夜景
「信じらんねえ」
どんな言葉より先に落とされた言葉を、彰葉は座ったまま聞いていた。
大桟橋のベンチに腰を下ろして、みなとみらいを眺めていた視線をずらし、首筋に汗を薄っすら光らせている蓮のために、隣を少し空ける。
「座りなよ」
蓮は眉をひそめて、嫌悪感を隠さずに、どかっと腰を下ろす。びくりともしない木の椅子に深く座りなおし、足を浮かせてバランスをとる。
「遅かったね」
「姐さんを家まで送ったんだよ」
「送っただけ?」
じっと顔を覗き込む。さっきまで煌びやかな明かりを見つめていた瞳は鈍っていて、近くに焦点を当てることが少し難しかった。
「それ以外に何するんだよ」
「さあ?」
「お前こそ、こんなところで何してんだよ」
むっとした表情の蓮に触れようと浮きかけた手で、自分の着ているリネンのシャツの裾を握る。
今自分が衝動を抑えたのは、この暑い時期に汗を浮かせて走ったらしい彼に触れるのは違うと思ったせいだと、自分に言い聞かせて。
「良い街だよね」
「は?」
「横浜。俺、めっちゃ好き」
この町の明るさが好きだ。向こうを見れば海が開けているのに、身を翻せば景観のいい煌びやかな建造物が点在している。人工的と言えばそれまでだけど、作り上げられた歴史の長さとそこに根付いた洗練された雰囲気。
魅せるための街なのだ。景観と、治安と、余裕が辺り一面に広がっている優雅な街そのものが、人を魅了させるために計算されている。
手をまっすぐ伸ばす。当然、生ぬるい風を感じるだけの手のひらに、それでも自由な気持ちになるのは何故だろう。もっとずっと長い腕を持っていたら、もしかしたら目に見えない透明なガラス板に、行く手を遮られるかもしれないのに。自分の小ささ、くだらなさによって、世界の広さが測ることが出来ずにいる。
もしかしたら、それが幸福かもしれないと思う。
「地元愛のあることで」
蓮の言葉に、彰葉は失笑する。
「地元ってさ、生まれ育った街のことでしょ。俺と先輩の地元は、こんなにいいところじゃないよ」
言った傍から後悔する。
彰葉が地元にいい思い出がなく突き放すことと、彼が地元に持つ感情が同じとは限らない。
「まぁ、それもそうか」
しかし、彼はあっさりとした口調で流す。
いやな言い方をした分、自分にだけ棘が刺さった。本当に、自分の悪癖が一日中、自分を苦しめてくる。
僅かな沈黙ができる。
彰葉が喋らなければ、蓮の方から話題を持ってくることはあまりない。それは彰葉がお喋りな性質であることと、蓮に対して積極的である関係性が、あの時から変わっていないせいだろう。
自分が言葉を捨てたとしたら、蓮は何を語るのだろうと、少しばかり考える。今のような小さな沈黙じゃない、もっとずっと長い、それでいて穏やかな沈黙が訪れた時に。
まるで彼が母親と過ごした時間のような。
「偶にさ、高校時代のこと、思い出すんだ」
「まだ、思い出話する年じゃないだろ」
確かに、思い出話をする年ではない、きっと。
でも、思い出話をした方が、俺たちはきっと健全な関係性なのだろう。
「多分、初対面の印象でいったら、お前以上は現れないと思う」
蓮は言葉尻で笑った。
「揶揄ってんの?」
「揶揄ってきたのはお前だろ」
高校時代の思い出が蘇ってくる。
確かに、揶揄った。
どうにか気を引きたくて、彼の手を煩わせることを考えて、でも当時の彰葉は自分を幸せに見せることに躍起になっていたから、蓮を揶揄うことしか出来なかった。
彼には、一見冷徹で人に阿たりはしない態度の中に、同情すれば優しいだろうという付け入る隙を感じ取っていた。それでも、可哀想とは思われたくなかった。
「今となっては、あのときの暴走に感謝しているけどね」
「暴走だって自覚はあるんだ」
肩をすくめた蓮に、そうしたいのはこっちだ、と思う。
「ま、俺も、何だかんだ感謝してる」
想像していなかった言葉だった。
彰葉は蓮の横顔を、目を見開いて見つめる。
頭の中が真っ白な分、彼の横顔のシャープな輪郭や生まれながらの肌の浅黒さ、薄い唇の口角などがそのままに頭に焼き付いた。思い出の中にある横顔よりも少し硬さをもって、それでいて洗練されていた。
「今更だけど、言っておこうと思う。それでお前が安心するなら」
