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コイバナ

 女性の髪とか男性の髪とか、別に髪に性差はないのだろうと思う一方で、触る回数が増えれば増えるほどに、でも違うかもしれないという不思議な感情が湧いてくる。


 おそらく、長さと、手入れの差だ。

 女性にとっての髪が命というのは、女性が命同等に髪に気を使って手入れをするからで、例えばボブやショートの長さであっても丁寧にトリートメントされた髪は艶っぽくて甘い香りがする。同じ長さがあっても、男の方はそこまでしてトリートメントにまでは気を使わないだろう。


 性差を語ることをどうこうすることに、社会全体が神経質になっている昨今、性差を感じる場所での仕事をしている身として、冷静さを流せなくなることも多い。

 自我が芽生えた時から母親と二人暮らしだった。数年前、蓮が二十歳の時に亡くなるまで続いた二人の生活では、性差ではない役割分担を二人でうまく切り替えてきたつもりだ。母が仕事に出て、家のことは蓮の仕事。だから家事は、全般できる。

 結婚をする予定はないけれど。


「でも、えらいですよ。保護猫を飼うなんて」


 店長の大きな声が隣からしてくるのを、ドライヤーの音でかき消したい衝動にかられる。彼はいい人なのだが、如何せん空気を読めない。おおらかさと愚鈍は紙一重だ。


「他人の幸せに傷つく度、そんな自分にも落胆して、負のループになりますよね」


 客の発した言葉がぼんやりと記憶に落とされ、確かな輪郭となって過去を掬い取る。

一瞬強いめまいがした。

明りの強い蛍光灯の残像を目の奥に感じながら、強い瞬きをする。


「知り合いに心理学に精通した者がいるんですけど」


 蓮が切り出すと、客は鏡越しに目線を寄越した。おそらくカラーコンタクトに縁どられた大きな瞳。明るい瞳に、染めたばかりのハニーなんちゃらの色がよく似合っている。


「人間の記憶は、感情に引っ張られてかなり修正をされているそうですよ」


 手にワックスを広げる。体温に溶けるバームタイプ。


「慰めてくれるの?」


 彼女はもう泣く気力もないという笑顔で蓮を見上げた。


「あなたがいい飼い主だったこと、きっと覚えてくれていますよ」


 もう少し気の利いた事が言えれば、と思うことがない訳じゃない。少なくとも、客商売として口がうまいかどうかは大きな差になる。紅花のようにお世辞がうまくなくても、彰葉のように懐に飛び込めなくてもいいけれど、笑顔で客を帰せるくらいの言葉を口にしてみたいものだ。


「そうだといいな」


 長年飼っていた猫がこの前なくなったから、同じ色にしてほしい。

 そういって見せられた写真の猫の種類を、蓮は知らない。よく見かける、甘い黄色の猫。子猫だった時の写真だと言っていたが、確かに柔らかな毛並みは晩年には思えなかった。

 

 肩に着く程度に整えた毛先を軽くあそばせてしっかりとワックスを揉みこませると、蠱惑的な猫の雰囲気を醸し出した。


 会計を済ませ店の外まで見送りをする。重たいガラス戸を音をたてないように持っていると、客が振り返った。


「雪宮さん」


 整えたばかりの髪の艶を揺らすように、彼女が顎を上げる。


「好きです」


 店内で流しているジェーポップの騒がしさとも違う、人の多い雑然とした喧騒の中で、彼女の小さくて高い声を、よくこれだけ綺麗に拾い上げるものだ、と思う。

 聞こえないふりをするには遅く、既に思考の間を置いてしまった。


「えっと…」


 こういう経験がない訳じゃない。

 ただ一向にその兆候を見逃して、未だに正しい対処法が分からないだけだ。


 泳いだ蓮の瞳に気が付いたように、彼女はにっこりと笑った。カルテに書いてある年齢が正しいとすれば、彼女は未成年のはずだ。


「あ、答えはいりません。わかってますから」


 一番きれいな、彼女を作り上げたつもりだった。

 髪が女の命なら、美容師はその命に触れている。


「あなたに会えるから美容院が楽しみでした。でも、全然上手くいく気がしなかったから、苦しくもあったんです。私だけが苦しいのは悔しいから、優しいあなたにも知ってもらいたかった。それだけです」


 淡々と、彼女は表情も変えずに言ってのけるので、蓮は頭が混乱した。整理され過ぎた感情を言葉にされてしまうと、動揺の影すら見いだせない。


一方的にさっぱりとした顔で去っていく彼女の小さな背中を眺めながら、まず頭に浮かんだのが後悔でも贖罪でもなく、常連を失ったことへの気まずさだった自分を、蓮は不義理で没義道だと思った。


 猫と一緒に切り捨てられたらしい。

 そう思うと、堪らない痛みを記憶から拾い上げてしまう。痛みを繰り返したところで傷はいえることなんてない。ただ痛みを実感することで、動けずにいる自分の足元を自覚するのだ。

