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 彰葉の熱心な誘いにのせられるように、仕事の合間に、彰葉のところで食事をすることにした。

 なぜ自分に、という疑問を紅花はのみ込んで、キリの良いところで今から行くと連絡を入れると、着いたところに図ったように出されたパスタはカルボナーラで、上に載せられた半熟の卵が照明の下でも存在感を示していた。


 マスターに綺麗ですねと声をかけると、カウンター越しの彰葉がほくそ笑んだ。


「紅花ちゃん。それね、俺が作ったの」


「秋月。女に嘘をつく男はモテないわよ」


「嘘じゃない」


 むっとしたように言うので、あぁ本当らしいと理解した。

 彰葉は嘘が上手じゃない。


「それじゃぁ、頂くわ」


 フォークを手に取る仕草すら彼が息をつめて見つめる視線を感じて、愛しくならない筈がなかった。

 紅花は自覚的に、自分より小さいものと弱いものに心を奪われる性質だった。


 けれど紅花は優しい人間ではないから、たっぷり咀嚼の時間をとる。その分、彼の胸が大きな鼓動を重ねているだろうと、悪戯な気持ちになりながら。


「美味しい」


 もう少し大袈裟に言葉を重ねようと思っていたが、素直に一言言葉が漏れた。

 

「見た目より重たくないのね。シンプルだけど味わいはあるし、アルデンテも絶妙」


 紅花が論う言葉に表情を明るくする彰葉の隣で、マスターもいつもの微笑で話を聞いていた。


「ほんとに?紅花ちゃんも味覚は確かだから、そう言ってもらえると嬉しい」


 生育環境にコンプレックスのある彰葉は、紅花のそれを買い被っている節がある。

 そんな姿を見る度に、紅花は青いなと心の中で返すようにしている。


 あなたが美しいと見とれた果物は口に含んだ途端、その美しさを裏切っているのにね。

 でも、そんなの、恋と同じ。

 手に出来るかできないかのぎりぎりのラインで憧憬と哀憐と衝動性が同じだけの力でうごめく心が、一番の幸せだ。


「雪宮には、みてもらったの?」


 手作りの料理ならまず誰よりも先に食べさせたいはずの名前を出すと、彰葉の表情が一変した。


「俺、その人、知らない」


 とりすました顔で腕を組んでしまった。

 年齢よりもずっと幼く見える童顔に、大人としての色気がのぞいた。


「ここ数日、この調子なんだ」


 マスターは紅花の耳元でそう囁き、入れたての紅茶のグラスを出してくれた。

 アールグレーの爽やかさが、氷とグラスを超えて香った。


 マスターにお礼を言って、グラスを手に取る。

 この二人の喧嘩については、極力関わらないようにしている。

 酷く健全な、恋愛の美味しいところだけを見せつけられている気分にさせられるのだ。

 彼らは真剣に悩んでいるのだろうけれど、傍から見れば、ケーキ屋でどれにしようか悩んでいる人でしかない。


 その時、偶々音を切っていなかった携帯電話が持っていた小さなショルダーバッグの中で鳴った。


「でなよ」


 彰葉に促されて携帯電話を取り出すと、今夜の予定についての連絡だった。


「なんだって?」


 同じようにマスターに入れてもらったアイスティーを飲みながら、彰葉が横目に尋ねてくる。


「誰からの連絡か、わかるの?」


 携帯電話の小さな画面が、カウンター越しの彰葉に当然見えるはずがない。ポーカーフェイスに自信はあるし、今夜のことを彰葉に言った覚えはなかった。


「基本的に律儀な紅花ちゃんが、食事中且つ人前で携帯電話を手に取るなんて、よほど急用なのか、みゃびちゃんかの二択しかないでしょ」


 眼光鋭く推理する姿は怜悧な探偵というよりも、裏腹に研ぎ澄まされた嗅覚を持て余した狂犬だった。


「今夜、泊りに来るのよ。貴方も来る?」


 上目遣いに誘うと、彼は冷ややかに笑った。


「まさか」


 短い言葉に、嫉妬よりも嫌悪よりも、彼らしい気遣いを見てしまう。


「あら、女子会よ。楽しいと思うけど」


「羨ましくなんかないよ、別に」


 強がりでもなさそうだから、紅花は納得して頷く。


 彰葉もまた、蓮からの連絡を待っている。

 いつでも会えるように、身軽に動けるように。

 喧嘩中にほかの予定に現を抜かせるほど器用でもない。


 数日前の、客とのやり取りを思い出す。


『彼氏から連絡があまり来ない』


 ことが悩みだという。

