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ウラとオモテ

 雅は、蓮の安定感のある広い背中が好きだ。心理的な距離が壁となって欲望にブレーキをかけるけれど、もし彼が厭わないというのなら、その広い背中に寄り掛かり抱き留められてみたいとすら思う。戦いの場面なら背中を預けることもできそうだけれど、この人とはできれば同じ方面を向いていたい。


「ユキちゃんがいるの、久しぶりじゃない?」


 いつものように放課後に、利玖の家を訪れた。

蓮がいることは玄関の靴でわかっていた。それでも、彼と目があったときに少し大げさに喜んでみるのは年下なりのサービスであり、雅自身が喜びを感じるための手続きでもあった。


「元気そうだな」


 どちらかと言えば強面な顔立ちながら相好を崩すと目じりが下がり甘やかな雰囲気になる蓮の笑顔に、勿論と笑顔で返す。笑顔を貰うと笑顔を返したくなる。


 蓮は一見表情に乏しいように思えるが、一対一で向き合った際に彼ほど裏も表もない人間はいない。笑顔でおかえりといわれると、ありがとうと返したくなる相手だった。


「外暑かったでしょう。麦茶で良い?」


 蓮と談笑していた利玖がいそいそと立ち上がって冷蔵庫からお茶のポットを取り出す。


 夏本番になったと感じる日差しの下、駅からの道のりは確かにへばりそうな暑さだった。額に浮いた汗をハンカチで拭うと、冷房の冷たい空気が額や首筋を撫ぜて気持ちがいい。グラスに注いでもらった麦茶を一気に飲み干し、洗面台で手を洗う序に顔も洗った。


 リビングに戻ると、駄菓子屋の方に降りていた蓮からアイスを食べないかと聞かれた。


「あ、いいね」


「おいで」


 蓮に招かれて店の冷凍庫を覗き込む。立って隣に並ぶと彼の存在をはっきりと感じる。蓮は背が高い。小柄な雅からすると、見上げるほどに。


「やっぱ夏といえば氷系だよね」


「じゃ、俺もそれにする」


 彼はそういうと履いていたデニムのポケットから財布を取り出して、二百円をレジに置いた。


「利玖。残りは、募金箱に入れといて」


 蓮の財布は薄い折り畳み式だった。小銭は恐らくほとんど入っていないだろうし、小銭が出る買い物をした際にはレジ横の募金箱にすべて流し込む姿が簡単に想像ができた。


「うちにそんなシステムないよ」


 リビングで雅たちのやり取りを見ていた利玖が呆れた顔で笑う。


「そういえば、利玖ちゃん、そういうのやらないよね」


 やりそうなのにね、というのは彼に偽善的というレッテルを貼るようで気が引けたが、抑々彼に対し知らず知らずに穿った偏見を持っていたことを自覚すると、自分が酷く姑息な存在である気がした。


 募金箱の目印になるようなことは出来ないくせに、募金箱そのものを嘲笑うことが正義なのかどうかはわからない。


「だって、朔也が嫌いなんだもん」


 利玖が肩をすくめる。


「あぁ、嫌いだろうな」


 ことの発端のくせにあっさり納得し、蓮はアイスの袋を破った。

視界からも爽やかさを感じる水色の氷菓子。濡れた表面の艶っぽさも相まって、美しく儚い雰囲気すら感じられる。雅も同じように袋を開けて木の棒を指先だけで支えると、両手で支えていたときとは桁違いな重量感があった。


「偽善的だとは思うけどさ、人を助けようという気持ちに嘘はないだろうし、別に悪い事をしているわけでもない。あんなに嫌悪感むき出しにしなくたって、いいだろうにね」


 利玖は淡々とそう語り、頬杖をついていた手を右手から左手に変える。着ていた半そでのシャツのカーキに、彼のよく焼けた腕は健康的で映えている。


「でも、朔が嫌ならすすんでやることもないかなって思うよ」


 優しいなと、雅は心の中で思うが、口にはしなかった。


 去年の文化祭の募金活動を思い出す。

クラスの誰かが声高に言い出した慈善活動は少女の自尊心を引き出し、教育者の感傷に付け込んだらしく、クラスメイトが交代で校門に立ち、通り過ぎる大人子供に善意を無理強いした。

