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大義名分

利玖のクッキーは味は勿論のこと、どれを見ても出来がいい。生地がよれていたり、焼きむらがあったり、まして隣のとくっついてしまったなんてミスは絶対にしない。


「器用だよね」


 彰葉はジンジャーマンの型抜きがされたクッキーを片手に言う。季節外れの笑顔は、少し不気味なくらいだった。


「そう?簡単だよ」


 紅茶を入れながら笑顔を浮かべた利玖の横顔を眺め、人間のでき方が違う、と考える。彰葉の独断と偏見で考えると、利玖はこの世で数少ない聖人だ、と思う。名を大きくする聖人も多いけれど、本当の聖人は大きくは成らない。欲がないからだ。


「それ、みゃびちゃんに言ったら怒らない?」


 利玖の趣味である料理に、時折雅は参戦する。助手のつもりだろうが、利玖のものと雅のものとでは出来に圧倒的な差があり、売り物なら返品のレベルだろう。


 手先が不器用なところも可愛いと思うのはこちらの勝手な感想で、事実本人が不便に思っているのだから余計な刺激はしない。


「簡単って?」


「そう。簡単にできないから困ってるんだよ」


 彰葉の言葉に利玖は首をすくめ、お茶を差し出してきた。水出しにした、マスカットティー。いつ来ても此処は、おもてなしの教科書のようだ。


「肝に銘じておくよ」


 言葉の意味よりはるかに軽い笑顔で言われると、こちらの心も軽くなる。ガラス製のポットを冷蔵庫に戻している背中が広くて、相手が年下だということを忘れる。


 今日は朝から静かで気持ちがいい。先週まで降り続いていた春雨がやっと収まり、予報では今週一週間は天気のいい日が続くという。


「せっかく晴れたのに、桜は散っちゃったね」

 

 利玖の家はなだらかな坂の下に位置している。駅からここに来るとき、つい気持ちが逸ると、転がり落ちそうな長い坂。

 坂の頂上に、公園がある。遊具は滑り台やブランコ、鉄棒など古めかしく質素だが、今時珍しいほど広々としたグラウンドがあり、いつも近所の子供たちがサッカーや野球で賑わっている。その公園全体を取り囲むように木が生い茂っているのだが、その一部が桜になっていて、彰葉も去年は満開の下を散歩をした。今日ここに来るために歩いているときに見上げてみたが、見事な葉桜になっていた。


「慌ただしく去って行ったね」


 マスカットティーは瑞々しい香りがした。水出しのお陰で渋みが一切なく、すっきりとした味わいだった。


「紅花ちゃんもセンパイも忙しかったってさ」

 

「そうだね。新学期は何かと忙しくなるよね」


「俺は全くそんなことなかったけどね」


「こちらも同じく」


 にっこりと笑った利玖に、彰葉はやはり安心感を持つ。年上の背中にもたれるのと同じ、心に直接優しさを貰った気持ちになれる。


「利っくん」


「ん?」

 

 炬燵がまだ出ていることにも驚いたが、これだけ暖かい日でも電気の入っていない炬燵の不思議な温かさには、もっと驚いた。


「不倫とか浮気って、どうしたら許されるんだろう」


 一瞬、利玖の目線が焦点をずらした。わかりやすい困惑は彼の長所を包括的に映し出す。


「彰ちゃんも、随分と重たい話題持ってくるね」

 

 利玖は苦笑いだったので、少し悪い事をしたなと思う。しかし、彰葉の身近な人間の中で一番おおらかで穿ったことを言わないのが利玖で、彼の意見を聞かずにこの蟠りはやり過ごせなかった。


 時折熱くなる手のひらを冷やすようにグラスを握ったまま、彰葉は先週末のことをかいつまんで話した。薄暗いバーで、紅花の低く艶やかな声で語られると背徳的な物語じみていた話も、明るい日差しの差し込む温かなリビングでは程遠い、テンプレートのシナリオじみていた。全然、あの時感じた後味の悪さが伝わっていない感覚だった。


「紅花ちゃんが悪くないのはわかるんだけどね」

 

 そこまで言ってから、言葉が続かない。自分でも、何にこんなに薄暗い気持ちになっているのかが分からない。


 あの日から、彰葉の気持ちは晴れずにいる。頭で納得してみても、怒りに任せて荒れてみても、気持ちは一向に進まない。

 あの日の深夜片付けの際に、彰葉は一枚のお皿を割った。力の抜き方が上手くいかずに、床に落としてしまったのだ。静かな室内に響いた破壊音に、マスターの他に三人いたバイトの子が一斉にこちらを見た。オーナーが箒を手にさっと、片づけを手伝ってくれた。動揺を隠せないままに謝ると、彼は彰葉が思うよりもずっと穏やかな表情で、食器は割れるものだよと言った。


