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幸せにする人と安心させる人

「怒らないで」


 蓮が何を言う前に、彰葉が自分の顔を両手で覆って、項垂れる。小さな手にあっさり隠された表情は見えないものの、後悔していることは直ぐにわかった。


「わかってるから。朔也君に、釘を刺されたばっかりだった」


「朔也?」


「うん。今朝、会ったの」


 彰葉のフットワークの軽さは知っている。感化されやすい素直さも、直情的で言った傍から言葉を後悔するような危うさも。


「行ってあげて。全力でフォローして」


「お前はそれでいいのか?」


 蓮は自分が冷静でいられないことを自覚しながら、冷静さを装った。


「いいよ。こき下ろそうが、馬鹿にされようが」


「俺たちがそんなに薄情に見えるか?」


「知らないよ。見ただけで軽薄だってわかる人間なんて、そんなにいないもん」


 彰葉の口調は投げやりだった。

 人を信頼することよりも人に信頼されることの方が難しい。

 蓮自身、疑っていないからと言って誰しもを信じているかといわれると、全くだった。


「でもね、先輩」


 背を向けていた蓮は振り向き、彰葉を見る。少し寂しげに笑った彰葉は、いつもより大人びて見えた。


「何もわからない状況でまず紅花ちゃんの味方をしようとするところ、レディーファーストだか年功序列だか知らないけど、俺好きじゃないよ」


 声は落ち着いていたし、表情も崩れない。しかし、それはむしろ冷静さを意識しすぎていて、全く感情に沿っていなかった。


 蓮はデニムの後ろポケットに入れていた家の鍵を取り出し、彰葉の手に握らせた。


「早く帰れよ。俺が家に入れなくなるから」


 怪訝な表情で、疑うような瞳をしていたが、彰葉の手はしっかりと鍵を握り締めていた。雅から貰った、地方の頓痴気なキャラクターストラップの鈴が、僅かに鳴った気がする。


 予想通り、紅花は喫煙室でタバコをくわえていた。手すりに腰をかけるように寄り掛かり、いつもに比べると控えめなヒールに力をかけている。


「俺にも一本」


 そういって手を差し出すと、自分のを吸いなよと言われた。


「たまには気分転換」


「この状況で、あなたが気分転換ってのも、おかしな話ね」


 彼女はそういったが、小さなかばんからシガレットケースを取り出す。


「で、あいつはなんであんなに不機嫌になったの?」


 下手な小細工は要らないが、話の順序は考えた方がいい。

 紅花は自分自身のことを語らない性格なので、少し遠回りした方が捷径だった。


「私が悪かったわ」


 彼女は細く息を吐きだし、白い道を作り出す。


「同じことを、彰葉も言った」


「要するに、そのくらい下らない言い合いだったのよ」


「くだらない言い合いなんて毎日してんじゃねーか。ヒートアップしたってことは、それ以上だったってことだろう」


「お互いよくなかったと思っているんだから、それでいいじゃない。流せばいいのよ」


「いくら悪気がなかったとしても、土足厳禁な部分に入り込んだ相手に気を遣って、一生相手の汚した部分を拭き続けるのって、全然得策とは思えないけど」


 はぁ、と、紅花が息を吐く。


「煙草の煙は嫌いじゃないけれど、誰かの吐き出す煙は嫌なんですって」


「は?」


「秋月が言ったのよ」


「何言ってんだ?」


 本人を目の前には言わないが、彰葉は無頓着そうに見えて、妙なところで引かなくなる。喧嘩になると必ず、相手に初動を起こさせる悪癖も、その性の一つなのだろう。


「あの子最近、嫉妬深過ぎるわ」


「嫉妬?」


「というか、隣の薔薇は赤い状態が続いている。今までは自分の過去を引きずり出して人を軽んじるなんてこと、しなかった。お気楽主義で、人の幸せに対しても割り切っていたじゃない。自分を幸せにするのは自分、みたいな自立心があった。それなのに、最近、やたら咬み付いてくる。目の敵になっているのが神崎くんと私ってところが、何ともいないのよ」


