理性と本能と恋愛
「勉強をするときのコツ?得意教科から始めること」
つい数日前に、朔也から貰ったアドバイスだ。雅はシャープペンを無意味に転がし、開いた教科書の溝にはまったのを拾っては転がし、また拾っては手を離してを繰り返す。
シューシポスの神のように、無意味な行為だった。
「苦手科目からやるのが鉄則じゃない?」
隣で聞いていた利玖が怪訝な顔で尋ねる。雅も同調して、朔也を見る。
彼は呆れた表情で、首を振った。
「一番やりたくないことからやったら、初っ端からやる気を削がれるだろ」
そんなこともわかんねーのかよ、くらいは思っていそうな表情で、朔也が淡々とした口調で言った。
「飯とかもそうじゃん。食いたくねぇなって時に嫌いなもんだされたら絶対食わなくなるけど、好きな物だったら意外といけるってなるだろ」
非常にわかりやすい例えに雅は感心したが、利玖は冷ややかな表情で
「朔、好きな食べ物なんてほぼないじゃん。お菓子食べた後に、野菜食べる?嘘くさい」
朔也は見た目の刺々しさに似合わず大の甘党で、おまけに偏食の食わず嫌い。献立について、朔也と利玖はしょっちゅう小競り合いを起こす。
今日も始まった。利玖が野菜を取ろう、鍋にしようと言い出し、この暑さに鍋はナンセンスだと、朔也がどうにか回避の方法を考える。
雅は自分で入れて部屋に運んだ紅茶を一口、飲む。
これからテスト期間に入ると告げたところ、紅花がグレープフルーツの味がする茶葉をくれた。曰はく、柑橘系は集中力を高めてくれるらしい。あとはリフレッシュ効果があるとかないとか。
意識が分散された今の状況を見るに効果はなかった気がするけれど、紅花の存在を感じられることだけが救いだった。
二人のやかましいやり取りを聞きながら、雅は朔也の綺麗な横顔を前に、質問を飲み込んだ。普段の不愛想な横顔とは違う、乱暴だけれどムキになった横顔は僅かに紅潮し、座って反論する朔也は立っていた利玖を見上げる形になっていたせいか、顎を上げて黒目が自然と上を向くと、彼はとても幼く見えた。
朔也にとって苦手科目なんてものは、抑々あったのだろうか。
一度聞く気を削がれてしまうと、これから先も知る必要がない気がしてしまう。多少の興味はあっても、それを聞き出したところで自分にとってプラスになることは恐らくないのだろう。
人生がサイコロじゃなくて、トランプで決まればいいのに。
利玖の所で時折行われる、お菓子人生ゲーム。
テーブルにさいころを転がす、軽快な音。
手に取れるお菓子はマス目次第。
まだカゴに残っていることは勿論、大前提。
平等なんて、別に信じてない。
なんて、サイコロを振る順番で年齢のウェイバー方式を採用してもらっている身で言うのは卑怯だろうか。
クーラーに冷やされたマグカップを両手で包み込むように持ち直す。熱々だった紅茶はすでに温度を失って、香りもかすかに残っている程度だった。
正直、お手上げだ。
何度シャープペンを手に取っても、テキストを捲ってみても、頭には何も入ってこない。
得意ではないのだ。勉強というもの、それ自体が。
17歳という年齢が多感と言われる理由は、わからなくもない。苦手なもの、嫌いなもの、避けて通りたいものは自分の中に明白に見えてしまうのに、武器になるもの、進んでいくべき道、努力する場面は全く分からない。大人の指示に従って、聞き分けの良い振りで前倣えさえしていれば庇護されることだけを、本能が知っている。
その代わり、疑問を持ってはいけない。
大人の言葉に反発したり、大人の理想に疑問を呈したり、何かを変えていこうなどと躍起になってはいけない。
個性なんて、型にはめるケーキの切れ端にに過ぎない。結局は切り捨てられる。
テストに必ず出ると言われた単語が、一つ覚える度に一つ、抜け落ちる。同じ時間を延々繰り返している気がする。テスト後に集めると言われた課題のプリントはまだ、埋め切れていない。頑張っても頑張っても終わりが見えないから、もう諦めようと一度壁に投げつけたせいで、角の一か所がひしゃげている。
広げたままの教科書に頬をつけて突っ伏し、目を閉じる。枕の下に好きな人の写真を入れたら夢に出てきてくれるという迷信が本当なら、英単語もついでに出てきてくれないか。
好きな人には、夢じゃないところで出会うから。
「ねぇ、紅花ちゃん」
彰葉の声は幼い。容姿も勿論あどけなさはあるが、声の質はまるで、声変わりの時期をすっ飛ばしてきたように高く、濁りが一切ない。
