キドアイラク
放課後が解放的に感じるのは、肉体的にも精神的にも正常な状態である証だと思う。潜めていた息を吐きだして鼓動を抑え始めたら、手に負えない。
あの苦痛を知っているから、今の自分を不幸ではないと思えてしまう。
そんな風にしか、幸せの価値は測れないけど。
雅は少し嵩張るスクール鞄を肩にかけ直す。小テスト用に持ち運んでいる単語帳が重たい。
学校帰りに利玖のところの最寄り駅で途中下車をして年季の入った改札を抜けると、いくつかのチェーン店の並んだタイルの道がつづく。
特別なことなどないこの、ありふれた駅前の景色に、雅は懐かしい温もりを思い出す。
物語のように雨が降ると悲しみの暗示で、晴れ渡った空には希望と未来が映し出される世界なら、雅は今、幸せでなければならない。
現実はそんなに簡単じゃないけれど、不幸ではないからよしとする。
雅は利玖と出会ってから、妥協を覚えた。不完全という余裕。未知という可能性。
天秤にかけるのは失礼だとは思うから口にはしないけど、憧れるのは朔也で、なりたいのは利玖だった。
横目で眺める公園から、イヤホンを超えて聞こえるいつもの賑わいが心地よい。
知っている景色とよく似た原風景を、いつも心の何処かに留めている。
幸せだと思い込めば幸せになれる、十代だから。
駄菓子屋の扉を開けると、利玖は席を外していた。
「利玖ちゃん」
雅は声を張り上げて、ローファーを脱いだ。
勝手に家に上がり込んでリビングに行くと、利玖が熱心な様子でキッチンに立っている。
電子レンジも、オーブンも、コンロ二口もフル稼働で、何かしらを動かせばブレーカーが落ちるのではないかとはらはらしてしまう。
「なんかすごいね」
鼻をうごめかせながら声をかけると、彼はこちらに一瞬顔を向けた。
忙しい時ほど幸福そうな顔をするタイプの人だから、表情が満ち満ちている。
「この後、朔也が来るっていうから。みやも、ごはん食べていく?」
「うん」
早速母親に断りのメールを入れる。
時折、考える。
自分の母親の、子供の目線からすれば度を超えた心配性を無効化し、家に入り浸りあまつさえ夕食を貰うことの許可を得る切り札となる利玖の、コミュニケーション能力は恐ろしい。
朔也のわかりやすい利発さとは違って、利玖のは手籠めにされてから術中にはまったことに気付かされるタイプの策士だ。気付いた時には信頼感で、どうでもよくなっている。
朔也が利玖を、詐欺師と正面切って揶揄する所以は、そこにある。
「にしても、量が多すぎない?」
キッチンに置かれた食卓に、いくつかの料理が置かれている。ボウルのサラダやトースターに並んだ野菜、鍋からは出汁の匂いがしていて、どれも作りかけではあったがレパートリーは豊かだった。
「そう?」
利玖のすっとぼけは気持ちがいいほど、棒読みだった。
「前々から思ってたけど、利玖ちゃんは、朔ちゃんを甘やかしすぎだと思うの」
「朔はそうは思ってない。って、この話、前もしなかった?」
この前どころか、常に水掛け論をしている。
別にいいんだ、あなたたちの複雑な関係性に首を突っ込むつもりはない。
揉め事はむしろ、見えないところにあってほしい。傍観する無関心は持ってないし、仲裁に入る度量もない。理想と力不足の整合性をとるのは難しい。
でも、朔也に対する利玖の大きすぎる同情心は、感情の枠を超えている。
朔也が心配なのは大いにわかる。
雅だって、年下ゆえに彼を守れない苦しさは時折感じてしまう。庇護欲ではなく、この人が燃え尽きてしまいそうなとき、繋ぎとめる何かを彼に与えたいと思ってしまう。そしてその対象が雅の実体であればいいと願ってしまう。
絶対的に恋じゃない。
でも、愛情だなんて言わせない。
「みやには言っておこう」
圧力なべのセットを終えた利玖が一度手を止めて、こちらを振り向いた。