 紅花はそういうと、溜息を飲み込むようにタバコをくわえた。


「知らなかった」


 蓮は正直に答える。

 彰葉のことはわかっているつもりだった。先ほどの態度といい、誰よりも信頼されている、という希望の入り混じった仮説が崩れ落ちる。


「そりゃ、あなたには見せないでしょうね」


 紅花は呆れたように言った。


「俺には言わない?」


 むしろ信頼され、自分にだけ話された秘密がたくさんあると思っていただけに、複雑な気持ちがよぎる。


「えぇ。あなたには、叶えてくれるという確信の持てない我儘は言わないわ。

だって、あなたに夢を見ているもの」


「ちょっとまって、どういう意味?」


 慣れない煙草の味に何度も唾を飲み込みながら、紅花の言葉が理解できない自分がもどかしかった。


「秋月が、あなたに夢を見ているのはわかるでしょう?」


 はい、とは言えなかった。

 夢を見ている?

 紅花は蓮の戸惑いを鋭い瞳で読みとり、すっと息を吐いた。


「高校時代の記憶が、完全に美化された弊害よ。おまけに、数年後の奇跡的な再開。あなたに対して、秋月は強い夢を持ってしまった。少女漫画のようにいうのなら、あなたは白馬の王子様よ」


「白馬の王子様は、王子様なだけであくまで馬」


 話が重たくなっていくのに耐えきれず冗談を挟んだが、全く相手にされなかった。


「王子様であるあなたに、リアリストの秋月が望外な願いを口にしたりはしないわ。むしろ、お願い事を自分の中で精査することによって、あなたの価値を維持しているの」


 段々と、彼女の言いたいことがわかってきた。


まともな我儘の言い方を知らずに、彰葉は人を試そうとする。  

人間の悪意や邪気に触れることに慣れてしまったが故に、人の純粋な優しさや好意を時に軽んじる悪癖があった。


「あなたが絶対に叶えてくれるお願いだけを口にすれば、あなたはいつまでも理想の王子様」


 ねっとりと言葉が絡みつく。よく換気された小さな喫煙室は風の流れが速い分、クーラーが効いている部屋よりも涼しいくらいで、肌を直接撫でる風は冷たい。


「私もね、悪いのよ。雪宮の言う通り。私を幸せなお嬢さんだと思っている秋月に、そう思わせたのは自分なのに、背負っているものの中には幸せじゃないものもあるからね、なんて察してもらおうとしたのが間違いだわ」


「でも、人のバックグラウンドは想像で作ってはいけない、なんて子供でも分かる」


「そうよ、だから私たちも、あの子の身に起こった事象だけをみて、あの子の精神的な部分を作り上げてはいけなかったのよ」


 彼女の声は弱弱しかった。


「姐さん、立ってんの辛くない?」


 彼女の体調が悪いのは、何となく察していた。普段があまりに冷静すぎるせいかもしれないが、取り乱し方でわかることもあった。


「彰葉に家の鍵あげちゃったから、どっかその辺で座れるところ探すか?」


 彼女は首を振ったが、手が自然と腹部を這う。着ていた真っ黒いワンピースのフレアが、彼女が落ち着きなく足を動かす度に揺れていた。


「じゃぁ、家まで送らせて」


 そういうと、逡巡した後に、頷いた。言葉なく仕草だけで返事をする姿は、幼く見えた。


 最後に一口吸ってから煙草をもみ消すと、呆気なくつぶれた。


 さっき彰葉がぶつけてきた不平。

 紅花を優先させた。

 そうだろうか。わからない。でも、確かに、蓮は女性に対して弱い自覚はあった。そして彰葉が、女性性を感じさせる女性を、生育的に嫌っていることも知っていた。

 

 建物の自動ドアが開くと同時に、夏の夜特有のどろっとした空気が身体を包み込む。一枚膜が張ったように全身の毛穴が塞がれて鬱陶しく、首筋に張り付いた髪を何度かかき上げる。傷んだ毛先の感触は心地いいはずもないのに、つい何度も触れてしまう。