だからかもしれない。彼に名前を呼ばれると、冷たいことは言えなくなる。
「徒然草って知ってる?」
「むしろ、あなたが知っていることに驚いているわ」
ファジーネーブルは少しぬるくなっていた。頼んだはいいものの、あまり酒を飲みたい気分でも、体調でもなかった。
「読んだ?」
「教科書でね」
「面白い?」
「どうかしら」
彰葉には、あの世界観は似合わない。もっとも、彰葉の享楽主義の根底を追随したうえで彼を世捨て人とだと置き捨てるのならば、重なるところがないわけではないけれど、すくなくとも感性を大事に自分に正直に生きてきた、そうすることでしか生きてこれなかったこの青年に、言葉で感性を超越した理性を押し付けるのは全くもって嫌みな行為に思う。
「あれってさ、書き出しが、暇だから書くわって言ってんのよ」
彰葉が怪訝な顔を作る。目をぎゅっと細め、大きな黒目が猜疑するように尖った。
「本当よ」
「紅花ちゃんって息を吐くように嘘つくからな」
「それを言うなら、息をするように、でしょ」
「息を吸うときに、嘘はつかないでしょ。煙草と一緒だよ。吸うときの煙草の匂いは嫌いじゃないけど、誰かが吐き出した煙草の匂いって、なんか嫌だもん」
妙な感性を言い出す。
「で?」
「うん?」
「暇人が書いたの?」
あぁ、と紅花は思い出して、軽く苦笑する。一度思考を離れてみると、この時代に徒然草が話題の俎上に乗っていること自体がおかしかった。
しみじみ、神崎朔也という男は面白い。
「そうよ。暇人が書いたの。それを暇な男が読んでいるの。どうしようもないでしょう?」
「朔也君て、暇人なの?」
「彼が忙しなくは見えないでしょう?」
少なくとも、忙しなく、忙しく、忙殺されて喜ぶ人ではない。
彰葉はふうんと気のない返事をして、その場に頬杖つく。
「映画見たの」
「珍しいわね」
「珍しい?」
奢ってあげるというと、彼は躊躇なくウイスキーを選んだ。
「作り物の幸せも悲劇も、あなたは好きじゃないでしょう?」
「でも、ちゃんと起承転結作って酸いも甘いもって感じなら、多少は感情移入できるってもんだよね」
ウイスキーに炭酸を流す動きを止めることなく、彰葉は言った。仕事中という意識はあるらしく、かなり多めの炭酸で割った。
「どんな映画を見たの?」
「優等生だった主人公がある日突然、サイコパスになるやつ」
ネタバレに近い簡潔な説明だったが、それで理解が追い付いてしまうということはつまり、その類の作品が決して珍しくないということだろうか。
映画の中でさ、と彰葉が呟いた。
人気のなくなってきた夜の時間帯、彼の呟きはしっかりと耳に届く。
「主人公が言うわけよ。親の言いなりだった俺の人生って何だったんだって。意味はあったのかって」
「親の敷いたレールを歩いていたのね」
紅花は飲みかけのファジーネーブルに口をつける。甘ったるい果物の芳醇な甘さと酸味の奥に、確かなリキュールの鈍い苦さを感じる。
「そりゃ、可哀想だなって思ったよ。人の理想を生きようとするあまり、本当の自分を完全に見失ってたわけじゃん。自分がこうありたい、の前に、人がこうであって欲しいと願っているのを感じ取って、それを自分にあてはめちゃうわけでしょ。うまくこなせればいいけど、そうじゃなかったら辛いと思う」
彰葉が目を合わせてこないのが、紅花は気がかりだった。
普段なら、此方の腰が引けてしまうほど真っ直ぐに相手を見つめる彰葉の瞳が、自分の手元のグラスをただ写しているだけだった。
「でもさ、俺、誰にも生きる意味なんて貰ったことない。あの主人公とは全然違うけど、誰かに望まれて生きたことなんてないよ」
息が詰まった。胃の底から何かがせりあがってくるようで、無理にグラスの中身で流し込む。いくらアルコールに強くても、お酒で満たした身体は何処か表面がざらつく。ファジーネーブルが滑った口の中も、喉も、胃も、ざらざらとした違和感と熱を持っていた。
「一気飲みは危ないよ」
彰葉は呆れたように言って、冷たい水をグラスに入れて手渡してきた。
素直に受けとったときに、彰葉の指先に自分の指先が重なった。彼の指先が想像を超える冷たさだったので驚くも、あれだけ冷えたボトルやグラスを触っているのだからそれもそうかと納得する。
人間は恒温動物だけれど、皮膚は案外すぐに温度を変えていく。呆気ないほど、単純に。
「そもそもさ、生きる意味って、マジ理解できない。勝手に生んだくせに、それに意味を持たないと無価値、みたいな押しつけがましい考え、本当にやめて欲しい」
