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平和主義と事勿れ主義

 窓際は朔也のお気に入りの場所だった。それは自分の家だろうが利玖の家だろうが例外なく、室内という安全性と外の景色の移ろいが見えるという安寧を好んでいた。

 日があろうがなかろうが、彼はいつも窓に沿うように寝転び、画集や詩集、小説を広げたり、目を閉じて風や雨の音を聞いている。

 ましてや今日のようなよく晴れた空と、町は明るく穏やかな休日、昼寝と言わずとも目を閉じるだけで幸福感に満たされているのだろう。


 朔也のその癖について、今更口を挟もうなどとは利玖は思っていない。彼にとってアクティブな日常はハードすぎるし、ただでさえ生きているだけで神経をすり減らしているような性質だ。共感できない痛みには口を挟まない方がいいという美学を、利玖は朔也から学んだ。


 ただ、その悪癖は思いの外、人を感化させてしまうものらしく、普段ならどちらかというとアクティブな気概を見せる雅にまで伝染するのをみると、朔也の一貫性にはつくづく感心させられる。


 雅はよくできた子で、朔也の真似をすることはあれど、あくまで朔也の特等席は侵食しないように彼の隣や斜め向かいなどに腰を下ろし、似たように手元に何かを置いている。そっと上から眺めると、今日は朔也の画集だった。薄い色使いの絵画が並んでいるのを雅は純粋な瞳で眺めているけれど、純粋で混じりけのない瞳には、感動的な色合いもなかった。


「面白い?」


 ローテーブルに腰を掛けて、雅を見る。朔也は向こう側で寝転がっていて姿が見えないし、例え目が合う距離だったとしても彼は目を合わせてこない。


「暇なのよ」


 雅は頬杖をつき、ふてくされたように言う。


「土曜日って、なんでこんなに暇なんだろう」


 平日は平日で学校でアップアップしている彼女だが、だからと言って何もしないことも向かない性質なのだった。

 土曜日の午前十時過ぎ。絶妙に穏やかな時間。穏やかさに身を委ねる技を手に入れている分だけ、朔也の方が一枚上手なのかもしれない。


「幸せなんだけどね」


 そう付け足す姿に、利玖は何となく言葉が出なくなる。

 重たすぎる職務と、持て余す休日。

 とりあえず負担のない休日を幸福としてみるけれど、特別やることもなくただ時計の針が進むのを眺めているだけの時間を、誰が幸せと思うのだろう。


「あれ、やろっか」


 利玖は明るい声を出して、リビングのチェストから、折りたたんだ紙とさいころを取り出す。


「人生ゲーム!」


「の、お菓子版ね。久しぶりじゃない?」


 雅の顔がぱっと明るくなるのをみると、利玖は何故かいつも救われたような気持ちになる。


「朔」


 当然会話の声は拾っているだろうに、彼は微動だにしなかった。


「朔也」


 もう一度彼の名前を、丁寧に呼び直す。


 やや躊躇いの時間があってから、彼は読みかけの小説を閉じた。今日はいつもの銀色のしおりではなく、木でできた長方形のしおりだった。何のデザインかまではみて取れなかったが、小奇麗な色遣いで朔也っぽいなと感じた。


「明智小五郎の推理の途中で口挟むって、お前情緒なさすぎるだろ」


 とんだ悪口だと思いながら肩をすくめると、しかし朔也は、利玖に財布を取るように言った。


「なんだ、乗り気じゃん」


 にっこりと嬉しそうな雅を一瞥し、朔也は何か言いたげだったが、雅にだけは大人げない態度をとらない彼は、その分尖った声で、


「利玖、財布、取れ」


 と命じてくる。

 

 俺が割を食うのかと内心諦めて、部屋の入り口付近に置きっぱなしにされていた彼のトートバッグを触る。本物の革であることは明白な、柔らかで艶のある触り心地になんだかいけないことをしている気分になる。鞄の中にはいくつか教科書が入っていて、この後彼が大学に行く予定だと知った。

 

 彼の持ち物は、小物含めて基本黒一色に統一されている。

 ペットは飼い主に似ると言うが、持ち物も持ち主に似るものだと思う。少なくとも、朔也の持ち物が垢抜けていなかったり使い古されていたためしがない。買い物をしていても古着や中古品には絶対に手を伸ばさない。型の崩れた服に身を包んでいたことも、年季の入ったキーケースを使用することもない。いつでも洗練された小奇麗な恰好で洒落た小物を使う。当然と言えば当然のことで、朔也は潔癖症できれいなものにしか興味がない。完璧で美しいものを好む性の彼らしい選択が、彼の行動と感性を狭めている。


