決まり文句
「仕事と私どっちが大事って聞く女は地雷っていう固定観念は、どうかと思う」
二日酔いの頭には、甲高い女性の声は正直響きすぎる。
二人組の女性客自体は普段から多く、今日も二、三組入っている。年齢も二十代か三十代としか判断できない。場所がそうさせるのだろうか、既にそれなりにアルコールは回っているようで、半分は仕事への愚痴で、残りは恋愛のことを繰り返していた。
彼女の上司の性格が破綻していることは心底どうでもよかったが、しかし、それなりの声量で語られた理論にはちょっと耳をそばだてたくなった。
彰葉はさり気なく彼女の前に移動し、空いていたグラスを下げる。
赤ワインがグラスの底に少し残っている。昨日紅花の家でもらったものよりはるかに軽いワインだが、彰葉はこっちの方が好きだなとぼんやりと考えた。
如何せん、昨日のは全く身体に馴染まなかったおかげで、今日はちょっとした二日酔いだ。おまけに憂鬱が薄い膜みたいに身体中を覆っていて、視界に入るすべてが煩わしく感じてしまう。
「二択にするから地雷感出るんだよね。そうじゃなくて、知りたいのはパーセンテージの問題なのよね」
もう一人の女性が言うと、そうそう、とお互いで頷き合っていた。
友人関係において価値観の一致は重要だと思う。恋愛のそれは時に別のものを求め支え合うことを必要とするけれど、友人関係では如何に居心地よく互いを認識するかが重要視される。
「秋月さんはどうですか?」
「え?」
盗み聞ぎしたいと考えてはいたが、話を振られるとは予期していなかった。
「秋月さんは彼女に聞かれたことあります?仕事か私かって」
興味津々な二人の目線に、まさか昨日そのセリフを口にしかけましたとは言いだせず、苦笑いを浮かべる。
「忘れちゃった」
誤魔化すように舌先をのぞかせると、可愛いと一人が呟いた。
知ってると、内心で返す。
「秋月さんの彼女って、でも大変そう」
「確かに」
悪い意味はなく、むしろ自分を持ち上げて言葉を選んでいるとわかるから、彰葉はそれ以上のことは言えずに、募集中ですと愛想笑い。
「え、今、フリー?」
「こういう仕事しているとね」
二人は妙に納得したような顔でうなずいた。
「バーテンダーって、付き合っちゃいけない3Bの一つだよね」
「なに、それ?」
血液型のことだろうかと頭の隅で考えながら尋ねると、彼女たちは顔を見合わせ、話し始めた。
「付き合うと苦労する男性職業の頭文字がBの三つを、3Bっていうんです。そのうちの一つが、バーテンダーなんですよ」
女性の慧眼には恐れ入る。いや、経験値か?
いずれにせよ、バーテンダーという肩書のもと、ここで口にするおべっかのすべてを本気にされても困るし、素面で求められたらもっと困る。都市伝説として警戒してくれるのならば、此方としても有難かった。
実際問題、こんなに合法的に女性と積極的に話せる職業はないだろう。
本気の女側からすれば気が気じゃないのは十分に理解ができた。
これだから。女の子の会話に交ざるのは面白いと思いながら、彰葉は説明してくれたセミロングの彼女を見る。
「他の三つは?」
「バンドマンと、美容師」
聞かなきゃよかったと思った頃には、もう遅い。
「バンドマンはわかるけどさぁ、美容師も?」
彰葉は注文されたウーロン茶を準備しながら、食い下がってしまう。
大きな氷がガラスを鳴らす。
「口がうまいイメージのせいかなぁ?」
そう言った女性はお酒が飲めないらしく、さっきからソフトドリンクばかりを口にしている。今はペリエをちびちびと舐めていて、グラスを持ち上げる度に泳ぐライムは優美だった。
「多分、それだよね。それに、仕事とはいえ他の女の髪に触っているとか思うと、嫌な人は嫌なんじゃない?」
「それが勘違いされて、客に言い寄られるとか聞くよね」
やっぱり、話を振るべきではなかったのかもしれない。
一言断りを入れて、ウーロン茶を窓際の席の客に届ける。
通りがかりに見えた横浜の街は美しい。見慣れた景色のはずなのに、いつみても新しさに出会えた気持ちになる。
昨晩紅花のマンションから見下ろした横浜の街と今日とでは、何が違うのだろう。平和な日常。退屈な毎日。鬱屈しては辛うじて軌道修正を繰り返してなんとか歩いている日々は、振り返ったときにそれなりの一本道になっているのだろうか。
明日は雨だと聞いていたが、言われてみると遠くの空には雲が多い。
せっかく休みなのに。土曜日なのに。
