炭酸水
紅花の住むマンションを下から見上げる度に、この人とどうして交わる世界に生きているのだろうと、ぼんやりと考えてしまうことがある。
コンシェルジュ付きのタワーマンション。彰葉の働くバーの入っている建物は半分がホテルで半分がオフィスになっているのだが、同等の敷居の高さを感じてしまう。
家の中も綺麗だ。彼女の趣味はどちらかと言えば華美でブランド感が強い印象だったが、家の中はそれこそホテルのように生活感がない。白を基調にして無駄なものが一切なく、装飾らしい装飾もない。花を飾ったりキャンドルを置いたりしないのか、と一度尋ねたことがある。
「そういう女性的なことをする気にならないのよね」
と、女性的な仕草で笑う横顔に、首を傾げるしかなかった。
だって、その白いタンスの中に、キャンドルやらアロマオイルやらがわんさかしまわれていることを、彰葉は知っていた。
「いつみてもおいしそう」
料理が一切できない紅花の為に、シフトは休みだというのにわざわざ職場に寄って、料理を作ってきた。
「それ、ほとんどが試作品なんだ。試食会も兼ねて、感想を聞かせて欲しいって、マスターからの伝言だよ」
料理の腕はともかく、紅花の舌にはマスターも一目置いている。
見た目が女王様っぽいだけじゃなくて、一応それなりのお嬢さんだろうと、彼女からは言わないが彰葉もマスターも薄々感じてはいた。勿論、蓮も。
「あと、先輩は遅れます。俺がわざわざ一緒に行こうと思って暇をつぶしていたのに、悪い遅れる先に行けのメールを寄越しました」
敢えて丁寧な報告をすると、彼女は冷蔵庫を覗いていた顔をあげて、此方に一瞬目配せをした。
「なんとも雪宮らしいわね」
「らしい、なんて言い方で悪癖を認めないで」
久しぶりに家に来ないか、という紅花の誘いに直ぐに乗ったのは彰葉だった。
貰いもののワインがあるというので利玖や朔也も呼ぶか悩んだが、未成年の雅を呼びにくいのは難点だった。一人だけ呼ばないという行為は理由があれ、気分は良くない。
今回は三人でやろうと決めたのは蓮で、しかし案の定、彼は遅刻をする。
「彼の、こういうときに必ず遅刻する癖は、初期設定ね」
「本当に間が悪いよね」
彼は基本的に真面目なしっかり者なので、自己都合で遅刻をするようなことはしない。ただし、この手の集まりとなると、持ち合わせた不憫な体質を大いに発揮するので、トラブルに巻き込まれたり仕事が押したり、とにかく大幅な遅刻をしでかすのだった。
「白馬の王子様には成れないタイプよね」
紅花はそういって、ペリエを寄越してきた。丸っこいグラスに当たっては弾ける炭酸の粒を眺めながら、彰葉はすっかり面白くない。
「白馬の王子様っていうけどさ、白馬って馬でしょ?なら、白馬の王子様はたぶん、王子様なだけの馬だと思う」
ずっと思っていた。
白馬に乗った王子様ならともかく。
「それ、絶対に雅ちゃんには言わないでね」
虚を突かれた顔ながら、紅花は釘をさすことは忘れなかった。
言うわけないじゃん、とは言わない。
おそらく紅花は小さな勘違いをしている。
別に、迎えに来てくれる王子様が嫌なわけじゃない。受け身の恋愛が悪いだなんて思わない。
優雅に白馬に乗って偶々見つけ出すんじゃなくて、モノにしようと死に物狂いで求められたいだけ。運命も奇跡もいらないから、死ぬ気で奪い取ってくれないと、緩やかな関係は信用ならないだけだった。
「ねぇ、秋月。一つ聞いても?」
彼女は躊躇いがちに、昔の悪戯を告白するような口調だった。
「あなたはさ、結局のところ、雪宮に女が出来て欲しいの?出来て欲しくないの?」
なんだそんなこと。
頭の中で何度もシミュレーションした。
「中途半端なのはいらないって感じ」
だから答えは、もう出ている。
「中途半端?」
彼女はできれば聞きたくないという顔で繰り返した。
「そう。それなりに可愛いとか、そこそこ良い子とか、及第点な女の子」
怪訝そうに眉をひそめる紅花は、綺麗だ。西施の顰に倣うじゃないけど、つい真似したくなる。
あなたになれたら。そう思うことがないわけじゃない。
「いっそのこと、百年の恋も冷めるような、度肝を抜くような女なら、別にどうぞって感じ」
憧憬も、友愛も、愛情も、尊敬も、すべてを吹き飛ばすようなそんな終わりなら、いっそさっさと、この膠着状態に終止符を打ってくれればいい。
