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有閑日

 一日に何人も、年にしたら千人近くの髪を触っていると概算しても、彰葉の髪の感触は絶対に間違えない自信がある。

 と、本人に言ってしまったら大ごとになりそうなので彼にも彼を取り巻く誰にも言ったことはないが、彰葉の髪は蓮の手に馴染む。艶っぽさでいえば雅の髪は若さゆえにケアではカバーしきれない輝きがあるし、少し痛んでいても丁寧にケアをして金髪や銀髪を飼い馴らす紅花や朔也の髪も、トータルでみると美しい。


 しかし、彰葉の髪は何処をとっても魅力的だった。雅や利玖のこしのある日本人的な髪質ではないが、紅花のウェーブがかった猫っ毛でもない。見た目は艶やかでありながら、指を通す度にふわふわとした手触りの中につるりとした感触を残し、その絶妙な質の良さに、髪質は彼の一番の武器だと感じている。


 彼自身は他の部分に自分の価値を見出そうと躍起になっている。彼は男性的な魅力は多くないが容姿の魅力は数多くあるので、それらの世話に忙殺されてしまうのも仕方のないことかもしれない。しかし、その多岐に渡る配慮がもう少し内面に向けばいいのにと思わずにはいられない。


 月曜日の朝早い時間に、彰葉が髪を切りに来た。彼の気まぐれに付き合う形で予約をねじ込んだというのに、朝が早いと文句を言われた。


「髪切ったらさっさと帰れ。そして寝ろ」


 自慢の顔に隈を作って現れた彰葉に苛立って耳元で告げる。夜型の仕事をしているわけだから朝が辛いのはわかるが、彼は朝が早くなるなら前日夜は早く寝るなどの逆算はしない性質で、本能のまま欲望のまま気の向くままに生きている。刹那主義者で、楽観主義者だ。


「この後、紅花ちゃんと会う約束がある」


「仕事は?」


「あるよ。夕方からだけど」


 施術用の椅子に身を鎮めた狭い肩幅に、何とも言えない気持ちでカバーをかける。着ていたのは黒い薄手のニットで、首回りが大きく開いているのを見るに、一応は気を遣っているのだろう。


「今日もお任せでいいだろ?」


 鏡越しに目を合わせて尋ねると、勿論と返ってくる。


「先輩がそうしたいんでしょ?」


 この減らず口はなんとかならないのだろうか。わざわざ振り向いて、見上げる様に黒目をじっとこちらに向けてくる。


「隈、酷い」


 美容院特有の明るい光に照らされて、より浮き彫りになった隈が見るからに痛々しい悲壮感を漂わせていて、眼の下に手を伸ばすと、その手を振り払われた。黒いてるてる坊主姿も相まって、彼のそうした仕草は、いちいち子供じみて見えた。


「気付かないふりって知ってる?」


 むっとした表情で言われると悪い事をした気分にさせられる。

 なぜ素直に受け取ってくれないのだろうと、微かな不満が沸き起こるけれども、高校時代によく見た幼い顔立ちに年相応のプライドをちらつかせる姿を見れば、今と昔が同じわけがないのだと知る。


「ほら、前向け」


 両耳のあたりを手で挟んで前を向かせると、不意に彼は笑い声を零す。彰葉の悪趣味の一つに、蓮の手を煩わせるというものがある。


 鏡越しに見る彰葉の愛嬌のある顔立ち。瞳の大きな目や少し大きな口は見るからに安定感があり、明るさや純真さを連想させる。人たらしと紅花は言うが、全くその通りだ。性格の刺々しさや容赦のなさは、顔立ちからは全く印象を受けないし、初対面の相手に負の部分をにおわせるほど間抜けでもない。


 高校時代からそうだ。彰葉はとにかく人当たりがまろやかで癖がなく、カジュアルな会話力がある。彰葉と話をして嫌悪感を抱く人は稀だろうし、例えば利玖に感じる堅牢さはないものの逆に言えば、袖振り合う程度の関係において気軽で印象的な存在である。


「寝るなよ」


 シャンプー中に話しかけるも全部無視をしてくるので心配になって声をかけると、彼は台に寝ころんだまま掛けてあった目元のタオルを少しずらし、些かおかしな体勢でこちらを睨む。


