ワインと煙草
ワインはいつだって人を裏切らない。
そんなことを考えているとき、大体人というものは何かを取り繕っているのだろう。身近なものを精査して、人を猜疑して、そんな徒労は自分のため。何かを信じようとする人間は自然とすべてを信用してしまうものだし、逆もしかり。裏切りと体裁と、建前。そのために、人は自分と違って裏切らないあれこれを夢想するのだろう。
「紅花ちゃん、それ、好きだね」
いつものようにお店に入ると同時に赤ワインを注文した紅花に、カウンターの向こうから彰葉が笑いかけてくる。二十歳を過ぎた男性にしてはかなり幼い顔立ちに、バーテンダーの制服が華やぐ。横浜中を探しても、こんなにも可愛らしいバーテンダーはそういないだろう。
魅力的なバーテンダーと言えば、長身で男性的な消極性をもち、影のある瞳に色気を纏っている。そんな偏見は、もう捨てた。小柄ながら華奢でしなやかな動き、喜怒哀楽に素直で相槌が上手な彰葉の一見可愛らしい笑顔は、それとして人目を引いた。むしろ感受性の高さが妙に人の心に留まり、それでいて時々顔に似合わない鋭い毒舌を吐くものだから、ふと心を許したくなる存在になるようだ。
彰葉はカウンターの端からすっと音もたてずにワインを差し出す。そのとき、指先の揃え方とか微かに伏せられたまつげとか、己に対する傲慢な姿は、その仕草ひとつひとつを切り取って眺めていたいくらいだ。
そっと受け取り香りを確認する。フルーティーな香りの中に確かなアルコールを感じ取る。唇を付けると、口の中で香りを取り戻すようだった。
「一途でしょ?」
紅花はグラスの淵に薄っすら残ったルージュを、左手の人差し指と親指で拭う。少し硬いルージュは落ちにくく、薄いグラスが指先にすら上品さを誇示してくるようだった。
「本当の一途っていうのはね、視野が広いうえでそれを愛し続けることだよ」
彼はそう笑い、自分の分のシャンパンを一口減らした。
「どんなに綺麗に言ったところで、一途と盲目はニアリーイコールよ」
「よくとるか悪くとるか、相手次第だね」
彼はカウンターに肘をつき、怯むことなく言葉を返してくる。
「お前らの会話って、実は全く中身がないんだよな」
一つ隣に座ってウイスキーをロックで飲んでいた蓮が、面倒くさそうに口をはさんできた。会話に参加するのもうんざりだという表情をしながら、しかし、無意味な言葉の応酬はそれ以上に不快だったようだ。
今日試されたという茶髪のアシンメトリーが彼のイメージとあまりに合わなかったので、顔を突き合わすなり散々笑い飛ばしたことを、彼はきっとまだ根に持っている。
蓮は紅花よりも一時間早くからここで飲んでいたと言い、既にお酒に飽きたようだった。酒豪でお酒になど興味がないくせに量ばかり飲めてしまう彼には、その価値が全く理解できないらしい。抑々、彼は何にも執着や拘泥をしない。求め、焦がれるようなこともない。
いつだったか、彰葉が蓮を、恋愛とは対極の存在と位置付けていた。間違っちゃいない指摘だろう。それがいい事なのかどうかはわからない。言えるのは、所謂恋愛体質な自分とは、悩みが重なり合わないということだ。
「中身のある会話ばっかりするのも疲れるんでしょ?」
彰葉はカウンターの向こう側から蓮に顔を近づけ、媚でも売るように静かに笑顔を浮かべた。
この二人の関係性も複雑だ、と紅花はグラスを片手に思う。
「あぁ、そういえば、笠木君と神崎君が来てたんだってね」
蓮の方に身体の向きを変え、足を組みなおす。短いスカートから覗かせた脚を隠そうともしない紅花を彼は一瞥もすることなく、
「遊びに来いってさ」
とだけ言った。それが利玖からの言伝であることは直ぐにわかる。
伝言って、ちょっといい。
紅花はそんなことを考える。誰かの心を誰かが代弁して、それが人伝に聞こえてきたとき、無駄な粉飾が全て叩き落とされ、本音だけが簡潔に響いてくる。
