リンゴのウサギ
デートをしたいと二十回ほど粘ったところ、彼は折れた。触っていた携帯電話を置いてこちらに向き合い、わかったと簡単で明瞭な答えをくれた。雅は驚いて、本当にいいのかと聞き返してしまった。
「お前が言ったんだろ」
意味が分からないというように、朔也は整いすぎた眉を寄せ、嫌な表情を作る。嫌悪とか、邪険にした表情とは違う、雅を子供として扱うときによくする表情だった。
「正直、百回は覚悟してたの」
「百回言われると俺も思ったから、早い段階で折れたんだよ」
いつも同じやり取りを繰り返す中で、彼は少し懐柔しやすい男になったようだ。
なるほど、と雅は内心で分析をする。
この男、意外とわかりやすい弱点をもっている。頭が固くて賢しさが冷たく映るけれど、自分より弱いものと優しいものには、それなりの温かさをもって接する人だ。
自分を支配しようとする人や理解せずにカテゴライズする人には絶対に屈服しないから、服従と献身の美学のもとに生きる人の価値観を受け入れず、現代社会との折り合いは悪いが、少なくとも、彼の持つ洗練された優しさに雅は救われた。
彼と出会っていなかったら。
公園で制服姿のままブランコに揺らされていたところで声をかけてもらえずにいたら。
私は今頃何をしていたのだろう。
三限目の英語の授業で書き取りのテストがあると予告をされたのは、三日前のことだった。課題文を丸暗記して記述するというテストだという。
この三日間そのことが頭を離れず、渡された海の向こうの政治のニュースを文字起こししたプリントを眺め続けた。読むと覚えやすいと言われたから、音読をしてみた。書くといいというから、ノートが真っ黒になるまで書いてみたけれど、今度は書くことに集中してしまって記憶には残らなかった。
三日間苦しんで、目と口と手を必死に動かして、その結果としてテストを受けないという選択肢を選ぶに至った。
四時限目には間に合うようにいこうと考えているので、それまでのシェルターは利玖のところだった。
「で、何がしたいわけ?」
ピッタリと骨格に沿った綿のパンツをはいた脚で胡坐をかいて、彼は雅に向き合った。制服を着ている雅は、スカートを広げて正座をする。
夏のセーラー服。よく晴れた空はそろそろ、夏空と呼んでいいかもしれない。
ここまでの道のりも、うっすらと肌が湿り気を帯びた。
雅の誘い文句は大抵、デートをしよう、だ。
言葉選びの単純な話だが、そうすると彼らは「お願いごと」を無下にはできなくなる。
特に、一見冷たく見られがちな朔也がほんの時折見せる、長兄としての気遣いと心根の優しさに、雅は甘えていたくて堪らない。
彼は求められないと人に優しくすることも、何かを与えることも上手にできないだけで、決して意地が悪い訳でも性格が曲がっているわけでもない。彼の誤解のされやすさは、人として本質がどうしようもなく不器用なことに起因する。その事実に気付いているのは、今は私だけで十分だ、と雅は優越感に浸る。
「考えてなかったや」
素直に答えると、彼は嫌いな料理でも出されたみたいに表情を無くし、
「決めろ、一分以内」
と急かしてきた。
「え、早い早い、ちょっと待って」
そう騒いで頭を抱えるも、引っ掛かりがあった。
決まっていないのだから、話をなかったことにすることも、なあなあにして先延ばしにすることも難しくない。
出不精で面倒くさがりでマイペースな彼の中に、少しの積極性を見出せたことが、雅は心をくすぐられたように嬉しい。
天気がいいから幸せだと言えるくらい、リラックスして生きる日があったっていいはずなのに、朔也は自分にそれを許さない。だから、彼が本当は好きじゃない晴天を、雅は大袈裟に喜ぶ。
私が大好きな今日という日を、朔也は表立って否定はできない。
「あ、水族館」
思いついて大きな声を出すと、案の定彼は難色を示す。人混み、単純な場所、狙いすぎた演出。どれも、彼のお眼鏡にはかなわない。
「理由は?」
「さっき、冷蔵庫にアジの開きを見つけました」
買ってきただろう利玖は、今日は祖母のお見舞いに行っている。
「それは何枚ありましたか?」
「二枚です」
言うが早いか、彼は立ち上がろうとして、直ぐに足をさすった。
「どうしたの?」
「痺れた…」
「そうじゃなくて、何で急に立つの?」
「帰ろうかと」
「なんで?」
今夜は泊まると言っていたではないかと尋ねれば、朔也は歯切れ悪く、どうしてもだと言い放つ。
「みや、良いこと教えてあげる」
背後に唐突に現れた利玖は片手にフルーツを持っていた。
「あなたの目の前にいる成人男性は、お魚が苦手です。更に言うと、骨が多ければ多いほど好きじゃないです」
ベージュのパンツと紺のシャツというラフながら整った格好をすると、利玖は一層大人びて見える。均整の取れた身体付きや、必要なものを丁寧に備えていそうな佇まいが、安定感と安らぎを与えてくれる。
「年齢で好みにケチをつけるのは、ハラスメントになる時代が来るぞ」
「何、それ?」
朔也の冷たい声に、利玖は腰を下ろしながら笑う。
「平等が独り歩きしている時代だぜ。いつか、子ども扱いするな、大人だからって言うな、って着地点のないエイジハラスメントが横行するさ」
