心配無用
朝、目が覚めたら死んでいたらいいなと、薄っすら希望を抱いて眠りについてしまうから、毎朝が微かな絶望感から始まる。
起き抜けの気怠い感覚と淡い希死念慮の色は似ている。不幸ではないけれど幸せになれそうな気配を感じ取れずに、ならばと繰り返す憂鬱が、身体中を平等に包み込む。
投げ出したくなる決定的な痛みは掴み切れないまま、夜になると、安全な場所から痛覚に訴えない死を望んでしまう。終わりにしなければいけない理由もないけれど、終わってしまうことへの後悔や心残りを見つけられない。
そんな日々を、もう何年繰り返しているのだろう。
あと何日、何年、そんなことを考えながら生きるのだろう。
そして動き出した今日という日を、それなりにこなせば、またすぐに夜が来る。
人通りの少ない夜道を歩きながら時計を見ると、既に八時をまわっていた。
大学の帰りに利玖のところに寄ったところ夕食を食っていけと熱心に誘われて、断る面倒が食事をする面倒を凌駕した。
打算的に彼のところで炊き込みご飯に天ぷらに茶碗蒸しという健康的な食事をしてから、久しぶりにまともな食事をしたと考える。なぜ衣をつけて揚げるだけで、あれだけ嫌いな野菜が簡単に食べられるようになるのだろう。
独り暮らしを始めて三年目になるが、食事の優先順位はいつまで経っても低いままで、促さなければ食事などせずに時間を過ごしてしまうこともざらにある。
抑々、この不健全な精神を、健全に見繕った肉体に押しとどめようとするから、整合性が取れないのだ。
身体は丈夫な方ではない。しょっちゅう腹痛になるし、偏頭痛持ちで気を抜くと風邪をひく。大抵、朔也の風邪が喉からだ。朝起きた時に喉ががさがさと引っ掛かり、声が掠れる。数時間後に嗅覚も麻痺しだす。
しかし、それらは精神的に追い詰められる要因にはなっても、身体が朽ちるきっかけにはならないことも、悩みの一つだった。
痛みにうなされるのなら、解放されるときには精神の方も解放されてしまえばいいのに。
街灯が道沿いに照らす歩道を、片耳から流れるバラードに合わせた歩調で歩く。
夜道を歩く時間は自分を自由にさせる。
夜目の利かない人間はその性質に抗うことなく、昼間は配る視線を、夜になれば嘘のようになくす。悪い方に人目を引きやすい朔也にとってその現金な性質は楽なもので、地上より遥かに広大な夜空を見つめながら、ブーツの音をかつかつと響かせる。
今夜はよく晴れているけれど、明日は大荒れになるらしいよ。
別れ際に利玖から言われた。そうでなくとも、朔也には感覚でわかっていた。
薄手の黒いロングカーデに包まれた右手が、かなり痛んでいる。
意図的に付けた傷跡に痛みを思い出してすら後悔の一つもしない自分を、朔也は特別異質には感じなかった。
この痛みだけは、精神的な解放感を教えてくれた。今も、おそらくこれからも。
信じられるのは、空とか月とか風とか暗闇とか、寒さとか。あとは、どんな人間にも悪意や憎悪の念は少なからずあるはずだってことくらい。
悪意の一つも感じさせない人間なんて、むしろ信用ならない。
住んでいるアパートの扉の前によく見知った姿を見つけ、朔也は一瞬にして表情が硬くなったのを自覚した。
朔也より順調に育った平均的な身体付きのシルエットと、裏切るように派手な髪色。
よく似ているといわれることも小さな負担になるくらい、顔立ちは凡そ似ている。
「やっぱり」
ゆっくりと此方を見て笑う穏やかな表情は、似ても似つかないけれど。
「相変わらずブーツ大好きだね。足音、結構響いていたよ」
彼は朔也の足元を指さしながら、諭すような口調で言った。
「いつからいんの?」
話を無視して切り込む。
「ほんの少し前だよ。あと五分しても帰ってこなかったら、荷物置いて帰ろうと思ってた」
もう少し利玖のところで時間をつぶせばよかったと一瞬だけ感じた正直すぎる自分の感想に、朔也は一方的に気まずくなる。
「なに?荷物って」
つい尖っていく自分の声音を自覚するも、沈殿していた警戒心を一気にかき混ぜて惑わせてくる弟の、それでいて余裕な笑顔が嫌味に感じてしまう。
「母さんからの荷物に入ってた。これ、好きでしょ」
朔也が一歩取っていた距離を彼がさり気ない歩幅で詰めてきたとき、自分が使っているのに近い香水の香りを感じた。微かにエキゾチックな甘さを孕んだ、女性もの。
渡された紙袋を覗き込むと、地元の個人経営のケーキ屋に売っている焼き菓子の詰め合わせが入っていた。
「これは朔兄の分だから。お礼の連絡、入れてあげてね」
じゃあねと軽やかに告げて朔也の横を通って帰ろうとしたので、慌てて腕を引くと、そうされると期待していたように振り返る。
その仕草の隙に、横目に見えたピアス。朔也は一瞬言葉に詰まった。
金髪も香水も、品行方正だった高校時代の弟を、記憶から遠ざけている。
「修、上がっていくか?」
ブーツのお陰で身長差はなくなったが、その分瞳が真っ直ぐにぶつかり合ってしまう。
修介はゆっくりと首を振った。
「いや、明日も一限からあるんだ。ありがとう。今度、あそびに来るね」
年上みたいな優しい笑顔。
三人兄弟の真ん中は一番素直に育つというけれど、うちのは優秀過ぎる。
「気を付けて帰れよ」
安堵したことは勿論悟られまいと丁寧に伝えると、やはり穏やかな笑顔でありがとうと返ってきた。
「朔兄も、早く寝るんだよ」
揶揄うように笑った彼は朔也の手から腕を抜くように、軽やかな身振りで去っていった。