 ある日突然奪われていくものの、失い方。


 性差なんて何の指標にもならない。

 でも、蓮の知る限り、女の方が捨てることが上手だった。







 蓮が本人の意思で駄菓子屋に来ることがそうそうないことだけに、リビングでお茶を飲んでいた蓮の姿に雅は妙にうれしさがあったけれど、一方で言えば、それが何となく嫌な予感と紙一重であることも知っている。


「ゆきちゃん」


 入口で、利玖から蓮がいることは知らされていた。大きな靴も見た。でも、姿を見ると嬉しくなる。


「久しぶり」


 定型の挨拶を口にしながら、本当に久しぶりだと思う。

髪型が変わっている。少し暗くなった髪色と分け目が変わっていて、ボリュームは減ったけど、前髪は少し伸びた。

 服装は相変わらずタイトなパンツに白いシャツと軽めだが、髪型のせいで随分と若者感が出る。


「元気そうだな」


 少し低めの声と、落ち着きのある話し方。

 蓮に会う度に、この人の安定感に救われると思う。同じ空気感で話せる人も好きだけど、わかりやすく大人の対応をくれる蓮のことを、雅は優しいと思う。


「ゆきちゃんは、だめそう」


 彼の隣に座ると、微かに彼は笑った。彼を知らなければ微笑とはわからない程度に、唇が動いた。


 この人の、この安っぽくない仕草も好きだ、と思う。大袈裟に動き、同意をし、意思疎通を試みるのとは違う、年齢差も性差も立場も違うから、理解しようと無理をしあわない。お互いに。


「どうしたの、またお客さんに告白されちゃった?」


 図星のようで、蓮は手入れは感じさせない程度に整えられた眉を歪め、髪を乱暴にかき混ぜる。

 美容院特有の、シャンプーとカラー材の匂いが微かに漂った。


「勘がいいな」


「いや、ゆきちゃんが私にする話なんて、それくらいじゃん」


 蓮と雅の共通点はおよそ、存在しない。

 二十五の美容師と十六の女子高生。

 不用意に近づくと他者からの好奇の目は必然だし、友人の友人くらいにとどまっているほうが、お互いにとって都合がいい。


 しかし、恋愛話になると別だった。

 蓮はこの手の話には疎いくせに巻き込まれる体質で、普段は悩み事も恨み言も本音も内側に閉じ込めて隠してしまうくせに、こと恋愛になると吐き出さなければ気が済まない性質だった。

 そして、その話相手は決まって、雅の役割となっている。

 

「でも、直ぐに断ったんでしょ?」


 雅は冷蔵庫からお茶を取り出し、グラスに注ぐ。雅の為に利玖が用意してくれた、金淵で真ん中が括れたグラス。小さな雅の手に馴染んで、使い勝手が非常に良かった。


 蓮が静かに、今日あったことを話し始めた。シナリオのように簡潔に語られ、そこに感情は入れて話されるわけじゃない。しかし、場面における蓮の感情も女性側の感情も手に取るようにわかるから、おそらく恋愛とは非常に単純な感情の組み合わせでしかない。


「常連さんを失ったって結論なら、いつものことだね」


 レモングラスの入った紅茶は香りが強く、すっきりとした味わいがした。

 四時間目の体育で校庭を走らされ、疲れを残した身体は何処かに乾きが続いていて、冷たい水分が染み渡る。


「常連作るのって、結構苦労する話なんだけど」


 あまりに雅が簡単に言ったので、蓮が少し不服そうに口をはさんだ。


「そりゃそうだろうけど。ゆきちゃん、常連さん作るのも上手い分、失うのも早いんだね」


 容赦のない言葉に、蓮は諦めてため息をつく。

 

「モテるね」


 雅は二杯目のお茶を注ぎながら言うと、彼はリビングの方から感情のない目線を向けてきた。


「褒めてるのに」

 

 畳に腰を下ろす。衣替えをした制服のスカートが広がり、花びらのように柔らかなしわを作る。


「そんなに嫌なら、彼女作りなよ」


 雅が言うと、彼はもう一度大袈裟なため息をついて雅の背後に回る。体育のせいで乱れた髪に、彼は慣れた手つきで櫛を通し始めた。


「女がいようがいまいが、結論は変わらないんじゃないのか?」


「そうでもないよ」


 蓮に背中を預けるように姿勢を整え、頭を動かさないように後ろを向く。


「常套手段でしょ。略奪したい人ばっかりじゃないんだから」


 制服の下に隠したけれど、実は足を怪我した。マラソンで砂利に足を取られて、咄嗟に手を出したものの、身体を真っ直ぐ左に倒してしまった。体操服に保護されていなかった左足の太ももに、擦り傷と血がにじんだ。尾を引く痛さではないし、制服を着ていれば気付かれることもない。ただ、体重をかけると少しひりつく。


