正義の味方
子供たちの怒涛の会話の中から創立記念日という言葉を聞いた時、利玖の中を駆け巡った感情は懐かしさと少しの後悔だった。
そんなものがあったと、随分と古い記憶を呼び起こされた気分だった。それぞれの学校に与えられた、随分と公平な休みだ。
思い返せば、朔也も雅も、後ろめたさを持たずに休みを謳歌していた日があった。国民の祝日やカレンダーに即した休日とは違う、特別に休めたような気持ちになる日。
世界が少しだけ穏やかに回る一日を、利玖自身がどのように過ごしていたかは思い出せない。目の前でゲームを持ち込んで大騒ぎする彼らのように、笑って過ごしただろうか。
いつもは一人で広いと感じるリビングに、子供たち数人が足を放り投げているせいか、学生時代教室に感じた窮屈さを思い出す。
小学生時代の思い出なんて、本当に断片的なものしか残っておらず、自分がどういう性格だったのかという記憶さえも虚構で塗り固められている気がする。
こうありたいと思う自分を持ったのは思春期を過ぎたあたりからで、そう思うには一度くらいは傷つかないといけないものらしかった。
十にも満たない時期など子供らしくいろんなものに傷ついてたくさんのかすり傷を負いながらも、他人の脚もからめとった気がする。
当然、そうとは気づきすらせずに。
「利っくん」
家の奥からそっと顔を覗かせた彰葉が、目が合うと足音を忍ばせながら近寄ってきた。
騒がしさに、なぜこうも静かな足音を感じてしまうのだろう。意識というものはいつだってセンシティブで感傷的だ。
「俺さ、昔からお兄ちゃんに憧れていたんだ」
レジの社長いすに腰掛けていた利玖の傍にしゃがみ込み、わざとらしい上目づかいでこちらを見上げる。
透明度の高い瞳に、自分が映ることが何故か妙な気分にさせてくる。
自分より年上だとは信じられない、子供っぽさを魅力に昇華して、この人は他人の庇護を欲しいままにする。
「それはお兄ちゃんという存在を持つことに?それとも、お兄ちゃんという存在であることに?」
利玖の問いに、
「どっちにも」
迷いなく答えた。
大きな目を細め、曲げた膝を少し伸ばし、身体を寄せた彰葉を、どうしたって弟のように思うのはなにも利玖だけではないだろう。
「何か困ったことでも?」
利玖は彰葉の手に握られた、折れ曲がって落書きだらけのテキストと、反対に細身で高級感のある多機能ボールペンを横目に尋ねる。
察しのいい利玖に苦笑を浮かべながら、
「算数が分かりません」
レジのデスクに突っ伏し、彰葉はため息をこぼす。
「さすがにちょっと悲しいわ。俺、小学生以下じゃん」
利玖は言葉を選びあぐね、代わりに艶やかな黒髪を少し撫ぜる。自分が既に失った光沢すらある艶髪は一本一本が細くて指触りが滑らかだ。蓮が染めさせたがらないのが分かる。肌色的にも、彼はおそらく黒髪が一番似合う。
「見せて」
彰葉を起こし、問題を覗く。
「これ、貴人のやつ?」
利玖は尋ねながらテキストの裏面を見る。案の定、小林貴人とマッキーで殴り書きされていて、表紙には進学塾のマークが乗っていた。
「彰ちゃん、これ、中学受験用の問題集だよ。難しくて当然」
身体を乗り出してリビングを覗くと、人に問題集を解かせているとは思えない態度でゲーム画面に夢中になっている貴人がいた。
ここに集まる子供たちを、利玖は分け隔てなく可愛がっている自負がある。生意気だったり、会話が成り立たなかったり、扱いが厄介な子供も正直少なくないなかで、それでも差別だけはしたくない正義感は十分すぎるほどあるはずだ。とはいえ、気がかりになる子供が存在するのは確かで、自然と意識を向け、些細な変化も見逃さず、いい大人でありたいという身勝手な理想もあった。
小林貴人が気がかりなのは、彼の親の存在があまりに不透明なところにある。普通は、といういい方は正直好まないけれど、ここに来る子供たちの親の大半は一度くらいは挨拶に来てくれている。
