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プラセボ効果

 カウンターの向こう側で仕事をこなす制服姿の年上の友人は、時折自分の頬に手を当てては何とも言えない表情を作っているが、朔也にはその理由はわかっていた。

 彰葉ご自慢の美しい肌が、今日は傍から見てもわかるくらいに荒れていた。若く代謝の良さが災いでもするのだろうか、普段は艶やかに輝いている肌に照明が当たる度、赤みを帯びた凹凸が目に見える。見てわかるくらいだから、実際触ると指先に嫌な感触を残すだろうし、もしかしたら痛みも伴っているかもしれない。


「秋月。触んない方がいいわよ」


 朔也が気付くくらいだから、紅花も直ぐに見抜いただろう。

 隣でロゼワインをなめていた紅花はグラスから目線を外さずに、忠告を入れた。


「肌荒れしているときは、下手に触ると悪化するから」


 鉄則だなと内心で同意していると、


「人間と同じだね」


 一応頬から手を離し、彰葉はわざとらしく目を細める。挑発的な表情をすると普段の童顔を裏切るように、実年齢を追い越す冷徹さを見せる。


 詳しくは知らない。朔也は詳しくは知らないけれど、どうやら彰葉は酷く冷たい過去を持っていて、その傷は癒されることなく時間の経過でただの瘡蓋になって、表面的に血が流れることはないけれど、内側の酷く残忍な鮮血の赤は瘡蓋によって押しとどめられているだけで、何かの拍子に剥がされてしまえば多分、手に負えないくらいの血液が流される。


「どういうこと?」


 気怠げな瞳で紅花が彰葉を見上げ、それを朔也は横目で見守った。


「そのまんま。荒れている人に変に触ると怒らせたり、不機嫌にさせちゃう。様子見って、大事だよね」


「それは、どういう経験値なの?」


 怪訝そうに眉をひそめた紅花を彰葉はにっこりと受け流し、大きく伸びをする。


 週半ばのバーは比較的空いていて、すっかり常連扱いの紅花と朔也はいつも通り、カウンター席に通された。

 

 本当なら、これだけ景色がいい横浜の高層ビルの上階で、何も見慣れた顔を見ることもないのだけれど、普段着の彰葉と制服姿の彰葉はあまりに別の存在だから、つい盗み見てしまう。

 言うなら、彼は弟の要素と兄貴の要素を明確に使い分けてくる存在だった。

 年齢的な関係と名前の呼び方の敬称は逆転しているが、そんなことは一切気にも留めないあっけらかんとした性格。

 それを逆手にとって、計算高さを感じない彼の言葉選びに、朔也は心を許している自覚はあった。雅の言葉と彰葉の言葉は、割と素直に受け入れている。咀嚼するかどうかは別の話でも、その真意を猜疑しないことを心に決めている。

 

「最近、肌の調子最悪。紅花ちゃん、なんかいいクリームとか知らない?」


「肌荒れに効くやつ?」


「そう」

 

 彰葉はやはり気になるらしく、小さな手を頬に触れさせ、何度もなぞって深いため息をこぼす。

 調子を崩して肌が荒れて、肌が荒れたことで調子が乗らない。負のループの中で、何かを変えようとする力があることこそ、彼の健全さだと思う。


「私、あんまり肌荒れってしないのよね。乾燥肌なせいかな、かさついて痒くなっちゃうのよね」


 言葉にすると痛みを惹起してしまうもので、紅花もネイルの輝く指先で自分の頬を二回ほどつついた。彼女の肌が艶っぽく輝くのはハイライトだろうかと考える。


「朔也君は?」


 彰葉が此方を向く。いつもの、可愛らしい笑顔だった。


「肌トラブル?」


「うん。季節の変わり目だけど、変わったことはない?」


 これじゃまるでカウンセリングのようだ。やはり朔也も自分の手の甲を頬にあてる。


「くすみだな。寝起きがほぼ幽霊」


 隣の紅花が吹き出した。


「神崎くん、色、白いものね」


「血色が悪いんだよ」


 オブラートに包んだ言葉は今、あまり必要ない。

 朔也は眼の下をこする。今朝も、自分で驚くくらいの隈が出来ていて、コンシーラーを塗りながら、抑々表情がぬぼっとしているのは寝起きのせいだけでなく、全体的にくすんでいるせいだと気が付いた。


