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ブルー・マンデー

憂鬱に勝る憂鬱を探してしまう夜は、敢えて明るさに身を置くようにしている。もとかよりどちらかと言えば光を背負えるタイプだと、紅花は自負している。


 月曜日は一番自殺者が増える。そんな数字の表す事実を耳にしたときは、むしろ日曜日の憂鬱を思い出す。

 困難に直面するときよりも、これから先困難が目の前に現れると危惧しているときが最も精神的な不安を覚える。やるしかなくなれば案外猛進できることでも、憶測の壁は厚い。

 涙一つなく膨らんだ悪夢にうなされる。

 案ずるよりも。知らないわけじゃないけれど。


 ちぐはぐさすら感じる健全なバーに来ることを明るさと言い表すのが適切かどうかはわからないものの、少なくともその昔に不健全さの快楽に流され続けた経験を反省はしている。

 誠実さを問われる度に後ろめたさを持つような過去を作ったのは、まぎれもない自分自身だった。


 月曜日のバーはさすがにスーツ姿の人は少なく、ちょっと背伸びした大学生が相対的に多く感じる。

 初々しさを放つカップルの手元の軽い口当たりのカクテルを横目に、彰葉のセレクトはいつだって的確でお洒落だと思った。

 紅花にブルー・マンデーを出してきたことも、もちろん含めて。


「紅花さんて滅茶苦茶美人ですよね」


 大学生の女の子二人組の、明るくて蛍光灯みたいな眩しい声を聴きながら、紅花は愛想笑いを浮かべる。

 一人の子が着ている薄手のニットの袖口についている銀色のボタンが、照明の明かりを拾って一瞬、輝いた。


「あなたたちの若さには勝てないわ」


 腹の内では全くそんなことを思ってはいなかった。昔は。


「いやいや。紅花さんまだ若いですよね」


 彼女たちの持ち上げているのか弄んでいるのか測り兼ねる言葉。


 カウンター席で彰葉と軽いやり取りをしていると、彰葉を通じて隣りあわせだった彼女たちと話が弾んだ。


 甘ったるい酒を飲みながらダイエット宣言をしたり、髪を指先に巻き取りながら次の髪色をどうするか話し込んでいたりと、彼女たちの向上心には羨望を覚える。

 美しくなりたいという思いに貴賤を持ち出す必要など、本来はないのだ。


「それが、紅花ちゃん、今もっと若いのに熱を上げてるから」

 

 ペリエをグラスに注ぎながら、彰葉が口をはさむ。

 目線は下げているものの口角の上がった唇を見れば、彼の意図は図らずもわかるというものだ。

 彰葉の奔放で素直で我儘な、そのすべてを愛している。

 

 一人の女の子が表情を大袈裟に変えたのが気配で感じられた。

若くてきれいな女の子は居るだけで可愛いと思う。

 旬の時期、なんていうと角は立つけれど、努力以上の結果が勝手に付与される時期は誰にだってある。女の子にとって、その時期は若いころに、容姿というベクトルで向きやすいというだけの話だ。


「え、年下趣味なんですか?」


「すごく想像できます。年下エリートの憧れる女性って感じ」


 ただでさえ若さゆえの明るさと遠慮のなさで話しかけてくる二人組の、お酒には弱くはないけれど確実に酔いは回った声とテンションに、押され気味になる。


 二人の頭に浮かんだだろう、若手俳優が演じそうなクールで仕事が出来、人の懐にも入りやすい愛嬌のある男を、紅花は身近に探し当てることができなかったので、敢えて何も言わずにいた。沈黙の肯定があるのなら、沈黙の否定もあるだろう。

 女の子の夢は可能な限り、壊したくはなかった。


「秋月さんは年上と年下、どっちが好きですか?」


 ショートカットの子が彰葉に話を振った。暗い髪色が小さな顔をより引き立てている。

 彼女から、彰葉にすごく気があるわけではないものの、微かな羨望は感じる。若さゆえの、ちょっと真面目過ぎる眼差し。好意を向け続ければ少なからず優しさが貰えると信じ、疑っていない。


 彰葉は少し胡乱な仕草で目線を上げ、そっと笑った。


「俺は昔から、断然年上派」


 そこで一呼吸おいて、だったんだけど、と付け足す。


「最近そうでもなくなっちゃった。近くにいる年上が、ことごとく役立たずで魅力がないんだもん」


 サービス精神が旺盛なことで。

 彰葉が狙いすました瞳でこちらを向く。当て擦りとは知りながら、全く違った痛みが引き起こされる。


「秋月さんていくつ?」


「二十三」


「えー、そんなにいってるんですか」


「てっきり同じくらいだと思ってました」


 年齢は重ねれば重ねるほどに若く見えることにする美徳というものがあり、一方で年頃だと上にみられることをステータスにしている可能性もあるが、彰葉は前者なので、口は挟まなかった。