何処かに切実な思いを感じ取ってしまうから、紅花はこの手の話が嫌いだった。
彰葉の享楽主義が好きだ。彼といるときは開放的で、非道徳的な感性を隠さなくてよくなる。それはもちろん他者の感性を蔑ろにしたり高尚な誰かを嘲るようなあくどさではなく、ただ自分の欲望をかき集めてグラスに注ぎ、色とりどりのアルコールに溶かして揺らしているような行為。
それを楽しみたいだけで、すぐさま元通りになれば、それ以上の荒波を立てるわけでもない。
「そういう質問する人ってさ、ペットの犬とかネコにも、聞くのかな。答えがかえってくると思ってんのかな」
彰葉の声が尖る。柔らか唇を突き出し、拗ねた子供のような表情になる。精神的な幼さを、彼は隠さない。勿論それは信頼されていると捉えることもできるけれど、同時に彼を傷つけてはいけないという義務を相手に植え付ける。
「人間に生まれたからって、ハードル上げないで欲しい。勝手に生んだんだから、好きに生きさせてよ」
紅花は口を挟まなかった。
彰葉の本音が溢れる様に零れ落ち、それを指摘するのはあまりに酷だった。
彰葉が享楽主義なのは、そうでなければ生きてこれなかったせいだろう。
執着はしない。頑なな生き方もしない。他人に対して積極的ではあるけれど、手ごたえがなければそれまでとあっさり割り切ってしまう。来るもの拒まず去るもの追わず。それが彼の人生の鉄則だ。
でも、と紅花は唇をなめる。フルーツの甘さと、グロスを掬い上げる。
でも、抑々の話、彰葉は執着の仕方を知らない。
本音を言えば、気がかりではあった。
マスターの性格を考えれば、彰葉は割に良い給料をもらっているだろう。ほぼ定年間近に勤めていた会社を辞めてこのバーを開いた彼にとって、此処はほとんど老後の趣味に近いはずで、息子のようにかわいがっている彰葉に出し惜しみは恐らくしていない。
しかし、彰葉の散財を見ていると、きちんと貯金をしているかどうか怪しいなと感じることは度々あった。
彰葉の中に、計画性と展望が見えない。何かの拍子に現在を失ったとき、彼には未来をつくる力があるのだろうかという心配はある。
「大した人間じゃないから頑張らなきゃ、がそもそもおかしい。大した人間じゃないのに頑張りすぎなんだよ」
猶も呟くように鬱屈したものをつらつらと吐き出す横顔に、その言葉を朔也にはぶつけないでくれと願う。
大した人間でなくちゃ認めてもらえない柵に両手両足を縛られてもがき苦しんだ朔也が、やっと自分の弱さに向き合っている。
他人の期待を少し遠くに置いて、自分を絶賛する人間に囲まれたことで、ほぼ折れていた自尊心にやっと、添え木が出来たのだ。
朔也は決して卑屈にならなければいけない人間ではない。お育ちも、性格も、容姿も頭脳も利発さも、すべてにおいて欠陥らしい欠陥はない。
彼がどこで、何を理由に自分という人間に諦めを持ったのかは分からないし、聞くこともないだろう。
傍から見れば幸せであるはずの朔也が、それでも苦しまなければいけないというのなら確かに、犬猫の方が健全に生きているのかもしれない。弱肉強食の食物連鎖の中で、満足感という指標はまるで違ったベクトルで伸びている。
「人間はさ、出来ないという言葉に過敏なのよ」
彰葉はやっと目線を上げ、紅花を見た。
「この世において、出来ないことってたくさんあるのよ。物理的にも、倫理的にも、個人としても、規模としても。むしろ、出来ることって本当に少しなの」
手のひらを皿にして、少し、というジェスチャーをする。女性にしては大きいといわれる自分の手の、骨ばったつくりはあまり好きではなかった。
「人間ていうのは強欲だから、損失に対して強い危機感を示すのよ。でもね、物理的に不可能だと示されるから悲しいと思うだけで、出来ないままに終わること、出来るわけがないことって、この世にありふれているのよ。観光地のすべてに行けるわけじゃないでしょ?そういう事よ」
自分の口調が何かを諭すように、相手に対して高圧的な印象を与える物言いであることは自覚していた。
僅か五歳ほど年下の青年に、つらつらと人生を語る自分をどちらかと言えば鬱陶しいのだろうとわかっていても、彰葉には経験していない当たり前が多すぎた。
事実、彰葉は理解しがたいという表情でグラスを傾け、それはまるでアルコールに酔わない蓮が、場の空気から酒を流し込む仕草に似ていた。
あの姿が一番、彰葉の心に住み着いているのだから、救いようがない。