カウンターに戻ると、先ほどの客に手招きをされた。
「ね、少しおなかすいてきちゃったんだけど」
「ナッツとかどうですか?」
「もう少しがっつり欲しいかも」
直ぐに昨日の記憶が呼び起こされ、ローストビーフを提供した。
「ソースはどれにされますか?」
「おすすめは?」
尋ねられ、彰葉は目線を落とした。
定番のソースを出すのか簡単だったし、無難にそうするのが妥当なのだろう。
このメニュー表に乗っていない、彰葉の半分悪ふざけで作ったソースを何故か大絶賛した蓮のことを思いだし、彰葉は痛みに気付いてしまうのだった。
彼の味覚なんて信用していない。
胃に入れば何でもいいとか、極論そんなところで生きている男だ。世界三大珍味なんて口にしようものなら、眉をひそめて何がいいのかと真剣な顔で尋ねてくるのだろう。
流されてくれればいいのに、と思う。世間が言うそれっぽさに、愚かに従ってしまうような、芯のないクラゲみたいな男であってくれればいいのに。
誰に何を搾取されても誰の策略にはまっていても、それ以上を知ろうとしない盲目な愚民になってしまえ。
結局、一番おすすめだと言った定番ソースを頼まれたので、大人しくそれだけを出した。
洗い物でもしようかと考えていると、マスターが近寄ってきて、少し休憩していいよと耳打ちしてきた。
店内をざっと見渡し、裏に下がる。
裏の冷蔵庫に入っていたペリエの缶を一気に煽り、冷たさと強炭酸に顔をしかめる。
苦労して飲み込んでから、何しているんだろうと自分に呆れてしまう。
最近、蓮と会う度に、彼のことを疑う自分がいる。そして同時に、彼への気持ちを自分自身で猜疑する。
自分は彼にどうしてもらえれば満足するのだろうとぼんやりと考えながら、きっとどうされても文句をつけてしまう気がした。
結局のところ自分は、おなかが空いたと騒ぎながら、何を食べたいかを聞かれても答えられないガキってことだ。
強い虚無感に苦しみながら、始めから何もない空っぽの人間だと気付かされるだけ。誰かに埋めて欲しいなんて他力本願、許されるのは女性だけ。
昨晩紅花と交わした会話を断片的に思い出して再度考えながら、いっそ眺めるだけの恋に溺れたい。
もしも彼がそれらしい家族を作ろうと、そうした未来に向けて動き出したとしたら、俺も一緒に歩きだせるかもしれないと思う。
別の道を、交わる一瞬以外は、彼を忘れて。
わかっている。僅か二十数年の人生の中で一番優しくしてくれた人に、俺は異常なまでに執着をしているだけなんだ。
一番大事にしたい人の中に、もう手のとどかない人がいる。恋でも愛でもないかたちでずっと心に飾られる、美の象徴のように。
もう思い出の中の人だけど、上塗りされた記憶は日々トップコートで飾られて輝いていくから、いつまで経っても美術品のように価値が落ちない。
傍にいる俺は、彼を困らせることでしか愛情を感じられない。
俺の機嫌を取ろうとしてくれる不器用な態度にしか、彼の気持ちを手に入れた気分になれない。
嫉妬してくれなくても束縛してくれなくても、離れられないことがこんなにも辛いなんて、想像してなかった。
扉の向こうで賑やかな笑い声が聞こえて、彰葉は髪を混ぜ、壁にもたれる。決して広くない控室。氷でも食べようかと冷凍庫を覗くと、いくつかのアイスクリームが入っていた。
高級なそれじゃなくチョコレートやソースなどが多く使われた創作系で、彰葉のおやつだった。
アイスに賞味期限がないと教えてくれたのは、利玖だった。
彼は駄菓子屋を営んでいるだけあって、お菓子については詳しい。本人はほとんど口にはしないが、知識は豊富だった。その分、おそらく食べているのは朔也だろう。
食べ物の期限がない、と言われれば一見優秀なようで、そうすると気にしなくなる。とりあえずでストックしたこれらも、いつ買ったのかも思い出せない。
仕事より優先して欲しいだなんて思わない。
そんな我儘で困らせなければ自立もできないほど子供ではない。
でも、それならそうと、一時の甘やかな言葉で期待を持たせたりせずに、優先はできないときちんと言ってほしいだけ。優しさの意味をはき違えないで欲しいだけ。
他のすべてが手に付かないくらい恋してみたいし、相手のために死ねるくらいの愛をこの手に抱いてみたい。
なにより、この状況にいっそ完璧に流される愚かさを、彰葉自身持っていたいし、同じ愚かさが蓮にあればいいと願ってしまうのだった。