「秋月はさ、あんまり手を加えない方がいいわよ」


「ん?」


 紅花は頼んだまま手を付けていなかったクラッカーを手に取る。しかし口に運ぶことなく指先に摘まんだまま、彼女は話し出した。


「ほら、肌が荒れてるからって、肌荒れに効く化粧水だとか美容液だのをつけすぎると、むしろ肌の負担が増えるものでしょ。若いし代謝もいいんだから、あんまり余計に手を加えない方がいいわよ」


 朔也は頷いて、話に乗る。


「俺も、その案には賛成する。学生時代とか、化粧もしないし化粧水とクリームくらいの時って、肌の調子よかった」


 薦められるままにクラッカーを一枚貰い、朔也はクリームチーズを少しのせた。紅花はそのまま齧ると、さくっと小気味いい音がした。


「なるほどね。やりすぎは…なんだっけ?」


「過ぎたるは猶及ばざるが如し」


「それそれ」


 クラッカーをかみ砕きながら、なぜわかるのだと言いたげな紅花の視線を感じたが、むしろ何故わからないのだろう。

 勿論何も言わずに、彰葉と目を合わせる。


「オールインワンとかにすれば?」


「全部入ってますってやつ?」


「あら、いいわね。塗る刺激もないし、成分的な偏りもないし、何より楽よね」


 同意を示したのは意外にも紅花で、朔也は少し驚いて紅花を見た。


「え、佐野の姐さんって、楽とか言う人なんだ」


「何よ、私は楽しちゃいけないの?」


「いや、そういうわけじゃねーけど」


 そこまで言って、口ごもる。

 責められているわけではないことは当然理解していたが、何となく言葉を間違えたら彼女の気分を害するような気がして、そうなると言葉を探すことも選ぶことも億劫になる。

 余計な事、口にするんじゃなかった。


「わかるよ。紅花ちゃんって完璧だもんね」


 助け舟に顔を上げる。

 人の好意を素直に受け入れていいと教えてくれるのは、意外にもこの人の素直さだった。


「急にお世辞?」


 やはり妙な鋭さで紅花は、口をはさんだ彰葉に言けれど、彼はむしろ柔らかい笑顔を作る。

 ひりつく空気にも物怖じしない性格で、むしろどんな空気でも自分の色に染め上げる才能で言えば、彰葉以上の存在を朔也は知らない。

 頑固という言葉は似合わないけれど、彰葉はしなやかな芯の強さを曲全と持ち合わせている。


「もう、そうじゃないって。

 紅花ちゃんって隙がない感じがして、全部完璧にやりますって感じがするからさ。楽しようなんて考えてるんだって考えたら、ちょっとかわいいなって思っちゃう」


 立て板に水、彼の淀みない誉め言葉の羅列を隣で聞きながら、恥じることなく言い切れる羞恥心のなさも、歯の浮くようなセリフを嫌みなく言えてしまうキャラクター性にも、軽い嫉妬を覚える。

 自分の性格を具体的に改善したいと思うことも、明確な理想形があるわけでもなかったが、彰葉になって一日を過ごせたら、朔也の感じている負担の二割は軽減できる気がした。


「そっか、オールインワンかぁ。でもさ、新しい化粧品買うのって、ちょっと疲れちゃうよね」


 彰葉はペリエのキャップを開けながら言う。


「というか、化粧品を選ぶのって、ちょっと疲れる」


 炭酸のはじける音が、静かなバーにさわやかな音を立てる。

 朔也はロックで飲んでいた梅酒に少し入れて欲しいとグラスを差し出すと、直ぐに意図を理解して注いでくれた。泡が優雅にグラスを登って弾けるのを眺めて、淡い絶望感が抜けていく気がした。

 他人の憂鬱に自分の暗鬱を重ね合わせたら、少しだけ救われる。


「選ぶには、種類が多すぎるんだよね。選択肢多すぎて、どれにすればいいのかわかんない」


「なんか、そういう心理学なかったっけ?」


 心理学に詳しい紅花に話を振ると、ジャム実験ね、と直ぐに返ってきた。


「お店にたくさんの種類のジャムを並べたら、少なかった時に比べて売り上げが落ちたってやつね」


「なんかわかるな。化粧品ってさ、使い終わる度に、次は何を買おうって悩むんだけど、それって意外と面倒なんだよね」


 朔也は自室の基礎化粧品を思い浮かべ、そろそろ美容液を買い足さなければいけないことを思いだした。


「お気に入りがあればそれを使い続ければいいんだけどね。惰性で使っているものが使い終わる時って、次はどうしようって考えるのが本当に面倒くさい」


 数多にある選択肢からいくつかの条件でそれとなく絞って、でも本当にそれでいいのかわからないけれど必要だから、とりあえず一つ手に取ってみる。

 その過程を楽しんでいるうちはいいけれど、悩むという行為は煩雑な手続きで、ふとした時にうんざりしてしまう。

 