 張り詰めた表情に当然余裕は見えず、真剣そのもので、緊張を解そうと微笑みかけるも彼女はにこりともしなかった。


『仕事が忙しいっていつも言っていて、繁忙期にそうならわかりますけど、数日に一件程度しか連絡返してこないんですよ』


 それはお互いでやってくれないかという言葉を勿論おくびにも出さずに、それは寂しいねと相槌を打つ。


『一週間に一度会っているからまだ許せるけど、正直愛されているのかがわかりません』


 言葉にしたことで自覚気味になったのか、表情もみるみる不安げになる。眉根にしわが寄り、目線が下がってしまった。

 ダメだ、私はこの表情に弱い。


『大丈夫よ。何をすればいいか、タロットに聞いてみましょう』


 紅花は殊更に明るい声で彼女を励ましながらタロットをかきまぜたが、こればかりはもっと正確な対処法を論理的に導き出すべきではないか、と内心思わずにはいられなかった。


 仕事に追われて連絡を返せない説。

 不器用さ故の説。

 本当に愛情を失った説。

 連絡を好まず会いたい説。

 愛情とは別に一人を好む説。


 抑々、突如連絡の頻度が減ったのか端からそういう性質なのかによっても、意味合いは大きく変わる。


 会ったことも見たこともない男の考えていることなんて、知りようもない。

 結局恋愛なんて、エゴの押しつけあいに過ぎなくて、愛なんて妥協の美称に過ぎない。

 

 別に何もいらないよ、と雅への返事を送信してから、彰葉に向き合う。


「で、何が原因で喧嘩をしたの?」


 明るい声で尋ねると、彰葉は嫌な顔になった。目を逸らした先に何を見つめているのか、妙に美しい横顔で、


「喧嘩はしてないよ」


 という。


「今更強がらなくてもいいわよ」


 呆れて言うと、本当だからと重ねてきた。


「喧嘩じゃなくて、会ってないし連絡してないの」


 彰葉はそう白状し、あぁと頭を抱えてカウンターに突っ伏した。

 閉店中の店内は静かで、溜息は何処までも流れていきそうだった。


「最近忙しそうだったから気を遣って向こうから連絡を待つことにしたら、ただの音信不通になっちゃったの。それが悔しいの」


 男性にしては高く透き通る声で科白のように活舌も綺麗に吐露しているけれど、内情はそんなに穏やかではないようだ。

 乱暴に触れるせいで指先に引っかかる髪に、艶やかな天使の輪ができている。


 連絡が簡単に取れるようになったが故の弊害は、どこにでもあるようだ。


 ちらりと携帯を一瞥する。

 何を持って行けばいいですかなんて、少女らしい問が愛らしいと思えるうちは、まだ。

 

 紅花は食事の代金を払い、高層ビルのエレベーターに一人乗る。時間帯のせいか、大きな長方形の箱に一人になることは珍しく、ガラス越しの横浜を堪能した。


 今日はよく晴れた。

 雨続きの季節に、言葉に惑わされてジューンブライドに憧れた女性を着飾る為に、蓮たち美容師は朝から晩まで息つく暇もないようだ。


 よく磨かれた床にピンヒールを鳴らしながら、見慣れた美容室の前で足を止める。気持ちがいいほど白で統一された店内を眺め、見知った彼の横顔を一目見たところで、直ぐに去る選択をした。


 紅花のここ数年の観察眼で言うのなら、雪宮蓮は、忙しい時に一度張り詰めた糸を弛緩させると、もう一度張ることを大義に感じてしまう人間だ。


 騎虎の勢いで物事を進める性質は男らしく魅力ではあるが、一方で、癒しとか、切り替えとか、そういったことができない愚直さが時折、仇になる。

 少なくとも、女性的な考えをのぞかせる彰葉との相性で言えば、致命傷だった。


 それでも、あの横顔に、あの気真面目さに、あの実直さに、自分の救いを見出したのは彰葉自身だ。

 彰葉は器用な人間を求めたりはしない。

 円滑なコミュニケーション能力を発揮しながら、人間関係には酷く穿った理念を持っている。

 彰葉は己の軽薄さが他人の目に映る色を自覚し、相手にその性を認めはしなかった。

 客商売をしているとは思えないほどに愛想のない横顔が自分を捉えて少し目を眇めてくれさえすれば、それで満足なのだ。

 

 雅との待ち合わせは、横浜駅にした。

 一緒に食事を買って紅花のマンションに着くころには日はすっかり暮れていて、程よく差し込む蛍光灯が美しかった。


「外、出てもいいですか?」


 雅は高層マンションの夜景が好きらしく、家に来ると必ずベランダに出たがる。

 