彼はキッチンに立つと、大きく見える。
「難しい話は抜きにしていうとね、俺がどんなに頑張っても、朔の考えを変えることはできないと思う。彼の性格や考え方は、彼が二十年間かけて作り上げてきたものだし、困りものではあるけど口出しをできるものではないんだよ」
雅は黙って、話の続きを待った。
確かに彼は、難しいことは言っていない。
でも、雲をつかむようなことを言っている。
「でも、あいつは身体は丈夫じゃないけど、大きな病気なわけじゃないし、規則正しい生活をしていれば、とりあえずの健康は維持できる。俺が手助けするべきは、そっちなんだと思う」
鍋がふつふつと、音を立て始めた。
何を作っているのかは分からないが、野菜を煮ている匂いだ。甘さと、僅かに自然を感じる匂いだった。
「精神と肉体のバランスっていうけど、大事なのはバランスをとることじゃなくて、どちらかだけでもゼロにしないこと。
肉体的に丈夫であれば、暗鬱も希死念慮で済むから。精神的にきついのに無理をして、身体も限界まで来ちゃうと、どうしようもなくなる」
雅は黙って聞いていた。
利玖が思っているよりも、朔也は丈夫だ。
そりゃ、貧弱だし、お菓子で欲求を満たすし、不健康な生活になりがちだし、ネガティブで常に薄暗い人。
でも、利玖の心配は少し、ずれている。
朔也は利玖の健全さに引け目は感じているけれど、一方で常日頃の明るさに安心し、求めている。
太陽に感じるありがたみはときに、日陰に逃げ込みたい気重さになる。それだけだ。
ただやっぱり捻くれているから、太陽の温かさを甘受しながら、夜の寒さを想像して、一人陰鬱に陰る。
感情の早とちり。回転の速い頭は、彼の不器用さをむしろ、助長させている。
「朔ちゃんって、身体を労わることを知らないもんね」
軽口をはさむと、利玖は少し笑った。
「楽することには頭使うくせにね」
利玖の笑顔に、内心雅はほっとする。
「人を悪く言うなら聞こえないようにやれ」
不機嫌な小言と共に、朔也がブーツの踵を踏み鳴らしながら登場した。
一瞬にして空気感が変わる。
彼を目の前にすると、雨が降る直前の、一瞬の重苦しさが思い出される代わりに、静かな室内で雨音をBGMに過ごす午後の幸福な孤独が同時に味わえる。
彼の機嫌が良ければ後者の微睡みに導かれるが、彼の扱いづらいところは、一見どちらか測りかねるところだった。
「別に悪くは言ってないよ」
利玖は白い歯を見せる笑顔で言ってのける。嘘も堂々と言えば、本当に見えてくるから不思議だ。それでいて、残酷だ。
「雅に吐かせるか?」
「尋問じゃないんだから」
利玖は手を洗ってくるように朔也に言い、きれい好きの朔也は言い終わる前に洗面台へと消えていった。
「自分のいないところで話題の俎上に乗ると、どんなことでも悪口に聞こえる心理的不安感に、名前ってないのかな」
雅は利玖の隣で囁く。
「名前がついても、不安は消えないよ」
「でも、名前が付けば普遍の心理的作用に落とすことができるじゃん。自分だけがネガティブになるよりはずっと救われるよ」
「そしたらみんな、その事実に逃げるようになる。むしろ、自分の不安感を他人のそれと一線を画す為により一層、マイナスなものに印象操作するかもしれない」
これも、一種の嫌みだろう。
利玖の潜在意識の中に鎮座する綺麗事は、正義感にコーティングされている。
雅は話を切り上げてリビングに座った。
誰に対してもそうだが、利玖と話すことに時折、何故か物凄く疲れてしまう。
回線の悪い場所で電話していると話すのが苦痛になってしまう様に、気温が肌に合わない環境下で長話をしていると段々億劫になってしまう様に、ふとした時に重たさがのしかかる。
心に壁があるのは、自分がまだ未完成だから。