真剣な空気に耐えきれずに顔を伏せる。少し長い髪が顔にかかったのを、横から伸びてきた指先がすくい上げて、耳に掛けた。慣れた手つきだった。
「高校の時、俺もやっぱ不安だったし、他人が全然信用できないし、何もできない自分にもずっと苛ついていた。願っている物が全然手に入らない焦燥感ばっかりで、近くにあるものの価値をすごく低く見積もっていたところがあったんだ」
蓮が振り返る高校時代の蓮の姿が、彰葉の思い出と重ならない。
そんなことは、端からわかっていた。
「お前のこと、最初はマジで厄介に思ってた。正直、鬱陶しかった。関わってくるなってずっと思ってた。でも、お前は俺に、何も望まなかったよな。それが最初は不思議だったけど、今になってわかる。お前のその無欲に貪欲なところに、どっかで影響を受けていたんだと思う」
「何が言いたいの?」
気恥ずかしさ、だろうか。
心臓の辺りにじりじりとせりあがるむず痒さが、しかし心地よさが微妙にないことが、彰葉は苦しかった。
思い出話なんて要らない。俺が欲しいのはそんな凪ではなくて、追い風の方だ。今という瞬間を早回ししても追い越してでも、確かな未来を相手から与えられていたい。
そんなことを思うのは、蓮にだけだ。
「お前の直感を、俺は信じている」
なるほどね、と唇をなめる。唇をなめるのは癖だった。
「喧嘩の原因は把握済みなんだ」
「姐さんからの伝言」
「なんて?」
「また飲みに行くってさ」
「紅花ちゃんて、デートに誘われたらデートしてあげるスタンスの女?」
「なんだそれ」
「俺はデートをしてあげる、なんて考えでデートをするような相手は御免って話」
彰葉の理論に蓮は微かに首を傾げた。理解しようとも、深く掘り下げようとも思っていない、相槌に似たな仕草だった。
蓮にはわからないかもしれない。
だって彼は、今までずっと、してあげる側の人間だっただろうし、彼自身そうすることが性に合っていると思っているだろう。
施されて愛を知るような、そんな安い男でもない。よく言えば施し慣れていて、悪く言えば施すことに抵抗がない。
神様に祈りをささげることで自らを救うように、人に与え続けることで自分の存在意義を見出してしまうようなところがある。だから、客の女の子の興味を無駄に引いてしまう。
優しさのつもりが、必要以上に人の心を奪っていることに、本人が気付いていないから、質が悪い。
「あと、言っておきたいんだけど」
蓮が切り出した。聞きなれた低めの声に、彰葉は目を閉じた。瞳に訴える美しすぎる光の粒に気を取られている間に、彼の決して多くはない言葉を、聞き零したくなかった。
「俺が姐さんを優先しているように思ってるなら、それはお前の引け目でしかないから」
容赦のない言葉選びだと内心で笑い、彰葉は蓮の肩に手を置いた。その手の上に、顎も載せる。薄いシャツ越しに感じる体温と、首筋からほんのりと蓮の家の匂いを感じた。
向かい合って目を合わせているよりも、同じ方向を向いて手に触れられる距離にいる方が、安心できる。
「その話は、いいや」
「いいや、ってなんだよ」
「ほら、浮気は証拠揃えてから突き付ける方がいいでしょ。それと同じ」
「聞き捨てならない理論だな」
強調するように、首を二度ほど振る仕草も加えた。
「帰ろうか」
立ち上がって座っていたパンツの後ろをはたくと、少し蒸れて湿っていた。
蓮を、そこそこ長い時間待っていた。日付を跨ぐ頃には、まばらにいたカップルも皆名残惜しそうに去っていった。その背を見送りながら、蓮は絶対に来るとわかっていたから、微かな潮風を感じて彼を待った。向こう岸のカラフルなゴンドラをのせた観覧車がどれだけの時刻を刻もうが、時間を長いとは思いもしなかった。
「来る?」
直ぐに、家に来るかどうかかということだっとわかった。
頷いたが、鍵は返そうと鞄を探る。鍵本体より先に、キーホルダーが指に引っかかった。雅が五人に、それぞれ色違いでくれた、架空のキャラクターだった。
大桟橋は木の板で作られており、歩く度にきしむ音が響く。慎重に前足で歩いていると、そんなことは気にも留めない蓮がさくさくと歩いて行ってしまうので、その背中を追う形になった。
この人の優しさは、過去への贖罪なのだろうか。
