赤い靴
「女は夢を語るもの。男はリアルを生きるもの」
唐突な言葉に、蓮は隣で香水の匂いを漂わす女を見た。
いつもの甘ったるさや清廉潔白とした香りと違い、オリエンタルで馴染まない香りなのに、不思議と親近感が涌く。
「そう思わない?」
カウンターテーブルに肘をつき、彼女は笑顔を向けてきた。取り入れようとする、蠱惑的な仕草だった。
「あんたが夢を語るところに、出くわしたことはないな」
紅花はなるほどと静かに笑い、窓際の席で何やら対応中の彰葉を一瞥した。蓮もそちらに顔を向ける。
「あいつがリアルを生きてる気もしないし」
「あなたの周りって、男も女も難儀なのね」
「今更、性別で生き方は変わらないだろ」
呆れて返すと、そうでもないでしょうと冷静な声で言われた。
夜の十時をまわる頃、金曜日のバーはカップルばかりで賑わっていた。
安価で雰囲気はいいが敷居は高くないせいか、年齢層は比較的低め。三回目のデート向きと彰葉はいうが、悪くない選択だ。
「なんで女が占いが好きかわかる?」
ワイングラスの一番細い部分に指先を当てる姿がきれいで、ちょっと見とれた。
「選択肢が多いからよ」
訊ねてきたくせにあっさり結論を告げ、彼女は少し絡まる口調で語りだした。
「昨今の女には、選択肢がたくさんあるの。男よりもはるかにね。勿論裏を返せば自由ともいえるし、悪い事ばかりじゃない。でも大抵は、一番自分に合うものを探して、探しかねて、占いに頼るの」
その手の相談で彼女の中に蟠りが出来たのなら、それは特別不思議なものでもない。
わかったような口を利くと蔑まれそうなので言わないけれど、彼女とは別の視線で、蓮は職業柄女性に接する機会が多い。
美容院に通っている女性の人生も、機微を読み取れるものだった。
ファッション、趣味、家庭環境。
女性の多岐にわたる選択肢の中で選び抜く労力はかなりのものだ、と思う。
男は仕事をしていれば、ある一定の職業以外では、髪を染めたりはしないし、長さだって常識的に決められている。選択肢などない。ほとんどの男性がフォーマルなスーツを着て似たり寄ったりの鞄を持って仕事に行く。仕事をしないという選択肢など、無いに等しい。
でも、女性は違う。
髪の長さも、色も、メイクも、ファッションも、数多くの選択肢を与えられ、その中で一番似合うものを探すことに疲弊している。
結婚や仕事、子供関係も常に二択を迫られて、どちらを選んでも満点など出せないと知っていながら、欠点を見つけては捨てた選択肢を振り向いている。
「選択肢が増えて、そこに自己責任なんて言葉を宛がう世界って、殺伐としているわよね」
紅花の胸元に揺れているゴールドのネックレスの輝きが美しい。
偽物とは間違えようのない、僅かな光さえ拾い集め輝く、圧倒的な存在感。
この人は選択肢を持たなかった人だと、蓮は知っている。
無かったと言い切るのは大袈裟かもしれない。
しかし、色褪せた可能性に博打をうつことを努力と称するナンセンスな物言いを遠ざけるのならば、彼女は今以外の未来を持っていなかった。
彼女は時代遅れの窮屈な会社で息を殺して会社員でいることもできたし、適当な男を捕まえて幸せな奥さんになることも可能ではあった。
彼女にとってそれは、メッキで誤魔化したシルバーネックレスの様な生活だっただろうけれど。
幸せだろうと訊ねたら、その先の尖った靴先で蹴とばされるだろう。
彼女は人にはかられることを酷く嫌っている。
「雪宮」
「なに」
「あなたにとって、女って何?」
随分とストレートな問だった。
答えによっちゃ、これも足が出るだろう。彼女は見た目に反し、武闘派なところがある。
「男と同じ。人間の、一種」
口をつけたばかりのウイスキーのアルコールが身体を満たしていない素面の状態で、答えは導き出せなかった。