何でもかんでも取り入れてしまったら、私は流され続けてしまう、と雅は思う。
押し流されて月日が流れさえすれば、自分も直ぐに大人になる。空っぽの、風船みたいな。一見カラフルで可愛らしいけれど、どんな小さな瑕疵にも耐えきれずに壊れ消えていくだけの見掛け倒し。傷なく飛んでいったとしても、風に身を任せるだけの風船に。
「水つめてーな」
聞こえるや否や、朔也の手が伸びてきて、雅の首筋をコルセットのように包み込んだ。驚きで肩をびくつかせると、乾いた笑い声がする。
ご機嫌らしい。
「朔ちゃんのことはよくわからん」
「わかってくれなんて、頼んでないだろ」
「でも、朔ちゃんの気持ちを無視して傍若無人な振る舞いしたら、私のこと捨てるでしょ?」
朔也は一瞬真面目な顔つきになり、直ぐに鼻で笑う。
「傍若無人は誰のことも考えてない。お前にそんなことはできないだろ。でも、俺のことなんて考えなくていいぜ」
嘘つけ、と内心で罵ってみるが、口にはしなかった。
朔也は恐らく、人に気を使わせている自覚があまりない。なぜなら、彼は本心から、自分に気を使ってほしいなどと思っていない。
自分に合わないと思ったら切り捨てるだけ、むしろ本質的な部分を透かしてみようとする悪辣な部分すらある。
気を抜いたら雅や蓮は一発で切られる側だろう。彰葉はわからない。紅花と利玖は必ず生き残る。
とんだサバイバルだ。
「雅は、喜怒哀楽に素直に生きてね」
利玖がお茶のポットを片手に話に参加する。
「素直さは年下の特権だよ」
そういう利玖は、年の離れた兄が一人いる。利玖が入れるなりお茶に飛びついた朔也は、三人兄弟の長男だった。
「喜怒哀楽ってさ、絶対選抜間違えてるよね」
またしょうもないことを、と呆れた表情になった利玖に反し、朔也は僅かに眉を動かしただけだった。瞳は不思議な真っ直ぐさで雅を見つめている。
「だって、人の感情を四つだけで説明しようとして、あれになる意味が分からない」
雅は鞄から取りだしたルーズリーフの端に、喜怒哀楽と書いた。ボールペンの滑りに任せて、のびやかに。字を書くことは好きだった。特別綺麗だとは思わないが、真面目そうといわれる字。
「みやとしては、どこが不満なの?」
利玖が手元を覗き込んできたので、「楽」の字を指さす。
「楽しむって、感情?それって喜びとほぼ同じじゃない?」
「なるほど。じゃぁ、代わりに何を入れる?」
「そういわれると、思いつかないけど…」
「適任がいないなら、喜びでいいんじゃない?ポジション空けとくわけにもいかないし」
あっさり論破され、雅はすっかりつまらない気分になり、朔也を見る。
彼なら雅の持つ言いようのない気おくれを理解してくれるのではないか、そんな一縷の望みを持って。
前髪をそっと触れた朔也は雅に一瞬笑いかけた。リップで潤った唇がいたずらな弧を描く。
「利玖。空けとくって、それが正解じゃないか?」
「ん?」
「虚無ってこと」
頬杖をついてグラスをもった朔也の指先にネイルが輝く。シルバーのストーンがいくつか煌めいて、その分だけトップコートが厚みを持って存在感が増していた。
「虚しさ、か。感情がないってのも感情の一つかもね」
二人は目を合わせ、その瞬間雅はまさしく、虚しさに似た空白を感じる。
自分が近づけない、危険区域。
多分、この四歳の年齢の差が、雅を不穏な何かから守っている。
あそこに行きたいわけじゃない。
でも、彼らにおいて行かれるのは御免だ。
「ちなみにだけど、雅」
「何?」
少し低い声が出たが、特に気にした様子もない朔也が雅の方に手を伸ばし、ペンを要求してきた。正面に座った彼に差し出すペンが真っ直ぐに受け取られる度に、そうだ彼は左利きなのだと思いだす。
彼の変わり者の性を、人類の一割に押し付けるのは酷だろうか。
「嬉、笑、怒、罵」