「寝ろって言ったり寝るなって言ったり、先輩、めんどくさい」


「お前は話の流れってものを全部無視するのかよ」


 蓮は苛つきを隠すことなく、しかし耳元に小さな声で言葉を返す。関係性を考えればこの程度の暴言は日常茶飯事なのだが、店長に聞かれると少し面倒なことになる。このご時世に客を神様だともてなす側で信じているのは、彼以外に数人いるかいないかだろう。


「相手のレベルに合わせて会話できるのが、プロのコミュニケーション能力だよ」


「それは遠回しに、自分を下げていないか?」


「そうじゃなくて、俺は言葉は素直に受け取るタイプなんだって、教えてあげているんだよ」


 嘘つけと罵りたい気分だったが、それこそ時と場所を考えると、とても口にはできない。諦めてトリートメントを塗っていた髪にシャワーを当てると、独特の甘い香りが辺りを包んだ。


 普段から手入れはきちんといているおかげで毛先を整える程度で簡単に終わり、ドライヤーをしている際、彰葉は鏡台に置いてあった雑誌に手を伸ばして漫然とページを捲っていた。小さな手をしているせいか、しっかりと製本された雑誌が重たげに見える。


 見るとはなしに目に入ってくるモデルの夏ファッションを見ながら、彰葉が感化されたらどうしようかなどありえないことを考えてみる。

 彰葉の好きなファッションは薄いデニムや淡い色合いのシャツやニットなどを合わせるシンプルで嫌みのないコーディネートで、それは洒脱な彰葉のイメージにぴったりだと蓮は感じている。派手ではないが洗練された自然な清潔感。

 紙面の華やかでワイルドなルックスのモデルが柄シャツを着こなしワイドなパンツを履いていてもいいけれど、彰葉にはぶれないでいて欲しいなんて、勝手な押し付けなのだろうか。


「ねぇ、先輩」


 この後の予定も考慮しながらアイロンで軽くセットをしている際、顔を上げずに雑誌を持ち上げ、紙面を見せてくる。


「こういう男がモテる!って記事を書いてるの、絶対に女だよね。だって、これを参考にする男が増えたら、ラッキーじゃん」


 そこには「女性千人に聞いた」というサンプルの少ないアンケート結果が大々的に特集されていた。好きな身長、髪型、ファッション、仕草、束縛や夜の話についてまで言及されていて、ちょっと生々しいくらいだった。


「いい男じゃなくて、都合のいい男を量産したがってるのが見え見え」


「ま、でも、逆もあるだろう」


冷静に切り返す。

女性誌だって、「男性千人」に色々聞いているのだろう。そして、悟りを開けそうな理想論を押し付け合っているのだろう。


「確かにね。お互い様なのかな」


 アイロンで整えた髪にワックスを軽く揉みこみ、手のひらからはさっきのシャンプーやトリートメントとはまた違った甘い香りがしている。

 この世のありとあらゆる美的製品には香りが付いていて、存在感を押し付け合っている。


「でも、やっぱり見ちゃうんだよね」


 悔しそうに唇を尖らせ、彰葉は自分自身に呆れるように笑う。


「人の理想を何処かで望んでいるんだよね。こうしろって命令されたら反発する癖に、無意識に人に気に入られようとしている。悪趣味な矛盾だよね」


 

 



 昼休みの時間帯にあわせて遊びに行くと取り付けられた約束通り、彰葉は昼休みのちょうど五分後に現れた。


「時間に正確ね」


 腕時計を指さして言えば、


「デートなら遅刻だけどね」


 小首を傾げるように言うので、さらさらとした髪が揺れる。

 確かに、デートならば遅刻だ。でも、人を訪ねる際のマナーとしては完璧だった。


「雪宮のところに行っていたんでしょう?髪、凄く綺麗よ」


「ありがとう」


 言葉のわりに浮かない表情で愛想笑いを浮かべるので、紅花は同じくらい冷ややかな気持ちになる。

 彰葉には影響され過ぎてしまう自覚はあった。庇護欲が強い自覚もあるし、その癖、踏み込むには確信が足りずに、結局触らない選択肢しか持たない無力な自分に対する軽い失望もあった。


 濃く淹れたアールグレイを、氷の入ったグラスにゆっくりと注ぐ。氷の表面がするすると溶けることで氷山が崩れ、カラカラと涼しげな音を立てる。

室内で仕事をしていると季節感というものはとりわけ気分を左右させるものではないけれど、客の傘から滴る雨を見る度に、そうか今はまだ長い梅雨の真っただ中なのだと思いだす。