しかし、紅花は意外にも満足げに笑った。笑顔に隙はないけれど、張りぼてというわけでもなさそうだ。
「雅ちゃんて、小柄でしょう?」
「ん?あぁ」
確かな数字を聞いたことはないが、蓮の肩あたりに彼女のつむじを見ているから、おそらく女性の中でも小さな方だろう。
「当然、力もない。でも彼女、それを周りにうまくカバーさせる能力があるの。勿論、無意識にね」
朔也にペットボトルのキャップを開けてもらっているところ、高いところにしまった食器を利玖に出してもらっているところを、蓮も見たことがある。
意外にも、彰葉が荷物持ちを率先している姿も見た。
「なんで、雅ちゃんがそうされるか、わかる?」
「女だから」
「可愛いからよ」
端から蓮の回答を聞くつもりのなかった彼女が、言い切る。
「かわいいでしょ、彼女」
否とは言わせない強い口調で、紅花はにっこりと胡散臭い笑顔を向けてきた。
蓮はすっかり馬鹿馬鹿しくなって、おざなりに頷く。否定する気は毛頭なくても、用意された科白をなぞるのは面白くない。
「同じ女として、あの可愛さを愛嬌だなんて言葉で当然の素質にされちゃ、堪んないわ」
視線を感じて横目に背後を確認すると、真っ直ぐな眼差しで見つめる彰葉と目が合った。何かを疑うような、探るような、熱烈なくせに不安がり。
人間は本能的に、自分よりも大人だったり大きい存在に弱いらしい。その性が少し、人より強いのだ、彰葉の場合。
後で全部教えてやるよ、酔っ払いの科白くらい。
「あの子の魅力は、彼女をきちんと女の子扱いをする男に対価として差し出された、感謝の笑顔よ」
紅花は顔の高さまで持ち上げたワイングラスを揺らし、恍惚とした表情をしていた。
まつげの美しいカールが、呼吸に合わせて小さく揺れている。
「この世は等価交換ってわけか」
「そうよ。傍から見たら歪で偏頗なものだとしても、当人が納得していれば交渉成立ってこと」
片思いの対価、か。
蓮は何となくうすら寒い気持ちがして、グラスを傾けた。
例えば人間関係において、完全に均等の取れた関係性というのは、果たして存在するのだろうか。
大抵がどちらかに傾くアンバランスの状態で、その時間が長ければ長いほど破綻に近くなる。不安定で、不確実で、小さな機微を逃さないように慎重に守り合い、それでも互いを意識し合っている限りは何とかつなぎ合わせていられるもの。
蓮はずっとそう、思ってきた。
「ちなみに、カウンター席で惚気話をする対価として、もう一杯くらい飲んでいかない?」
抜群のタイミングでカウンターに戻り、彰葉が紅花に声をかける。
「あら、いいわね」
酔っ払いの見せる余裕は、本能的な欲望に塗れている。
「やめとけ。彰葉、ウーロン茶にしろ」
不満げな二人分の瞳。
直情的な陰りのなさは、その分だけ、痛みを透かしている。
嘘をつけるのは大人の特権だけど、嘘の分だけ自分を偽る必要がある。
二人が素直に生きていることは認める。だけど破綻百出なこの状況で、同等に他人にも正直であれというのは少し、横暴だ。
「俺は明日も出勤だから。送れないし、泊めてもやれない」
「別に、世話焼いてくれなんて、言ってないじゃない」
「そうそう。自分がやってあげなくちゃなんて、出過ぎた過保護だよ」
「今すぐ、今までの迷惑料を徴収していいか?」
凄んでみても二人は顔を見合わせて、被害者面で、人相が悪いだの送り狼だの、人聞きの悪い文句で盛り上がっている。
「まぁ、そうね」
紅花はワインの最後を流し込む。ほんの少し濡れた唇が、いつもの口紅で染めた人工的な艶めかしさとは違って、素に近い透明感があった。
「どうも私は邪魔みたいだし、今日のところは帰るわ」
「捨て台詞。悪役のつもり?」
「恋敵は早めに摘んだ方がいいわよ。育つと、理性を超えてくるからね」
紅花は肩をすくめた彰葉に意地の悪い笑顔を残し、立ち上がる。
