痴ってたけど、関係ない嫌みは一つも言ってない。
自分を苦しめる相手が嫌いなのは誰だってそうなる。気に病むようなことじゃない」
蓮の声は優しかった。
「雅は、人を悪く言ってすっきりするような人間じゃないだろ。言った分、何だかんだ自分だって嫌な気分になってるんだろ。お前には、ああいう空気は似合わない」
夏前の長い陽によって、ほんのりと明るさを残した空とは裏腹に、湿度の高さで身体が汗ばむ。おまけに泣くのにエネルギーを使ってしまったせいで、頭がぼんやりとする。それでも、蓮の声は柔らかく響いた。
「根が良い子なんだよ。朔也と同じだ。真面目で一生懸命。それが裏切られた時に、道を踏み外してやりたくなることは、別に悪い事じゃない。でも、変な奴にはついて行くなよ。そのための姐さんだから」
「言ってること、結構ひどいよ」
「わかってる。でも、俺も、同じだから」
「え?」
「俺に煙草教えたの、あの人だからな」
唖然として顔を上げると目が合った。蓮が吹き出す。
「目が真っ赤。寝不足?」
「おかげさまで。そんなことどうでもいいよ。なに、煙草の件の方がずっと気になる」
蓮は戸惑ったように軽く笑い、話し出した。
「別に変な話じゃない。俺にも、自暴自棄になったときがあって、その時に姐さんが酒と煙草を教えてくれた。それが俺を助けてくれたってだけの話」
雅は驚きを隠せずに、そして心の何処かに僅かな引っ掛かりを覚える。自分の知らない事実が目の前にあって、自分はそれを前に驚くことしか出来なくて。
独占欲なんて、無い。嫉妬するだけの材料もない。それでも、自分の知らない世界への羨望の気持ちに、僅かな不安があった。
街灯に明かりがついた。駅までの道のりが、オレンジの明かりで照らされて、一つの道になる。
「帰ろう」
雅の涙が止まったのを確認し、蓮はそういって歩き出した。長い脚で雅に合わせた歩幅を維持するのは、骨が折れるだろう。しかし、蓮は文句は言わなかった。
「わかってると思うけど、余計なことは言うなよ」
「余計な事?例えば?」
小首を傾げて繰り返すと、蓮はため息をついて前を向いた。ポケットに入れた手が中で緩やかに動くのが分かる。
「姐さんに関わると、どいつもこいつも性格が悪くなる」
「強くなったって言ってよ」
彼の隣に並んで目の端を拭う。
もう涙は出なかった。