「なんか他に良いのありそうとか考えて、でも使い慣れているし不満はないし、なんて自分を納得させるんだけど、でもやっぱり、浮気したくてしょうがない感じ」


 彰葉はサクサクと話す。それをクラッカーを食べながら聞いていると、彼の言葉をきちんと咀嚼できている気分になるから不思議だった。


「浮気って言葉が合うのよね。変えたいって思いはあるんだけど、でも変えるハードルってそれなりに高くて安心感を手に取りたくて、舞い戻る。私も何だかんだ、それを繰り返している気がする」


 紅花が苦笑気味に同調して、三人で少しだけ頭を抱える。

 

 三人ともそれなりに美容を気にかけ、趣味的に行っている節がある。容姿の良さを自覚し、武器として磨き続けたいという考えは似通ったものとして持っていて、時折こうして情報交換をするのだが、ふとした時に我に返ってしまう冷めた性格も、共通している。


 肌が綺麗だから何だっていうのだろう。

 容姿がいいからなんだっていうのだろう。


 それって本当に幸せなのか?

 この苦労は本当に見返りがあるのか?


 好きでやっていることの意味を求めていることから導き出せる、三者三様の欠落。自分から零れ落ちているのだから、自覚している。その隙間を埋めるために、足掻いているのだから。


「佐野の姐さん。俺、美容液、絶対に変える。おすすめ、教えて」


 朔也は梅酒を飲み干し、炭酸の痺れる喉を大きく動かす。

 妥協点を人に預ける安易さを、それでも信頼関係の一部に置き換えることは許される気がした。


「そうね。くすみが気になるあなたには、透明感を与えてくれる…これとか、どう?」


 ネットで検索した商品の画像を、送ってくれたので、確認もせずに頷いた。


「今夜、買うわ」






「いや、少しは考えて買いなよ」


 入れたての緑茶を出しながら、呆れた口調で利玖が言った。


「別にいいだろ」


「そりゃ、朔の好きにすればいいし口出しはしないけど、そういう妙な思い切りの良さって、後悔してからじゃ取り返し付かないよ」


 口出しをしないと言いながら、やんわりと彼の中の正義感をちらつかせるのは、おそらく彼の常套手段だろう。

 固定観念に捕らわれないことを人生の教訓に並べている彼だが、実のところ真面目で堅実な性格のせいで、その教訓自体が凝り固まっている節がある。


 そして、友人を酔いに任せて冷静に分析する自分の性格を、朔也は酔狂だと自覚はしている。


「でも、試してみる価値はあるだろ。なんせ、佐野の姐さんのお勧めなんだし」


「ほんと、紅花姐さんへの全幅の信頼は、見ていて気持ちがいいくらいだね」


 歯切れよく、言い捨てる色すら見せた口調に、嫉妬しているなと察するけれど、その快感は内側に押しとどめる。


 湯呑は美濃焼だった。フリージアのデザインに少し触れてみると、程よく飲み頃の温かさで、一気に飲み干す。苦みに弱い朔也の為に、さらっとした味わいで飲みやすかった。

 日付がそろそろ変わるという頃に酔って訪ねてきた友人に緑茶を出すセンスは正直あまり良いとは思えなかったけれど、彼が選択肢を提示せずに出してきたということは恐らく、二日酔いになりにくいとか酔い覚ましにいいとか、そういう豆知識があってのことだろう。


 指摘もしないし、理由も尋ねない。


 利玖の好意が朔也に不利益をもたらすことがあるのなら、甘んじて受け入れるつもりだった。


「でもね、朔。もし本当に肌質改善を考えているなら、夜更かし禁止。野菜も食べる。三食とる。お菓子を控える。あと、そうやってすぐに嫌な顔をしない」


「お前は、俺の母親か」


「そんな古典的な突っ込みするなんて、実は結構酔っているでしょ。

 ついでに言わせてもらえば、もしも本当に血縁関係があるなら、俺はこんなに朔を甘やかさないよ」


 ほんの少し目を眇める仕草に、彼の正義感と対人関係と貞操観念をひっくるめた価値観が集約されている、と思う。

 狭窄された視線から朔也をはみ出させ、そのくせダイバーシティなんて価値観で認めたふりして、いい気なもんだ。


「お前も頭が固いよな」


 甘やかされることがうまい人間ってのは、甘やかしたがりを引き寄せる能力に長けてる。本能的に。


 朔也は立ち上がり、風呂を借りるとだけ言い残し、リビングを出た。

 口の中に緑茶独特の粉っぽさを感じて、洗面台でゆっくりとうがいをした。冷たい水道水にアルコールの匂いを思い出し、あぁ本当にくだらない生き方だと嘲る気分で鏡を見上げる。