 紅花自身は紛れもなく後者だったのだ。


「やっぱ、社会人になると年上だからいいとかって判断はしなくなるんですかね」


 二人ははじめ、熱心に大学の男の話をしていた。ゼミの、サークルの、高校時代からのなんとやら。

 先輩という言葉がやたらと出てきたが、紅花自身思い出しても、学生時代の年上への羨望は強いものがあった。


「それはあるよ。高校時代なんて一つ上ってだけで物凄く手の届かない存在だったのに、社会に出ると年齢なんておおよその指標にしかならないからね」


 手先は動かしながら単調な口調で説明する彰葉の表情は、まるで読み取れなかった。


 黙っていれば可愛らしいと、友人どころか常連客にすら言われる彰葉だが、達者な口同様に表情でも感情の喜怒哀楽をはっきりとあらわす。

 機微の片鱗すら隠すのは、実に厄介で気がかりなことだ。


「高校時代、先輩と付き合ってる子が羨ましかったなぁ」


 カルーアミルクをかき混ぜ、一人の子が呟いた。そう遠くない過去のはずなのに、彼女にとっては戻りようのない過去だということを思い知らされる。

 期間じゃなくて、取り戻せるものなのか否か。

 時間の流れの残酷さは、そこにある。


「わかる。後輩と付き合ってるっていう子は理解されにくかったのに、先輩と付き合ってるってすごいステータスだったよね」


 彼女たちのまったく悪気のない思い出話が、まさか秋月の地雷を踏み抜くとは誰が考えよう。

 しかしそれは何も、彰葉だけの話でもない。紅花にも、似た思い出はある。


 懐かしさよりも微かな絶望感。


 皆それなりに、経験値から大事なものを拾い上げて育て上げて、次のステップに進んでいっている。

 ただの暗黒時代にしてしまった自分の浅はかさを、当時持っていた性に合わない快楽主義の負の遺産でしかない。


 紅花は腕時計を一瞬だけ確認し、彰葉に二杯のスプモーニをオーダーした。


「私たち別れたばっかりなんですよ。偶然、同じ時期に」


 まさか、貴方たちの声量でその事実は店内全員に筒抜けです、とはいえずに、そうなのと少し眉を動かして見せる。

うんうんと、もう一人がグラスを片手に頷いた。


「今日の半分は、反省会なんです」


 あまりに直球な言葉だったので、紅花の方が面食らう。

 

「反省するのね、えらいわ」


 本心から出た。別れ話ののちに、愚痴や恨み言を精算したい気持ちはわかるけれど、傷心の中で省みる余裕があることに驚かされる。


 それで、ダイエットだとか髪色の話をしていたのか、と一人納得する。

 一瞬だけ雪宮を紹介してあげようという考えがよぎったが、彰葉の白いシャツが視界に入って、止めた。

 

流石に意地が、悪すぎる。


 一人が茶色い髪をかき上げて、諦めた表情で笑った。長いまつげは恐らく人工的なもので、綺麗なカールで天井に向かっている。


「入れ込み過ぎちゃうから、振り返らないと終われないんですよね」


 例えばきちんとした雰囲気をする彼女の、タイトなスカートから覗く脚がきちんとそろえられて座っているところからも、情緒纏綿で男に付け入る隙を与えている気がすると勝手な印象を持つことや、それをさり気なくでも指摘しといた方が今後の参考にしてもらえるんじゃないかという思い上がりも、紅花は不意に持て余す。


 客に言っておけばよかったという後悔も、言わなければよかったという後悔も、いやと言う程してきた。

 大抵自分の行動は裏目に出る。


「でも、二人とも十分可愛いから、無理に変わっちゃだめだよ」


 カウンターに肘をついて、彰葉は華奢な手で小さな顔を支える。照明が上から降り注ぐと、童顔な横顔に影ができて妙に色っぽくなった。


 二人が、僅かに息を飲んだのが分かって、紅花はいたたまれない気持ちになる。


「恋愛って、相手の為に自分が変わるだけじゃ限界があるよ」


 ずいぶんと体温を置き去りにした言葉だった。鮮やかな愛情表現が鳴りを潜め、その分妙に説得力がある。


彰葉のこういうところは、利玖に似ている。

 曲全としているくせに、その内側にあるものは絶対に何があっても譲らない。

 存外情に脆くて付け入る隙のある蓮のほうが、危うくて、扱いやすい。


「付き合い続ければね、いずれこっちにだって譲れないものができる。その度に、相手の為に我慢し続けるなんて無理だよ。もしも、その相手との未来を見ているのならね」


 いやな奴、と紅花は内心で思うしかなかった。

 自分の身に起こる不幸を無意味に薄めて広げて、誰にでも当てはまる普遍のものにするには、無理がある。

 わかってもらおうなんて、みんな同じだなんて、そんな無意味な安心感に浸りたいわけではないはずなのに。彰葉は時々、自分を普通と偽りたがる。

 

