ファッション
セットしていた目覚まし時計よりも僅か数分だけ早く目が覚めた時、彰葉は何かに勝った気がした。
子供のころから誰かに起こしてもらったという経験はほとんどない。無機質な目覚まし時計に起こされることに慣れ切ってしまっていて、子供じみた遊びまでも身体に染みついている。
昔は、しっかりしている自分に満足していたのに。
今では、必要以上にガキでいようとしている自分がいる。
おまけに窓の外は良く晴れている。梅雨明けだ、と昨晩バーでマスターが嬉し気に語っていた。
天気に左右される性格ではない。しかし、今日ばかりは晴れてくれて助かった。
着る服は決まっていた。朔也のグレーのデニムに、同じく朔也の薄手のニットだ。ニットは白と黒のストライプ。
袖を通して鏡を見ると、サイズ感は丁度良かった。彰葉は自分でも相当小柄だと自覚しているが、それにしても彼の服は細すぎる。おまけに、色が最低限。彰葉の独断で言えば、黒や白は色とは言い難い。色付きペンと言って黒いボールペンは指さないし、色付きリップに白いリップは含まれない。
でも、と、朔也から借りている服の入った紙袋を見下ろす。
でも、彼がやたら色のついたファッションをしだしたら、きっと彼らしくないと思うのだろう。
黒いニットの袖から覗く青白い肌や、襟ぐりにかかったアッシュの毛先、華奢で真っ直ぐな足を強調するスキニー。
彼は鮮やかな世界で色とりどり用意されて生きて来たのに、敢えて、モノクロを選んでいるのだろう。
彼の住んでいるアパートの階段は、かなり急だ。聞いていた段数よりも、登ってみるとハードで、太腿の筋肉が動いた気がする。
出迎えた朔也はきちんとした格好をしていた。薄手のシャツに紺のパーカーを羽織っていて、袖口からあっさりと伸びた手の、華奢な指先。
「朔也君の手首なら、俺、手刀で折れるよ」
「多分それ、相討ちになるぜ」
間違いないなと、自分の手首を見つめる。
「何していたの?」
渡された炭酸水を飲んだ勢いのままに尋ねる。駅からの道のりはそれなりに暑かった。おまけに住宅街だけあって建物はどれも高さがないので日影が少なく、日傘を持っていなかったことを少し後悔した。おまけに紙袋もそれなりの重量があって、ずっと紐をかけていた右肩が凝った気がした。
「それ読んでた」
ガラステーブルの上に、しおりを挟んだ状態で置かれた小説を指さす。手に取ってみるとずっしりと重たかったが、おそらくそれはブックカバーのせいだろう。彼に許可を取らずに、中を開く。彼は人に開けた性格ではなく、何かとつけて他人や社会を拒むところはあるけれど、明確な一点に向けて悪意や拒否を示すことを好まない、ある種の平和主義者だった。
「とぜんそう」
「つれづれぐさ、な」
すっかり呆れた声で訂正をされた。
「あぁ、きいたことある」
「中学で習ってるはずだ」
表紙のお坊さんの絵から曖昧な記憶をたどる。勉強はあまりちゃんとしてこなかった。それがすべてでないという風潮のなか、強い後悔もしていないけれど、朔也の知識に基づいた理論的な思考力や視野の広さ、興味関心による多趣味に触れる度、朔也を羨ましくなる。勉強というものを通して、彼は人として豊かに感じる。
きっとこの文章の中に、彼は居場所があったのだろう。彼は広い交友関係を持たないし、深い関係性からは逃げている。それでも彼から孤独なオーラは感じないのはひとえに、彼自身が一人でいることに価値を見出しているからだ。
彰葉には呪文か、お経にしか感じられない小難しい言葉の並びの中に、彼は自分という人間を確立する何かに出会っていたのだろう。
しかし、羨ましいと口にする柄ではない、自分は。
「そうは言うけどさ、朔也くんだって、中学のことなんてどうせ全然覚えてないんでしょ。担任の先生とか、何組だったとか、何が好きだったとか、どんな女の子を振ったとか」
「いや、俺、男子校」
彰葉はその言葉を無視した。
「だから、俺が中学時代に習ったことなんて覚えてなくたって、別に変なことはないでしょ」
「すごい屁理屈」
朔也は半ば感心した様子で言った。
「でもまぁ、確かに覚えていないことも多いな」
「逆にさ、覚えていることってある?」
朔也と昔話をしたことはない。少しの興味と多少の詮索の気持ちで尋ねると、彼はゆっくりと顎を上げて天井を見つめ、やがて何かを思い出したように呟いた。
「体育の先生」
「は?」
「うちは男子校だったから、女の先生ってほとんどいなかったんだ。でも、体育の先生の中に女の先生が一人いて。非常勤講師だったけどな。仲良かったんだ」