 

 白い肌は酔うと直ぐに赤く染まる。今日は誰もお持ち帰りをしてくれないと知っていたから、慎重に嗜んだおかげか、飲んできたという影は見当たらない。

 でも、いつもに比べて瞼が重たく感じているのだから、身体は正直だ。カラーコンタクトが張り付くように、瞳の水分を奪っていく。






 


「てわけで、オールインワン貸して」


 両手を揃えて差し出すと、その手をじっと見つめた後、表情を殺した蓮が、馬鹿かと言った。


「普通、一人暮らしの男の家に化粧品なんてあるわけねーだろ」


「化粧品じゃなくて、基礎化粧品」


「同じだろ」


「先輩にとって、動物園と水族館は同じなんだね」


「利己的な価値観の集約という観点からすれば、同じでいいわ」


 余計なことを吹っ掛けない方がよかったと内心で呆れながら、何もないのと尋ねる。蓮もまた、うんざりとした顔で、あるわけがないと繰り返す。


「でも、乾燥したりするでしょ?」


「そうでもない。多少あっても、何かをしようと思ったこともない」


「ふーん。肌質も頑丈なんだね」


「繊細ぶるな、面倒」


 言い方に棘があるけれど、正論以外の何物でもない。肌が弱いアピールなんて、面倒な女のすることだ。

 

「もう、いつものでいいや。この前置いて行ったやつ、何処に仕舞った?」


 彰葉は諦めて、勝手知ったる彼の家を見まわして尋ねる。


「お前、自分で捨てて行っただろ。使い終わったって」


「え?」


 驚愕した。大きな声で振り向くと、彼はとても嫌な顔で、時間を考えろと眉をひそめる。


「うそでしょ。じゃぁ今この家に、化粧水の一つもないってこと?」


 彰葉の勢いに、蓮はため息をついて立ち上がった。


「駅前のドラスト行くぞ」


「え、今から?」


 既に日付を跨いだ時計を見上げる。

 お前が必要なんだろうと呆れ顔の中に、


「欲しいものは、欲しいときに買った方がいい」


「家訓?」


「逆。ガキの頃は、むしろ買えなかった」


 彼は淡々と言うけれど、彰葉はいらないことを口にしたことを自覚する。

 可能な限り家族のことについては触れない方がいい、という暗黙の了解を、つい軽口で壊してしまう。自分にとってもパンドラの箱なのに。国境を不用意に跨ぐことは、誰にとっても好ましくない。


「後回しは碌なことにならない。ほら、行くぞ」


 促され、彰葉は傍に脱ぎ捨てていた薄い色のデニムジャケットを手に取る。


「とか言いつつさ、煙草が欲しいんでしょ」


 彼の髪からはほのかなシャンプーの香りがしている。深夜の時間帯、もう寝るだけのはずの時間に突撃したにもかかわらず、彼はまだ外着のチノパンを履いていた。


「お前、鋭いな」


 感心するように言うので、わかるさそのくらい、と内心得意げになりたいはずなのに、彼の指先に煙草が挟まれるのを見る度に背徳的な美しさと絶望的な薄暗さに板挟みになる感覚が呼び起こされて、言葉に詰まった。