「雅ちゃん、会えてないのよね。元気かしら」
約一回り年下の少女のことを考え、憂鬱と切なさを覚える。私にだけ向ける笑顔、なんてものがないところが、堪らなく愛おしい。
「本人は元気だけど、学校には寄り付きもしてないってさ」
蓮は氷を鳴らし、グラスを置いた。
「あの言い方、利玖は気が気じゃなさそうだった」
「神崎くんは?」
冷めた笑いを浮かべ、蓮は慣れない手つきで髪をかき上げた。
「人の心配できるような立場じゃないだろ、あいつは」
相変わらず、この男は朔也には異常な程手厳しい。
同じことを思ったらしい彰葉が、少しだけ目線を下にしていた。
「心配って都合のいい言葉だよね。何の役にも立たないけど」
彼の突発的な残忍性については十分耐性を付けていたつもりだったけれど、時々心臓の底を刈り取られる様に鋭く、やられてしまうことがある。当て擦りのつもりもあるだろうし、牽制の意味もあるだろう。彰葉の愛情は明確な分類がされていて、その中でも雅や朔也に対する愛情は、特別重たいものだった。
言葉を捜した紅花と蓮を置き去りに、彰葉は交互に二人を見た。毒づいた直後とは思えない無防備な笑顔を浮かべて、大きな窓ガラスを指さした。
「向こうで一杯やろう」
彼は言うが早いか一人、シャンパングラスを片手にカウンターを飛び出す。軽やかな足取りはやはり、どちらかと言えば女性的だ。
「こんな夜景を見ていると、いい週末が過ごせそうだよ」
彼は窓際に立って、外に向かって大きく背伸びをした。細身の身体付きの中に、大きな自由が染みわたっているようだった。
紅花はゆっくりと蓮を見る。彼は全く興味なさそうに、しかし彼なりの優しさで立ち上がる。それを見て、紅花も続いた。
横浜のど真ん中に立っている大型ショッピングモールの最上階、高級志向のバーは敢えて十一時閉店を掲げている。オーナーの持つそのプライドを好意的に思う。客のすべてが引き上げたこの時間、オーナーの愛弟子の秋月の時間だ。紅花たちは週に一度はこんな時間を過ごしている。眠った街の、眠らない光を見下ろすように。
「いつ見ても綺麗ね」
紅花は思ったままに言った。
横浜の街は美しいと思う。それは、この街が何かに飛びぬけているわけでも圧倒的でもないことに価値があるからだ。それでいて、何処をとっても魅力的であることは隙の無さでもあり、自由の証拠だろう。
「それで?紅花ちゃん、今週はどうだったの?」
彰葉は磨き上げられたガラスに肩を預け、ゆっくりと首を傾げて見せる。細い首筋はひどく無防備で、そのくせ計算尽くにみせられたものだ。
「そうね」
紅花はゆっくりと景色を見渡す。自分のやっている占い館が地下にあるせいか、景色を見渡す度に自分が立場を脱ぎ捨てている気持ちになる。それでも、仮面は外しはしない。彼らの前でいい女であることは、彼らの前で気を抜くよりもずっと自分らしく、なにより自分が安心していられる。
「面白い話と面白くない話があるわよ?」
横浜の埠頭を眺めながら、ここも小さな街だと感じる。手のひらに、世界は収まってしまう。
「オレは面白い話から希望」
彰葉が言う。それを見て、蓮は頷いた。
「今日の最後のお客さん、カップルだったんだけど、彼女の方が浮気してたわ」
淡々と、報告口調で言うと、二人は怪訝な顔で紅花の方を向いた。四つの瞳に浮かんだばらばらの感情たちに、彼ら自身名前を付けようがないのだろう。ただ一つ、それを面白い話に分類した紅花の嘲笑に対する嫌悪感、以外は。
「なにそれ?」
彰葉は眉をひそめ、シャンパンを舐める。
「彼女が携帯を操作した時、ロックの解除した指先の動きが数字の並び的に誰かの誕生日。占いの前に生年月日聞いてたけど、どちらの誕生日でもなかったわ」
思い出し、紅花は笑い出しそうになった。
