兄弟
朔也は、寝起きがとても悪い自覚は十分にある。
学生時代も同じ学校に通う二つ下の弟に度々起こされていたくらいだったが、一人暮らしになった今は限度というものがなくなった。学校がない日や授業が午後からの日などは、昼過ぎまでベッドで過ごしてしまうこともざらにある。そして一番の問題は、それの何がいけないのだろうと開き直る質の悪さだ。
聞いたわけじゃないし見たわけでもないけれど、真面目で規律に従順な修介はおそらく、遅刻などしたこともないのだろう。
朔也自身は遅刻に対して何も思っていない。勿論回数が増えれば親に連絡もいくだろうし、呼び出しや説教をされる心配はあったが、ある程度は心の余裕の為に朝を一人遅らせていた。とりわけ高校時代の全校集会は、ほとんど出席していない。
煩わしかったのだ。
全校生徒の一員として体育館に押し込まれて、近寄ったこともない校長の話を聞くことも、歌詞を見たこともない校歌を歌わされることも、肩幅に開いた脚で長々と立ち続けることも、知らない誰かの表彰を聞いていることも。
煩わしいのは誰でも同じだろう、そう思って耐えた日々だって勿論ある。自分が面倒なこと、嫌なこと、辛いことは、おそらくどの人間にとっても同じくらいの負担なのだろうと淡い幻想の元、努力や忍耐を意識して社会の一部に染まろうとしていた日々だってある。嘘じゃない。
しかし、その心を打ち壊してきたのが弟だった。
彼は苦労しなくても優等生だった。煩わしいことを我慢しなくても受け流すことができた。彼は人を恨まなくても生きていけるし、人を悪く思わなくても生きていける。
朔也には理解が出来なかった。
朔也が必死に我を殺し息を潜め唇を噛んで耐えていることを、修介は笑顔でやり過ごす。
勉強はできたけど、静かな教室でじっと座っているのは苦手だった。
運動神経は良かったけど、バスケットボールを奪い合うことは難しかった。
論理的に物事を考えていくことは好きだったけれど、それを人前に出て言葉にすることはできなかった。
ベッドのサイドボードに置いたデジタル時計をぼんやりと見つめた後、諦めて身体を起こす。アナログ時計と違って、デジタル時計は余韻なく時間を教えてくれる。
風に揺れるカーテンの隙間からは、容赦のない太陽の光が射しこんでいる。壁に頭を預けて半ば夢の中、それでも今日一日の予定をさらう。
身体の横に手をつくと、昨日読みかけだった夏目漱石の門が指先に触れた。
何作か読めば著者の人生のテーマは大体見て取れる、というのは自身を読書家だと奢っているのかもしれない。
それでも、漱石を苦しめた事実も川端康成が愛し続けた過去も太宰治が意識続けた自我も、小説を重ねれば透けて見える。
生きていくことそれ自体を困難だと思うのは、壮大な悩みなのだろうか。
もしも可能ならば、修介に聞いてみたい。
お前にとっての最大の悩みとは何だ?って。
きっと曖昧な笑顔を浮かべるのだろうけれど、その答えは朔也にはどうも想像ができない。
世界平和がなされないことを嘆くほど夢想家ではないだろうし、他人のことを悩むほどお人よしではないだろう。
でも、きっと、具体的で解決策の存在する、まともで優秀な悩みを口にするのだろう。
ベッドから這うように出てカーテンを開けると、真っ直ぐな日差しが想像よりも強く目を焼いてきたので、ぐっと強く目をつぶる。残像が、まだはっきりとしない頭の中に鈍色となって鎮座する。
弟は医者になるのだという。
曰はく、父のようになりたい。
医学部に現役で合格し、親の仕事を継ぐというのだから、品行方正で優秀な出来の良い息子だろう。
朔也にはできなかったことを、彼はいともたやすく達成していく。
修介だけじゃない。
朔也に出来ないことを、利玖も雅も、あの三人だって、簡単に行う。
竦んだ足で立ち尽くし、太陽の明るさと空の広さに押しつぶされそうだ。ベッドに戻りたくなる身体を何とか堪えて、グラスに注いだ一杯の水を時間をかけて飲む。胃に流し込まれた無色透明な液体のその後のことは考えたくないくらいには、人体というものそのものが苦手だ。
杞憂でふさぎ込んでいる間に、地球が回って夜が訪れてくれればいい。夜の暗闇になら、押しつぶされ飲み込まれてしまっても、慣れてしまえばそれでいいのだから。
玉露の値段を初めて知ったとき、眩暈がしたのを覚えている。たかがお茶に過ぎないというのに入れる温度も指定してくるし、金も手間もかかるその一杯を、丁寧に入れてくれたのは祖母だった。子供心にはお茶よりも炭酸飲料の方が遥かに魅力的に映ったこともあってたいした有難味もなく、やたらと美しい緑を胃に流し込んだ。年は正確には覚えていない。でも、同じお茶を飲んだ十歳年上の兄がまだ学生服姿だった記憶があるから、小学校時代の思い出だろう。
二十歳になった今、利玖には玉露を味わう暇も余裕もある。店を閉じた夕暮れ時、広々としたリビングで一人茶葉を蒸しながら、ぼんやりと窓の外を眺める。
玉露の茶葉はついさっき、常連さんから貰った。祖母の友人に当たる人で、祖母が入院してからも足繁く通っては話し相手になってくれる。茶葉は娘さん夫婦と行った旅行のお土産だという。三角形のティーバッグが一包ずつ個包装になっていて、封の裏側にも丁寧に入れ方と玉露という茶葉の貴重さを説く文章が記載されていた。