 フォローをしてもらった身でも、いずれ割れるのだから割ってしまっても仕方ない、というのは強引な結びつけな気がした。結局のところ、彰葉が落とさなければあの皿は今日も、客に提供されていた。真っ白い、気取ったところのない円形の皿。


「因みに彰ちゃん。その許されるっていうのは、浮気や不倫をする正当性を求めているんじゃなくて、浮気や不倫の懺悔の話だよね?」


 開けていた窓から入ってきた生温いが湿り気はない風に、自分の黒髪が揺らされる。美容師をしている蓮にすら、なかなかお目に掛かれないほど綺麗な髪、と言わしめた。母親によく似た、一度も手を加えたことのない、ヴァージンヘア。


「なるほど。勿論、後者だよ」


 笠木利玖という人間とその類の没義道な発想が一切結びつかなかっただけに、少し面食らった。


 正当性を見つけ出す。

 確かにそうだ。昨日の女性。身体のラインに沿った、品のあるワンピースを着ていた。似合っていたし、きちんと美しくして彼に会っていた。


「あなたは実験だのレポートだの言ってばっかりで、私なんてどうでもよかったじゃない」


 彼女の絞り出す様なセリフが思い出される。残していた理性と意地を必死にかき集め、周りに声が漏れないようにしながらも、震えた語尾。カウンター前でアルコールを混ぜながら、聞き耳は立てぬように意識しながらも、下世話な好奇心はカクテルパーティー効果を発揮した。


 紅花ちゃんは男に同情をしていた。


金髪を赤いネイルを施した手でかき上げる癖のある紅花は、その見た目に反して硬派なところがある。スレンダー寄りの美しい身体のラインが出る服を好むなど、身持ちは全く硬くないだろうと踏んでいるが、貞操観念が低いわけでもなさそうだ。勿論、彼女の男性遍歴は厚いベールの向こう側で、聞いたところではぐらかされるのは目に見えているから聞きはせず、それでも、危険な香りはしない。


 彼女は女性であることを武器にはしない。女性であることを大義名分に使ってしまったら、女性であることをハンデにされても文句が言えないからだ。

 

 ことの顛末を知ったとき、彰葉の感情は複雑だった。考え直したところで、彼女の言い分はただの開き直りだった。自分を一番大切にしてくれないことと、物事の順序を守らずに他の男に気を許すことは全く別問題だ。


 それでも、もっときれいな終わりがあればよかったのにと思わずにはいられなかった。男の鈍感さには彼女の身勝手と同じくらい腹が立った。浮気をされていたことに気付かない程度にしか彼女に興味を持っていなかった癖に、紅花ちゃんに匂わされてやっとわかる程度だった癖に、別れの切り札はあっさり切ったことが許せなかった。

 

 不意に利玖が彰葉の腕を掴んだ。正確には、腕につけていたブレスレット。


「なに?」


 困惑して低い声が出た。


「これ、初めてみた。綺麗だね」


 春の新作だった。シルバーだから値段はそこまで高くないが、二連になっており、いくつかのスワロフスキーが埋め込まれている。買ったのはだいぶ前だったが長袖を着ているときは不便だったので、最近になって使うようになり、ここ一週間毎日つけている。彰葉は少し重ためのアクセサリーが好きだ。


「そう言ってくれたの、利っくんが初めて」


 紅花は気付いていたかもしれない。

 蓮は恐らく、興味がない。

 別にそれがすべてとは思わないけれど。

 

利玖が顔をあげ、思いの外明るい表情でこちらを見た。


「俺はたぶん許しちゃうと思うけど、許すようなことじゃないんだと思う。許す許さないは当事者だけの問題だよ。紅花姐さんの気持ちもわかるし、彰ちゃんの気持ちも大事だよ」