大抵は駅周辺の子供たちなので、子供が集まっていない時間を狙って、子供の様子などをさりげなく尋ねてくる。
家でも、学校でも見せない、遊びの時の表情。
親の愛情、なんて簡単に言ってしまうのは二十歳そこそこの自分が出すぎた真似かとも思いながら、その思いにこたえようと利玖は慎重に言葉を選ぶ。
しかし、貴人の親は一度として会ったことがない。詮索はよくないと自制をしながらも、帰り際にさりげなく、帰ったら親はいるのかと尋ねた際は、わかんないと適当に返された。
貴人の口から親の存在が出てくることもなく、そのくせ彼はやたらと習い事を掛け持ちしている。どうやら教育には熱心らしく、まだ三年生だというのに大手進学塾に通い、とんでもない量の宿題をうちに持ち込んでは朔也に解いてくれとねだる。朔也はその時々の気分により手伝ってやったり面倒そうに突き放したりするが、ある時は面倒に思ったのか、親に手伝ってもらえとあしらった。
そのとき、
「無理だもん」
と、特別感情のない顔で答え、そのまま利玖の方へと身体の向きを変えた。
親の影があまりに薄いというのは、この年齢だと少し不安になる。勝手な庇護欲。欲したが叶わなかったぬくもりの押し付け。救われたいと願っているのは、本当に遠い記憶だろうか。
利玖はぼんやりと、目の前の問題を眺める。特殊な計算式をつかう問題文。これを解けるのは、利玖が知りうる限りでは朔也だけなのだ。
利玖の健康的な歯並びを見る度、何故か妙に背徳的な気持ちになる。歯並びに育ちが出るだなんて迷信を信じてはいなかった朔也だが、利玖を見ているとあながち間違いではないのかもしれないと思う。最も、自分の歯は幼少期から守られてきたもので、もちろん自分は大事に育てられてきた。今だってきっと、自分は平均以上に与えられて生きているのだ。
利玖の白い歯が、大きな醤油せんべいを齧る。手でも割れないような、硬くて味付けの濃いせんべいだ。誰かからのお土産と言っていた。
「貴人は多分、勉強面はかなりできる方だな」
利玖から午前の話を聞き、朔也は自分の膝に頭を預けながら答えた。
「とてもそうには見えないけどね」
利玖は声をひそめ、そうこぼす。悪意がない分、なんだか救いがないように聞こえる。
「コミュニケーション能力低いもんな」
自分の言葉は刺々しい。朔也は自覚があったが、利玖のように滲み出るような柔らかい口調など真似する気にもならない。
愛想笑いで誤魔化した利玖を傾いた目で見つめ、視界が揺らいだタイミングでそっと瞼を下ろす。小テストがあると言われたので今日は二限の必修に出席した。そのために早寝をするような性格ではないので、ただただ寝不足だった。
「あれはすぐに追い越されるタイプの賢さ。続かない」
朔也は眠さに意識を預け、その分気遣いのない言葉を選んでしまう。目の前にいるのが利玖でなければ、もう少し気張るだろうか。ふと、そんなことを思う。
「うん、ちょっとわかる。忍耐力みたいなもの、ないもんね。褒められることにも無頓着だし、逆に言えば人に気遣う能力も欠落気味」
利玖はため息にも似た息を吐き、湯呑を持ち上げて緑茶をすする。せんべいに緑茶に金髪。邪道だが、なんとも利玖らしい。アンバランスに好きな物を選び取る利玖のセンスを、朔也は妙に好んでいた。自分にはない感性に共感することなど、利玖に出会うまではなかったことだった。
「心配なんて何も生み出さないけど、少しでいいから働きかけていたいな」
帰り際、大学の正門前で募金箱を持ったサークル団体がいた。発展途上国の子供たちに教育の機会を、そんなうたい文句だった。先週はおそらく震災復興を掲げ、来週は自然保護でも掲げるのだろう。勝手にしろと思いながら横目に通り過ぎた自分が正義的でないなど思いもしない。
でも、利玖を見ていると、時々絶望的な気持ちになる。
間違ったことをしないだけで肯定されていたいというのはおそらく、過ぎた願いなのだろう。
「そうかと思えばさ、侑人なんかは、妹にお土産買っていくんだもん。なんか、言葉探しちゃう」
