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生まれ変わり

 梅雨の長雨は億劫な気分になることもあるけれど、通勤も通学もない利玖にしてみれば、穏やかさと重ねることもできなくはなかった。たとえば孤独な気分に浸ってみたっていい。雨粒の伝う窓ガラスから重たい雲を眺め、閉ざされた世界で希望と憧れを押し殺した気分でも持てば、多少の芸術点は得られる。


 寂しさと煩わしさばかりのイメージだった雨を厭わなくなったのは、朔也と出会ってからだ。

 

「生まれ変わるなら男と女どっちがいい?」


 日差しはないが蒸し暑いおもてを歩いてきて汗を額に浮かべたまま、雅は少し興奮気味に問うてきた。つい一昨日の話だ。

 利玖は二択でしかないそれを真剣に考えたのだが、答えにたどり着く前に、朔也の「俺は生まれ変わらない」の答えで話は終了した。


「盲点だった。人間そのものを拒否ってたよ、あの人」


 帰り際に見送った玄関先で振り返った雅の、信じられないという顔を思い出し、思わず笑いがこみ上げる。元々大きな目を更に見開いたせいで、白目がより一層顔を出していて、あぁ若い瞳だなと薄暗い玄関先でも透明感に感動した。

 その雅は、今日はテストの関係で家で一人頑張っているらしい。先ほど、メールが来ていた。


「朔。何してるの?」


 利玖は机に頬杖を突いたまま扇風機を見つめる朔也を呼んだ。クーラーは入れてあるが、朔也は温度を一度上げると暑いと言い、一度下げると寒がる。諦めて、少し高めに設定し、扇風機も稼働させる二刀流が妥協点となった。

 彼は大学の二限目が突然休講になったという情報が届いた時には、既に駅まで行ってしまっていたことから、寄り道をしに来たらしい。曰はく、二時間で出る、と。

 誰もいない、利玖しかないことをいいことに、朔也は着ていた黒いパーカを肩から外していた。下に着ている白いシャツの裾と開けたパーカーの隙間に見えた、細い腕。


「死ぬことと生きることを同等に並べることの意義について、考えていた」


 扇風機の首振りと同じタイミングで乱れる声で伝えられた言葉に、利玖はまた始まったと、微かに苦笑いを浮かべる。


「どういうこと?」


 利玖は笑いながら尋ねる。


「生きるか死ぬかって、言うだろう?」


「デッドオアアライブってやつだね」


「お前、英語の発音ひどいな」


 話の流れで人を貶すのはいかがなものか。そう思って軽く睨みつければ、ちょっといたずらっぽい瞳と視線が絡んだ。

 朔也は時々、人を揶揄う。普段冗談など言いませんという難しい顔をしているくせに、晦渋な言葉選びの端で唐突に他人を弄ぶ。


「でも、そういうこと」


 掌に顎をのせ、その手も顔も小さいことは、窓を背に一人いるだけじゃわからない。その艶やかな銀髪が華美であることも、アイラインを引いた目元が艶美であることも、意味ありげに浮かべた微笑が秀美であることも、この世界にあまり美しくないものが存在してわかる、美しさだ。


「朔のいう、そういう事の意味がさっぱり分かりません」


 利玖がそう返せば、朔也は初めから持っていた答えを薄い唇にのせる。薄くて、笑うことを忘れたら一生、口角の上がらない唇。


「デッド」


 あぁ、こりゃ、バカにされても仕方のない発音だ。利玖は頭の隅で思った。


「これは主に形容詞として使われる。死んでいる状態だ」


「う、うん」


 正しい返答に困り、曖昧に頷く。利玖の頭は残念ながら、朔也ほど出来がいいわけではない。唐突に言葉の品詞を語られても、それが言葉以上には自分に語り掛けてこない。


「アライブ。これも、形容詞で、生きている状態を指す」


 朔也は指をパチンと鳴らす。軽快な音だ。


「つまり、デッドオアアライブは死んだ状態と生きた状態をならべ、どちらの状態になるかを二択に並べている」


 朔也の声は男性にしては高めで、凛と響く。その雰囲気と、生死をつらつらと語る姿があまり重なり合わない。生命力が彼の在り方全てに映し出され、そしてその過程で使い切っているのだろうなと思う。活力を心に残せるだけの余裕が、彼にはない。


「だけど、生きるか死ぬかという日本のたとえは、どちらも動詞なんだ。だけど、生きるというのは瞬間じゃなく、ある一定のスパンが存在する状態であるのに対して、死ぬというのは一瞬の動作。しかも、死ぬの対義語は生まれる」