 言外に、議論の余地なし、という意図を感じ取る。

 利玖はそういう人間だ。どちらかに偏ったことを言わない。気持ちが荒れたとき、利玖の傍は安寧の地だ。

 だけど、味方としては物足りない。


「ね、彰ちゃん。俺も一つ質問があるんだけど」


 少し身を乗り出し、利玖は無防備な笑顔を浮かべた。


「なぁに?」


「彰ちゃんは、神様信じる?」


 それこそ、議論しても結論はないだろうと思って彼を見ると、やはりおおらかな笑顔で彰葉の答えを待っていた。


「俺は信じるよ」


 意外だという顔をされたのが、純粋に面白い。彰葉自身、信じているという程の信仰心はない。


「神様にしても幽霊にしても、見えないわけだからね。否定する理由が見当たらないかな」


 そういうと、利玖は面白そうに声を上げて笑った。


「神様と幽霊を同列に並べるんだね」


「幽霊は良い奴もいるんだよ」


「座敷童とか?」


「そう。この世に思い残したことが怨念ばかりとは限らないんだから、一概に恐れることはない」


「彰ちゃんらしいね」


 らしいのかどうかはわからないが、少数派だということはわかる。


「むしろ、神様が必ず善良な存在って考えの方が信じらんない。この世は不条理なことばかりじゃん」


 笑顔のまま言う自分を、非道徳だと思うこともある。それでも、綺麗事はもっと嫌いだった。


 利玖は炬燵の中で足を伸ばす。既に足を開いていた彰葉の脚と、利玖の脚が絡まる。力など入れていないだろうに、硬い身体だった。男の身体、だった。


「先週、蓮くんにも聞いたんだ」


「センパイに?」


「そ。なんて返ってきたかわかる?」


 彰葉は軽く目を閉じて考えた。


「あの人は信じないでしょ?」


「そう思うよね」


「うん。俺と逆じゃない?目に見えないから肯定する要素がないって思ってそう」


流石に鋭いねと、利玖が感心するように言うが、彰葉の勘の鋭さが働くのは蓮に対してだけだし、最もあの男は勘など働かさなくてもわかりやすい。単純という意味ではなく、芯がぶれない。桜が春に咲くように、初夏には新芽を付ける様に、あの男は規則的な生活を守るように生きている。


「でも、もっと酷かった」


 利玖は思い出し笑いなのか、元々柔和な相好を崩し、人懐こい笑顔のまま、


「いてもいなくてもどっちでもいいって言われちゃった」


「罰当たりすぎでしょ」


 センパイらしい。その言葉を自分の中でかみ砕く。高校時代から変わらない人だ。その昔老けて見えると揶揄った容姿にも、やっと年齢が追い付いてきた。


 金曜日、帰り際に携帯電話を手に取ると、蓮から留守電が入っていた。家に来てもいいという短いメッセージ。彰葉に委ねられた今夜。

 勿論、彰葉は蓮の家の最寄りの駅で降り、迎えに来ていた蓮と、途中コンビニでお菓子を買い込んで彼の家に帰った。決してお金に余裕があるわけじゃないので、寂れた住宅街の安いアパート。彰葉の家と二駅しか離れていない。薄い壁を気にしながら、簡素な二次会となった。


「今頃紅花ちゃんは一人、年代物のワインでも飲みなおしてるのかな?」


 ビールの缶を片手に、一人掛けのソファを独占する。堅めで、肌触りのざらつくソファ。


「さあな」


 興味のなさそうな返事だった。


「機嫌は直ったか?」

 

 あまりに直接的な言葉に、彰葉は噴いた。

ソファに背をもたれた蓮の、つむじを見つめる。彰葉は成人男性にして背が低めで、対照的に蓮はたっぱがある。背だけじゃなくて、肩幅にしても腰回りにしても、ガタイがいいのだ。紅花も女性にしてはかなりの長身で、二人と長くいたことで彰葉は見下ろされることに慣れてしまい、上目遣いの上手な使い方を覚えた。


 つい、いつも見えないものが見えた愉快さでつむじ周りの髪を数本、撫ぜる。美容師という職業柄、彼はいつも流行に沿った髪型になる。今日もビターチョコレートみたいな派手ではないけれど色っぽい髪色になっていて、染料の草原に似た匂いがする。

紅花は蓮の新しい髪色を笑っていたし彰葉も釣られて笑ったけれど、正直言えばあか抜けた雰囲気は堅物なだけじゃない彼の強靭さを引き立たせていたと思う。僻目な気がしたから、口にはしなかったけれど。


「どう見える?」


 からかいたいという感情は、五感の何を刺激するのだろう。彰葉は蓮の肩に顎をのせる。骨同士が当たる感覚があった。


 機嫌が直ったかどうかは聞いて判断するんじゃなくて、鼻を利かせて判断してほしい。


「知らないから聞いてんだ」


 彰葉の手から空の缶を抜き取り、蓮が立ち上がる。キッチンで缶を軽くゆすぎ、シンクに立てる滑らかな手つきに、見た目に反し仕事が丁寧なところも魅力的に見える。彰葉は自分に男性的な魅力が欠如していると自覚しており、別にそれは構わないと感じながらも、対称的な人を見るとつい惹かれてしまう。例えば恋愛に興味を示さない男なんて最高だ、と思う。彰葉の人生において恋愛は大きな要素になっているけれど、それが何にも達していない自覚は勿論ある。


