寓意
雅の手と口は止まらなかった。
手は忙しなくお菓子の包装を剥がし、無意味にマシュマロを潰してみたりスナック菓子を指にかけたりラムネを手のひらで転がしてみたり、とにかく落ち着きがなかった。
夏休み前の午前登校の日々が続いている。お弁当を買うように渡されたお金で、彼女はどっさりとお菓子を買った。大人買い、なんて言えば聞こえはいい。食べ物を乱暴に扱う彼女の投げやりな手つきを、利玖はじっと見つめていた。夏休みに向けて少し伸ばされた爪の不器用な尖りが、早く誰かの手入れを望んでいる。
口が忙しないのは、お菓子を食べるためではなかった。勿論、咀嚼する際に話し出すほどお行儀は悪くないので、食べているときは大人しい。しかし、そうでないときの口元は、只管に、悔しさと嫌味を言葉にしていた。言葉を選んではいなかった。時折主語と述語がかみ合わなかったりする、勢いばかりの言葉は先ほどから、堂々巡りを繰り返している。
「そりゃ点数は低かったけどさ、その分ちゃんと提出物は出したし、授業態度だってそれなりに真面目だと思うんだけどな。何がそんなに、気に食わないんだろ」
身体に力が入っているせいで、いかり肩になっていることに、彼女自身は気付いているのだろうか。
夏のセーラー服は薄い。袖口と襟ぐりは紺色の厚手の生地でしっかりと形づくっているが、大部分の白地は薄く、近寄りすぎると下着が透けそうで、ほんの少し目のやり場を考えてしまう。
早熟さなど抱えていない身体だ。小柄で、折れそうに細くて、可愛らしいと形容するのが一番ふさわしい。なのに、時折、此方の心臓を凍らす程の大人びた考えを晒す。
期末テストを終えた雅は、荒れていた。普通ならばテストの重圧を下ろし、夏休みの計画を嬉々として立てている頃だろうし、利玖はそれを密かに楽しみにしていた。
きっと、部活をしていない雅は利玖の家に入り浸るだろうし、そうすれば彰葉や紅花が訪れる頻度も上がるだろう。にぎやかな空気が好きな利玖はそんな日々を夢想していたのだが、雅の我慢時はむしろ、此処からだった。
「遅刻が多い理由を本当に寝坊だと思っているんなら、想像力がないと思う。狙って自分の授業だけをさぼってるって、わかんないのかな」
テストの結果が散々だった雅はあちこちの先生に捕まっているようだった。
担任を交えての面談、呼び出し、追加課題。学校を休みがちなことや日常的な態度が大人の意に沿わない彼女が、生活指導という名ばかりの一方的な説教に耐えて半泣きの姿で現れたのは、およそ一時間前。
何を察したのか、朔也はわざわざ雅を待っていた。明確な意思で、彼は雅に会いに来ていた。
窓に肩を預けながら、空を見みあげたり、傍に置いてある新聞を手に取ったり、聞く姿勢は示さずに話を聞いてるのは明らかだった。
そのくせ、相槌を打ったり言葉を挟んだりお茶を手配するのは、すべて利玖に投げてきた。
「学習日誌を毎日書かないから成績が上がんないんだって。学習日誌って、利玖ちゃんわかる?」
「ううん」
「毎日ね、朝起きた時間から学校の授業、家に帰ってからの二十四時間の行動を文字起こしするの。何を何時間勉強したのかも、事細かに書く欄があってね。毎日書いて提出するの」
今、持ってるや。
口にチューイングキャンディを含んだまま、彼女はもごもごと呟く。
薄いスクールかばんから先生の手作りだと直ぐにわかるホチキス止めされた冊子が取り出され、手渡された。
表紙に印刷されたポップなデザインとは裏腹に、中身はぎっしりと文字が迫りくるように詰め込まれていて、なるほど、これを書き込むのは確かに面倒に感じるだろう。
「一週間に一回提出だからさ、前日に適当に一週間分を書き込むの。そしたら、適当過ぎるって言われた」
言いたくもなるだろう。
雅の雑な字で、とりあえず枠を埋めようという強情さを感じる書き込みに、担任らしい几帳面な赤字が細やかな訂正を入れている。漢字ミスだったり矛盾点を、馬鹿正直に指摘していた。
「みやの字は普段綺麗なんだから、こんなに汚く書いたら、先生も何かしら言いたくなっちゃうよ」
利玖の言葉に、雅はすっと目を細めた。
「それくらい書きたくないんですっていう意思表示のつもり」
「先生だって、そんなこと指摘したくはないはずだよ」