 黒い革の長財布を朔也に手渡すと、彼はそこから百円を取り出す。利玖も同じように、電話台においてあるお釣りを貯めている貯金箱から、百円を取り出した。

二人分纏めて雅に手渡すと、彼女はそこに自身の財布から取り出してあった百円を重ね、


「三百円ね」


 と呟いた。そして朔也と利玖を交互に見て、訊ねた。


「ご希望はありますか?」


「いや、任せるよ」


「同じく」


 勿論雅はそう言われることを予期した表情で頷き、店の方へと消えていく。レジをやってあげなければと、その背を追う。


 お菓子人生ゲームとは朔也の気まぐれと冗談から生まれた、オリジナルの遊びだった。

 ルールは至って簡単で、人生ゲーム同様に作られたボードでさいころをふりながら進めていく。その際マス目には十円から三十円までの金額が書かれていて、最初に買ってあったお菓子の籠から同じ金額の物を貰うことが可能になっている。

 大抵はお菓子を貰える表示になっているのだが、時折没収ゾーンや強制チェンジなども出てきて、意外に面白い。


 雅が金額を上手にばらして購入したお菓子に、賞味期限の関係で売り物にならないものをいくつか織り交ぜ、ゲームは必ず年功序列の逆で始まる。


 さいころのテーブルを転がる音と共に、ゲームは順調に進んでいった。


「小さい目ばっかり出る」


 雅はそう口をとがらせ、


「いや、これは目が小さい方が取り分は多くなるんだよ」


 利玖は一応フォローを挟む。


「没収ゾーンにはまると、多くはならないけどな」


 事実だが余計なことを口にする朔也は、妙な引き運で既に上がっている。


「せめて、せめて利玖ちゃんには勝ちたい」


 雅は気合を入れてさいころを手の中で転がす。


 このゲームでは全員が上がった後に残ったお菓子は、上がった順に選択できるようになっている。こういったゲームの細かい取り決めを程よくできるのは、流石朔也といったところだ。


 ゲームの成り行きを見守りながら時計を確認する朔也は先ほどに比べて、少しだけ表情に余裕が出てきたように思う。

 一時間前、彼がうちに来た時は酷かった。正確に言えば、数日前に彰葉の店帰りにいきなり訪れた、あの日からずっと。

 あの日の彼は、妙に饒舌で人当たりがよかった。普段から自分のことはあまり語らない彼が、化粧品がどうのこうのと語る唇はアルコールのせいか血色がよくて、その分だけ眼の下の隈と触れさせまいとする懊悩が見て取れた。


 何が彼を苦しめているのか、利玖は実のところよくわからない。

 現実というフィールドに自ら無理難題を書き込んでいるじゃないかとすら思う。例えばそう、お菓子の没収ゾーンを自分で書き足すように。


 雅の投げたさいころが都合よく駒をゴールに送り込み、利玖も望んだように雅を先に上がらせることができた。雅は無邪気に喜んで朔也の肩に頭を寄せ、朔也も当たり前のように腰を支える。

 女の子ってずるいな、と思うのはこういうときだ。


 最終的には、お菓子はそれなりに平等にそれぞれの手に渡る。その性質の良さから、彰葉や雅を喜ばせるために始めたゲームだが、雨の日には小学生にやらせることも多い。


「でもさ、なんでさいころなのに朔ちゃん、強いの?」


 勝ち取ったチョコレートの銀紙を剥がしながら、雅は首を傾げる。


「いかさま?」


「露骨すぎだろ」


 フェアプレー精神を疑われた朔也はさすがに嫌な顔で否定する。


「コツもないしな」


 真剣な表情で考える朔也に、本当にコツやいかさまなんてなくて、ただお前が神様に愛されているだけだよ、と口を挟みたくなってしまう。

 卑屈になるつもりなんてない。でも、朔也の深刻な表情には、やはり何処かで呆れている自分を自覚してしまう。


「じゃ、行くわ」


 朔也は時計を確認すると、徐に立ち上がる。顔を見合わせていた位置に彼の細すぎる脚が写り、見てはいけないものを見ている気分にさせられる。


「雅。残り、食っていいよ」


「え、持って行かないの?」


「大学に駄菓子持って行くやつがいるか」

 