 利玖は悪い事はしていないというけれど、正義を掲げて人に圧迫感を与えている時点で、それは褒められた行為ではないはずだった。居心地悪そうにそそくさと通り過ぎる気まずそうな、大人の横顔を思い出す。校門で財布を取り出して小銭入れを覗き込んで困らせた、大人の横顔を思い出す。


 雅のクラスはその募金活動のお陰で、文化祭最優秀クラスに輝いた。勿論企画立案したクラスメイトが体育館の舞台で賞状を受け取り、学校のHPを飾った。

きっと、大学受験の調査書にも、就職活動の履歴書にも書き込まれるエピソードになる。


 利玖は優しい。

 偽善すらアクセサリーにする人のことも、それを嫌がる朔也のことも、利玖はそのままに受け入れる。

 雅は正直何方も、受け入れがたい。


「彰葉も学生の募金活動は嫌いなんだ」


 氷をかみ砕きながら、蓮は言った。

身体を内側から冷やす氷の冷たさに、雅は手が止まる。


「え、そうなんだ」


 意外だという気持ちを込めて言葉を挟む。

 朔也が綺麗事を好まない性質であることは直ぐに理解できたが、彰葉は自分に掠りもしない人間の行動など全くの無関心なタイプだと思っていた。

 蓮は少し眉にしわを寄せ、呆れたような困ったような表情になった。


「昔、やっぱり駅前で募金箱ぶら下げた大学生のサークル軍団に遭遇したんだけど、それを見ながら彰葉が、あの人たちは目の前で困っている人がいたらちゃんと助けてくれる人なのかなって言いだしたんだよ。自分に都合のいい可哀そうな何か、を探している気がするって」


 何かを思いだした蓮の横顔が僅かに陰って、ぶっきらぼうに見える彼の、実は繊細な内面を知っているから、雅はやりきれない気持ちになる。人の痛みなんて本当の意味で知ることはできないけれど、悲しくて苦しくてやるせないこの気持ちの落としどころがただの同情じゃ、やりきれない。


「あいつも、いろいろあるから」


 言い出したくせに肝心なところは濁す。蓮らしくない振る舞いに引っ掛かりを覚えながら、それでも雅はそれ以上を追求するつもりもないし、尻切れトンボになった語り草の続きを脳内で補完しようとも思わない。


 雅はここにきて、たくさんの優しさを知った。踏み込む優しさ、踏み込まない優しさ、触れる優しさ、触れない優しさ、理解する優しさ、包み込む優しさ。その度に、子供の弱さと大人の狡さと、その両方の意味を知っていく。


「そういえば、いつだったか忘れたけど、彰葉が朔也の所に行くって言ってたな」


 キッチンでお湯を沸かしていた利玖が振り向く。


「服の貸し借りをし過ぎて、お互いの服がどこにあるか分からなくなったんだと」


「几帳面な朔らしくない」


 利玖は肩をすくめて見せる。


「いや、あいつは几帳面って程丁寧な性格はしてないだろ。ただ、人より多角的に意識が配置されているだけ」


 蓮は氷菓子を齧りながら、バッサリと言い捨てる。


「俺のパーカーが行方不明なんだけど、絶対朔が着て帰っちゃったと思うんだよね」


 利玖は文句を言っている割には、表情は穏やかだった。呆れている、どうしようもないなという表情を作ってはいるけれど、内心ではたいして気に留めていない。


「利玖ちゃんはさ、なんだかんだ言いながら許してるよね、朔ちゃんのそういうところ」


 思ったままに言えば、彼はにっこりとわらって、


「人は他人を変えることはできないけど、他人を許すことはできるからね」

 