朔也の声はよく通る。男性にしては高くて、優しそうにも冷たそうにも傾く、不思議な声質だ。
その声でハラスメントなんて言われると、ちょっと心臓が痛くなる。小さな切り傷とか、深爪とかの、ちょっとした怪我の鈍痛に似ている。
「なるほどね。いい年して、とか言うと、即ハラスメント認定ってわけだ」
利玖はとりあえず理解を示し、雅に持っていたリンゴを見せて、食べるかと聞いてきた。
うなずくと、彼はにっこりとして、キッチンへと足早に去る。
「魚が嫌いなのは事実?」
朔也は無表情で髪に触る。アッシュグレーという髪色は射しこむ日差しに艶やかに輝いて、彼の小さな顔を明るく見せる。
耳の後ろを少し捻じって留めただけのアレンジも、彼のアンニュイな雰囲気に似合っていた。
「焼き魚っていつまで経っても旨いとは思えない」
「大人になると味覚変わるって聞くけど、二十歳はそういう意味じゃ大人じゃないよね」
安易に、私を置いて大人にならないでねという意味を込めて言うと、朔也はちょっとだけ笑った。
「もっと大人になっていると思ってたな、確かに」
朔也の考え方は大人びているが、子供並みに頑固で融通が利かない。
結果、相殺して年相応、とはならないから、不安定なシーソーを一人でどうにかバランスを取ろうとしているようなものだった。
「朔ちゃんはさ、何が出来たら大人になったと感じると思う?」
「子供に戻りたいって思うときだろ」
なるほどなと、納得しかけたが、
「でも、私だって、小さい子見ると、子供に戻りたいって思うよ?」
ここに来る前に、幼稚園児のお散歩隊を見かけて、心底羨ましくて仕方がなかった。自分にもその昔、道行く人々から無条件に愛されていた時期があっただなんて、信じたくはなかった。
無償で愛して欲しい訳じゃない。
でも、この世界、自分のためだけに生きるにはあまりにつらいと知った。
心がそれに気づいたころには、誰かの愛を受けるための芸が必要だと知った。
朔也は膝を立て、その膝頭に顎を載せる。
スキニーの黒と、色の白い肌と、くすんだクリアカラーの髪がそれぞれの色を引き立て合っていた。
「でも雅。大人になりたくない、とも思うだろう?」
大人になりたいと願う、ではなく、大人になりたくないと思う。
同じ目線を説明するだけなのに、彼の選択はいつも退嬰的だった。
「はい、どうぞ」
キッチンから戻ってきた利玖が、テーブルにリンゴの乗った白いお皿を置いた。
「朔も食べな」
「俺がフルーツダメなの、知ってるだろ」
「リンゴジュースなら飲むくせに」
「じゃぁ何、お前は食えるものならすべて、飲み物にされても口にするわけ?アジの開きのスムージー、飲むか?」
「揚げ足とらなくていいから」
いつもの、犬も食わない諍いが繰り広げられるのを、雅は笑って眺める。
朔也の、本当は生きていくのが重荷で仕方がないことを、雅は利玖よりも知っている自負がある。
朔也が意図して、利玖にはあまり言わないからだ。雅にだって、積極的に話してくれるわけじゃない。しかし、聞きたがれば話してくれる。
利玖は必要のないもの、心地の良くないもの、リスクを伴うものを可能な限り雅から遠ざける形で、子ども扱いをしてくれる。
朔也は、隠さないという大人扱いをしてくれる。
「ウサギだね」
カットしたリンゴの皮が、ウサギの耳を模る。子供だましの可愛らしさ。子ども扱いをされているうちは、甘え切ってしまえばいい。
「そ。可愛いでしょ?」
「私は、可愛いものは食べられない方だけど」
わざと小さな反論をすると、リンゴを断固拒否して顔をそむけた朔也が、軽やかに笑った。
「食べ物に二重の命を吹き込んだりするからだ」
そんな、悪役のような言葉を発し、彼は何故か楽しげだった。
ここに来たときの、薄暗くて仕方がないという顔を思い出す。憂鬱が直ぐ顔に出る人だから、どうしても笑顔にしたくなる。嘘でも笑えば、綺麗な人だから。
「あ、時間」
雅は食べかけの残りを口に放り込み、もう一切れを手に取って立ち上がった。
「利玖ちゃん、ご馳走様。朔ちゃん、デートの約束、忘れないでね」
慌ただしく出て行く雅を、利玖は玄関まで送ってくれた。
「デートするんだ」
「嫉妬する?」
ローファーを履きながら返す。
「どっちにすればいいのやら」
そう言って肩をすくめた利玖に手を振り、玄関を出る。
一歩踏み出すだけで一気に全身を包む太陽に少し目を細め、急いで駅に向かう。
下った坂を上るのは少し疲れる。記憶違いの重たさを足に感じて、視線を上げたいだけなのに自然と顎まで上がってしまうから、息苦しさにも気づいてしまう。
坂を上り切ったところの公園は、朔也と出会った場所だ。足を止めることなく、横目に眺めると、親子が砂場にしゃがみ込んで何やら楽しそうにしている。無邪気な笑顔と見守る慈愛の笑顔に、自然と優しい気持ちになった。
必要な区別を軽視しないで。
同じに押し並べないで。
優れていると自負しているのなら、手を貸して。
何が返せるかは、まだわからないけれど。
同じ場所に立ってくれなくても、振り向いて差し出してくれる手を、私はまだ信じていたい。
そして、私の手がいつか、あなたの助けになればいい。