 どうしてこういう事を語るときだけ、その瞳は冷たくも輝くのだろう。色素の薄い表情の中で色濃いきらめきを放つ漆黒の瞳にちらつく水分は、あるとき涙になるだろうか。


「だから、生きるか死ぬかって変だなって思ったんだ。同等に並べるのは、少々強引だろう」


 生きるという状態と死ぬという動作の違いを真剣に考え込み、それを頭の隅においたまま扇風機の風を浴びて七月の雨をやり過ごす朔也の方がよほどすごいと思ったけれど、利玖はそんな朔也を朔也らしいと思った。朔也は出会ったときと何も変わらない。些細な変化といえば、まともな傷つき方を少し覚えたくらいだろう。


「つまり、英語なら死んだ状態と生きた状態という二択だけど、日本語なら生きている状態と死んだ動作を比べているから、生きている状態の延長戦上に常に死ぬという動作が存在している。ってことでいい?」


「ご名答。だから何ってこともないけどな」


 死ぬことを望んだ過去を持つ朔也は、忙殺の隙間に置き去りにされた暇を、生きない方法を探している。

 繁忙と暇の調和がとれる日常は少ない。どちらもバランスよく存在すれば日常を活かすこともできるのに、まるでオイルのたっぷり入ったドレッシングのように混ざらずに分裂するものだから、そんな日々に疲労と絶望と暇と孤独を、どちらも持て余す。

 別に朔也のその癖を悪癖だというつもりはない。ただ、思考の中で探せばいいものを、なぜ手探りで見つけようとするのだろうとは思ってしまう。

 ほら、そんなに乱暴にパーカーで仰ぐから。見せたくないものが、利玖の視界を遮っている。白を活かすのは何色か。青白い、若さというよりも幼さすら残したその腕に筋書きされたのは、どんな赤だった?


 朔也はふわりと、緩やかなあくびをした。緊張感で気張っていた肩の力が一気に抜けた。

 鋭利さや攻撃的なところばかり目につくけれど、誰かれ構わず攻撃して高笑いをするような奴ではない。


「思い付きで死ぬわけにもいかないんだろうけどさ、常にその二択を持ちながら生きていくと、時折普段選ばない方を選択したくなるんだ。

 不完全なくせに完全という形がない。人間って難儀だと思わないか?」


 朔也の言葉はいつも難解で意味が分からない。利玖はそのことを、けれど寂しく思うことはなかった。理解できなくて、理解しようとも思わない自分の性を、後悔したこともない。

 むしろ、意味も分からずに、それでも肯定する自分が、誰よりも優しいと称されることに優越感すらあった。

 朔也にとって一番優しい人間でありたい。

 それは誰にも言ったことのない野望であり、そして現状誰にも侵されない自分の誇りだ。賢しさも気まぐれも美しさも身勝手も、全部全部、朔也のものであればいい。


「じゃぁ、もう、死にたいとか思わない?」


 利玖は、グラスにカルピスを注ぎながら尋ねる。自分の言葉におそらく曖昧な表情を浮かべるだろう朔也のことを、敢えて見ることを避けた。手元のグラスにゆっくりと流れる甘ったるい白い液体を、まるで川のせせらぎのようにも、瀑布のようにも感じた。


「それは無理だろう」


 想像していたよりも強く言われ、更に真っ直ぐな視線を感じた。自分の意思がしっかりとしている者の目だ。伝えるべき言葉をもった瞳は、相手の逃げ場をつくったりはしない。


「そこは、意地でも変えない?」


 二つのグラスに同じくらいに注ぎ、空になったペットボトルのビニールをはがす。扇風機の音だけがする室内に、ぱりぱりと安っぽい音がする。


「むしろ聞く。死ぬことを望まない人生なんて、怖くないか?」


 グラスを両手に持ったまま、利玖は言葉を探した。ゆっくりとリビングに移動して、朔也の前に一つのグラスを置く。もう一つを手前に置いて、そこに自分も腰を落とした。その緩慢なわざとらしさを責めることなく、朔也は瞬くだけだった。


 利玖はなんだかなと、まだ言葉が思いつかない。ここでどんな言葉を返しても、朔也の理想と自分の理想が重ならないことなどわかり切っている。初めから、そんなことはお互い承知の上だ。考えなんか違っていい。価値観は同じじゃなくてもいい。自分たちはそうやって関わってきたつもりだ。出会って僅か三年にも満たない日々の中で、それでも自分たちの人生で一番大事な秘密を共有してきたつもりだった。

 しかし、ここにきて、死生観はどうしたって開いた距離が埋まらないと悟る。


 利玖はカルピスを一口、飲んだ。普段自分から選ばないその酸味のあるドリンクは、子供向けの甘っ たるさがある。

 僅かにべとついた唇を舐め、


「オレは、朔より先に死ぬのは御免だよ?だから、朔が生きているうちは、死にたいなんて思わない」


 朔也の望む答えなんて、ない。

 朔也は自分の考えが社会性とかけ離れていると、必要以上に思っている節がある。学校という狭い社会の中で、未熟な身体に必要以上の可能性を秘めたおかげで、協調性のなさをただ一つの欠陥として責め立てられた彼にとって、同意も同調も偽善にしかならない。だから、利玖が何と言ったって、朔也は何も思ったりはしない。