 と言う。

 そうか、と雅は溶けて今にも崩れそうなアイスを舌ですくうようになめながら、利玖の根底にある真面目さと冷静さに触れた気がした。

 

 神崎朔也という人間はとにかく難しい。

 人当たりは良くないくせに悪辣な人間ではなく、取り繕うのは下手だけど案外胸に落ちる言葉をくれたりする。喜ばせようというあざとさは許さないけれど、殻を被るようなわざとらしさには目をつぶる。自分のテリトリーに他人を寄せ付けないくせに、人の深淵にはそっと近寄って無垢な瞳で覗き込んでくる。


 中毒性が高い、と雅は理解している。

 一度関わると、また会いたくなるのだ。身勝手も我儘もコツを掴めば可愛いもので、むしろ彼の傍で振り回されて初めて、彼に許された気になる。

 他人に尽くされる天才だ、と思う。


 そんな朔也を利玖は、許すことで自分の立場を固めている。

 生まれながらに生真面目で、言われたことをこなすことのできる利玖からすれば、能力とは別次元で世界を穿ってみてしまう朔也の心の内を理解するのは難しいだろう。掴み切れない空気感の中で身の置き所なく生きていく不安と焦燥と、確かな絶望。

雅にもある。

学校というのは、そういう小さな空気の混在した場所で、ある日突然吸える空気が薄まっていく。きっと学校だけじゃない。会社だろうが家庭だろうが、どんなコミュニティにもある落とし穴。


 人当たりのいい利玖にはきっとわからない感覚だろうに、彼はそれを優しさで理解をしようとする。優しさの延長に、世界平和があると信じているような、典型的な平和主義者。


 それに比べて、と雅は何とか食べ終えたアイスの棒に当たりの文字がないのを確認してから、ごみ箱に捨てる。


 そのままキッチンで手を洗うと、想像よりも冷たい水が心地よく、つい手首から二の腕にかけてまでシンクに入れて、セーラー服のぎりぎりの辺りまで水でぬらす。

 汗と、溶けてぬめっていた日焼け止めを流して、そこでタオルを持っていないことに気が付く。


「ごめん、ユキちゃん。タオル取ってくれない?」


 リビングを振り返ると利玖は店に来ていた小学生の相手をしていたので、蓮に声をかけると、彼は少しだけ困った顔をしたが、雅の指示通りに鞄から使っていないタオルハンカチを持ってきてくれた。


「ありがと」


 濃いビビットのピンクにキャラクターのデザインのタオルを持つ無骨な手に少しだけ見とれて、この人が美容師なんて少し信じられない、と思う。

 雅は校則もあるしロングヘアにしているからあまり通っていないが、利玖や彰葉、拘りだらけの紅花や朔也も彼の腕を信じて通い詰めているのだから、彼の人望もまた、確かなものだった。


 隣の蓮を見上げる。切れ長の目と薄い唇。


「私生まれ変わったら、ユキちゃんになりたい」


 宣言をするように告げると、彼は虚を突かれたように瞬きを忘れて戸惑う様子を見せ、直ぐに鼻で笑う。


「もっと憧れる相手が傍にいるだろ」


 リビングに戻って畳に腰を下ろし、彼は両手を後ろに付いた。放り投げるように伸ばされた脚が長くて、入り口を塞ぐかたちになる。それがなんだか気に食わなくて、雅は紺のソックスで軽く蹴とばした。


「その脚、邪魔です」


「言葉より先に足が出るって、どういう了見だよ」


「朔ちゃんの英才教育の賜物です」


「碌な教育者じゃねーな」


 彼の言葉に笑顔を返し、雅は蓮の投げ出された脚を跨いだ。


「なぁ、雅」


 蓮に名前を呼ばれることはあまりないので意識をしていなかったが、この人は他人の名前を正式なかたちで呼ぶ。

立場、職業、年齢、ばらばらな関係性だから、雅たちはそれぞれの呼び方を固めてきた。名前の一部を落として呼ぶのが好きな利玖、名前を呼びやすく変形させる彰葉、敢えて苗字を使う紅花、誰にも等しい敬称をつける雅。