背の高いカウンターテーブルの下から差し出すように姿を見せた彼女の明るい靴が、誤魔化される暗さの中で一際映えた。
「姐さん、その靴、似合ってる」
ベルベットの、赤いパンプス。
普段はスカートが多いが、今日は珍しく黒のスキニーを履いているせいで、いつもより足が長く見えた。思えばトップスの白いブラウスも、左に寄せた髪型も、彼女の演出する女性像から少しずれている。
「言っておくけどね、ハイヒールをなめるんじゃないわよ」
顎を上げて威嚇する紅花に、彰葉がにやりと笑った。ここでペルシャ猫と狼にならないのが、二人の主従関係をよく表している。
「舐めないよ、汚い」
思わず、彼の後頭部をはたく。
紅花はそのやり取りの一切を無視し、此方を睨みつける様に眼光を鋭くした。
「パンプスの先がとがっているのは、前から来た男の脚を蹴飛ばすため。
ピンヒールのかかとが細いのは、後ろから来た男の足の甲を粉砕するため。
あなたたちが想像しない防御力を誇るのよ」
最終兵器の機能をネタバレしてどうする。
うっすらと、チークとは違う赤の射した頬をふっくらさせながら、この人は年の取り方が美しいと思った。
勿論まだまだ若い年齢ではあるが、のうのうと夢を語る少女とは違う。かまととぶれる年齢でもない。
いい女になろうと、彼女は常に気高く生きている。
美しいと言われる努力は惜しまないけれど、庇護されようだなどという欲は一切に出さない。
紅花を店の入り口まで見送りに出ていた彰葉が帰ってきたのを、目だけでお疲れと告げると、彼は大袈裟にため息をついた。
「女の子は繊細だね」
「女の子って年じゃないだろ」
「違うよ。女性は、本人の意思で女の子に戻ちゃうことがあるの。それを同性は認めないけど、男はそれを許さないといけないの」
彰葉の淡々とした口調に、蓮は何も返さなかった。
義務にされれば異議を唱えたくなるし、抑々どの口が言うんだと返してやりたい気持ちになるが、自分自身の行いは彰葉の言うままだった。
「あんな、まるで朔也君を意識したファッション、紅花ちゃんの良さを打ち消しちゃうのにね」
似合ってはいた。身長も高く、きれいな容姿をしている彼女からすれば、着られないファッションなどほとんどない。
でも、良さが生きているかと言われれば別だった。
いわれてみれば腑に落ちる。
まるで、朔也を見ている気分だった。
「馬鹿だよね、自分の背中に可能性を探すって」
彰葉の口調は冷ややかにもとれたし、冷静ともいえた。
他者の激情を正直に見つめてしまうと、人は非道に映る。
「人間て、そういう生き物だから。お前にも、後悔の一つや二つ、あるだろ」
嘘か本当か、二極の真実とは別に、相手の欲している物を明確に与えていられるのなら。優しい人になれるのかもしれない。
「そりゃ、ね。でも、紅花ちゃんみたいに、それがすべてみたいな顔はしないよ」
紅花が飲んだワインのグラスを下げる、とても繊細なグラスを扱っているとは思えない飄々とした手つき。
傍から見ると、紅花や朔也は保守的な人間だ。本人たちは慣習に囚われずに自由に生きているつもりだろうが、植えついた社会性を変えるのは容易じゃない。
むしろ、抗おうとする意識の強さが、彼らの息苦しさそのものかもしれない。
だからって、正反対のところにいる彰葉が革新的かと言われればそんなたいそうなものじゃない。
彼はただの刹那主義だ。
そんな彼らを、一体どんな言葉で咎めよう。
誰が間違いと指摘しよう。
「先輩。俺に、xyz奢る気、ない?」
彰葉の言葉に、蓮はすっかり毒気を抜かれてしまった。
物事を難しく考える癖は、決して得なものではない。
少なくとも自分は彰葉の快楽主義に流されて失敗したことはないのだ。
「好きにしろ」
ありがとうと笑う無邪気な彰葉の笑顔を見つめて、蓮は目を細める。
永遠が欲しいなら、死ぬことを夢見るわけにはいかない。今は、まだ。