「どうぞ」


 必要なものを冷蔵庫に仕舞いながら答えると、彼女は瞳を輝かせてカーテンの向こうに消えていった。


 少し時間を置いてからその背を追いかけ窓から顔を出すと、彼女はワンピースの裾をふわりと揺らしながら、ただひたすらに空を見上げていた。


 隣に並ぶと、紅花の方に一歩寄ってくる。

 紺青の空は透き通っていて、果てのない宇宙まで見せているようだった。


「綺麗ね」


 月の欠片が空を壮大に見せる。

 

「よく晴れましたね」


 鬱々とした雨の続く日々から抜け出すにはもう少し日にちが必要だけれど、梅雨特有の晴れへの有難味を噛みしめる。

 

「もうすぐで七夕ですね」


「そうね。今年は晴れるかしら」


 雅は、短冊書きたいなと呟いた。


「そういえば、毎年、うちのビルの一階のスーパーの前に、笹が飾られているわよ」


 風物詩を思い出して言うと、彼女はいいなぁとぼんやりする。


「朔ちゃんと行こうかなぁ」


「神崎くん…?」


 選択肢としては利玖の方が適任だろうと首を傾げると、彼女は何かを思い出したように笑った。


「単純に、朔ちゃんが何を書くかが気になるから」


 悪戯な上目遣いが、化粧の一つもない無邪気な横顔を女へと変える。

 この子はこの子で、特有の危うさを持っている。

 

「多分、書いてくれないと思うけど」


「彼は自分以外は全く信用してないし、神様も迷信も基本的には嫌いだし、願いをかけるなんてやり方を知らないのよ」


 頑なに心を許さない朔也の在り方は、一時的な大人っぽさの域を超えるとむしろ、子供じみてすら見える。


「その点、笠木くんは、世界平和とかさらっと願えちゃいそうな人よね」


 目を合わせて笑いあう。


「モテますね」


「逆にモテないわよ、良い人止まり」


「あはは。アキちゃんもそのタイプかな」


「外面がいいタイプは、いざって時の切り札がないのが難点よね」


 じっとこちらを見つめる視線が熱い。


「なあに?」

 

 何かを言いたげな雅を促すと、彼女は唇を一度舐めて、経験談ですかと澄ました口調で言った。


「そう思うの?」


 痛いところを座視されている気分なことを悟られないよう、猫なで声で返す。


「紅花さんも、そっち側の人間だと、私は思ってます」


 遠くで、改造バイクの立てる大きな音が響いた。


「でも、時々本心を隠している感じは、朔ちゃんやユキちゃんに近い秘密主義を感じるし、なんか、一番遠い場所にいる感じがする」


 押し寄せた愛情と憐憫に流されそうな気持を抑え込むように、紅花は雅の髪を撫でた。

 生まれたままの黒髪に癖は一切なく、つやつやとした手触りで手のひらを滑らせ、風に触れた毛先は少しだけ冷たい。


「毎日連絡とって、一番、傍にいてくれているはずなのに」


 連絡の頻度と愛情の度合いと絆の深さの関係性。

 もしも、あの客や彰葉のように携帯端末を主体で考えるのなら、紅花と雅の間には揺るがない糸を見せることができるのだろう。

 些細で、取り留めない日常のやり取りを途切れさせることなく続けながら、お互いがお互いの感性を知っていく関係の中で、それでも隠し続けている本心は、自分にも自覚できないものばかりだ。


 利玖のところで出会った、知り合いの知り合いの知り合い、みたいな存在。人並み以上に可愛らしくはあったけれど、積極性に欠けた瞳はやけに痛々しく見えた。紅花が自身から無自覚に剝がしてしまった無垢なベールを、何重にも纏った少女。

 初めは遠い存在に思えたのはお互い様で、期せず与えられた接触を繰り返す中で無意識のうちに、妙な居心地の良さを知った。


 この子を思う重たすぎる愛情が恋であればいいのに、と願う。

 ありがちに燃え上がって、背負わせたり求めてしまったり、そんな自分に疲れて終焉に向かう恋であればいいのに。

 夜風のように静かに、湖畔に映る月をいつまでも眺めていられるみたいに、愛情として心に満ちてしまう。


 軽口を叩ける存在も、肩を並べられる存在もいいけれど、私はこの子に尽くしていたい。

 幸せになってねと願うのではなく、自分の力でこの子を幸せにしたい。

 利己的に、他力本願で、宝物のようで。

 

 こんな感情は知らないから、すっかり持て余してしまっている。




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