 名前の呼び方に、どんな心理的な距離感があるのだろうか。呼び捨てにするという行為が何を意味して、愛称があることが何を暗示して、呼び合う関係性の中で何が変わるのか。


「憧れる人は間違えるなよ」


「なぁに、それ?」


 媚を含んだ物言いが、ねっとりと彼の言葉ごと絡みとって、自分たちの間にぽとりと落ちたのが分かった。

 何気なく受け流すこともできた。

でも、雅は一度真剣に、蓮の言葉を聞いてみたかったのかもしれない。

蓮は言葉を慎重に選びながら、口を開く。


「わかってると思うけど、お前の周りの大人は、割と碌でもないやつが多い。育ちのいい雅とは、ちょっと生き方が違うんだ」


 息詰まるような空気が沈黙となって、その場に滞る。肯定も否定も、雅には選択しきれなかった。


「言い方が悪いのはわかってる。でも、そうなんだよ」


 彼の言う、そう、の意味はおそらく、理解できている。まだまだ世界の狭い雅にだって、五人の生き方が少なからず荒波にのまれ、揉まれていることぐらいわかっていた。


 守ってくれようとしている。

 わかっているけれど、蓮自身にも思い過ごしに気が付いて欲しい。


「大丈夫。良いとこどりがしたいだけだよ」


 僅かに声が掠れた。


「良いとこどり?」


「そう。同じ生き方なんてしようと思ってないし、みんなのこと凄いとかかっこいいなって思っても、そのすべてを真似するほど子供じゃないよ」


 だってユキちゃん、本当はそんな、物理的な差異についていいたいわけじゃないんでしょう?

 圧倒的な魅力をもつあなたたちに比べたら私なんて凡庸な人間だから、温室で幸せに育っていればいいって思っているんでしょう?

 少なからず私のことを思って、目の前の幸せに身を委ねていればいいって、大人として私に教唆しているんでしょう?


 全然、別に、気にしない。


 ただ、あなたが思っている以上に私は世渡りが上手じゃなくて、学校に行くだけで日々が苦しくなって、どうしようもなくなる度にここにきて誰かに優しくしてもらいたい。

そしてあわよくば、あなたたちにも必要だと思われていたい。


 暗鬱と、幸福。

不安と、期待。

焦燥感と喪失感と多幸感。


 全部が同じ重さと温度で、雅の五感に触れていた。


「抑々他人に憧れるって行為自体、朔ちゃんからお勧めしないって言われた」


「言いそうだな、あいつなら」


 蓮は何処か遠くを見ながら、空気を回すような軽やかな口調で、言った。


「わかるけどさ、人と比べて妬んだり僻んだりするくらいなら、憧れてしまえばいいんだって思うけどね」


 店の方で、利玖が小学生と話し込んでいる姿が見える。子供たちの野放図で一方通行な会話をうまく操っている。明るい髪色が薄暗い店内で一際輝いて、子供の艶やかな黒髪にも負けていない。

 雅は自分の髪を触る。感情が忙しないときの癖。


「自分が持っていないものを持っていたら、そりゃ羨ましいよ。自分なんて時折辞めたくなるし、他人の一番綺麗なところだけを見せられた日には、絶望的な気分になる」


「そうだな」


 蓮は足を投げ出したままの姿勢で、ぼんやりと前を見つめている。聞いていない顔でちゃんと聞いてくれる。優しくうたれた相槌に、雅は勇気づけられた気がしてしまう。

 共感などしていなかったとしても、わかるよと言ってくれさえすればいいときだって、ある。


「朔ちゃんなんかさ、妬まれて僻まれて、それが美化されている自分だ、ってわかっていたならさ、私が、美化されている朔ちゃんのことが好きだって、わかってくれてもいいと思うの」