 買ってきたスナック菓子の袋を手に取る。大袋をそのまま抱えて齧っていると、無香料の炭酸水のペットボトルを二本手に戻ってきた蓮が眉をひそめる。


「よくそんなもん、この時間に食えるな」


 もうとっくに終電はやり過ごした時間。元気なのは、外の街灯と、裏側の国くらい。


「俺は若いからね。先輩と違って」


「二歳差だろ」


「でも、先輩もう二十五歳でしょ?アラサーだよ」


 脂っぽい味付けを気にせずかみ砕く。本当はもう、食欲など遠くに過ぎ去っている。ただ、こういう踏み外した感じのことをしていないと、自分を認められないときがある。


「それ姐さんにいうなよ」


 面倒なことになるから。

 蓮からすれば紅花の思うあれこれも、彰葉の思案するあれこれも、全部面倒の一言で片づけられる気がした。彼の強さには憧れ、傍にいることで自分を救いあげられる気持ちにもなるけれど、理解されようとは思っちゃいけない。


 結局、その日は勿論彼の家に泊ったのだが、次の日遅めに家を出る彰葉と違って朝からシフトの入っていた蓮は彰葉を起こすことなく、仕事に出ていた。他人の家で目が覚めた朝は不思議な気持ち半分、昂揚感が半分。それが蓮の家となればなおさらだった。


 鍵をもって自分の職場に行く前に、彼の職場に寄った。直ぐには声を掛けず、ガラス窓の外から、仕事をする蓮をしばらく見学した。接客業には向かない生真面目な横顔。あれで本当に愛想の良い会話ができるのだろうかとぼんやり考えていたら、食い入るように見てしまっていたらしい。目線に気付いた蓮は呆れたように、でも彰葉の笑顔に優しい目をする。昔から、ぶっきらぼうな態度と思慮深い瞳の同居する彼の全てが憧れだった。


 手元のマスカットティーを一口飲む。やはり、優しい香りがする。


「神様を畏怖する先輩なんて見たくないから、それでいいや」


 利玖が何かを言おうと口を開いたタイミングで、朔也が二階から降りてきた。今し方整えたと直ぐにわかる、まだ薄っすら浮いたメイクと乱れのない髪型。今日はハーフアップにしている。


「朔也くん、髪切りに行ったんじゃないの?」


 長い前髪が、目にかかっている。蓮はそういう機能性の悪い髪型は余り好かないので、彰葉の髪はいつも目の上で整えるか、そうでなければヘアピンを渡される。バーとはいえ接客業をしている関係もあって大人しく従っているが、本当はそのせいで年齢より下にみられることがあまりに多い。


「行った」

「前髪、それ?」

 

 あぁ。

 朔也は面倒くさそうに声を出し、向かい合って座っていた彰葉と利玖の間に腰を下ろす。蒸し暑く外を歩いた彰葉は薄っすら汗をかく程の気温だったが、彼は薄手のパーカーを羽織っていた。腕まわり肩回りが緩く、恐らく利玖の物を着ているのだろう。


「伸ばす予定」


 朔也は顔をほんの少し左に傾け、毛先を重力で流した。アッシュグレーの髪は年齢を惑わす。


「もうね、大揉め。髪を切らせたい蓮くんVS髪を伸ばしたい朔」


「朔也くんの勝利だったんだ」


「蓮くんが折れた形かな。前髪を纏めるか、留めるかをする条件でね」


 分かり切ったことだが、朔也が蓮のいう事を素直に聞きいれるわけがない。五歳差が嘘の様に、朔也の強気が目立つ。


「実際、朔自身も邪魔なんでしょ?留めるか、アイロンしてきなよ」


 利玖はてきぱきと朔也の分のお茶を注ぎ、彼の前に出す。起き抜けの朔也はそれを一気に飲み干し、立ち上がった。


「朔也くんて、利っくんのいう事はやたら素直に聞き入れるよね」


 リビングを出て行く華奢な後ろ姿を見送ってから、利玖をみた。なんというか、人を扱う技術がべらぼうに高い。接客業でも十分活かせる能力だけれど、営業なんかをしたら優秀だろう。人を取り入れる能力、相手のテンポに合わせた相槌、タイミングを間違えない助言。彼を見ていると、自分の直情的な性格を欠点に思う。