ぼんやりと、大きな背中を見つめる。
無駄なものを持たない身体は、やはり無駄な装飾よりもシンプルなファッションが似合っている。時折振り返って、彰葉がいることを確認してまたすぐに前を向く、無駄のない一連の行動に出会う度、同じ歩幅で歩いているのだと確信が持てる。蓮が少しペースを落としてくれていること、自分が彼に後れを取るまいとしっかり足を踏み出していること、それが彰葉にとって重要だった。
もしも贖罪だというのなら、それは前を向くにはあまりに悲しいけれど、どうしようもなくなった過去の為に持っていたい。
その場限りの優しさの方が、時に自分を生かしてくれていたのだ。紅花に語った言葉は自分を卑下した言葉ではあったものの、掘り起こしても後悔や懺悔の気持ちは湧いてこなかった。薄暗く享楽的な場所で、自分という人間を捨て去る快楽がすべてだった日々も、確かに彰葉の一部になっている。
問題は、気に病んでいるのが彰葉ではなく蓮だということだろう。
彰葉が捨て去った秋月彰葉という人間を、蓮がそっと拾い上げて大事にしていると知ってしまったら、彰葉にはもうその場限りの自暴自棄なんて、選びようはないのだった。
蓮に送られて家に帰ってから、紅花は日常のルーティーンを意識的にこなした。お風呂に入り、丁寧なスキンケアをして、髪を乾かして水を飲んで軽くストレッチをして、気になった部分の掃除機をかけてキャンドルを灯した。
女性らしい、と紅花が思っていることを片っ端から機械的にこなし、あまり余計なことを考えたくなかった。
女性的な女性に憧れている。男に勝ちたいとは思わない。勿論見下されるのは御免だけれど、持ち合わせたスペックの違う存在と異種格闘技を行う気はさらさらない。どちらが優れている、どちらが有能だなんて、くだらなすぎて考えたくない。
むしろ、越えなければいけない女がいる。こちらも立っている土俵は違っているかもしれないけれど、恋に溺れて女であることを最優先したあの人に、女でありながら大事なものを見間違えない理性的な女であることで対抗したかった。
私にはその義務がある、とすら思った。
過去の自分の為。死んだ父の為。これからの自分の為。
タバコでも吸おうとシガレットケースを探していると、携帯電話が光っていた。慌てて手に取ると、十分ほど前に雅からメッセージが来ていた。
『起きていますか?』
既に日付は変わっていて、高校生が起きている時間としては遅い。そういえばテスト期間だと言っていたことを思いだし、起きている旨を伝えると、直ぐに電話がかかってきた。
ベランダに出て、通話ボタンを押す。
「どうしたの?」
不安な気持ちで尋ねると、彼女の短い呼吸と、潜めた声が聞こえた。
「ごめんなさい。用事はないんです」
その言葉に、甘やかな優越感が沸き起こる。
特別扱いをしてきたつもりだった。
誰にでも優しい男といると特別感がないという女性はいるけれど、問題は誰にでも優しいことではなく、優しさ以上の特別感が出せないことだろう。
でも、ほんの少し、心が痛む。
雅が、本当の痛みを抱えた時に、紅花を頼るとは思えないでいる。未だに。ライバルらしいライバルは、浮かばないけれど。
ライバルがいないことも、それはそれで心配だった。
彼女の心が救われるのならば、自分のしょうもない嫉妬心など、この際どうでもいいのだ。
「丁度私も、あなたの声が聴きたいと思っていたの」
雅は直ぐに言葉を返さなかった。言葉を選んでいるのか、感情を選んでいるのかはわからなかったけれど、彼女のちょっとした真面目さを垣間見た気がした。
「紅花さん」
彼女の言葉尻が消える話し方を、紅花は可愛いと形容することにしている。
可愛いという言葉は、彼女のすべてを受け入れる魔法のような言葉だった。
弱さ、幼さ、生真面目さ、不器用さを、十年先に生まれたことで、愛せているのだろう。
「眠れなくなっちゃったんですよね」
「怖い夢でも?」
「夢を見るところまで、辿り着けないんです」
彼女の笑い声は乾いていた。
きっと、一人悩み苦しんで、どうしようもなくなって電話をしてきた。
でも、一緒に解決策を探してほしそうには思えない。慰めて欲しいとも違っている。
もっと、明確に、痛みを遠ざけようとする、投げやりな印象だった。
