簡易な希死念慮
うんざりするような時期が来た。
梅雨の、長く続く雨自体を嫌うつもりはない。
蓮は、気温や天気で気持ちを左右される柄ではないので、夏は暑いし冬は寒い、雨が降ったら傘を差し、太陽が出れば洗濯物がよく乾く程度の認識でしか生きていない。
しかし、世の中には天候によって物理的に左右される人もいるし、精神的に左右される人間もまた、存在する。
全くの迷信なのだが、この世には、雨の日に美容院に行かない方がいいという通説があるらしい。
実際のところ全く問題はない。強いて言えばセットは崩れやすくなるけれど、それはその日一日だけの話に過ぎず、通常の雨で髪が濡れる程度なら、カラーやパーマが落ちることはない。
しかし、気の持ちようとは怖いもので、雨の日にキャンセルが来ることもなくはないのだ。
「何してるんですか?」
控室の椅子に腰かけ、椅子の上でくるくると回転していた店長に声をかける。
「いじけてる」
「は?」
カット直後で疲れた右手を振りながら聞くと、それを邪険と捉えた店長は椅子を止めた。
「ドタキャンされた」
あぁ、と生返事が出た。
「諦めましょう」
蓮は水のペットボトルを手に取って、店長の隣に腰を掛ける。
「よくあることじゃないですか」
「そりゃそうだけど。何度されても慣れないね」
客商売のつらいところだ。客がいなければ仕事にならないのに、客のせいで仕事ができなくなる。
店長は哀愁たっぷりのため息をついて、天井を仰いだ。
その姿を見ながら、蓮は少し不思議な気持ちになった。
勿論、蓮だって無断キャンセルは気持ちはよくないし、口にしなくとも不満はある。
ただ、蓮の不満に対し、彼のは落胆なのだ。
外に向けたストレスか、内に向けたストレスか。
どちらがいいのかは、正直よくわからない。
そんなことがあってから彰葉のところに向かうと、思いがけない先客があった。
「朔也」
当たり前に、彼は目立つ。
薄暗いバーの間接照明に照らされた後頭部は丸っこく、限りなく銀に寄せたアッシュグレーの髪は満月のように主張をする。
声をかけると面倒そうに此方を見上げる、その前髪はサイドに流されて、緩やかなウェーブは三日月のよう。
「珍しいな」
利玖がいるわけでもなく、紅花がいるわけでもなく、一人でこういう雑多な空気に自ら足を踏み込むのは意外だった。
「朔也君、俺に服を返しに来てくれたの」
彰葉が口をはさむ。
詳しく聞けば、先日朔也が紅花の家に泊まったという。
それもまた、意外な話だった。
「なんで急に、フットワーク軽くなったんだ?」
出不精で他者嫌いな男が好まないことをしている姿に、努力というより退廃的な危うさを感じ、明るさを装って探りを入れる。
また、こいつは、利玖の心配の種になっているのではないか。
そんな確信に近い疑惑をもとに。
朔也は嫌な顔をした。デフォルトだけど、もう少し愛想を持てば向かうところ敵はないだろうに。
いや、そうでもないか。
「深い意味はない」
朔也は薄いピンクの酒が入ったグラスをなめる。
おそらく本当に意味はないのだろうなと、蓮は彰葉にジントニックを頼む。
蓮の注文などわかっていたと言いたげに作業に取り掛かる彰葉の薄い背中を包む、アイロンのきいた真っ白いシャツ。
朔也が彰葉くらいわかりやすい人間だったら、どれ程楽だろう。
「佐野の姐さんのところで寝落ちたのは、純粋なミス」
仕事でもしているような口調で言うので、蓮はなんだか呆れてしまった。
彼は自分自身を他者化しすぎている。
感情にはストレートなくせに、一個体の生命体としての扱いは酷く投げやりだった。
「何で潰されたの?」
彰葉は興味津々に食いつく。
おかげで蓮の前に出されたジントニックは、コースターから僅かにずれていた。
「スクリュードライバー」
忌々し気な朔也の表情に、彰葉は遠慮なく爆笑をした。
「朔也君て、隙がなさそうであるんだよね。三手先まで考えてると思いきや、その手前で凡ミスしてる、みたいな」
怖いものなし同士の会話に、蓮は内心ひやひやする。
勿論、この二人の関係はこじれる心配はないのだけれど、如何せん角がありすぎる。
「その凡ミスにつけこむ軽薄な輩に言われたくはねぇな」
ほら、やってる。
「俺は、そんな卑劣なことしないよ。弱っているところに優しくして掻っ攫おうなんて、そんなこと、ね」
同意を求める視線でこちらに微笑を浮かべた彰葉に、蓮は肩をすくめる。
「お前の常套手段じゃねぇか」
しかし彰葉の場合は、掻っ攫ってもらう側だというだけだ。
「弱みにつけこむのはそりゃ卑怯だけど、弱ってる時に優しくしてくれない男ってのも、最低じゃない?」
彰葉は自分のウーロン茶を一口飲み、のうのうとした口調で言った。
お前は優しいの意味をはき違えている、とはさすがに言えないので、一番わかりやすい人を思い浮かべる。