「まぁ、それは一理あるな」


「本当の自分、とか、裏表ないみたいな言葉にさ、みんな囚われ過ぎだよ。大人って、そうやって勝手に役割を演じた気になるよね。他人の目に良く見せたい、自分を少しでも良く見せようなんて当然の行為で、それを誰も咎めたりはしない。抑々、朔ちゃんにしたって彰ちゃんにしたって…紅花さんだって、貪欲にやってんじゃん。化粧濃すぎ。服買いすぎ。髪色やりすぎ。最近の朔ちゃんのネイル、見た?女性でもあんなにギラギラさせないよ。そのくせ、自分を理解できる人なんていないみたいな諦めた顔すんの、ほんとにやめて欲しい」


 心の何処かに蟠っていた気持ちを勢いだけで口にしてしまう。蓮の瞳は逸らされたまま、雅もまた彼を見ない。それでもどこか遠い場所で自分たちの感情が交わっているという錯覚を信じて、言葉が感情のままに流れていく。

 文句じゃない。でも、彼らはどこかで独りよがりだ。


 唐突に隣で笑い声が聞こえて、それが蓮の声だとわかるまでに少しの間が出来た。


「え、笑うとこじゃなくない?」


 彼は天井を見上げ、遠慮なく笑う。

呆れたように笑う顔、何かを吸収するように笑う顔、馬鹿馬鹿しいと言いたげに笑いを抑える顔はいくらも見てきたが、ここまで声を上げて笑っている姿を見たのは初めてだった。


男性特有の喉元のおうとつに見とれながら、自分は女に生まれてよかったと心底思う。


「雅。お前、鋭いのな」


「鈍感な方がよかった?」


「おそらく、鈍感な人間が一番幸せに生きていく。世の中は、気が付くと気が滅入ることばかりだ」


「ユキちゃんも、ややこしい人だよね」


「俺がややこしいんじゃなくて、この社会のシステムが難解なんだよ」


「ユキちゃんっぽすぎるセリフ」


「ま、でもそうだよな。表の部分を作り込むのは人間なら誰しもそうだ。肝心なのは裏の方で、そこまで作り込んだ人間なんて信用ならないし、そういう自己意識で生きているやつには可能な限り近づかない方がいい」


「ちなみにそういう人の見分け方とは?」


「不用意に自分を下げて、そのくせ言葉の端々からプライドのぞかせるような奴。社会全体に対しては舐めた態度をとるくせに、人物像に対しては腰を低くするやつ」


「今の言い方だと、朔ちゃんが当てはまる気がしてならなんだけど」


「あいつは全部が嫌いなだけ。好き嫌いと食わず嫌いの境界線が自分で理解できてない、自己認知の低さを自覚してないだけ。あいつは、人に取り入るのが下手だろう?一緒にはしてやるな」


 蓮はそういうと徐に立ち上がった。

 足が長い、と褒めようとして、止めた。

 