人を見送るって、こういう気分になるんだ、と朔也はぼんやりと考える。
重さがほとんどない紙袋が風に揺られ、角がデニム越しに足に当たった。
望んだはずなのに、遠ざかる背中が小さくなって、やがて角を曲がって消えていくのを見ている自分の、身の置き所のなさが不安をあおる。何故か、引き留めなければ薄情な気分になる。
二年前、修介もこんな気分で、家を出る朔也を見送ったのだろうか。
言葉とは裏腹にすっかり持て余した息子をさっぱりと見送る両親と、最後までうまく折り合えなかった妹とは別に、本当に一人だけ名残惜しそうな顔で朔也を見つめた弟の、まだあどけなさの残っていた表情。高校二年生としては十分に大人びた顔立ちに聡明な雰囲気は同学年でも頭一つ抜けてはいたものの、思い返せば校則に従って髪を染めるでもなく変に気取った髪型をするでもなく、勿論正しく制服を着ていた彼には、学生特有の垢抜けなさがあった。
社交辞令で家に誘う兄も、社交辞令を残して帰った弟も、実の家族としては間違っている気がする。
朔也はすっかり気持ちが萎えてしまい、のろのろとした動作で家の鍵を取り出して何とか玄関に座り込んだ。
完全に奇襲をかけられた。
小賢しい口実を持って様子見をされたというのに、朔也の動揺は悟って深入りはしてこない。
やられたとは思うが、嫌な気分にはならない程度の線引きをしっかり弁える弟の器用さが、むしろ朔也の劣等感を煽っていることまでは、まさか修介も知らないだろう。
複雑な編み込みのあるブーツを脱ぎ、湯船にお湯を張る。
熱めのお湯で身体を解したい気分だった。
姿見の前で着ていた服をジャケットから順に脱いでいく。
グレーのニット、緩めのデニム、胸元のネックレス、そして、いつもつけている有名ブランドのロゴの入ったオニキスのピアス。
修介と、一つずつに分け合った。
似たような容姿の、なのに品行方正な弟と同じ制服を着ているのが苦痛で、弟がしなさそうなことを選んでやってきたつもりだった。
学ランを脱ぎ捨て一人上京をして、髪を染めてピアスを開けた。ファッションも好きでしているけれど、気障だなと自覚気味でもある。
なのになぜ、彼は俺に寄せてくるのだろう。
心配しつつも相性の悪かった長兄に厭われないために、唯一関係性を保てていた弟を通して安否を確認する母の存在も、その意図を汲み取って絶妙なラインで朔也に近寄る弟にも、うんざりする。
表面的に、対外的に自分を守る盾があったとしても、それが本当に心配してもらっている、守られているということだろうか。
朔也の内側に落とされたままの絶望感になど目を向けるでもなく、裕福な家庭から一方的に与えられる物質的な愛情を、どんな顔で受け取ればいいのだろう。
死生観と希死念慮ばかりが意識の片隅にあった高校時代、自分という存在にそこまでの信頼がなかった日々に、それでもやたらと早熟な自意識だけで己を律して、それだけがアイデンティティだった日々に味わったあの、言葉にしようもない緩やかな暗鬱。
街中で見かけるあれこれに死を探し、その死に価するだけの憂鬱を模索してみたりもした。
理解されない孤独感に凍えながら、理解されるわけにはいかない意地の狭間で、不愉快な齟齬だけが自分の中で消化できずに蟠っていた。
沈殿した絶望感は行き場を無くしたまま、マリンスノーのように未だ自分の中でちらつきをやめない。不意に光を拾っては、その存在を知らしめてくる。お前は生きるに値しない存在だと、悪意を曲解したところで、善意を探し当てることはできそうにない。
誰かの庇護を自覚してしまうと、まるで牽制された気分になる。
今すぐに終わりを求めているわけじゃない。どこかに死ぬことを切り札にしたい自分がいるだけだ。
生きることの、億劫、煩わしさ、絶望感、諦観。言葉を尽くせば生きることがいかに困難を極めているのかを語ることはできても、朔也は別に、死ぬことを賛美したりはしない。
いつか誰かに、お前が嫌いだと、オレの前から消えろと明確な悪意を向けられたときに、従順に死ねる自分でいたい。生きることに執着も未練もなく、まるで死を待ち望んでいたかのように笑って死ねる自分が欲しい。いつだって死んでいい自分でありたかった。
デニムに手をかけると左側だけが重たく、携帯電話が存在感を示してきた。
『無事に帰れた?』
利玖からの一通を眺めている間、服を纏わない肌からどんどん体温を失っていくのが分かったが、朔也は動きだせずにいた。
一気に押し寄せた、責任感と重圧。
俺は今、利玖が俺に向けた優しさに報いる連絡を返さなければいけないし、職務を全うした弟を労う連絡をしなければいけないし、細やかな愛情は途切れさせないでいてくれる母親にも感謝の言葉を送らなければいけない。
煩わしい、と感じてしまうこと自体が罪なわけではない。
億劫だとこのまま、携帯電話を放り投げて後回しにしてしまう怠慢が、悪癖なのだろう。
人が本当に死ぬのは他人に忘れられたときというけれど、自分の肉体が無くなったときには、誰の意識の中にも記憶の中にも生きていたくない。
記憶の中だ思い出の中だ、そんな追憶に閉じ込められては堪らない。
心配されて、意識されて、生きることを、幸せになることを望まれてなどいたくない。心配は、無用なお節介と紙一重だというのに、心配しているという言葉が愛情として蔓延るこの世界が、やっぱり朔也には疎ましかった。