「それって、具体的にどんな子よ?」
呆れた表情で紅花が言うので、彰葉は肩をすくめた。
「知らないよ。俺、百年もかけて恋したことないもん」
閉店間際のデパートの地下で、蓮はひたすらに困っていた。
彼の期待を裏切ったため彰葉の機嫌が悪い事は明確だったし、それを察しているだろう紅花のためにも、何かしらの貢物が必要であることはわかっていた。
しかし、あの二人の毒舌はなかなかのもので、何を買っていってもケチが付くだろうと思うと、財布を片手に地下街を行ったり来たりを繰り返すだけだった。
紅花の家でやる食事会は、飲み会というには豪華で、パーティーというには毒々しいもので、場に合う手土産がいつも分からない。
女性への贈り物って割と簡単だって聞いたことあるんだけどなと、一人頭を抱える。女性の方が洗練され過ぎているというのは、確かに考え物だ、と思う。相手のフィールドに入った贈り物で気に入ってもらうのは至難の業になり、思いつく限りのものを網羅されてしまうとお手上げだった。
大抵は逃げの一手で酒類を差し出すようにしているのだが、今日は抑々がワインがあるという話から始まったのに、そこにアルコールを差し入れるものどうかと考えると、完全に八方塞がりだった。
おまけに、そろそろ閉店という時間帯だと、ケーキ類もいまいちしっくりくるものが残っていない。
もう煙草でもいいかなどと考えていると、程よく紅花からの連絡が入った。壁際に移動して、電話に出る。
「雪宮。もし外だったら、ペリエ買ってきてくれない?」
いつもの低音の声が、今日ばかりは優しく響いた。
「炭酸水でも?」
構わないという彼女の声が一瞬途切れた後、それより早く来てと小声で伝えられた。
「あなたじゃなくちゃ意味がないんだから」
諦めたように、呆れたような言葉と共に通話が切れ、俺は通話画面のままの携帯電を見つめ、何を言っていたのだろうと少し考えた。
意味が分かるのに、そう時間はかからなかった。
彼女の家の最寄り駅のコンビニに寄り、買い占めるのはどうかと考えて五本ほど炭酸水のペットボトルと、序にアイスクリームをいくつか買い物かごに入れた。
アイスクリームには賞味期限がないと聞いたことがあったからだ。
紅花の家の玄関は広い。靴入れはちょっとしたクローゼットになっていて、大理石の床に履きつぶしたスニーカーが居心地悪そうにしていた。
リビングでは、既に顔を少し赤くした彰葉が、随分と陽気にテレビを見ていた。
普段テレビには一切興味を示さず、それもバラエティならともかくニュースなんて、政治も経済も一切知らない方が幸せだって言いきるくせに、食い入るように見るのは、どんな当てつけだろう。
「彰葉」
名前を呼ぶと、彼はこちらを一瞥だけして、直ぐにテレビに視線を戻した。
「悪かったって」
待ち合わせしようよと無邪気に誘ってきた彼に、ぎりぎりになって断りの連絡を入れたのは悪かったと思っている。
初めからなんとなくそうなる予感はしていたのに、期待をさせた。
「そういう事じゃない」
彰葉は何とも含みを持たせた物言いをする。まどろっこしくて敵わないと、渡したアイスクリームを冷蔵庫に仕舞っている紅花に助けを求めるも、彼女は肩をすくめるだけだった。
仕方なくワインを飲みながら一緒になってテレビを見ていると、痴情のもつれで起こった残酷な事件を扱うニュースが流れてきて、広々としたリビングに気まずい空気が漂う。
愛情が憎しみに代わる愛憎劇は程度問題で、大抵の人間に眠る本性かもしれない。
彰葉は酒に弱くはないものの色が白いので、アルコールが入るとわかりやすい。普段バーにいるときは間接照明のお陰で隠されているが、ほんのりと染まった表情は未成年のようで、背徳的な気分にさせられる。
彰葉の隣に紅花が腰を下ろし、その頬を撫でる。
「秋月。可愛い顔が台無しよ」
可愛い顔をしているからと笑顔以外はするなというのは酷な話だが、可愛らしい顔をしている故に身勝手な要望を突き付けられるとこちらが辟易としてしまうのは事実だった。
彰葉は悩まし気にじっと紅花を見つめていたが、やがて眼を閉じて紅花の手に擦り寄る。
時折、なぜこの二人の関係が絶対的な友達で終わっているかが気になって仕方がない。
とはいえ内心安堵して、蓮はフォークを手に取った。