「それなら彰葉、お前は利玖に弟子入りしろ。優しさでいったら、あいつよりいい奴はいないだろ」
ジントニックの、爽やかさとは裏腹に強いアルコールが、脳に達する感覚がある。アルコールには強いが、理性に触れる感覚は良くも悪くも倫理観を壊しに来る気がしてならない。
「なるほど。一理あるね」
言葉のわりに、興味のなさそうな表情だった。
わずかな沈黙ができた。
うんざりした気分で、外を見る。
夜景がきれいなビルでも、雨の日は形無しだ。いっそ窓が開けば、静かな雨がこのどうしようもない暗鬱な空気を、押し流してくれるだろうに。
利玖の穏やかな優しさでは、人の孤独は埋まらない。
そんなことくらいわかっている。
誰にでも優しい男は大抵女の独占欲を刺激しないし、その優しさに理性まであるときは、一番の味方にはなってくれない。
だからこそ、一番の信頼を置いているくせに朔也は今、利玖の傍にいないのだ。
その後、人が少ないせいか少し余裕のあったマスターを交えて、世間話を繰り広げた。軽いつまみが大理石を思わせるテーブル台に並んでいる。それを時折つまんでいたが、あまり腹は膨れなかった。
いつも通りの明るい彰葉に対し、朔也は違和感がある程よくしゃべった。
マスターの話す政治経済の話に彰葉はついていけないと唇を尖らせたが、めずらしく朔也が乗った。蓮も途中離脱したので、彰葉のするドラマの話を聞いていた。
「それで、結局お前のその顔は何なわけ?」
バーを出ると、雨は本格的に降り始めていた。
明日は暴風雨だと店長は嘆いていたが、物理的に客足が遠のくのは仕方がないかもしれない。
傘を差すことで精いっぱいの状態で並んで歩き、駅に着くころには二人して髪型が原型をとどめていないほど崩れていた。
蓮はともかく、容姿へのこだわりの強い朔也はものすごく不機嫌に見えた。
着ていた白のジャケットは間違いなく、選択ミスだろう。
「なんか思うことがあるんだろ」
しかし、朔也の不機嫌はどこか偽物じみていることはすぐにわかったし、その奥にもっと揺るぎない懊悩があることは明白だった。
確かにわかりやすい。
それをばれていないと思っている朔也の独りよがりだって、多少目をつぶれば可愛いものだった。
髪を手櫛で何度も梳く横顔は難しそうにしているが、意外に幼い顔立ち。
整っているし化粧も濃いから忘れがちだが、彼はまだ二十歳になりたてで、彰葉よりも年が下なのだ。
「お前に言うと、角が立つ」
不機嫌に朔也がつぶやく。
改札口で互いに違う線に乗って家に帰るところを、俺は別れさせまいと朔也の腕を掴んだ。
毎度のことだけど、その細さに嫌な記憶がよみがえる。
蓮は、健全な身体を持っていていないと相手には、触れることにも抵抗を覚えるのだった。
「その捨て台詞で誤魔化せると思ってるのか」
真顔で睨みつける朔也の、威勢がいいのか悪いのか測れない表情に、蓮はゆっくりとため息をつく。
「隠すなら隠せ。隠せないならはっきり言えよ」
手がかかると思いながらも、朔也を家に連れ帰った。
口では抵抗したものの、朔也は案外大人しく着いてきた。
スタイルや容姿などの外見は限りなくいい方だし、頭もよくて体裁の良い大学に通っている。何不自由なく二十歳まで、親の庇護のもとに生きている。
これだけのものを持って生まれても、満たさない思いに苦しむなんて、難儀だ。
電車の中では一言も会話はなかった。
今更当たり障りのない会話を探す気にもならず、だからと言って真相を口にさせるには夜の電車は明るかった。
サラリーマンら勤め人ばかりの時間帯だったせいか、車内は比較的静かだった。会話らしい会話をする者はおらず、ネオンの明るい車両には摩擦音がやけに響き渡った。
最寄り駅からの帰路でもいやと言う程濡れて、六月だというのに寒気がするほどだった。
シャワーに入るように言うと、
「佐野の姐さんと同じ手段?芸がないな」
などと強がって、さっさとシャワー室に入っていった。
馬鹿みたいだ、と自嘲的な笑いが漏れた。
安堵とは違う、それでも自分にとって心地のいい空間に帰ってこれた安心感は確かにあった。そうなると、空腹感が襲ってきた。
シンクで手を洗い、一人用の鍋を取り出す。火にかけて出汁を取りながら、これが一人だったら侘しいのだろうと思う。
大したやつじゃないけれど、あれぐらいが自分にはお似合いだと、蓮はそう思うことにしている。
女性のように長いシャワーの後、出てきた朔也の姿は形容し難い。彼が女性ならば、美しいとお世辞を言う手はあるが、朔也は上っ面な言葉に対しての耐性がありすぎる。
そのくせ、バスタオルの端で髪から滴る水滴を受け止めながらドア付近から動こうともせず、何かを言ってやらないといけない空気を醸し出す。