「聞き入れてるっていうか、それくらいは聞いといてやるって精神なんだろうね」


 利玖は冷静な声で言った。


「朔ってほら、みやに甘いし、彰ちゃんにも丁寧な態度を取るじゃん。反して、蓮くんには本当に失礼だけど」


 自分で論いながら苦笑し、続ける。


「紅花姐さんには、同等を貫きたがるよね。七歳も下なのに」


 妙に淡々とした冷静な分析に異論なく、頷いてみせる。


「朔は多分、相手毎に自分をきちんと決めているんだよ。感情的とも、柔軟性があるのとも違う」


「ルーティーン的な?」


 そうかも。

 彰葉の言葉に首を縦に振り、利玖は考えるような顔つきになった。


「自分を無理に繕うわけじゃないけど、律する一つの指標なんだと思う」


 思慮深いというより、愛情深い。

 彰葉は言葉を選び、丁寧に話す彼の横顔を眺めながら、真面目な子だと思った。根が真面目で、正直で、真っ直ぐ。だからこそ誰もが目をつぶって誤魔化して生きてこれた些事が引っ掛かり、懊悩してしまう。優しさは相手の為である人間が大半を占める社会で、彼のように人に優しくすることで幸福感を得られる人間は稀有だと思う。稀有だし、損をしやすい。


「ま、天才様の考えることは俺たちにはわかんないかな」


 にこりとそう言って、利玖は立ち上がった。立ったり座ったり、何かと忙しい。


「彰ちゃんお昼いるでしょ?」


 お願いしますと頭を下げると、了解しましたと返ってきた。普段の、バーでの立場と逆になった気分だった。


 キッチンで冷蔵庫を覗きお昼を思案し始めた利玖を遠くに見つめる。



 暫くして、牛より遅いのっそりとした足取りで戻ってきた朔也は、前髪に緩いウェーブをかけた状態でかき上げる様にセットしていた。理知的な額がむき出しになって、アイシャドウの作り出した陰影が派手な顔立ちをより一層引き出した。


「似合うよ」


 思わずそう言うと、彼は嬉しくなさそうに目を合わせてきた。


「なんか落ち着かない」


 いつもが、顔を隠そうとしすぎている。彼は容姿に自信はあるだろうに、何処か所在無げにするせいで酷く内気に見える。


「そう言えばみゃびちゃん、今日は来ないの?」

 

 ふと、あの明るく無垢な少女に会いたくなった。最近学校に行っていないと人伝いに届いている。


 朔也が、今日は来ないかもなと呟いた。


「どうして?」


「学校」


「行ってないんでしょ?」


 彰葉は声を小さくして尋ねる。利玖がそのことに心を痛めていると耳に挟んでいる以上、なるべくその事実から目を逸らせたかった。


「そろそろ行くって、先週末言ってたから」


 つい先週の金曜日、利玖は蓮に相談したというのに?

怪訝に思い首を傾げると、朔也は彰葉の食べかけのクッキーを一枚摘まんだ。


「四月、新学期。新しいクラス。新しい担任。オリエンテーション。自己紹介。交友関係の構築期。クラスの空気感。授業毎に起こる名前確認」


 朔也の声は成人男性にしては高く、響きがいい。滑らかな話し方に乗せられ、記憶が遥か昔に戻っていく。彰葉にとって、それは少なくとも七年程前のことだった。


「気を遣うことだらけ。神経張り詰めるだろ。雅はそれを避けただけだ」

 

 なるほど。もうすぐ四月も下旬に差し掛かれば、そういう空気感に落ち着きもでる。特に雅は女子校だ。張り巡らされた関係性の糸を、自ら断ち切ったようだ。


「でも、それでいいの?友達ができない状況って、きつくない?」


 彰葉の言葉に、朔也は冷たく唇の端をあげる。恐ろしく生意気な表情で、弱冠二十歳のする表情ではない。


「あいつはもう、学校に居場所は求めてない」


 強い言葉だった。まるで代弁者のようだ。そう思いながらも、雅が利玖と朔也を全く違うベクトルで信頼していることはわかっていた。


「でも卒業はしたいみたいだし、クラスが落ち着けば多少浮いているのも、そうとして受け入れられていく。そんなもんだろ」


 クッキーを齧った唇にはグロスが塗ってあって、それを何の躊躇いもなく、朔也は紅い舌先で舐めとった。どろっとした感覚を彰葉は自分の舌先に思い出す。リップクリームに比べ、口紅やグロスは大抵人工的で、口に入った途端不快な気持ちになる。


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