雅のクラスの人数が何人かは知らないが、相場で言えば三十人から四十人程度、この冊子を担任は人数分見ているのだ。うんざりするだろう。荷は重いだろう。あからさまなものを指摘したくもなるだろう。
雅と同じ程度の億劫を感じているだろう。
考えを巡らせてしまうと、雅だけをフォローするのは気が引けた。
「ややこしくてかったるいルールばっかり作って、何がしたいの?」
冷たい声だった。
それでいて、紅花の口調に似ていた。
利玖は驚いて雅の横顔を見つめた。雅はなんてことのないような顔で、肩をすくめて見せる。 その仕草も、紅花に似ていた。
「担任の先生のせいばかりじゃないよ。学校って、ルールがたくさんあるからね」
「そう。だから、意味もなく、爪切って来いとか言うんだよ」
彼女は手の平を透かすように腕を真上に伸ばした。その眼はじっと、己の手の甲を見つめている。
「白い部分が見えていたらアウトなんだって。何それ、深爪してたら成績良くなるの?」
その言葉に、朔也が失笑したのが分かる。雅の口調も嘲るものだったので、利玖はいたたまれなくなってしまう。
「遵守するものじゃなく押し付けるものになったルールなんて、意味ないじゃない」
「危ないからだよ。爪って、何かにひっかけると危ないんだよ」
雅はむっとした表情で利玖を見て、そのまま朔也の方に顎をしゃくった。
「同じ言葉、朔ちゃんにも言ってよ」
巻き込まれそうになったことを察したにもかかわらず、朔也は挑発的に手を利玖にかざしてきた。華奢で白い女性のような手に、どぎつい黒とシルバーのネイル。言われるまでもなく、雅よりも長い爪をしていることは知っていた。
「いや、朔は学生じゃないから…」
利玖は雅の空けたグラスに、ピーチティーを注ぐ。薄い色合いが、グラスの向こう側を透かす。
「大人になると、手元が安全になるのね」
やはり、朔也が鼻で笑う気配があった。
「スカートだって、短いって言っている先生の方がよほど短い。髪だってかなり染めている。勿論ネイルしている先生だっているし、まつエクだってしている」
雅の言い分はわからなくもなかった。話を聞いていると、雅の学校の校則は度を超えて厳しい。
しかし、雅を例え自由にさせたとしても、紅花や朔也のような華美さを出すことはないと知っているからこそ、彼女の強い反発心は不思議に思えた。
それまで黙っていた朔也が彼女の手を取った。
「直ぐ伸びるから。一瞬、切っちゃいな。短くても、ピンクのネイルとかなら、結構綺麗に見える」
雅は朔也を見上げた。
「ほんと?」
「佐野の姐さんの腕を信じろって」
雅はまだ不満げな表情だったが、やがてむっつりとした顔のままに頷いた。
利玖は一瞬面白くない気持ちになったものの、機嫌の軌道修正が出来たことに内心安堵した。
「ちなみに、これが特別課題ね」
雅はキャラクターもののクリアファイルの中から、幾つかのプリントを取り出した。
「うわ…すごい量だね」
「一週間でやってこいだってさ。信じらんない」
まだ怒りが苦しみに勝っている表情で、雅は吐き出すように言った。
この怒りが情熱を失ったとき、彼女は強い絶望に染まるのかと思うと、こちらが息苦しかった。手を差し伸べられないのが、純粋に苦しい。
「でも、やれば終わるものも多いじゃん。頑張ろうよ」
励ますつもりで言ったのだが、彼女は眉をひそめ、やらないと言った。
「やるわけないじゃん」
「でも、課題なんでしょ」
「課題出されてできるくらいなら、テストの時からできてる」
テーブルに置かれた彼女の手が震えている。彼女自身も気付いたようで、ゆっくりと握りこまれた拳は、小さかった。
「そんなに投げやりになっちゃだめだよ。頑張ろうよ。先生だって、聞きに行けば教えてくれるよ」
「聞きに行ってどうするの?こんなのもわかってないのかって顔されてくればいいわけ?」
顎を上げて、利玖を睨むように目にぐっと力を入れた彼女の頬に、髪がかかる。手櫛でかき上げて耳に掛けられた黒い髪に、縛っていた跡がついている。彼女の学校の校則に、肩に付いた髪は結ぶという項目があるらしい。
「先生はそんなに意地悪じゃないよ。ちゃんと話し合わなきゃ。みや、今日だって、ずっと黙って話し合いに応じなかったんでしょ。それじゃ先生だって困っちゃうよ」
なお言葉を続けようとした利玖の脚を、テーブルの下で朔也が蹴とばした。遠慮のない力に驚いて息をのむと、目の前に座っていた雅が膝立ちになって、無言で食べていたお菓子のゴミをかき集めていた。