「今だけでいいから、朔ちゃんの背後霊とか、私に乗り移ってこないかなって思ってます」
「明日の朝から体調不良とかにならないかしら、それは」
「あはは、頭痛と腹痛が同時にきそう」
彼女が無理に笑っていることはわかっていたけれど、それを止める手段はなかったし、これ以上に気の利いた言葉は思い浮かばなかった。
ただ、紅花の言葉に大仰な笑いを見せてくれる姿に、彼女自身が救われてくれればいいと思う。
人に優しさを配っている自分自身の優しさを、彼女はまだ知らない。話している相手の目を見つめる癖や、どんなにつまらない話でも分からない話でも、笑いどころと察すれば笑い、深刻と分かれば生真面目な相槌を打つ。そんな、純粋な彼女の態度に、紅花は惹かれてやまない。
世術だから空気を読む。
そんなわざとらしさが、彼女にはない。
「紅花さんの声を聴いてると、安心する」
彼女の小さな呟きを、静かな夜は拾い上げる。
「朝まで繋いでいてもいいのよ」
「優しすぎません?」
彼女は揶揄うように笑った。
「私は誰にでも優しくなんてない。博愛主義じゃないわ。笠木君とは違うのよ」
電話口で息をのむ気配があった。
雅が比較という行為を嫌っているのは知っていた。それでも、明確な差異からは、目を逸らさないで欲しい。
「だから、ちゃんと言っておきたいの。私、あなたのことはすごく大事に思っている。それは忘れないでね。勿論それは、あなたがもしも間違っていると思ったら、きちんと修正してあげたい、そういう意味も含めてよ」
いつの間にか、携帯を強く握り締めていた。そんな自分に苦笑い。左手に持ち替えて、序に右手を軽く振る。生ぬるい風の中でも、冷え性の指先は直ぐに熱を失う。
「そのままお返ししますって言いたいけど、私も言いたいから言いますね」
物々しい前置きをして、雅は息を吸った。
「もしも紅花さんが、私に向かって学生で若くて視野が狭いって思っているのなら、むしろその視野が悪い方に広がる前に教えて欲しい。卑怯な大人にも、小賢しい大人にも、根本的に間違った人にも、私はできれば出会いたくない。流されちゃうから。染まってしまうから」
なんて冷静な自己分析だろう。冷静すぎて、冷酷なくらいだった。可能性の否定という生ぬるい言葉じゃなく、彼女の散らばった劣等感をかき集めると、大人の大罪だけが浮き出てくる。
「大丈夫よ。あなたの周りにいる大人はしょうもない奴らばっかりだけど、あなたを好きなことにだけは嘘がないから」
大人の言うことはどうしても支配力があって、子供の内心の抵抗などものともせずに根付いて育ってしまうものだから。
それに対抗するものなんて、本当のところ紅花にはわからない。
それでも、黙って彼女がつぶれてしまうのを傍観するわけにはいかないのだ。不器用でも不細工でも下手くそでも、彼女に伝えておかなければいけない言葉がある。
「朔ちゃんに電話しようかなとも思ったんです」
「えぇ」
「利玖ちゃんだって、きっと出てくれたと思う」
「そうね」
「でも、同じ言葉を貰うのなら、紅花さんが良かった」
言い様のない優越感とどうしよもない罪悪感に、紅花は額に手を当てる。ため息だけは、辛うじて飲み込んだ。
「いきなり電話してごめんなさい」
おやすみなさい。いうが早いか、雅は電話を切った。
途切れた通話の続きを探すように、紅花は携帯電話を耳に押し当てたまま、少しばかり時間が過ぎていくのを眺めていた。耳に残る余韻が、複雑な感情をどこまでもかき乱す。
ぽってりと灯る、オレンジの街灯。港町特有の小洒落れた、ランタンの様なデザインの街灯だ。
それらが海沿いの歩道を、等間隔で照らしている。
あんな風に、人生の道も誰かに教えて欲しい。
誰も行ったことのない道なんて、誰しもが夢見ているわけじゃない。どんな暗い夜道でも、途切れない明かりが行先を照らしてくれるのなら、迷うことも転ぶことも、勿論疑う事だってせずに生きていく。
本当に?
向こう岸に大切な誰かの影を感じたら、私は迷わずに道を外すのだろう。
そう予感できるくらいには、自分という人間を理解しているつもりだった。
確かなシルエットを瞳でなぞり、紅花はスリッパを脱いで部屋に戻った。