大学生同士だった。サークルで一緒だと男の方は嬉しそうに、彼女の方は態度の端々に傲岸さがあった。浮気と言ったけれど、女性から言わせればひと時のお遊びだろう。地味だけど誠実そうで、如何にも女性扱いがうまそうな男だった。そんな男に優しくされることで愉悦に浸る女は存外多い。問題は、どちらが遊びだかわからなく所だろう。軽く付き合っていたつもりが、失って痛手を負うのはおそらく、女の方だ。
「そんなの憶測じゃない?全然違う数字かもしれないじゃん」
彰葉は尚も冷静な口調で言う。表情の硬さに浮かぶ嫌悪感に、堪らない気持ちになった。
「そのあとに聞いた好きな数字が、そのロックの数字の下四桁と一致、手相を見たときに左手の薬指の下に薄っすらリングの跡があった。お揃いだって言っていたネックレスは彼氏の方は少し色が褪せていたのに、彼女のやつは新品同様」
論う紅花に、彰葉は眉をひそめる。蓮はいつものポーカーフェイスを崩すことなく外を眺めているが、窓ガラスに反射している瞳は遥か向こうを見ているようだった。
「それで自分たちの将来を占えっていうんだから、傲慢よねぇ」
今自分を、この二人は嫌な女だと思うだろう。他人の不幸話に笑みを浮かべて、さぞ嫌な女に思えるだろう。
嫌な女に成るのは簡単だし、当然反対もまた然り。本当に難しいのは、嘘偽りなく自分に正直に生きることだ。
「それで?そういう時、姐さんはどうするわけ?」
黙り込んでいた蓮が口を開いた。全く興味はなさそうだが、きちんと話の終わりまで聞かなけれな安眠の妨げだ、とでも言いたげな表情だった。
「どうもこうもしないわ。ただ、匂わせるのよ、それとなくね」
どうもこうもしているじゃんと、彰葉が呆れたように呟いた。
「まさか断罪するわけにはいかないじゃない。私に咎める権利はないもの。でも、気付いてしまった以上、隠すのに加担するのは気が引けるってものでしょう」
「知ってたけど、勝手だよね」
と彰葉が呟く。
「そうよ、浮気するのも勝手。その浮気を見抜いた後にどうするのかも勝手。それを匂わせるのも勝手」
人間なんて身勝手なもの。
そう思わなければ、この仕事はできない。
何度、人の恨み節に出会ったことか。
何度、人を呪うことを考えたか。
何度、落ちていく人を見てきたか。
「面白くない話は何なの?」
彰葉は人の話を聞くのが好きなのだ、と認識しているけれど、それにしても人懐こさは少し不安にさせられる。警戒心はあるほうに見えて、解くのも早い。
「今日の夕方過ぎにここに、彼らが来たはずなのよね」
紅花が言うが早いか、彰葉の顔色が変わる。何かを察した横顔は室内の明かりと外の暗さに陰影をくっきりさせるけれど、女性的な魅力があった。
正直、女性だったら彰葉は私のタイプそのままだ、と思うときがある。この睨みつけるのを必死に堪えただけの鋭い目つきも含め、危うさと脆さと美しさと、そのすべてが。
「彼女が紺のワンピース着てた?袖のカットが少し斜めになっているやつ」
洞察力というか、よく見ている。彼は女性の容姿には意地悪な程厳しい。
あのワンピースは素敵だった。彼女の長い腕がカットの関係でより細く見え、つけていたシルバーブレスが色の白さを引き立たせていた。素敵だし、よく似合っていた。見た目だけはいい女だった。
「そんなに怒らないでよ。私が唆したわけじゃないわ」
これは本当だった。
カップルが勝手に言ったのだ。帰り際に荷物をまとめながら、何かを察した男の方が、上で少し飲んでいかないかと。
彰葉は必死に冷静さをかき集める様に大きく息を吸い込んだ。
「結論から教えてあげる。女がつぶれてた」
笑いそうになったのを堪えたこと、紅花は誰かに褒めてもらいたいとすら思った。
別に不幸になってほしかったわけじゃない。ただ、男の方が気付いた後のことがひどく興味があったのは事実だ。私は占い師だけど、残念ながらその手の特殊な力は持っていない。置いてある水晶玉に未来など当然映らない。