 朔也が想像もしないことを言ってやりたかった。朔也の想定を逸脱するような、常識はずれのことを言ってやりたかった。

 朔也は目を閉じて、口元を歪める。ポーカーフェイス気取りで、案外感情が率直な朔也は、気持ちを 抑えたいときに目を閉じる。その大きな瞳がどんな綺麗な湖畔よりも真っ直ぐに己の感情を映し出してしまうことを知っている。

 ゆっくりと時間をかけた瞬きの瞼の裏に、想像していたよりも優しい瞳と目が合う。


「それはよかった。俺は、お前に死んだ後のことは任せたいからな」


 嘘ばっかり。そう言おうとして、辞めた。言うのすら、ばかばかしい。

 死んだことすらきっと、彼は利玖に隠すだろう。


「独りでも生きていける世界があったら、そこで、朔は生きようと思う?」


 誰かと生きることが苦痛で仕方がないのなら、秀で過ぎた才能も容姿も、普通を逸脱しただけの荷厄介だと思い込んでいるのなら。協調性だとか長いものに巻かれることとか多数決の多い方を正義とするとか、そういった処世術を一つも身に付けられなかっただけなのなら。

 利玖の問いを、朔也は鼻で笑った。


「独りだったら、死ぬことに何の問題もなくなる。生きるはずがないじゃないか」


 朔也は、まるで利玖が足し算の問題でも間違えたかのように軽く笑った。しかし、利玖は驚きで一瞬、言葉を失った。


 自分のために死ぬことよりも、他人のために生きることが大事なんだと、この男は知っているのだ。その順序を、間違えていなかった。間違えていなかったから、苦しんだのか。賢さというハンディキャップが確かに存在する。不完全でなくとも進化はできることの裏返しは、評価されても停滞する苦しさ  だろう。

 朔也はやっぱり、損な男だ。

 少なくとも利玖の傍にいる誰よりも、生きることがへたくそだった。


「いや、そんなあっさり捨てるなよ」


「は?」


 前髪が伸びている。朔也の目を隠した前髪を、指先で流してやる。軽く目を伏せてそれを受け入れた朔也は、一体どこまでなら利玖を許すだろうか。


「もしも朔が一人でも生きていける世界を生きていると知ったら、俺はすぐにそこに行くから。独りでも生きていけるってことは、二人でも生きていけるだろう?」


 利玖の言葉に、朔也は顔を伏せた。古い扇風機の強風に、前髪がまた目元を覆う。そのせいで少し透けて見える額が、どうも理知的に映る。綺麗で、賢くて、俺がこの男の人生を生きるとしたら絶対に失敗などしない。


「利玖はどこまでもオレを死なせないのな」


 当たり前だろうと、返すのは簡単だった。当然すぎるその言葉は、俺には似つかわしくなかった。

思っていても、口にすると嘘になる言葉もある。


 大きな雨粒が手の届かないところからとめどなく滴り落ちる世界の中で、その鈍色に負けない光輝いた銀髪。

 おぼつかないのに、毅然と見せようと踏み出される脚。

 耽美さを武器にする気もない、好戦的な瞳。

 それらが、突然切れた感覚。

 

 張り詰めた美しさを纏った男を駅で見かけ、思わず目で追っていたら、その緊張感が一瞬に崩れ落ちた。反射的に差し伸べた手を、屈辱だとでも言いたげに睨みつけた男の目を、利玖は美しいと思った。  誇りや自尊心を捨てることで己を受け入れるしかなかった利玖にとって、その気丈さは羨ましかった。


 この世界で最も美しいと思ったものを守ることは、誇りにしてもいいだろうか。自分を誇るなんてことはできなくなったみすぼらしさを、他の光輝くもので調和することは間違いだろうか。愛する何かで世界を照らすのは、欺瞞だろうか。


「生きていることって、多分社会規範の一つなんだろうな」


 ルールや規律を嫌う朔也の本質は、前倣えも上手にできなかった幼き日の悪夢の一つと知っていると、彼の言葉には僅かな痛みがある。


 朔也の細い顎の輪郭を目でなぞる。浮き出るような白さは人工的なものとも元々の性質とも、何方とも捉えきれなかった。


「朔。生まれ変わったら、女になって」


 綺麗な横顔がゆっくりと此方を向く。扇風機が薄っすらべたつく首筋に真っ直ぐな風を送り込んできて、気持ちがいい。


「他にいう事ねぇの?」


 朔也は、呆れたように、そういった。

 生まれ変わりなんか御免だって、ちょっと疲れた顔だった。


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