「話し合う気なんてなかったのは、あっちだよ」
集めたごみを手に握り込みゴミ箱に捨てる仕草に迷いがなかった。乱暴さも丁寧さもない自然な動きだったけれど、言葉を挟む隙や止めさせるのは気が引ける、強い仕草だった。
「帰るね。ありがと。お邪魔しました」
彼女は背を向けたまま、リビングの扉に手をかけて早口にまくしたてると、さっと風を切るように玄関に消えていってしまった。
普段玄関まで見送っているのでどうしようかと思っているうちに、玄関の重いドアが閉じる音がした。
「今のは、お前が悪い」
すっかり気が動転して座り込んだままだった利玖に、朔也が追い打ちをかけて来た。
「お前を味方だと思って、お前に慰めて欲しくて話したってのに、なんであんなに、相手の肩を持つんだよ」
彼の声は鋭かった。
まったく、人に優しくするとか積極的に慰めるようなことはしないくせに、雅にだけはやたらと甘い。
「みやの気持ちはわかるけど、先生だってお説教したいわけじゃないだろうからさ。折り合いをつけて欲しかっただけなんだけど」
苦い気持ちで正直に話すと、朔也は大袈裟にため息をついた。利玖に対して呆れている。心底。気付いてしまうのは苦痛だった。
誰かをしょうがないと笑って受け入れるのは自分の専売特許で、彼に施すものだとばかり思っていた。
思い上がりに気付かされる。
「お前の言い分は間違っちゃない。でも、今言う必要はなかった」
「なら、途中でとめてよ」
利玖は苛つきを抑えきれずに言った。
隣でことが終わってから指摘してくる彼のやり方に、傲岸さすら感じた。
「俺じゃ、駄目だったんだよ」
今度は朔也が苦い顔をする番だった。
「話をしている間中、雅はずっとお前のことを見てただろ。あいつは俺より、お前を信頼してるんだよ」
僅かな引っ掛かりはあったが、相談事を持ってくるのなら朔也より利玖にするだろうということは、予測できないわけではなかった。
雅は朔也の賢さを羨んでいる。
「あいつに、俺は同じ悩みを抱えている人間だとは思われてないから」
苦笑した朔也は格段感情を揺さぶられている様子はなく、その気高さを常に持っていてほしい、と頭の隅で考えた。
苦しみを言葉にするのは簡単かもしれない。同情を引くことは相手の言葉を止めさせる手段としては有効で、だけどそこで足を止めてしまったら完全な停滞だ。
雅には愚痴を言って痛みを理由に立ち止まってほしくなかった。誰かを悪辣に称することを逃げ道にしてほしくなかった。一方的に誰かを悪者にすることを良しとしたくなかった。
「お前は優しいよ」
皮肉かと思った。睨んでやろうかと目線が交わったとき、妙に穏やかな笑顔の朔也に、悪意のささくれが萎びていくのが感じられた。
「俺が出会った人間の中で一番、優しい」
痛い、とか、苦しい、よりも、苦かった。何も食べていない口の中に、苦みが広がる。
「優しすぎて、信用ならない時がある」
「酷いこと言うね」
茶化してみるも、相手にされなかった。朔也がいつになく真面目に、此方を見ている。
「誰にでも優しいんだろうなって思う。誰の肩でも持つんだなって思わされる。自分だけじゃないんだなって気付かされる」
「やめてよ」
「雅とか彰葉の代弁だ」
朔也の意図が見えず、それが酷く利玖を混乱させた。
前髪を弄りながら、目線を逸らす。
壁に掛けたカレンダーの来週の部分に、赤い丸がついている。雅の、終業式の日だ。彼女の、少し不器用な丸に、彰葉が顔を描き込んだ。最上級の喜びを表す顔文字に、なぜが甘やかな苦しさが浮かんできた。
カレンダーは黒と赤で構成されている。苦しい日常と楽しい非日常の色の違いだというのなら、なんて比重の大きな苦しみだろう。
朔也は自分のネイルを指先で撫でていた。トップコートでしっかり固めた、艶やかな爪先。その触り心地を、利玖も知っていた。
「お前は知らないと思うけど、職員室で教師に囲まれて説教受けてる時って、死ぬほど苦痛なんだ。あんなの、存在否定されているのと大差ないからな」
なぜ、俺にはないと思うのだろう。
そんな文句が浮かんでくるけれど、何故か口にする気にはならなかった。自分が持ったことのある寂寥や孤独感を朔也に語るのは、くだらないことに思えた。
もっと大きな孤独感と戦ったはずの朔也に、自分が諦めただけで終わった過去を語るのは気が引けた。