「でも、そうだね。紅花ちゃんは正しいよ」
彰葉は窓に背中を向けそのまま寄り掛かった。一面ガラス張り。遠目に見ると、彼は真っ暗とは言い難い点綴する明かりの中に、身を投げるように見えた。
「やっちゃいけないことをしたんだから。行動に移した方が、負けだよね」
空になったシャンパングラスを少し危うい手つきで持ったまま、笑顔を浮かべているのに瞳には獰猛な光があった。
恋愛へのエネルギーを中で燻ぶらせた二十三歳には、突然目の前で繰り広げられた終焉は刺激が強かったかもしれない。そう思うと、自分に出来たかもしれない回避行為を怠った事実が重たくのしかかる。やだな、こんな風に後悔を背負って週末だなんて。一番忙しくなるのに。
「そろそろいい時間だな」
言葉なく夜景を眺めていた蓮がタイミングを計ったように呟き、残っていたウイスキーを一気に流し込んだ。
「姐さん、帰ろう」
助け舟を出された形になった紅花は一瞬考えたものの、彰葉は傷ついたわけじゃなく現実を恨んでいる。ここで女である紅花にできることはないのだと冷静に考え、素直に従った。
「マスター、ご馳走様」
紅花と蓮がかわるがわるにマスターに挨拶をしている際、僅かに上気した頬を固くして店を閉める支度を始めた彰葉は、こちらを見なかった。それでも、店を出る直前、
「来週の予定、後で連絡してね」
としっかりこちらの予定を抑えてくるあたり、手抜かりはないし思いの外落ち着いたようだ。
駅までの道のり、隣を歩く蓮は何らいつもと変わらない仏頂面だった。ポーカーフェイスというのは黒目の大きさが左右する、と紅花は様々な人の目を見てきて結果として結論付けている。正式に言うと、瞳の大きさと目の大きさと黒目の大きさのバランスだ。例えば彰葉や雅のように大きな目をしていると、視線の定めた場所、僅かな瞳のずれが相手に簡単にばれてしまう。そもそも精神的幼さが隠しきれないあの子たちは感情が素直に表出されやすい、という遠回しな原因もあるのだけれど。その点、雪宮蓮。彼の怜悧な切れ長の瞳は本当に感情が読めない。見方によれば目つきが悪いのだが、三白眼気味の瞳が常に前を見据え、ぶれない。人間性がよく現れている。
「神崎君は元気そう?」
来週あたり顔を出そうかと考えながら、尋ねる。本来、元気かという質問は社交辞令と会話の繋ぎの意味しかないのだが、朔也についてだけは訳が違う。彼は本当の意味で、元気かどうかが心配になる危うい人だった。
「あれだけ人のカットに文句つけてんだから、元気だろ」
彼の口調は酷く乱暴だった。
一瞬ポケットから煙草を出しかけ、それはまるで無意識だったらしく、表情は変えずに直ぐにポケットに戻した。
彼は美容師をしている。彰葉の働くバーの二階下、紅花の営む占い館の五階上、明るい白を基調とした美容院で、若いながらそれなりに客を付けているというから侮れない。
「そうね。あの子の体力のゲージは、文句の多さで測れるものね」
その対象が主に蓮であることを、彼はおそらく知らない。朔也は若さ故の尖りが強く、五つ年上の蓮とは犬猿の仲に近い。もっとも年のせいにするのはよくない。なんせ誰とでも友好的な関係を築ける利玖は、朔也と同学年の同い年だ。
「まぁ、大学三年生って、一番ストレスがない時期だからね」
一年二年できちんと必修と最低限度の科目を履修しておけば、三年はかなり授業数が減る。
しかし、美容師の専門学校に通った蓮には四年制大学に話はピンとこないらしく、それについての返答はなかった。
駅の喫煙所で、彼は一服してから帰ると言った。行くかと尋ねられたので、首を振る。今日来ている薄手のトレンチコートはまだクリーニングには早いので、匂いを付けるわけにはいかない。
「ねぇ、雪宮」
背を向けようとした彼に声をかける。
「秋月には言うべきじゃなかったかしら?」
あなたも私を酷いと思うのかしら?