ルーズリーフに、彼の癖のある筆跡で書かれた文字を読む。
「これも、ほぼ同じ意味合いの四字熟語」
初めて聞いた、と利玖が呟く。
「喜怒哀楽に比べて、毒がある…?」
「私もそう思った。素直だよね」
「罵るを入れる勇気よ」
利玖の苦笑が漏れる。
喜怒哀楽に比べて感情の起伏が増し、はげしい感情の振れ幅に本人も苦しんでいる様子がありありと浮かんでくる。
共鳴したくない四字熟語だった。
「じゃぁ、俺はこうかな」
今度は朔也の手から利玖に、ボールペンが反時計回りに移動する。
「喜努愛楽」
書道をやっていたという彼の、とめ、はね、にまでしっかり意識の届いた力強い文字は、見ているこちらの背筋を伸ばす。
同じ0.5の黒インクのボールペンで書いた三つの四字熟語が、それぞれの色を見せている。
「これは何?」
馴染みのある四つの漢字を目でなぞりながら尋ねると、利玖は得意げに笑った。
「俺が今、作った」
「解散」
朔也が被せ気味にそう云い放ち、その場に寝転んだ。
「えぇ、ちょっとは聞いてよ」
不服申し立てに対し、朔也の大きな舌打ちが響いた。
「うざすぎる」
これはたぶん本音だろうなとテーブルの向こう側を窺う。わざとらしくしたくないから堂々と、彼の隣に潜り込む。毛布のとられたこたつのテーブル部分は、酷く無防備に思える。
黒のスキニーに包まれた細い彼の左脚に、紺ソックスの脚を乗せる。体温は感じず、僅かにスキニーの綿生地の硬さに触れた。
朔也は感傷的な己の性を棚に上げ、他人のそれを異常に疎む。まったく質が悪い。十分幸せになるための条件を揃えられているというのに、いつまで経っても独りよがりで傷ついて。自分の弱さを自覚しながら、他人の強さを神格化する。やはり、彼の変わり者の性は、人口の一パーセントにも満たない。
「利玖ちゃん、おなかすいた」
みやも話を聞いてくれないと恨み言を口にしながらも、穏やかな顔で利玖がキッチンに消えていく。
その背中に堪らない愛しさを覚えながら、そっと朔也を盗み見る。仰向けに寝転び目を閉じた表情の、美しさと華やかさ。
思わず顔を近づけてまつ毛を数えていると、ゆらゆらと伸びてきた右手に正面から顔を掴まれた。
「近い」
瞼を押し上げて覗く瞳の、人工的な紺青。白い肌と長いまつげが引き立たせる人工物が目について、彼への感情が攪乱される。
彼の本当は、どこにあるのだろう。
彼の瞳は、何を見ているのだろう。
女性用のカラーコンタクトを通して。
「ね、でも、結構いい四字熟語だよ」
ルーズリーフを彼の目の前に差し出すと、彼は一瞬眉をひそめながら漢字を見た。
「こんな風に生きてみたいよね」
彼の嫌みが言語化される前に先手を打つ。
大きく自分に不満があるわけじゃない。
他人が羨ましいのかと言われれば違う。
他人になりたいかと言われても違う。
心の底から憧れているわけじゃないけど、幸せだと自己肯定して生きている誰かに、何処かで嫉妬してしまう。
「お前はまだ間に合うよ」
優しい声だった。まるで突き放された気分で見下ろすと、朔也は既に目を閉じて、話しかけるなというオーラを出している。
ほんと、ずるい。
朔也がもつ希死念慮も暗鬱も哀愁も、全部あなただけのものってわけじゃない。四隅は揃っていないけど、グラデーションで重なり合った場所があって、似たような悲しみを透かして耐えているのは雅だって同じことだ。
「朔ちゃん、嫌い」
呟いて彼の隣に寝転ぶ。
「十分だ」
朔也もまた、そうつぶやいた。
キッチンで、まな板に包丁が当たる小気味良い音が響いて、冷蔵庫の開閉音もすっかり耳に馴染んだ。利玖が小さく何かを歌っていたとしても、聞こえないだろう。
隣を見ると銀色の髪の中に、黒いピアスが輝いている。
片割れのピアス。
もう一つを輝かせた彼には、そういえば中々会えていない。