「退屈だねぇ」


 渡したグラスを傾けながら、彰葉が小さく呟いた。紅花は平生は明るい彼の、比較的直情的にネガティブな発言に不思議な気持ちになった。


「退屈っておそらく、最高の幸福よ」


「確かに退屈は幸福だろうけど、幸福は退屈ではないじゃん」


 ランチのサンドイッチを勧めると、彼はハムとチーズの一番シンプルなものを手に取ったが、口にはせずにぼんやりとしていた。

 

「一理あるわね」


 言いくるめられて不完全燃焼な気持ちはなくはなかったが、彰葉の言わんとしていることは十分に理解した。


 仕事をしている以外の時間に彰葉を取り巻くのは、彼がひたすらに過ごした孤独な時間なのだろう。


物心がついたころから母親と二人暮らしだったのに、その母が安定感を欠く人だったという。経済的にも、精神的にも、彼の生育環境は満足のいくものではなかった。それでも、彼自身は強かった。今も失われていない、芯のある水平な思考と心に正直な幼気さで、彼は彼自身を失わずに生きてきたのだろう。


 それでも、人間という生き物には、他人に助けられた記憶というものが欠くことはできない。他人の言葉に導かれ、他人の手を取り、他人に寄り掛かれるという安寧を心に持たない人間は、強い人間とは言えない。


 彰葉はその事実にうすうす気づき始め、だからこそ、蓮が母親の月命日に必ず花束を手向ける習慣が気に入らないし、与えられた休息にすら雑事を探して自分自身に意味を見出そうとする。頼るという行為を進んでできないと悟ってしまうから、頼られる存在になろうと躍起になる。相互扶助の関係に自分自身を押しとどめようとしている。


「ね、面白い話とかないの?」


 向かい合って座った彰葉はソファの上で足を崩していた。

 彰葉は紅花の客の話を聞くのが好きで、よく面白い話をしろと強請る。この媚びる目線に、紅花は弱かった。


「そうねぇ。さっきまでいらっしゃってたのは常連さんなんだけど、少し上品な奥さんって感じの人なのよね」


「上品な奥様をその薄っぺらい達者な口で、口説いてるんだね」


「その減らず口とわざとらしい上目遣いで男を振り回してるやつに言われたくないけどね」


「紅花ちゃん、それは同族嫌悪だよ」


「あら、嫌いなんて一言も言ってないわ。私はあなたに嫉妬もしないし、むしろ誰よりもかわいがっているつもりよ」


「飼い犬に手を嚙まれないでね」


 挑発的な言葉を簡単に口にする姿に危うさを感じながらも、この子は何だかんだこの調子で生きていけるのだろうと感じた。本人が自覚しているよりも、彼は保護者的存在を引き付ける能力に長けている。我儘で、危うくて、軽やかで。柔らかな羽が心をふわりと撫でるように、彼の存在が気になって仕方がない大人を、無意識で手に入れている。


「それで、どういう事を相談されるの?」


「そうねぇ」


 アールグレイは香りこそ強いが、味はさっぱりとしている。柑橘系の爽やかさとあくのない舌ざわり。完璧な配合だ。


「あなたも私も家にいる専業主婦になったことはないから、彼女の悩みなんて本当のところはわからない。どうも話を聞いていると、彼女たちにはどうすることもできない悩みが多いのよね」


「ふーん」


 興味を失いかけた若い横顔に、紅花は話をつづけた。


「彼女たちの悩みって、これは私がここで聞いた主婦の様々な悩みを統計的に纏めた独自の分析による結論なんだけど、家族の悩みがすごく多いのよね。というか、ほとんどその話ばかり。例えばお金のこと、子育てのこと、夫婦関係のこととか。でもね、彼女たちから働きかけることだけで好転するなんてこと、ほとんどないのよね。狭い社会に閉じ込められた女性にとって、家庭が一番の社会になるわけじゃない?そうなると、その環境をどう良くしようかって考えが先行してしまうけれど、家族は会社にもいくし学校にも行くわけだから、家庭内って二の次三の次になってしまう。価値観の相違の一つよね」


「家に寝に帰る人は家なんてどうだっていいから家具も配置も適当だけど、在宅勤務なら家の居心地に拘る。そういうこと?」


「鋭いわね」


「先輩と利っくんの違いを想像した」


「わかりやすい例があったのね」


 そう返したものの、名前の挙がった二人の本質的な差異は今回計算には入っていない。

 彰葉の頭によぎっただろう、家庭というレンズで彰葉を見なかった、彼の母親の存在。母親という役割に徹する女性を蔑ろにする世の人々に対する、無謀な憎悪。自分に足りないものを穴の開いた壁紙から覗き込んで、自覚する気疲れ。