「俺って偽善者的に見えているんだね」
朔也がよくするように、その場に寝転ぶ。畳の匂いはとっくに消えてしまっているけれど、顔を近づけるとほんの僅かに、自然の匂いがする。大地に根を生やした、色のある匂いだった。
「信じないと思うけど、俺はそうは思ってない」
「なんで?」
朔也が遠慮がちに顔を覗き込んできたので、思わずその耳に手をかけた。ピアスをつけた左耳。ピアスの縁をなぞるように人差し指を動かすと、彼は敏感に震え、目を閉じた。
「朔は俺を信用できるの?」
言わせているという自覚はあった。欲しい言葉を強要している。少なくとも、誘導はしている。
「疑い方がわかんねえよ」
朔也が目を逸らし、零すように言った。それが照れ笑いなら、どんなに良かっただろう。
おそらく彼の本心だろう。
精神的に自暴自棄になっていた時に出会ってしまったから、彼の中で利玖は、歪な形で神格化されてしまった。
「お前が誰に優しくてもいい。俺だけを認めろなんて思わない。実際、俺より雅を優先したって構わない」
朔也がふっと笑った。薄い唇の口角を、目でなぞる。
時折、朔也は心理的に遠くに感じる。それは大抵、突き放された時よりも、懐に入れこまれた時だった。
「お前が誰にでも優しい人間じゃなきゃ、俺に近づこうだなんて思わなかっただろ?」
「それは違う」
利玖は咄嗟に朔也の手首を掴んだ。そうしないと離れて行ってしまう気がした。
嘘つけ。辛うじて、言葉を飲み込む。
偽善者だと思っていないんじゃなくて、偽善者であることを認めただけじゃないか。
痛いと冷静な声で言われて、慌てて手を離す。細くて骨ばった感触だけが、手のひらに残る。
「そんな寂しい事言わないでよ」
身体を起こし向かい合った朔也の表情は良く見えない。夏至を過ぎたばかりの室内はまだ明るいが、少しでも陰になれば何も見えない。そういう時期だった。
「朔也。そういう事言うのは辞めようよ。誰も得しないじゃん」
朔也は何かを唇の上で呟いたが、声にはしなかった。
何、と問い詰めたいのを、飲み込む。
彼は北風と太陽の、旅人のような男だ。問い詰めて追い詰めても、答えは出ない。
そうか。
利玖は天井を見上げ、短く息を吐いた。見慣れた天井の木目が、何故か複雑なものに見えた。
それって別に、朔也だけじゃない。きっと、雅だってそうだったんだ。
寄り添ってあげることを忘れていた。彼女が口にした不安、葛藤、孤独に対してしてあげられるのは、寄り添うことだけだったのに。
テレビ台の横に置いたままにされた小説。雅の、星の王子様だった。
「童話って、大人のためにあるんだね」
朔也は軽く笑った。裏表のない、鮮やかな笑い方に、ちょっと見とれた。化粧の濃い顔の裏側は存外、幼い。
「当事者にならなきゃ気付けないこともある。でも、第三者になって初めて気づくこともある。前者は子供のため、後者は大人のためだな」
「象が蛇を飲み込んだことに気付かない大人が悪いんじゃなくて、帽子と決めつけて相手が話す余地を奪ったことが、問題なんだね」
冒頭のやり取りを利玖はよく覚えていた。直ぐに、星の王子様だなと笑った朔也に、考えていることが伝わっている感触に、充実感を得た。
「口にすることが全て本当とは限らないし、口にできることだけがすべてじゃない。雅は今日荒れていたけど、あれは自己防衛の部分もあったんだ。悲しいとか、苦しいと、今言ってしまったら負けると思って意地でも言わなかった。独りよがりに苦しみたくないって思い込んでるんだよ。人に慰めてもらうことで冷静に、自分を可哀想と思えることでやっと泣いたり苦しんだりできる。雅は本当は、そのケアをお前に望んでたんだよ」
朔也の横顔を見つめる。
寓意的に第三者になって真理に辿り着ける物語があるように、第三者的に彼が語る言葉が朔也の本心に近いことを、利玖は理解していた。
腑に落ちた。朔也が雅を待っていたのは、彼女が何に苦しんでいるか知っていたからだ。
「苦しかったって言うのは結構簡単なんだ。でも、苦しいって言うのは難しい」
利玖は頷いて、目を閉じた。
反省より先に、今できることを探したかった。
彼女の為に、何をしてあげられるだろう。
携帯電話を取り出す。
他人に自分の尻拭いをさせるのは気が引けたが、頼れる人がいるというのは安心なことだった。