やはり健全な溜息をもらす利玖の、その健全さを羨ましいような億劫なような気分で眺め、朔也は欠伸を左に流す。
侑人の家は母子家庭で、三歳下にまだ幼稚園に通う妹がいる。何度か、一緒に遊んでいるところに遭遇しているが、笑ってしまうくらい顔が似ていて、偶々駅前で見かけた母親もそっくりだった。遺伝子は強いなと、朔也は内心面白いような泣きたいような気分になったのを覚えている。
利玖が言うように、あの家族は恐ろしく仲が良く、エゴが強くて当然な年頃の子供たちが母親を支えている姿を見ると、うっかり被弾しそうになる。朔也自身に、あんな思いやりと真面目さは備わっていないと、年端もいかない子供相手に劣等感はないだろうと冷静になると同時に、年を重ねれば薫陶されるなんて年を食った大人の戯言だと気付かされる。むしろ、比較や勝ち気を知らない子供の方がよっぽど、美しい原石だ。
「幸せが何かわからないなんて、先進国の弊害だよね」
先進国、というより、選択肢の多さ、だろうと朔也は考えながら、先進国だから選択肢が多いのかと一人納得をした。
「俺は子供は好きだけどさ、時々頭抱えたくなっちゃうんだよね」
「共感性羞恥。お前がガキどもの性質と本質を見抜いているが故だ」
不思議そうに首を傾げた利玖に、正気かと内心戸惑いを覚える。
人がいいという言葉は嫌いだ。何処か、言い手に都合のよさを感じてしまって、付け込まれる隙を見せびらかすように歩く利玖のような所謂人の良さは、一種の毒薬だとすら思う。凶器になる包丁が悪いのではなくて、包丁を凶器にする方が悪いのだけれど、それでも凶器にされた包丁に彼がなり下がる姿だけは見たくない。
「よく知りもしない相手には、共感性羞恥なんてたいして感じないんだよ。共感のしようがないからな。事象に対する気恥ずかしさは勿論別だけど、大抵は相手を深く理解しているが為に共感してしまい、息苦しさを覚える。そうだろ」
朔也は片膝を抱え、そこに顎を載せる。それが自分にとって拠り所のなさを感じた時にやってしまう癖だと、知っていた。まるで心臓を隠すように左膝を抱き込んでうずくまると、それだけで被害者を演じられる気持ちがした。
思いはたくさんあるはずなのに、考えていること、感じていること、数多くあるはずなのに。
数え切れない言葉を前に、感情は無力だ。難しい言葉も優しい言葉も鋭利な言葉も、人より多く持っている自負はある。それでも、全身に伝わる鼓動を前に、彼に伝えたい言葉が探しあてられない。
「確かに、共感できる人って、知っている人だもんね」
おそらくいまいち納得していない笑顔で受け流し、利玖は一瞬だけ目線を時計に向けて、いい時間だと立ち上がる。
もどかしさを超えてしまえば残るのは罪悪感だけで、彼の簡潔な言葉に幾度となく救われてきたのに、返せるものがこの手にはない。
素直じゃない性格と、こねくり回す不器用な対応力が、利玖を自分から遠ざける。
共感されて、同情されて、手を差し伸べられて、その手を取った時から、自分を取り巻く環境は間違いなく変わった。
置かれた環境の差異が過ごす時間の中で浮き彫りになる度に、利玖は柔軟な対応力で朔也に合わせてくるせいで、利玖という人間の本質にはいつまで経ってもたどり着けない。近づけば近づくだけ、利玖が朔也に染まるだけで、利玖の輪郭が全く分からないままだった。彼の家庭環境も、彼の生活環境も、彼の内面も、薄皮を通すようにぼやけていて、更に彼は言葉数のわりに自らのことは語らない。
語られないから探りはしないし、抑々知ろうという気持ちもあまり、朔也は持っていない。
利玖は朔也を理解しようとするけれど、朔也は利玖を理解することは放棄したい。出来ないと察しているから、始めから手に取りたくはない。
知ってしまった知らないふりと、知らずにいる知らないふりだったら、後者であった方が適切な距離を保てるはずだと信じている朔也は、無宗教者だった。