山ほどあるローストビーフの隣に、大袈裟な種類のソースが広げてあった。
「どのソースが一番いいか、決めて欲しいんだって」
紅花が横から耳打ちをしてきた。
彰葉の試作品だと直ぐに理解して、一つ一つ律儀に味見をした。
意外にも仕事熱心なところのある彰葉は、己の不機嫌とは別に、蓮の様子をちらちらと確認してくる。
マスターの恩に報いようとする健気さを、蓮は何故自分に向けて貰えないのかさっぱり理解ができない。
高校時代から俺に、先輩先輩と懐いてきたくせに、俺の懐に入り込むだけ入り込んで姿をくらましたくせに、数年後に出会った時には面影とは別の顔を晒したくせに、一向に俺に心は開かない。
「秋月。ちょっと、夜風に当たってきたら?」
顔を紅潮させてソファに身を沈めた彰葉の姿に、蓮と紅花は顔を見合わせる。
止めたけれど、今日の彼は止まらなかった。すごい量のアルコールを胃に流し込み、まるで味わう気配もない。
蓮の買って来た炭酸水をペットボトルのまま飲んでいる横顔は、流石に微かな後悔が浮かんでいる。彼はアルコールで記憶は飛ばないが、直ぐに体調を崩す。おおよそ、冷たくておなかに来たのだろう。
「彰葉。白湯にするか?」
尋ねると、頷くのも嫌そうに眉間にしわを寄せた。
「な、そうしろ」
蓮はテーブルの向こう側の彰葉の手から、炭酸水を取り上げる。六月ももうすぐ終わるという時期の手のひらにも、冷たさを感じる。薄っすら覆っていた水滴が手首を伝って、着ていた紺のカーディガンの中を濡らした。
紅花は無言でキッチンに向かい、ケトルを作動させる。蓮は彰葉の脇の下に手を滑り込ませ、彼を立たせる。
「ほら」
歩く足取りはそれなりにしっかりしていた。本当に悪酔いをしただけのようだ。
リビングの大きな窓からベランダに出させると彼は、手すりに寄り掛かって声にならない声で呻いた。
「俺って育ち悪いからかな、高い酒飲むと何となく悪酔いするんだよね」
紅花の前では言わなかった理由はそれかと納得し、その気遣いをぎりぎりの理性で判断するところは卑下することじゃないと内心思った。
六月の夜は意外と寒い。昼の暖かさと湿気っぽい感覚に慣れ過ぎているせいか、風が吹くとまだ夏は少し先だと理解する。
隣に並んで彼のするように手すりに手をかけると、想像を絶する冷たさで、思わず手を引っ込めてしまった。
それを目ざとく見つけ、彰葉が生意気に笑った。
「いや、つめてーだろ」
彼は手すりを掴んでいた手のひらを、背伸びをして蓮の首筋にあててきた。彰葉の体温を通したせいか、先ほどよりも柔らかな冷たさだった。
「やめろ」
手首を持って引きはがす。手首はアルコールのせいか熱を持っていて、その細さもあって強く力は込められなかった。
「俺を騙した罰です」
「人聞き悪いな。悪かったって」
「嘘。仕事より俺を優先する気なんて一切ないんだから、それをきちんと言うべきだよ」
「は?」
意味が分からずに問いかけたつもりが、彼は潤んだ瞳を細めて笑い、それについてはもう語ることはなかった。
仕方なく、彼の瞳が望む横浜の夜景を同じように見つめる。
観光地として飾りこまれたみなとみらい辺りを見下ろすと、今日は天気が良かったせいか雲が少なかったので、澄んだ空にまで光を放っているようだった。
「近くで見たらただの電球なのに、こう見ると圧倒的だな」
彰葉はそうだねと笑った。いつもの彰葉だった。
「朔也君が教えてくれたんだけどさ、写真は白黒だったり少し画素数が荒い方が、人間は綺麗に映るんだって」
「なんか、聞いたことあるな」
「うん。昔の文豪が皆イケメンに見えるのはそのせいらしいよ」
教科書を飾る白黒の色男たちを頭に思い浮かべる。
「恋愛って、多分そういう事だよね」
「は?」
身長差のある小柄な彼を見下ろすと、目線だけを上げて蠱惑的に笑った。
「遠目で見ている方が、ずっと美しさを持っていられる」
これは俺への当て擦りなのか、彼なりの決着のつけ方なのか。彼の本心はよくわからない。
それは隠されているからでもわかりにくいからでもなく、常に彼が感情をブレさせながら生きているせいだった。
彰葉は明るい日陰みたいなやつだ。
明るさを認めながらも、彼自身がいるのは日陰でしかない。
リビングの方をそっと盗み見ると、キッチンで炭酸水を冷蔵庫に仕舞っている紅花と、目が合った。