蓮は呆れたようにため息を吐き、妥当だろうと言った。
「そりゃ、気持ちのいい話ではなったけど、恋愛バカのあいつにもいい薬になったろ」
蓮からすれば、紅花にしても彰葉にしても、恋愛に無駄なエネルギーを割く愚か者らしい。否定はしない。依存的な恋愛が評価される必要など、全くないのだ。
「それに、姐さんの選択は、少なくとも客に対しては誠実だった。そうだろ」
この男に言われると救われる、と思う。
「姐さんは彰葉のことになると途端に弱気になるのな」
「あの子に不幸は似合わないもの」
あの子が幸せになるところを見られるのなら、投影した自分自身にも幸せの可能性を見出せる気がする。その姑息さを見抜きながら、見て見ぬふりしている賢い男。剛毅なところはいつ見ても気持ちがいいくらいだった。
「もう少し自分のこと考えた方がいいぜ」
蓮はそういうと、背を向けて歩き出した。
広い背中を見つめ、そのままそっくり返すわと心の中で呟く。
私は十分好きに生きている。自分の感性を第一に生きてきたし、これからだってそうつもりだ。新卒で入った会社を辞めて占いを始めたとき、地に足をつけて生きろとは言われたけれど、まるで何かを我慢して生きているように言われるのは心外なくらいだった。
他人に振り回されることに慣れているのは蓮の方じゃない。
自然とこぼれそうになる溜息を飲み込んで、髪をかき上げる。
蓮に染めてもらっている金髪。緩やかに当てたパーマが湿気っぽい空気を吸い込んで、萎れているように重たかった。
駅ビルの中に喫煙所をつくるのは効率的なのかどうなのか、蓮には知りようもない。
紅花と別れ喫煙所の曇りガラスの扉を開けると、誰かのいた形跡とも取れない煙草のにおいが充満していたが、人はいなかった。奥の壁に寄り掛かり、煙草に火をつける。
職場である美容室の入ったモールにも、地下一階に喫煙所がある。此処にしてもモールにしても、喚起が全く追い付いていない淀んだ空気は、それぞれの煙草の匂いが澱のように入り混じり落ち着いていられない。煙草になじみがない人間、蓮の周りで言えば紅花以外の四人になるわけだが、彼らは傍を通るだけでも匂いがきついと言う。特に、人一倍においに敏感な朔也は嫌悪感を露にする。勿論、蓮が頻繁とまではいかなくても煙草を持っていることすら気に食わない、という顔をする始末だ。
煙草を吸うのは趣味の一環ですらない。その昔、あの女にもらったところから始まった癖の一つで、自分の中にちょっとした引っ掛かりを見つける度に煙草に手が伸びる。
今日はやけに忙しかった。元々金曜日の夜は忙しくなることも多いが、キャンセルが入るのと同時に、まるでタイミングでも計ったように利玖から電話が来た。
「週末、朔と行っても良いかな?」
良い訳がない。週末にそんな簡単に、予約を入れられるわけがないだろう。当然無理だと言おうとしたとき、キャンセルのことが頭に浮かんだ。
「直ぐにこれんなら、今夜できないこともない」
直ぐに引っ張っていくと声を弾ませた利玖の人懐こさに胸がすく様な明るさを覚えたが、いざ来てみれば朔也は予定が崩されたせいで不機嫌全開。彼の辞書に臨機応変という言葉はおそらくない。賢いし頭も切れるのだが、強迫観念的にルーティーンに忠実だった。おまけに潔癖症で気が強いくせに繊細なところがある。些細なことでも気になると解決するまで落ち着かない性質だ。勿論、髪型への拘りも人一番強く、相手が蓮となれば言いたい放題だった。
生まれつきの黒髪を強引に銀にし、男にしては長い肩程度の髪型は流行とだいぶ離れた路線なうえ、正直人を選ぶ。選ばれた人間であるという彼の尊大な自己自認には、脱帽する。確かに彫りの深いエキゾチックな目元、それもラメ入りのアイシャドウで縁どった青い瞳や、細く無駄のない顎のラインや小さく形のいい耳など、何処をとっても彼は美の象徴のように非の打ち所がない。
利玖はともかく、朔也の髪が出来上がるころには蓮の体力は尽きていた。一秒でも早く帰って眠りたかった。しかし、もう一人、気遣って面倒をみなくてはいけない男がいる。
世話焼きな性格は昔からで、身に付いた使命感と責任感が未だに、誰かのために自分を走らせる。
上がりが遅くなった分だけバーに行くのが押したことで散々、彰葉から文句をぶつけられた。美容室帰りに利玖と朔也が見舞いや多忙を理由にあっさり帰ったものだから、二人に会いたがっていた彰葉からすれば怒りは収まらなかったらしい。向こうの我儘を通したのだから一杯分ぐらい顔を出させればよかったと思うが、そうさせられないくらい二人とも表情は硬かった。
朔也の理由は、さっき紅花が思いがけず教えてくれた。なるほど、授業数が減って時間的にも身体的にも余裕が出来たらしい。普通ならば納得で終わるが、朔也がその状況の前にいるのは余り安心できない。
