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世界地図と地球儀

繊細な線の、微かに消えかかるその筆致に、何かの終焉を思ってはみるものの、その上にもう一度絵の具を載せた筆がなぞってしまうから、ふとした絶望感の結末が分からないままでいる。


 スカスカの、キャンバスに想像の余地を残す暇があるのなら、丁寧に色を重ね続ける忍耐力を思うと、朔也は軽いめまいがしそうだった。

 生ぬるい言葉で言うなら、琴線に触れる。

 気障ったらしく言うのなら、人生の道標。


「いつか行ってみたい国はどこ?」


 そんな利玖の言葉から始まった、唇で紡がれる世界旅行。

 何だかんだ嫌いじゃないんだ、そういう話。


 当然直ぐに食いついたのは、彰葉だった。


「シンプルにアメリカ。カリフォルニアとか、ロサンゼルスとか、ニューヨークとか、とにかく映像でしか見たことないところに行ってみたい」


 雅は学校で、蓮と紅花は勿論仕事だった。

 朝から暇つぶし感覚で遊びに来た彰葉を笑顔で迎え入れ、人の少ない朝の時間をのんびり過ごしているところを見ると、利玖といい彰葉といい、ここに集う人間の時間の使い方に感動を覚える。


 あくせくしていいことはないとわかっていても、朔也は心の焦りを止められない性質だった。人より一歩先を考えなければ置いて行かれる気がしたし、立ち直れない気がした。


「俺もアメリカ行ったことないんだよね。ハワイも行ってみたい」


 わかるわかると言い合いながら、簡易パンフレットの王道ルートで話を弾ませる二人の、高くて甘ったるい声と口調。

 どこか遠くに感じる。

 それこそ、ハワイに置き忘れたみたいだった。


 小学生の時、家族でハワイに行った。ワイキキの、日本人だらけのホテルでやたら量の多い料理を分け合って食べた記憶が、甘やかなシロップにべとついていて、今更追憶で満たされようだなんて思いはしない。


 もう二度と手に入らないものを、ノスタルジックに浸るなんて、かっこ悪くて気障ったらしいこと、俺はしない。


「朔は?どこに行きたい?」


 名前を呼ばれると、反射的に顔をあげてしまう。朔、と利玖しか呼ばない簡易的なあだ名が、細い糸のように朔也の首に絡まっている。


 幸福的な、限界を感じている。


「俺は、アルジャントゥイユ」


 彰葉が直ぐに不思議そうな顔をした。


「それって、世界三大スープじゃないの?」

 

 朔也の時が束の間止まっている間に、利玖は軽く笑ってから、直ぐに訂正を入れた。


「彰ちゃんが言いたいのは、ラタトゥイユ。野菜の煮込み料理だから、スープじゃないよ」


 彰葉はラタトゥイユと何度か呟き、納得の表情になった。

 

 利玖の笑いはいつも軽やかで、人を馬鹿にした雰囲気がしないのは、彼の人徳というやつだろう。朔也が同じことをすれば反感を買うと知っているから、朔也には人を笑うことはできない。


「で、その紛らわしい名前のところに、なんで行きたいの?」


 鬱屈したところのない口調にほだされ、朔也は身を起こす。


「これ」


 無限に続くラジオの様な二人の会話を聞き流しながら、朔也はずっと画集を見ていた。


「あ、モネがよく書いてるところか」


 利玖が直ぐに納得した声で頷く気配に、なぜこうも安堵しなければならないのかと己の性に思う。

 人の共感を得たくらいで、居場所を見つけたように安堵して許された気になって、そんな臆病に生きていかなければいけないほど、自分は弱くなかったはずだった。


「朔也くんらしいね」


 彰葉が食い入るように画集を見入るから、なんだか朔也の方が身の置き場に困り、立ち上がって洗面台でリップを直す。

 

 紅花がくれた、濃い赤のリップはスキニーのポケットに入れていたせいで、自分の体温で少し溶けていた。一見かなりどぎつい色に見えるのだが、唇に載せると水分が多くて透明感が潤いを演出する。


「神崎くん好みでしょう?」


 言葉のわりに得意げというわけでもなく、彼女の感性が研ぎ澄ますまでもなく宛がわれたそのリップを、朔也は確かに気に入って愛用している。

 乾燥に弱いので、梅雨のもっさりとした重たい空気の中でもリップクリームは手放せない。


「似合うわよ」


 紅花はそうも言っていた。

 朔也のメイク情報はほとんどが紅花からの受け売りだ。

 彼女のお勧めを言われるままに買ったり、彼女から譲ってもらったり、紅花に出会ってから、朔也は自分を飾ることを覚えた。


 髪を直したりファンデーションを直したりたっぷり時間を過ごしてからリビングに戻ると、まだ二人は画集を覗き込んでいる。

 彰葉の方が二つ年上だけど、並んでいる姿はどう見たって利玖の方がお兄ちゃん面をしている。


「この絵とか、凄く優しい感じする」


「モネの絵には境界線がないって聞いたことがあるけど、本当に綺麗にグラデーションになっているよね」


 顔を寄せ合っている姿に、この二人は相性がいいと遠巻きに思ってみたりする。


 境界線を描かないことで、優雅で奥行きのある壮大な絵になる。彼の筆致は、風景画に向いている。

 