「ねぇ、雪宮」


 半歩前を歩く紅花に合わせて歩幅を小さくして歩いていると、彼女は風に揺れた髪をおさえながら振り向く。


「あなたは何処で恋愛する人?」


 何処、と言われてまず、地名を考えてしまった。

 この洗練された街でする恋愛は、綺麗なのだろうか。


「私は頭でするらしいのよ」


 蓮の勘違いを無言で訂正するように、彼女は言った。


「それも、彰葉が言ったのか?」


「えぇ。逆に自分は、感情で恋愛をするんですって」


 黒いワンピースに黒いショルダーバッグをかけた紅花は、いつもより色が白く見えた。


「確かに、二人は正反対だもんな」


「どっちの方がいいなんて、結局は結果論でしか測れないじゃない。でも、私たちは自分のやり方を正しいと思っている。だから、お互いの脚を引っ張るような考えを無意識にしているのよね」


「それで何、内心で思っていることにすら罪悪感感じて思わず口にして、自分でダメージ受けてるわけ?」


 悪意は案外、形にしなければ気付かれない。憎悪、嫉妬、逆恨み。傷口に触れた悪意はまるで、体内に入り込んだ雑菌のようなもので、結局のところ体内だけで消化しきれずに表出させてしまう。初めから湧きおこらない感情であって欲しいけれど、それほど人間は強くないらしい。


「根底にあるから、時折かみ合わなくなるのよね。初めから割り切っているつもりだけど、ふとした時に可哀そうな自分が鎌首をもたげる」


 彼女の憂鬱な溜息を、夜の湿気が絡みとる。微かに感じる煙草の香り。自分から香っているのか紅花からなのかは、分からない。


「私はね、雪宮。本気で言ってたつもりよ。秋月みたいに、直感で人を好きになれるのって、決して悪い事じゃないし、むしろ正しい本能だと思うの。打算なんて後からいくらだってできる。でも、ファーストインプレッションで人に好意を持てる余裕は、決して後付けでは出来ないの。どんなものでもいい、相手を好意的に感じて接するあの子の人懐っこさに救われる人だっている。その場の快楽主義だって、裏切られるだけじゃない」


 紅花の言葉に、蓮は頷いた。


「本能と直感を信じて生きていくってんなら、それはそれ。間違った時に訂正しやすいっていう利点もある」


「さすが、経験値が違うわ」


 彼女は茶化すような口調で言ったが、直ぐに憂鬱な横顔で唸った。


「悩むことに慣れていないな」


 それこそが、紅花の弱点だった。


「そうね。私あんまり、悩んで生きてこなかったの」


 長い髪を手櫛で直す仕草が優雅で、街灯の明かりの下に見る紅花は知らない女のようだった。


 悩んでこなかった。

 それは簡潔な意思表明に思えた。たしかに紅花は、何かを抗おうと躍起になったり、変革を好んで動くようなタイプではなく、与えられた中で芯の強さを発揮するタイプだった。吹雪の中で目を閉じて雪の白さを感じ取ってしまうような聡明さを持っている代わりに、埋もれた脚を抜き出すことを考えもしない。良くも悪くも、流されることに長けていた。


「昔、利玖が言ってたんだ。悩まずに生きてきた人は人を幸せにするし、悩んできた人は人を安心させるって」


 利玖の表情は、確信を持っているというよりも、願いに近かったけれど。


「本当に言いたいことを文末に持ってくるという心理を読み取るに、言いたかったのは後ろの方ね。神崎くんの説明文じゃない」


 紅花は、さもつまらなさそうに言う。


「ま、そうだろうな。悩むのって、才能要るし。よくまあそんなこと考えるよなってことに一日中頭捻ってるんだぜ、朔也は。悩んで解決する問題ならともかく」


 悩むことと幸福は同時に持つことはできない。悩んでいる限りストレスはかかるし、心身ともに疲労が溜まる。初めから悩むという行為そのものが肌に合わない人がいたとしても仕方がないし、放棄したいという心理を否定するものじゃない。


「でも、笠木君て優しいのね」


「あいつが優しいのなんて、今に始まったことじゃないだろ」


 蓮はあまり深く考えずに言葉を返す。

 利玖の安定感のある優しさは少なからず、蓮や紅花にも響いていた。それは自分に向けられた優しさに感謝をするというよりも、分け隔て無い優しさを纏う彼を見ていると、余裕をなくした自分に気付き、自然と深呼吸をして前向きな気持ちになれるという類のものだった。