「それに、恋愛相談なら、紅花さんにした方が絶対に参考になると思う」

 

「ないな」


 直ぐに否定された。


「なんで?」


 彼の大きな手が雅の髪を編み込みにしているのが分かる。


「抑々、相談じゃない」


 解決策を講じていないことを考えれば、これはただの近況報告ともいえる。


「でも、経験値を考えたら、私じゃ力不足じゃない?」


 いや、と、彼が頭を振ったのが分かる。

 体温を感じさせる指先が、優しく髪をすくっていく。


「経験値は、むしろ邪魔だろう」


「そうかなぁ」


 十六歳の雅にとって、大人である紅花のいうことはすべて参考資料になっている。

 彼女の恋愛遍歴については、出来れば知らずに生きていきたけれど。


 でも、いつかはきちんと聞きたいと思う。

 紅花のもつ恋愛観が確かな経験値に裏付けされていることは、何となく気が付いている。

愚鈍な振りは楽じゃない。

それでも今はまだ、無垢な自分を提供していたい。


「同じものを望む同士であれば参考になることはあっても、俺と姐さんじゃ価値観があまりに違う」


 この人は真面目だ、と思うと同時に、その真面目さに通ずるものが自分の中にあると、自覚的になる。

でも、彼ほど誠実なわけじゃない。

強いわけじゃない。


「他人に当てはまることが自分に当てはまるかもしれないって考えは、しない方がいい。大抵、偏って自分の首を絞める」


 アドバイスに見せかけた痛烈な忠告だと、雅は直ぐに理解した。


 誰かになりたい雅を、蓮は理解してくれない。

 

 彼は根底にぶれない自己自認を持っている。他人の手前に己を意識的に持っていて、基準を自分の中に見出せる。


「人の振り見て我が振り直せってやつなら、十分じゃない?」


 髪がどんどん結い上げられていくのが分かる。

 いつからだろう。彼に髪をやってもらうことに抵抗がなくなったのは。

 少し強面で愛想笑いすらしてくれないこの男の無愛想こそ、平等な誠実さだと気が付いたのは。

 

 誰も、一切、差別せず、意識せず、贔屓せず。

 存外難しいことを、何の不自由もなくこなす。


 贔屓すべき人はもう、彼の傍にはいないらしい。


「他人の失敗を見ただけで回避できる程お前さんが優秀なら、それでいいだろう」


 容赦がない。

 でも、正論。

 自己評定は低いくせに上手に生きていけるという傲慢さ。卒なく生きようとする狡猾さ。人を踏み台に出来るという不遜さ。

 本当に、褒められたもんじゃない。


「結局人の痛みなんてわからないし、軽んじて生きているんだよ、皆」


 人の痛みにどれ程共感性を呼び起こしたところで、自分の身に起こる痛みを知れるわけじゃない。置き換えは所詮、偽物でしかない。


 誰かの痛みを知った気になるな。

 誰かの痛みを生かそうとするな。


「あのね、ゆきちゃん」


 顔を覗き込むように振り返る。目が合うと、彼はほんの少し眉を上げて手を止めた。


「髪、ちょっと引っ張りすぎ。痛い」


 彼は少し驚いた顔で手を緩めた。


「まじか。それは悪い。編み込みの部分は痛くないか?」


「今は痛くないんだけど、頭が重たい感じする。これ、長時間はきついかも」


 なるほどと、彼が唸っている。

 仕事人間。

 熱心だね、とは言わない。茶化したと思われたくない。


「結婚式用?」


「そう。これからの時期、増えるからさ」


 それだけ言うと、彼は髪を結んでいた手をあっさり放し、髪に指を通し始めた。初めからやり直すようだ。


 彼にとっては忖度のない実験台になるし、雅は自分ではできない髪型を、プロにやってもらえる貴重な機会。


 やはり、何となく嚙み合っている。お互いに。


 すっかり手持無沙汰になった雅は、瞳だけで周りを見渡す。

 壁に掛けられたカレンダーを見つめ、先ほどの会話を思い出す。


 もうすぐ六月。

 ジューンブライドの季節だ。


「抑々ジューンブライドは雨っぽい西洋にとっては雨の降りにくい季節として選ばれていたのに、言葉に踊らされて梅雨ど真ん中に式を設定するなんて愚の骨頂」


 朔也がそう切り捨てた季節。

 朔也は鼻で笑うだけで済むけれど、蓮にとっては厳しい季節だろう。


 窓を全開にしているお陰で部屋の中に程よく風が入り込んで、レースカーテンの裾を揺らす。時折公園から、ここまで子供の声が響き渡るのを聞きながら、雅は目を閉じた。


 疲れを内側にため込んだ身体に心地の良い、柔らかな眠気が襲ってくる。


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