自分の為にお茶を入れる余裕を、利玖は愛している。
砂時計が時間を零す姿を眺める、夕暮れの空が色を変える一瞬を切り取る、人々の声が消えて空気が研ぎ澄まされる感覚を刻む。
高校卒業後、周りの大人による熱心な大学進学の勧めを振り切って、上京して就職した。僅か一か月で退職してからは、祖母のやっていた駄菓子屋をピンチヒッター的に譲り受ける形になって、もうすぐ二年になる。
何かを後悔しているかと聞かれれば引っかかるものはいくつもあるけれど、やり直しても同じ選択をするだろうという予感はあった。今の自分に足りないものは今必要のない物だから、いつかの自分に託せばいいという楽観的な気持ちもある。
兄が好きだった。
穏やかで、真面目で、癖のない人だった。
十歳も離れていると喧嘩などしようもなく、実際記憶にもない。
でも、自分が大人になるにつれ、駄菓子屋という場所柄子供と接する機会に巡り合い、兄に兄としての自覚が強くあったおかげで利玖が許されていたのだと気付かされた。十歳も離れているから腹が立つこともあるし、許し難いこともある。子供の残酷さに触れてしまうこともある。
子供ながらに兄の出来の良さは理解していた。隣を歩けば兄の制服で学校を特定した大人から声をかけられることもあったし、近所では有名な存在だった。優秀な大学を出て、大学院まで行った。今は大学で教授として研究に没頭しているというから、繊細ながら芯の通ったところのあった兄の天職なのだろう。
茶葉を取り出して湯呑を持ち上げる。顔を近づけてみても紅茶のように強い香りがするわけではない。あくまで華美ではない深い味わいが特徴なのだろう。
兄に対して劣等感はない。無いと言い切ってしまうのも違うかもしれないが、事実妬む気持ちが湧かないのだ。
むしろ、哀れに思っているのかもしれない。
兄にしてもらったように、利玖は優しくあろうとしている。清くあろうとしている。穏やかであろうとしている。
でも、兄の努力は幼い利玖の心には不思議に映ってしまったのだ。
努力を繋いで得た今に驕らない兄の姿はむしろ、何処か痛々しくも見えていた。彼は寝ない、いつも机に向かっている、ゲームもしない、ご飯を食べる時もトイレに行く時も教科書を持っている。
利玖の知る享楽を遠ざける兄の背中にはあまり穏やかさが見えずに、兄の見ている世界にどんな光があるのか、利玖にはわからなかったし、兄自身もわかっていなかったように思う。
東京の大学に入って以来、彼は一人暮らしを始め、実家にあまり帰ってこなくなった。奨学金のことがあって帰省のためのお金も惜しかったのだろうとその時は思っていたが、蓋を開けてみれば勝手に大学院に進むことを決めてそのためにバイトに明け暮れていたというから、呆れた。その件を話せば他人は自立心が高いと褒めるけれど、利玖はそうは思わない。
子供だといわれようが我儘だと諭されようが、大好きだった兄を待っていた小学生の利玖からすれば、ひどい仕打ちだった。
その経験を言い訳に使うわけではないけれど、利玖は何を努力し何を生きるのかを考える度、兄の孤独な背中を思い出す。
時間をかけて飲み切った湯呑に一杯の高級茶に名残惜しさを感じながらも立ち上がり、冷蔵庫を開ける。一人分の夕食の献立を冷やし中華に決めて、卵を取り出す。
一人で過ごす夜に感じる寂寞を、利玖は見ないことにしている。
どんな選択にも後悔があるというけれど、利玖は楽な方に流された自覚があるから、嘆くことも悲しむことも、勿論後悔するわけにもいかない。
後悔は努力したものの特権だ。
努力をしなかった後悔など、後悔ではなく懺悔でしかない。悔やむという後悔は過去に戻れるのならば違う方を選択できる場合にのみ使える言葉であり、過去に戻ったところでできたかどうかはわからないことに後悔という言葉は不似合いだ。
卵をお皿に割って菜箸でとき、フライパンに油をしいて温める。白身を切るように、何度も素早く菜箸を動かす。錦糸卵は鮮やかに均一に黄色い方が美しい。
フライパンに手をかざして温まったことを確認して、薄く卵を伸ばす。
そのくせ、と考える。
そのくせあの人は、達成したはずの未来を、何処か鬱々と生きている。
頑張って生きているけれど、頑張り過ぎなのだ。マグロが止まったら生きていけないように、彼は頑張っていないと生きていけない人なのだと、最近気が付いた。その背中を見つめすぎてしまった利玖の方が、息苦しいくらいに。
薄く出来た卵を切り、ハムときゅうりを切って、麺を茹でる。
やはり鮮やかな色合いの麺が鍋の中で流れに抗わずに踊るように茹で上がっていくのを眺めながら、換気扇以外の音がしない静かなキッチンで不意に時間を持て余して鍋を眺めるしかない自分を、酷く孤独に思った。
キッチンは大抵一人で立つものだろうし、設計も大人数向きではない。
でも、此処にいると、妙に寂しい気持ちがするのは何故だろう。
キッチンに立って自分の分の食事を作っては無言で食べ続ける日々は、まるで、砂時計を幾度となくひっくり返し続けるように無意味な繰り返しの行為に思えてくる。零れ落ちる虚しさと砂は、見えるけれど触れはしない。掬い上げることもできない。
俺はいつも此処で、誰かが来るのをただじっと待っているしかないのだ。