 それはたぶん、官能的な美を目の前にしたときに、冷静な自分と流されたい欲求に自分が壊されそうになるのと、少し似ている。


 履いてきたスニーカーはひもが複雑で、履き直すのが面倒くさい。彼のつっかけサンダルを先に奪うと、彼は諦めたように自分のスニーカーを履いた。


 外は蒸し暑かった。

 太陽が一番遠い時間帯であることなど関係なく肌に絡みつくような湿気が、服の隙間を縫って全身に膜を張る。


「買い物の話ついでに聞くけど、お前は布団は硬めと柔らかめ、どっちが好きなんだ?」


 一歩先を歩いていた蓮の黒いシャツに包まれた背中を見つめていると、彼が急に振り返ったので、慌てて目を逸らす。


「え?」


「いい加減、布団を買ってやる」


「え、だめ、いらない」


 食いつくように否定すると、声が大きいと窘められた。

 今日は怒られてばかりだ。


「買わないで、お願いだから」


「なんでだよ?」


 彼の疑問はもっともだった。

 蓮の家に泊まるとき、彰葉は一人掛けのリクライニングソファを使って眠っている。


「あんなところで寝てると、身体痛めるぞ」


「俺、先輩より若いから」


「二歳って、誤差の範囲だぞ」


 彼は困ったように首を傾げるけれど、彰葉は説明はせず、絶対にいらないからねと念を押した。


 わかるわけもないだろう。

 優しくされないステータスなんて。


 蓮の家に泊まるメンバーのうち、彼からベッドを譲られないのは彰葉だけだ。

 朔也や利玖などはおそらくそれなりの押し問答の後、彼の少し大きめのベッドに収まるのだろう。蓮が他人を優先しない場面など想像がつかない。


 彰葉は最初の時から頑なに拒み続け、粘り勝ちでソファを自らの居場所とした。

 客用布団が彼の家に来てしまったら、俺は他の客と同じ布団で眠る客人になってしまう。

 それが、彰葉の危惧だった。


 彰葉にとって、蓮に気を使われることも、気を使われないことも、すべてが甘美な遊びになっている。


 ベクトルは何方でもいい、意図など何であってもかまわない。痛みが伴おうと苦しみの先にあるものでも、何だっていい。

 秋月彰葉だけ、をいくつ彼の中に刻み込めるのか、それが何よりの課題なのだ。





 熱めの湯船に身を鎮め、紅花はバスソルトの香るお湯を掬っては落とすを繰り返す。子供の暇つぶしのようだ、と考えながら、お風呂というフィールドでは年齢の差などあってないようなものだと思う。

 

 思い出す、子供のころの記憶。

 幼いころに父と二人ぐらしになってしまった紅花にとって、温泉や銭湯で明るく響く家族の会話は苦しみの核になっている。

 

 父には大事にされた。

 ただ、母に置いて行かれただけ。


 その事実が、ことあるごとに紅花に猜疑心と劣等感を与え続ける。全く関係のない事象に対してまで顔を出し、心を口説き続ける。そして、従順に従う心も心だ。いつまで経っても、独りよがり。


 バスタオルで身体を拭いて、鏡台に腰かけると、つい先ほどのバーでの話を思い出して、しまい込んでいる化粧品を台の上に並べてみる。ガラス瓶と鏡台のガラス台がぶつかってはセンシティブな音を奏で、どちらも存在感を示す。


 ボトルやケースをまじまじと眺め、どれもこれも白を基調としているのは、清潔感の象徴なのだろうかと考える。

 汚れればすぐにわかる白に、それでも染まりたいのは何故だろう。


 並べてみると台を埋め尽くすほどの基礎化粧品がでてきて、こんなにあるのか、と一人感心だか納得だかわからない感情になりながら、こんなにあるのに未だにこれといったお気に入りがないことに軽い失望を覚える。


 彰葉の言い分に、紅花は気持ちを見透かされた気分だった。


 化粧水、美容液、乳液、クリーム、といくつかのボトルを手に取って、その他は元あった場所に仕舞う。

 手のひらに取った化粧水を肌に纏わせるように、優しく馴染ませていく。

 乾燥肌用に作られたという謳い文句を信じて、乾燥して時折ひきつってしまう肌に、潤いを押し込むように。


 専門家でも何でもないから、化粧品の本当のよさなんてわからない。成分がどうだとか、使い続けるとどうだとか、細胞レベルの話なんて知りようもなくて、良さを実感する、なんて、ただのプラセボ効果に過ぎないのかもしれない。


 それでも、信じる者は救われるのなら、出会ってみたいと願ってしまう。

 ラムネを口にして病を脱することの、何が問題なのだろう。


 携帯電話が光る。

 雅からのおやすみメールだ。

 規則正しい時間に、飽きることなく毎日律儀に、いつもすこしだけ違うデザインで。決して手続きにはせず、連絡を寄越す。


 そして、飽きることなく待っている自分もまた大概だ、と思う。

 小さな子機によって繋がれた関係性は絶対的に弱いはずなのに、対峙して言葉を交わすよりも相手を近くに感じている。

 時折合わせる顔よりも、日々配られる小さな心遣いに委ねてしまいたくなる。


 それが、紅花と雅の正しい距離感なのかもしれない。



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