ここまで周りに気を使わせる人間も珍しい。
「もう直ぐ飯できるから、髪を乾かしてからリビングで座ってろ」
勿論、彼はいう事を聞かなかった。
濡れた髪をゴムで軽くまとめ、一つしかない座椅子を堂々と使う。
「髪」
「深夜に飯が出てくるの、凄いな」
先手を打つように、簡単な雑炊を褒めてきた。小さなどんぶりを渡したときに触れた指先は、とても冷たかった。
今日の彼は、保身に走り気味だ。
「で、何に気を使ったんだ?」
蓮華を慎重に口に運んでいる横顔に尋ねる。彼は隠しているけれど、猫舌だった。
「聞かなかったことにはならねぇの?」
あけすけな言い方だった。
「俺は考えを改める気はないけど、お前に話す内容ではないかもしれない。彰葉には会いたかったけど、まさかお前が来るとは思わなかった」
「話してみろよ。べつに、俺はお前には期待してないし」
売り言葉に買い言葉だった。
朔也は水の入ったグラスを掴んで、一気に飲む。
すっかりアルコールの抜けた青白い肌が、睨みつけてくる瞳の黒さを際立たせていた。
「蓮今、いくつ?」
「二十五」
「俺、二十歳」
「知ってる」
年齢に何の意味があるのだろう。
十年で一区切り程度の指標。
一年に、今更意味は感じなくなった。
「百まで生きるとしたら、蓮はあと三回、俺はあと四回、生きてきた人生を繰り返すことになるんだぜ」
「平均寿命で考えても、朔也はあと三回か」
割合で考えると、かなり低いところに位置しているのだなと、改めて思う。
「人生、長過ぎね?」
窺うような視線と口調だった。
仕事の会議で、上の決定事項の決定的な欠落を指摘するような、そんな口調。
「まぁ、長いな」
食べ終えた食器をテーブルに置いて、納得する自分もまた、虚しい気持ちになった。
きっともっと、朔也は虚空を抱えている。
「こっちは死ぬこと前提で生きてるのに、死が遠すぎる」
言葉のわりに悲壮感はなかった。もっとずっと捉えどころのない、浮ついた雰囲気は、朔也にしては珍しいものだった。
途方に暮れているのだろうということはすぐにわかったし、今すぐに絶望感に立たされる苦しみとは違う、呆然とする不安も理解ができた。そして、朔也の持つ莫大な不安の核は、大抵の人間が持っている健全な不安だとすら思った。
死が近くにある不安と同様に、強すぎる生への意識は、人間を疲弊させる。
「今日死んでもいいくらい、今日を全力で生きろ」
「は?」
テレビはつけておらず、窓を数センチ開けただけの静かな深夜に、彼の声はよく響いた。
「小学校の時、校長が全校集会で意気揚々と語ってくれたわけ」
「それは、流石にきついな」
「きついだろ」
目が合うと、彼は唇を歪める様に笑う。化粧を落とすと、彼は血色が悪い。
「もし本当に明日死ぬなら、今努力はしない。今日の努力は、今日結ばれない。今を生きているのは、未来への保険だ」
「つまりお前は、小学生で大人の小賢しい人生論の矛盾に気付いてしまったわけだ」
「大袈裟に言えばな」
大袈裟だけれど、朔也は良くも悪くもそういう人間だ。
考えなければいいことを考え込み、結果人生を難しいところに追いやってしまう。自縄自縛の人生観を俯瞰したつもりになっているのだから、救いようがない。
外に出たいというので、ベランダへ彼を見送り、部屋の明かりを落としてカーテンを閉める。
月や星に関係なく、彼は夜空を見るのが好きだった。太陽の眩しい空を眺めるよりも、何もない夜空をただ眺めている。
雨の匂いはもっと好きらしい。
朔也に救いがあるとするならば。
蓮は煙草の箱を手に取り、たっぷり悩んでから、それを机の下に隠した。
朔也は煙草が嫌いなので、彼の目の前で吸ってしまったらおそらく、大喧嘩になる。それでも、吸いたい気分だった。しかし、澄んだ空気にやっと表情を解した朔也のことを思うと自分の感情を推し進める気にはなれず、それならば逡巡した事実そのものをも隠す必要があった。
朔也は、軽く希死念慮を口にしていい相手を探している。心配性だったり、純粋すぎたり、地雷があってはいけない。もっとシンプルに、生と死を同等に見ている人間。
昨日のテレビ番組の感想程度に、彼は死を意識して、最後の救いとして、死という通過儀礼を心の底から臨んでいる。
蓮が母親を亡くしていることを朔也は気にしていながら、彼が蓮に死に近い痛みを預けようとしていること。当然知っている。
朔也にとって最後の砦となっている自覚はあった。
壮大に広がる絶望感の瀞に厭世的なボートを浮かばせて、底でただじっと、終焉を待っている。
終止符ではない、微風がやむような穏やかな終わりを。
それが朔也の願いだった。
馬鹿馬鹿しいくらい、純粋で単純で、誰にもかなえ方が分からないでいる、そんな、おとぎ話。