 にっこりと、可愛らしいと自覚のある笑顔を浮かべて、彰葉はスプモーニを二人の前に差し出した。トップコートで整えた指先をグラスに添えて。


「こちらのお客様から」


 ドラマからでも仕入れたらしい目線を投げかける彰葉の、白々しさと嫌味っぽさに、紅花は言葉が一瞬遅れた。

 二人が驚きと羨望と感動を湛えた瞳でお礼を言ってくるのを、辛うじて笑顔で受け止める。


「そろそろお帰りのお時間よ」


 暗に帰れと言った言葉を二人は素直に受け止め、さくっと飲み干すと直ぐに帰って行った。

 

 また来ますとか、今度紅花さんのところにもお邪魔したいですとか、可愛らしい別れの言葉を口にして店を後にした背中を見送るとき、その言葉が現実になるのはどのくらいの確率だろうと考える。

 口約束。

 その場の勢いだけで取り交わす約束を、大人になれば泡沫のものと知る。でも、時折叶う淡い期待は、絶望よりもむしろ残酷で長い暗鬱だ。


 彰葉が空いたグラスを下げる。華奢なグラス同士が重なり合って刹那的な音が奏でられると、静かなはずのバーの繊細さに、酷く冷たい影を落とすようだった。


「なんで失恋した後ってみんな、容姿磨きをまずするんだろう。どう考えたって、容姿がいきなり変わるわけでもあるまいし、別れた原因が容姿なことなんて、ほぼないでしょ」


 ぼそぼそとした口調で去った者の揚げ足をとるやり方に思わず閉口するが、彼の言い分は多少真理をついてはいる。

 

 悪い事ではなく前向きな行為故に否定はしなくとも、根本的な解決策とは言い難い。


「紅花ちゃんが浮かない顔をしているのを見る度に、美人が幸せって言葉を俺は疑ってるよ」


「大きなお世話よ」


 幸せなフリくらい、別に意識しなくたって出来る。でも、彼らにそれが通用しないから、辞めただけだ。


「全く、年上だってのに、頼り甲斐が無いなぁ」


 わざとらしい言葉に紅花はすっかり呆れ果て、その一方で危うさにやはり年下の不安定さを感じてしまう。勿論、何処かに自分の過去の悪い事例が浮かんでしまうのも事実だ。


「あなたね、ああいう気を持たせる発言はどうかと思うわよ」


「事実を云ったまでだよ」


「その気がないのに相手に期待させるなんて男のやることじゃないし、あなた自身だって、絶対に何処かで面倒を被るわよ」


 温くなってしまったグラスに指先を添えると、


「叶えるだけが恋じゃないでしょ。壁が厚いほど燃えるっていうしさ」


 ふいっと外に顔を向けてしまうと、彰葉は何を言っても聞き入れない。拘りはないくせに頑固で意地っ張りだった。


「壁という明確な目的意識があるうちは、お互いに協力体制になるから互いへの文句を感じにくいのよ」


 結ばれるまでの壁はただの障害物に過ぎない。


「参考にするよ。それより紅花ちゃん、マティーニでもどう?先輩につけとくけど」


「そこは素直に驕りなさいよ」


 すでに人はまばらで、もう少しするとラストオーダーになる。

 夜の十一時閉店。

 やはり、紅花には健全すぎる。


「俺としてはむしろ、見ず知らずの女の子に驕る余裕があるなら、俺にもくれていいと思うけど」


 この子の唇はなぜいつも潤っているのだろうと、妖艶さはあまり感じないけれど美しいな、とぼんやり考えた。


「秋月。あんたに、ピンクレディを」


 普段、並ぶと身長はほとんど同じくらいだけれど、やはりこうしてみると秋月はきちんと男だ。首を傾げる時の首筋とか、顎にあてた手つきだとか、ちょっとしたところに男としての美しさを感じさせてくる。

 そういうところも多分、紅花に堪らない甘美を与えてくれるのだ。


 叶えるだけが恋じゃない。


彼はおそらく自分のことを言ったに過ぎないが、ちょっとだけ痛いところを突かれた気がする。


叶わない恋が無意味だなんて、一体誰が言えるのだろう。

恋に格上げして壊れるくらいなら、じれったい距離感で愛し続けることの一体何が悪いのだろう。


見た目は鮮やかなスカイブルー。

香りはさわやかなオレンジ。

舌先に残るのは微かな苦み。


知った痛みだけで死ねるわけじゃない。

負った痛みに耐えながら、別の痛みに向き合う日々だ。

それでも、ふとした瞬間に懐かしさを覚える痛みに揺さぶられ、思考と感情の乖離した涙が熱を持ったまま頬を伝って、確かな痛みを思い出し、持ち続けた愛を思い知る。


お前はまだ未練があるのだ、と。



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