おそらく生来的に、神崎朔也は起きているときの半分は空想の世界で生きている。それだけ言うとやたらファンシーで痛々しい響きになるが、彼の場合絵本でも物語でも勿論妄想でもなく、小説の中を生きている。
誰が好きだとか、よく読んでいるとか、そういう自己開示をされたことはないのだが、ふと目に入る著者は明治期の文豪が多い。
時間に余裕があればあるほど、朔也の世界は閉ざされる。よく、小説は好奇心の扉とか、想像力を養うなどというけれど、それはあくまで現実世界にきちんと根差した意識がある前提の話であり、朔也のように現実逃避のために小説を手に取る人間にとっては、一種の麻薬の様な存在だ。
うんざりだ、と思いながら煙草の端を噛んでいると、如何にも酔ったカップルが軽い足取りで喫煙室に入ってきた。男の方も女の方もかなり明るい髪色をしていて、距離をとりたい気持ちが働く。まったく、同じくらい明るい髪色を作り上げているというのに、贔屓目とは恐ろしい。若いカップルはかなり酔いが回っているらしく、何が面白いのか遠慮のない笑い声をあげながら、煙草を出すのに手間取っている。
蓮は諦め、煙草をもみ消して外に出た。
すっかり夜が遅くなり、少なくなった電車の時刻表を眺め、舌打ちをする。
利玖の悩みは彼自身が語った。
「雅が学校に行ってなくて」
心配してどうこうなるものじゃないし、別に行かなきゃいけないわけでもないんだけどね。
リタッチの染料を付けている間、彼はぽつぽつとそう語った。隣で小説を一心不乱に見つめている朔也は、恐らく遠回しに打撃を受けていただろう。雅と朔也の選択はとても似ているはずなのに、勝手な想像でバックグラウンドを作りこんで、雅の方にだけ包囲網を張りたがる。
「でも、本人は元気そうなんだろ?」
利玖は雅のことにはやたら深刻になる悪癖がある。蓮は憐れみと同情を込め、努めて明るくそう進言してみるものの、彼は目を閉じて顎をあげた。
「吹っ切っているんなら、別にいいんだよ。運良くうちには優秀な家庭教師もいるし、学校が全てなんて頭の固いことは初めから言うつもりはないよ」
優秀な家庭教師が、利玖を鏡越しに見つめている。
不器用な奴だと、蓮は思った。
「でも、もし、不安な気持ちをかき消そうとして無理やり明るさを装っているんだとしたら、怖いよ。学校に行かない日数は毎日伸びていくんだから、不安はどんどん募っていくわけでしょ」
利玖の言い分は尤もだし、恐らくその読みは大方当たっているのだろう。
相変わらず表情を変えずに利玖を見つめる朔也と目を合わせる。慰めてやれと目で合図するも、彼は眉を顰める様に、切れ長の瞳を僅かに細めるだけだった。
電車を待つ間、プラットホームは金曜日だけあって人が多く、皆大抵明るい表情だったので、蓮は無意味に腹立たしかった。サービス業なのでしょうがないのだが、明日も朝から仕事だと思うと気が滅入りそうだった。
そのうえ、彰葉が機嫌を損ねているものだからうんざりする。僅か二歳年下を年下扱いしなければならないなんて馬鹿げているとすら思うけれど、蓮は彰葉を甘やかしていない方が不安になる。センパイセンパイと呼ぶ声が途切れると、嫌な思い出が蘇る。蓮は最善を尽くさない後悔が何よりも嫌いだった。
紅花にはあのように言ったが、正直彰葉は気性が激しいところがあるので、鮮度の高い揉め事は知らない方が幸せだったかもしれない。自分の感情の高低差に彼自身酷い嫌悪感を持っていることを、おそらく蓮以外は気づいていない。彰葉自身も、たぶん。
想像の中で震え、怯えるのも愚かだし、だからと云って現実世界の惚れた腫れたで騒ぐのも馬鹿らしい。それぞれが猶予として得たエネルギーを、勿論どう使うかは勝手にすればいいのだが、傍から見ると徒労に終わらせている。
そういう自分だってエネルギーをどうすることもできないから、良いことなど一つもない煙草を手に取っている。せめて享楽的な何かが得られるのならばともかく、俺たちは揃いも揃って、不器用な選択を繰り返す。
蓮は隣に立っていた女の香水の強い香りに現実に引き戻され、携帯電話を手に取った。
店じまいの最中だろう彼が、手を動かしながらも、頭の中で何故自分があんなにも怒り苦しんだのかを考えているのだろうかと思うと、放っておけなくなってしまう。我ながら難儀な性格だ、と思う。
地下の、閉鎖的で声の響くプラットホームで電話口をそっと手で覆う。電話をかけてもまだ流石に繋がらないので、留守番電話にした。
誰かの笑い声やくしゃみ、ハイヒールの音などすべての音をかき消すように、電車が流れ込んでくる。
開いた扉から人が吐き出されることはほとんどなく、乗り込む人の背中に続く。乗り込むと同時に閉じた扉を眺めながら、反射した鏡に映った自分の髪型の気障ったらしさに反吐が出そうだった。