静かに記憶を手繰り寄せるような口調と感傷の混ざった視線に、嫉妬と邪推を含んだ興味が湧いてくる。
「それは深堀りしていいやつ?」
「別に、彰葉が期待しているようなことは何もねえよ。ただ、まぁ、どの先生よりも仲が良かったし、学校で唯一好きな先生だった」
「どんな人だったの?」
「ゼリーっぽい人」
よくわからないなと首を傾げると、彼も理解されようとしていない微笑を浮かべた。
「全然、なにも引っかからない人だったんだ。もっとも、体育の授業の間にちょっと話をするだけだから、それ以上の事情はお互い知らなかった。先生のこともわかんなかったし、俺のこともあの人はきっと良くわかっていなかった。でも、干渉されることに辟易としていた当時の俺にとっては、その距離感も心地よかったんだと思う」
「朔也君って、多分、あっさりした人が好きだよね」
彼の恋愛事情に首を突っ込んでしまいたい野次馬精神を必死に飲み込む。
どんな人が好きで、どんな人を大事にして、どんな期待を持っているのか。真剣に聞いてみたい気もするけれど、おそらく今じゃない。
彼はムードを大事にする人だから、こんな日差しの強い真夏のお昼時に、夢現な理想論を口にしたりはしない。屈折して蜃気楼になるか、良いところ逃げ水を追いかけているようなもの。
無論、彼の堅い口を解く方法も知っている。
「あっさりした人?」
彼は確認をとるように鸚鵡返しをする。
「うん。束縛も、嫉妬も、依存も、耐えられないでしょ?」
「俺って、そんなに不誠実に思われてるのか?」
心外だと言いたげに眉をひそめる横顔に、彰葉は軽く吹き出す。
「別に、不誠実だからってわけじゃないでしょ」
朔也は折り曲げて抱えていた脚を伸ばし、右足に左足を重ねた。緩慢とした仕草に、彼が何かを考えているのはわかった。
「それを言い出したら、彰葉の方が何にも執着しないだろ?」
「朔也君さ、それはいくらなんでも無理があるよ」
「なんで?」
問われると、返答に詰まる。
言ってしまおうかと朔也を一瞥すると、彼は鼻歌でも歌いだしそうな軽やかな表情でベランダの方を見ていた。窓の向こうには、鮮やかな水色の空がどこまでも続いている。
彰葉が蓮にどこまでも執着していることに、気付いていないとは言わせない。彰葉自身自覚をしているし、半ば意地のようになっている。人生で唯一、心を許した存在だった。
物理的に離れていた時期があった。立ち行かない現実に苦しみ、困難の大小に関わらずふと痛みを覚える度に、嫌というほど蓮のことを思い出した。
幼すぎたせいでもあったけれど、幼さ故の純粋さで人を欲した時期があった。優しさを配り歩いてはいないけれど、頼れば絶対に助けてくれると信じられる相手だった。言葉ばかりで腹の足しにならない大人とは比べるまでもなかった。
「俺って、意外と一途なんだよ」
にっこりと、人当たりの良いと自覚する笑顔で言う。他人に良い顔をするのは得意だった。
「意外でも何でもねーよ」
吐き出すように、彼は肩で笑った。
「それだけ洋服の系統に隙が無いやつが、何言ってんだ」
彼の視線につられるように、部屋の隅に積まれた洋服に目を向ける。朔也らしい、几帳面に畳まれた、自分の洋服。
蓮に淡い色が似あうと言われてから、彰葉はそればかりを好むようになった。色や形も常に清潔感を意識し、リネンやコットンのシンプルなシャツを愛用し、デザインや柄物はほとんど選ばない。洋服で個性を出そうとはせず、嫌味のないファッションで街中に馴染むことを第一とした。
街中に馴染んでいても、見つけてくれると信じていた。
「彰葉ってさ、最近の言葉で言うなら、ミニマリストだよな」
「なんだそれ」
「荷物は最低限しか持たないってやつ」
「え、これだけの洋服を目の前にして、それを言うの?」
彰葉は返却される洋服の中から、何を着て帰ろうかと考える。着てきた彼の服は、脱いで返す予定だ。白いシャツと淡い色物のパンツばかりで、よく晴れているが雲の多い青空を連想させる。
「あぁ、モノじゃなくてさ。感情の方。記憶とか、思い出とか」
朔也の口調は、自分と交差しない部分を眺めているような口調だった。
引っ掛かりを覚える。彼に悪意がないからこそ、引っかかった事実だけが突き刺さる。
「そりゃ、俺は朔也君みたいにお育ちがよくないんだよ。ディスプレイしておくような記憶がないの」