しかし、紅花は、そうじゃなくてと眉にしわを寄せ、言葉を探していた。


「悩まない人とか、本当の苦しみを知らな人って、結構無意識に他人を傷つけることってあるじゃない。上手に生きてきた人っていうの?あんまり苦労らしい苦労してきて無いなって人って、やっぱりいるのよね。意外に中流の生活している人に多いのよ。そこそこ頑張ってそこそこ努力が報われて、良い生活して、あんまり苦しまずに生きてきた人。勿論よく言えば、悩むくらいなら努力しようとしたんだろうけれど、その悩みは努力でカバーできるものでしかなかったのよね」


 それらしい人が朧げに頭に浮かんでくる。

 少し苦手だった学校の先生とか、恵まれた環境にいた同級生とか、言葉尻に自己肯定感の溢れるお客さんとか。


 努力で環境を打破できた人間特有の、やたらに他人をふるいにかけたがる視線。

 あぁ、なんか、知っている。

 相手の一部分だけを見聞きして判決を下すような傲岸さをちらつかせて、自業自得とか、結構簡単に他人に向けてしまうような人。


「私ね、大抵の人のことは許してきたつもり。それこそ、あんな母親のことだって、ある意味許して生きてきたつもりなの」


 彼女のハイヒールの音が、アスファルトを鳴らす。


「でもね、父に向かって、あんな女を嫁にもらったんだから仕方ない、見る目がなかったんだって言った奴だけは許せないの。隣に住んでいた家庭の旦那さんよ。私の父と、ほとんど同年代。息子は私と同じ小学校だったわ」


 相当嫌な記憶らしく、紅花は眉根に不自然なほど力を込めていた。

 

「結婚する前にこいつ多分浮気するな、なんて思って結婚なんてするわけじゃないし、偶々自分の結婚生活がうまくいったからって、それが自分の努力だけで成り立っていると思っているようなところ、本当に嫌だった」


「うちの母親も言われてた。あんな男と結婚して苦労してるなんて世話ないわねって。それも、実の母親に言われててさ。気の毒だった」


「でもさ、笠木君て、そういう人のことすら、受け容れるんでしょうね」


 言葉尻が寂しげで、紅花は悩まないで生きてきたんじゃない、悩むことを意識的に遠ざけてきたのだと気付いた。

 悩む父親の背中を見つめながら、彼女は結論の出ない懊悩に別れを告げる術を得た。

 反面教師なんて言って誰かの苦しみを踏み台にはしたくないと思いながら、身近過ぎた痛みは記憶に薄い影をベールのようにかけてくる。気付かなかった薄皮を舌先が感じ取って初めて、記憶と感情が結びつく。

 

 でも、この人も、人を幸せにする側だろう、と思う。

 見ているだけで心が洗練される洒脱な存在感に、何故かいつも心を奪われる。恋愛なんて咲いては枯れる感情とは違う、もっと深い部分で強い根に支えられた感情で、この人の近くにいる。

 紅花の悪辣ではない狡さに、踏み外しそうな危うさを救われた。相手を間違えれば落ちるところまで落ちただろう自暴自棄だった蓮にとって、紅花の一見軽薄ながら攻撃的でも不義理でもない言葉選びは、常に寄り添ってくれた。


 紅花は天を仰ぎ、肩で息をした。


「私の目下の悩みはね。恋が報われるって、どういう状況を言うのかってことなの。片思いが成就したら?結婚に辿り着けたら?」


「一度結ばれたとしても、嫌な別れ方をすれば悪い思い出だもんな」


 顔を見合わせて、少し笑う。

 お互い嫌と言う程知っている。それでも遠ざけようとも思わないのは、自分でも不思議なことだった。


「綺麗な思い出って、短命なのよね」


「ま、でも、人生って常にそんな選択続きだよな。一度は正しいと思った選択肢が、いつの間にか貧乏くじになっていた、なんてこともないわけじゃないし」


 言いながら、蓮はふと、物寂しさを覚えた。


 結局、こんな風に人生そのものに予防線を張って生きている。正直さも素直さも忘れた感覚で、まるで身の丈に合わない目標を定められたように初めから諦めたような顔で、そのくせそれなりのものは享受して生きている。


 多分、いや絶対に、小賢しいのだ。


 駅前の広場ではストリートミュージシャンが有名なバンドの曲をカバーで歌っている。歌唱力は申し分ないがカバー特有の胃に落ちてこない感覚を背中に、紅花と共に改札を通った。





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