顔を逸らそうと首を動かすと、耳元でピアスが鳴った。ほんの小さなダイヤが釣られているタイプで、値段の割に華奢なところが気に入っている。
「都合のいい相手をどっかに探している自分がいるんだよ」
「え?」
顔を上げる。もう一度、ピアスが揺れた。
「俺だって、自分に欠落している物ぐらいわかってる。だから、それを補ってくれる人をずっと、捜している」
自身の努力を軽んじられた人間特有の痛みを滲ませた鋭い瞳に睨まれて、紅花は自責の念と庇護欲を感じて、焦って言葉を探した。
「そんな悪い風に言わなくていいのよ。パズルのピースがはまったのよ。相互扶助、それでいいじゃない」
「紅花ちゃんはそういって、何人の男と付き合ってきたの?一度くらい、上手くいった?」
普段の軽口が出てこない。頭が真っ白になって、そこを埋め尽くす憎悪の念をせめて表出させないようにとまつげを伏せると、アルコールの酔いで瞼が重たく感じた。
なぜ、伝わらない。
愛情を受け取れなどと傲岸なことを考えてはいないはずだったけれど、無意識に相手に同等の好意を求めていたのだろうか。
言葉を求められるのは仕事柄、苦手ではないつもりだった。それでも、紅花が意図しているのとは全く違う解釈で言葉が飲み込まれ、齟齬を起こすは決して珍しい事じゃない。
相手に悪意があれば、どんな善意も曲解されてそれまでだ。
紅花を「姐さん」と呼び始めたのは、蓮だった。
頼りにしているという、彼なりの愛情の込められた呼び名だと認識している。それがなんとなく浸透して、今では利玖や朔也もそう呼ぶが、彰葉には呼ばれたことはない。
もしかしてそれは、彰葉なりの対抗心だったのだろうか。
「紅花ちゃんは頭で恋愛をする人でしょ?」
「どういう意味?」
「そのまんまだよ。理性的に、恋愛をしようとしている。あ、悪い意味じゃないよ」
付け足されるまでもなく、悪意は感じなかった。ただ、彰葉の言わんとしていることが、わからない。
「もっとわかりやすく言うとさ、俺は安くてもくだらなくても嘘でも、その場だけ大事にしてくれる相手で十分満たされちゃうの。感性でしか恋愛ができないんだ」
薄暗い小道に、どぎつい閃光が走る。目を閉じても覆い隠せない光が向こうから迫りくるような、そんな閃き。
「心で恋愛をできるっていうのは、大事なことよ」
「優しい言い換えをしてくれるね。心でしているなんて聞こえはいいけど、要するに後先を考えないってことだよ」
「そんなことをいうのなら、頭で恋愛をするなんて、打算でしているのと大差ないわ」
「恋愛が人を幸せにするなんて、空想の世界だけだよ。所詮、その方が生きやすいからするんだよ」
「生きやすいって、幸せってことじゃないの?」
「そうだよ。だから、頭で恋愛をする人はちゃんと幸せになれる」
「じゃぁ、私たちは同じような理由で退嬰的な選択をして、傷の舐めあいでもしていればいいじゃない」
段々と自分の口調は尖り、理性的でない言葉を口にしていた。彰葉もまた、得意の挑発的な視線をそらさず、完全に泥仕合だと頭の端でわかってはいたが、どうしても譲りたくなかった。
こういう、バランスが崩れている日に限って喧嘩を吹っ掛けられてしまうと、応戦してしまう。食欲がなくて一日ほとんど固形物を口にしていない胃に流し込んだアルコールで、普段より悪酔いしている。パンドラの箱の鍵穴に針金を突っ込まれてしまったように、ちくちくとした痛みが下腹部にあった。
弱っているから、彰葉の中に作り上げられた幸福な自画像に疑問が湧いた。幸せだと他人に思われたいくせに、幸せそうだといわれると自分の懊悩も煩悩も否定された気になって、心がざわつく。
「あ」
彰葉の呟きと共に、肩に人の手が乗せられた。振り向くと、蓮がいた。
「お前ら、店の迷惑だ」
どこから聞いていたのだろうとぼんやりと考える。蓮の手は、少し温かかった。
「店の迷惑かどうかは、店員の俺が決めるよ」
「じゃ、言い方を変える。他の客の迷惑だ」
蓮の声は鋭かった。彰葉にそれ以上の軽口を許さない色があり、それがおそらく彰葉の気に障ったのだろう。
「先輩につけとくから、帰りなよ」
目線は蓮を見据えていたが、間違いなく紅花に向けた言葉だった。
紅花は鞄から財布を出し、お札をテーブルに置いた。
「マスター、ご迷惑をおかけしました」
カウンターの中にはいたが距離を取っていたマスターはいつもと同じ笑顔で頷いた。
いかなる時も泰然とした態度の彼は、紅花にとって最後の砦でもあり、悪夢のトリガーと同じ色をしていた。