 朔也は受け取ったお菓子のほとんどに手を付けていなかった。


「こっち、帰ってくる?」


 顔を上げて尋ねると、彼は逡巡したのち、家に帰ると言った。内心落ち込んでいると、鞄を手に取った彼の微かな笑い声が聞こえた。


「マジでレポート終わんねーの」


 俯くように利玖を見る朔也の目に、ハーフアップにしている毛束から浮いた髪がかかる。


「終わったら、一緒に遊びに行こう」


 利玖が言葉に詰まっていると、雅の明るい声がして、利玖は内心救われた。

 乗っかるように、言葉を継いだ。


「そうそう。もうすぐ、夏休みだしね」


 カレンダーは既に七月の日にちを刻み始めた。


「善処する」


 まるで気のない言葉を残し、朔也は去っていった。


「あれって、行けたら行くと同義語だよね」


 雅は目を眇め、彼の出て行った扉を睨みつけた。


「夏休みの混雑の中に、何も自ら飛び込む柄じゃないからね」


 香ばしい麦茶を一口飲んでフォローを入れると、


「知ってるけどさ、なら、代替案が欲しいよね」


「つまり?」


「一緒に昼寝ならするよ、とか、宿題手伝ってあげるよ、とか、チェスを教えてあげるとかでもいいし」


 あぁこの子は、と心臓の一番綺麗な部分に愛おしさが滲む。甘やかな痛みが肉体的に感じられた。


「大学生って夏休みは暇してるから、いつだって相手してくれるよ」


 朔也だってきっと、なんだかんだ雅を待っている。

 そして利玖自身、何処かので彼らの長い休みを待ちわびている。

 この退屈でどうしようもない日々を、一緒に過ごすだけで満足できてしまう、そんな関係は弱いけれど確かに、互いを繋いでいる。


「土曜日に学校いくなんて、朔ちゃんも真面目だよね」


「土曜日は学校に人が少なくて、図書室が使いやすいんだって」


「朔ちゃんらしいよね」


 そう。朔也らしいのだ。

 人が多いところが苦手で、だから満員電車や人込みを避けて。

 可能な限り人の少ない場所に縮こまって。

 さぼり癖があるくせに妙なところは真面目で。

 レポートは必ず逆算して期限までに余裕を持たせて。


 でも、出来ないと悟ると周りを唖然とさせるスピードで切り離してしまう。

 必要なものでも、苦痛なものは要らない。雑事に従事する気など端からなくて。煩雑なことは遠ざけて。


 雅は、朔也の残していったマシュマロのビニールを裂き、少し大きなそれを見つめ、


「にしてもさ、意地悪だよね、朔ちゃん」


 とマシュマロを一口で収めた。

 利玖は、そうだねと相槌を打つ。

 

 チョコレートの入ったマシュマロは雅の好物で、当然朔也もそのことは知っている。

 しかし、ゲーム中に、朔也は真っ先にそれを選択したのだ。ルールに則った行為いえど、雅は憤慨して口を尖らせ、絶妙に品のある暴言を朔也に向けた。

 

 確かに、意地は悪い。初めから雅にあげるつもりで、彼女を揶揄ったのだ。


「朔って、意外に平和主義なところがあるんだよね。理想主義者なんだよ。卓球するなら点数を取り合う勝負より、平和にラリーを続けていたいようなタイプ」


 だから、競争社会から脱落しちゃうんだよね。何不自由なく生きてきた分、本能的な部分で野心がないんだよ。


 とは、流石に口にはしない。心の中で言葉を組み立てて、そこで終わりだ。

 言葉に確信はある。しかし、むしろ確定だからこそ、言葉にすると途端、鋭利になってしまう。


 朔也の性格を人は時に、自己中心的や協調性がないと評価するだろう。確かに彼は、他人に阿ず、人当たりは器用とは言い難い。


 小さな口で、雅はマシュマロを味わっている。咀嚼音もなくかみ砕かれ飲み込まれる白い固形物は、確かに可愛らしい形をしていた。


 雅が初めてうちに来た日のことを思いだす。あの日も、こんな天気のいい日だった。そうだ、あの日も朔也は午前の時間をつぶすためだけにうちに来て、その帰り道に雅に出会った。


 後に聞いた話によれば、公園のブランコで一人ぼんやりとしていた雅に、駄菓子屋に行けばいいと声をかけたらしい。

 放っておけなかった朔也の気持ちは想像に難くない。朔也もまた、高校時代に学校をさぼりがちで、その時の痛みと絶望感がまだ尾を引いている。


 彼は、集団が嫌いだ。群れて筋の通ってない集団に対しては強い嫌悪感を示す。お店に遊びに来る小学生に対して苦手意識を持つのも、既に悪意をちらつかせる集団意識が可視化されているせいもあるのだろう。大人のそれより顕著に、遠慮のない社会性が大人の目には酷く鋭利に映る。俯瞰していると、紙で手を切ってしまうような、予期しない痛みが目の前で弾けるのだった。


「朔也は臆病なんだよ。本人は認めないだろうけどね」


 彼が一体どこで、心根の優しさを損得勘定で切り捨てたのかは分からない。

 正義感なんて何の役にも立たないことを悟ったせいかもしれないし、同情ですくわれる自己意識を持て余したのかもしれないし、レッテルとかみ合わない自己呈示に疲れてしまったせいかもしれない。


「利玖ちゃんと朔ちゃんの会話が時々かみ合わないのってさ、二人とも感情が自己完結型のせいだよね」


 言葉を探すように天井を見上げていた雅が、何かに気付いたように言う。舐めた唇はリップの艶とは違う艶めかしさがあった。


「利玖ちゃんにも、朔ちゃんに指摘する同じ癖があるんだよ。思っていること、考えていること、全部自分の中で終わりにしちゃう。だから、本当は違うかもしれないのに勝手に満足しちゃってる」


 鋭いなぁとすっかり感心していると、その沈黙にも不快感を示すように雅は眉をひそめ、やがて先程まで朔也のいたところに寝転がった。


 雅は、鋭くて、真っ直ぐすぎる。


 朔也のが平和主義なら、俺のは事勿れ主義に過ぎないと知っているから、俺は口を開けない。


 朔也が嫌うところの愚鈍さを、俺は未だに演じようと小賢しく頭を働かせているだけで、それをまさか雅に指摘されるとは想定していなかった。


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