 こんな話をしたかったわけじゃない。

 なのに、自然と話が薄暗さを纏う。

 彰葉と似た暗鬱が、紅花の背中にものしかかっている。


「今日はね、仕事ばかりで家に帰ってこない旦那さんについての相談を受けたわ」


 紅花は憂鬱を薙ぎ払うように、少し頭を振る。金髪が微かに揺れて首元を撫でると、毛先の当たるチリっとした痛みがあった。


 正直に言えば、紅花は少し前の会話をあまり思い出したくはなかった。彰葉に言われるまでもなく、薄い戯言を口にした。

 タロットが人間関係を良くするなんて、流石に飛躍しすぎている。運気はある。吉日も厄日もある。相性診断もできなくはない。でも、それは、今現在社会に流布している多様性とか個性とかの風潮を、蔑ろにした行為だ。


 悩みと絶望と後悔と開き直りが同時に押し寄せて混乱したまま視線を落としていると、彰葉が組んでいた脚を崩しながら、よくさ、と切り出した。


「仕事と私どっちが大事なの?っていう女は疎まれるけど、家庭と仕事どっちが大事なのって聞く奥さんは同情されるのって、実は変じゃない?」


 どちらの言葉もよく耳にすることだったので曖昧に頷くと、彼は実に冷ややかな表情になった。目を細めて整えた眉を上げる。薄くアイシャドウを載せた瞼が広くなり、視線の先が読めない。彼の冷たい瞳を見る度に、同じ大人だと実感させられる。


「感情論が過ぎていると思うんだ」

 

 彰葉にはフラットなところがあるせいか、固定観念に対して鋭い切り口を見せてくることがある。


「この世は、全部感情でできているのよ」


 絞り出すように言うと、口が乾いた。慎重にアールグレイを口元に運んだつもりがグラスの縁が歯に当たり、僅かな痛みが引きおこる。


「この前、朔也君に教えてもらった言葉が、『人間は考える葦である』だったんだけど」


 教養に触れる機会のなかった彰葉は、年下の朔也から物を教わることに対して積極的だった。


「ついでに、『満足な豚より不満足なソクラテスであれ』も習わなかった?」


 彰葉が思い出すように目線を彷徨わせるが、記憶をたどって出てくるような言葉ではないだろう。


「昔の人も、考えていることは同じだってことよ」


 紅花は卵のサンドイッチを齧り、零れ落ちそうになる卵のソースを丁寧に唇ですくう。口紅を取り忘れたせいで唇を舐めた舌先から人工的なオイルの匂いが、量に反して強く鼻を抜ける不快感に眉をひそめる。

 

「人間って、進化しないもんね」


 にっこりと笑って、彰葉はサンドイッチに向き合う。健康的な歯がキャベツを齧る新鮮な音が聞こえてきて、その健全さに無意味な哲学は必要ないと確信をした。


 時計をちらりと確認してから、彰葉をもう一度見る。黒い薄手のニットにあわせた、黒いデニム。細く身体に沿うデザインなのでおそらく朔也のものだろう。朔也と彰葉は同じような身長と身体付きをしているため、時折、洋服を交換している。それはつまり、人となれ合うことの少ない朔也が、彰葉とは頻繁に連絡を取り合い互いの家を行き来しているということだった。


 彰葉は会うときを選ばなくていい存在。そんな言い方をしたら邪推されてしまうかもしれないけれど、真面目さや怜悧さや利発さを感じさせる人間との逢瀬は時に、精神的な負担になってしまう。同じ努力、同じ生活、同じ思考力を求められることを恐れ、愛情とは別のベクトルで相手を遠ざける気持ちが働いてしまう。 


 彰葉の楽観主義に感化されたいと感じる朔也の気持ちを、紅花は自分の内側にも自覚をしている。彼を刹那主義者だと危惧する大人の感性とは別に、欲望に対して忠実で幸福感を常に選択肢の最初に持ってくる生き様は、生物として正しいように思う。

 

 ソクラテスでありたいのはソクラテスだけだ。

 ソクラテスにしか、ソクラテスである高貴で高尚な生き様は理解ができない。


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