「結局のところ、ユキちゃんは朔ちゃんをどう思っているの?」


 帰るのだろう、と察して、手早く質問をしてみた。

 彼が紅花を立てていることも、彰葉の面倒を見てあげようとしていることも、利玖と気が合うこともよくわかっている。

 でも、朔也との関係だけはいつも、何処か不安定に見えていた。

 朔也の無防備で鋭利で精神的に子供じみたところを、自立心の高い彼がどう見ているのか、興味があった。


 蓮は立ち上がった際によれたシャツの裾を直しながら、そうだなと呟いた。


「見てて怖い。馬鹿なら扱いやすいのになと思ってるけど、生き様は頭のいい奴には見えない」


 容赦のない言葉に、雅は苦笑した。

 言葉の鋭さが包容力の切れ目だとも思えず、むしろ関係性の齟齬の無さに思えた。


「不器用の一言に尽きるだろ。理解してやろうなんて気も起きねぇ」


 彼は冷房のリモコンを確認してから温度を一度上げて、此方を向いた。


「けどあいつと俺はお互い様な関係なわけだから、前進させる気は特にない」


「何だかんだ、今が一番しっくりきてるんだね」


「そっちはどうなんだ?」


 壁に寄り掛かり、雅が吹っ掛けたのと同じ口調で、蓮が問いかけた。


「姐さんと」


「別に、何もないよ?」


「お前はあの人に一番よそよそしい。向こうはあんなにわかりやすく相手してるのに。なんでだ?」


 因果応報。

 漢字テストの気分で浮かんできた四字熟語をかき消すように、雅は無理やり笑顔を作る。


「学生にとってはね、十個上の美人なお姐さんって、すごく近寄り難いの」


 雅の言葉に蓮はふうんと、納得していない表情で頷いて、鞄を肩にかけた。


「じゃ、帰るわ」


「うん」


 引き留める理由もきっかけもないけれど、去り際の切なさに雅は俯きがちになる。


「もうすぐ夏休みなんだろ?」

 

 蓮が、振り返って言った。


「え、あ、うん」


 間抜けな声が出た。


「彰葉も姐さんも、結構待ってたから、誘ってやって」


「ユキちゃんは楽しみにしてくれないの?」


 もう一声、と調子に乗って言ってみれば、


「髪のアレンジくらいならサービスするよ」


 彼なりの出血大サービスに、思わず顔が綻んだ。


「テスト勉強もきっちりしろよ」


 彼は少しだけ嫌なことを言い残して帰っていった。


 雅は静かになったせいで嫌に耳に障る冷房の稼働音と自身の心臓の鼓動がかみ合わずに不協和音が鳴るのに、敢えて耳を澄ます。

 かみ合ってはいないけれど、お陰で時間の流れを感じる。


 紅花のことを聞かれるのは、少し複雑な気持ちになる。

 雅にはわからないのだ。


 紅花といるとき、雅は穏やかさを忘れてしまう。

 会えると分かれば指折りカレンダーを数えてみたりするくせに、前日になるとそわそわと落ち着きを無くしてしまう。

 いざ彼女を目の前にすると、嬉しさや喜びよりも先に、焦りと不安と物足りなさで素直に感情を表現できなくなる。

 顔を見ていないときはいくらだって言葉を組み立てることができるのに、傍にいくと言いたいことの十分の一も伝えられない。


 十歳という年齢差、学生と社会人という立場、大人と未成年という境界線。

 途方のない距離感に独占欲すら湧いてくる。

 彼女に必要とされていたいという過ぎた願いを遠ざけるように、彼女を必要とする自分を提示して、彼女の退路を断つ。


 携帯電話を顔の上で操作して、昨晩の紅花とのやり取りを読み返す。


 紅花と会っているときの自分がオモテなら、このメッセージで縛り合う自分たちはウラの顔だろう。


 伝えたいこと、触れていたい思い、傍にいる幸せ。

 心から溢れたところで形にならず地面に吸い込まれてしまうから、オモテ側が取り繕えなくて、その分 会えない距離の分だけ言葉を研ぎ澄ませて彼女に伝えたいことを考えると、今度は真剣になりすぎて、何方がウラかオモテかわからない。


 携帯電話を顔の横に置いて、目を閉じる。束の間の暗闇にぼんやりと、昨晩の記憶と体温を思い出し、甘やかな感傷に浸る。


 この時間が好き。

 あの人の隣にいると、余計なことも考えてしまう。彼女に大事にされていたと確信を持てた瞬間を何度もなぞっているときだけは、不安の入る隙もない。


 だから本当は、もうこのまま時間を止めてしまっても構わない。




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