朔也の視線を感じて目線を向けると、彰葉が想像していたよりも柔らかな表情で彰葉をじっと見つめてきていた。まるで彰葉の裏側でもみるように、ただただじっと見つめてくる。不器用な感じと真面目過ぎる感じが、ちゃんと化粧をして髪を編み込んだ姿と、かみ合っていない。違和感というよりも、和洋折衷といったところだろうか。
「だからって、何でもかんでも安売りするのも違うだろ。彰葉の感情は彰葉だけのものなんだから、感情を推し量られて同情されたり感情を一括りにされることには抵抗しないと、過去の自分がなくなる。心地よくない記憶だからって他人から安易に貶められたり汚されたりすることを良しとしたら、それは他人の痛みも軽んじることになる」
朔也の男性にしては高めの、真っ直ぐで強い声が発せられる口元を、つい凝視してしまう。薄い唇だなと自分の唇に手を当てると、ウォータータイプのリップクリームがつるっとした膜を張っていた。
「過去を捨てたい俺の気持ちに、朔也君が口出しするのはどうかと思うよ。朔也君みたいに恵まれた人には縁のない、結構残酷な現実だってあるんだからね」
自分でも声に棘があると自覚をしていたが、彰葉は撤回する気にはならなかった。彼の棘に押し出された、俺の悪意がどうであれ、巡り巡っているだけだ、と開き直る感情すらあった。
挑発した彰葉に対して、朔也は感情を表に出さなかった。どちらかと言えば受け止めようとする真面目さすら窺える。
「ほら。そうやって自分の過去を薄めようとする代わりに、俺の過去まで歪めてるんだよ、お前は」
ただ、彼も言いたいことを我慢するような性質じゃない。
僅かな沈黙が出来た。
お互いに強い感情を揺さぶられている中、それでも相手に対する好意を無視することもできないまま言葉を探し合っていて、その沈黙に、閉じているはずの窓から聞こえる蝉の大合唱が時間の経過を教えていた。
「ごめん、凄く嫌な言い方した」
彰葉が何も言えずにいると、朔也があっさりと謝ってきた。今日の彼は、妙に余裕が滲んでいる。いつもの弦の張り詰めた弓のような、神経質な雰囲気がない。
「朔也君が謝ることはないでしょ。言ったことを撤回するなんて、朔也君らしくないよ」
「撤回はしない。ただ、言い方ってのはあるだろ」
「朔也君って、そういうの気にするんだね」
意外だという当て擦りを込めて言えば、彼は微かに笑った。
「昔の俺が見たら、嫌がるかもな」
「なんで変わったの?」
「雅だけは傷つけたくないから」
ファイナルアンサーが過ぎる。完璧な回答だ。
「大人になったんだね」
揶揄うような口調で言ったのは、彼のプライドへの配慮のつもりだった。しかし、彼は酷く真面目な声で、大人になんてなりきれてないだろうと呟いた。
「自分が一番不幸でいたいってのは、子供の世界系な感情なんだろうな」
「わかるなぁ。世界で一番幸せになりたいってのは傲岸で分不相応を弁える癖に、世界で一番不幸だと思うときって、それを疑わないよね」
「幸福という事実を前に、他人なんかどうだっていいんだ。足並みそろえた幸福で十分なんだよ。でも、不幸なときは、他人と押し並べられちゃ困るんだ。幸福を軽んじられるのはどうだっていいけど、不幸を軽んじられるのは許せない」
話に落ちがついたな、と思ったところで、彰葉は腰を上げた。
紙袋から真っ白いシャツと、同じくらい白い半そでのジャケットを取り出す。パンツは淡いデニムにした。
素早く着替えている間、朔也は先ほどの本を手に取っていた。長いまつげが文字を追う瞳の上下に合わせて揺れる。ページを捲るときの指先の動きとか、崩した足がそれでも収まりよくこじんまりとしているところとか、ちょっとした動作でも、彼は品がよさそうに見える。
着て来た朔也の服は彼の指示通り、洗濯機に突っ込む。彰葉の服は確認後、朔也が紙袋に入れて渡してくれた。
軽い挨拶をして彼の家を出ると、来た時よりも強い日差しが真っ直ぐに降り注いでいた。これから家に帰って荷物を置いて、直ぐに仕事に行くのかと思うと、少しばかり億劫な気分になった。
梅雨が明けた。
晴れた空の元、何を楽しもう。
青空は広く見えるから、どこにでも行けそうな気分になる。明るくて、さっぱりとしていて、眩い。
不幸を気取るには明るすぎる空だから、嫌な思い出はやっぱり掘り起こすもんじゃない。
幸せなフリをすることは、朔也の言葉を借りるなら、普通の人間のフリをするということなのだろう。
上等じゃないか、と思う。
強く生きていこうだなんて思わない。
他人様に褒められて生きようだなんて思わない。
でも、幸せそうだと思われてなくちゃ、生きていく甲斐がないってもんだ。