 利玖が朔也を見上げ、隣に来るように促す。利玖が意図したより一歩遠くに座ると、彼は一瞬だけ寂しそうに笑い、直ぐに目線を逸らした。


 窓の外で、微かに風の音がする。

 朔也は意識して風の音、風が何かをかすめる音に聞き入り、きっちりひかれたカーテンの隙間から微かに入り込んだ光を眺める。畳に差し込む、一筋の光。束の間の、雨雲の休息の時間に思えた。


「モネって、確かにこの橋もよく書いたけどさ、一番有名なのは睡蓮だよね」


 彰葉の呟きが受け身の取れていない言葉として流されていくのを、利玖も朔也も繋ぎとめることができなかった。

 特別な彼の思いを拾い上げようにも、むやみに手を伸ばし揺すってしまうと、穏やかな水面を揺らし無意味な仇波を起こすようなものだった。それこそ、生命力はあるけれど動くことのない睡蓮の絵に閉じ込められた、一種の永遠性に似ている何かが、彰葉にはある。


「俺、そろそろ行こうかな」


 彰葉は立ち上がって、大きく伸びをした。部屋にこもる空気に暑いという言葉を何度か口にしていた彼は、着ていた薄手のニットカーディガンを脱いで紺のシャツ姿で、覗いた腕の内側の白さと言ったら、女性が羨むほどの美しさだ。白は不思議な色だ。色彩の中で最も薄いその色を、なぜ人は作り上げることができるのだろう。


「もうそんな時間か。朔は?大学行かないの?」


 利玖が投げかける視線の端に、行けと書いてある。

 もともとそのつもりだったので、画集を今度来た時に持って帰ろうとテレビ台の下に仕舞い、立ち上がる。

 当たり前のことだが、分厚くて質のいい画集がなくなると荷物が途端に軽くなった。


「朔也君も、もう行く?」


 それじゃ一緒に行こう。

 そういって黒いスニーカーを履くために小さくなった彰葉の背中に、膝を載せる。重いよと笑う横顔に、自分に無いものをはっきりと確認する。


 多分俺は彰葉が羨ましいけれど、同様に彼にも薄暗さがある。そんなことは当然知っているはずなのに、日々の暮らしにおいてこれだけの笑顔を振りまける時点で、確実に朔也よりも幸せに近い。


 塗ったばかりのリップの滑る、唇を少し舐める。化粧品特有の苦みが、舌先からゆっくりと口内に広がる。


 きっと、それだけじゃない。幸せを手繰り寄せる求心力と行動力の差だ。

朔也の最も、苦手とするところの。


「二人とも今夜はまた雨だっていうから、気を付けてね。朔、そのショートブーツ、裏に滑り止め全然ついてないから、階段とか滑らないようにね」

 

 母親の表情できめ細かな指摘を続ける利玖の言葉を遮るように、朔也は振り向きもせずに店を出た。

 振り返りながら彰葉が手を振っていることは勿論気が付いているけれど、朔也はそういう柄じゃない。



 店を出ると直ぐに緩やかな坂になっていて、駅に向かうには少しばかり足に力が必要になる。

 道路のおうとつを太陽が照らすと、どこぞの天然石みたいな輝きを感じてしまう。太陽よりも、蛍光灯の方が人を選ぶ光だ、と思う。ショートブーツも、足を踏み出す度に尖った足先が光を集めて色を無くす。

 

「朔也君は、アメリカ行ったことあるの?」


 先ほどの会話の続きをするように、彰葉はこちらを見ずに言った。

 人懐っこいはずの彼が、少し彷徨わす視線が妙に心に引っかかる。


「本土はない」


「行ってみたいと思う?」


 さあなと、朔也は本音で返した。

 確かに経済においても文化においても最先端を作り出す先進国の、輝かしい光と高層ビルに囲まれた街を歩いてみたい気持ちはあるけれど、そこに行っても自分の本質には何も響かないことは知っていた。

 広大な土地と手の入れこみ過ぎない自然の壮大さを肌で感じてみたいとも思うけれど、その中に自分を救う答えを見出せないことを知っている。


「俺もね、別に真剣にアメリカに行ってみたいわけじゃないよ」


 まるで秘密を打ち明けるような、含みのあるいい方だった。


「むしろ、俺はどこにも行きたくない」


 好奇心の塊だと思っていたので、その一言は意外に感じた。


 彰葉は朔也の隣に並び、同じくらいの歩幅で道路をけるように歩く。


「いつか一緒に行こうねって言ってくれる人が、いて欲しいだけ」


 言葉が確かな質量を持って朔也の感性を侵すので、溜め込んだ経験値から相応しい言葉を探す余裕がなかった。


「お前も何だかんだ、欲が深いよな」


 言ってから、違うニュアンスを含み過ぎたと内心反省をしたが、彰葉は軽やかに笑うだけだった。


「業が深いよりましだよ」


 底抜けに明るくて、ちょっと小生意気だけど愛嬌がそれ以上にあって、人たらしな奴。

 彰葉の印象は大抵そんなものだろう。店で彰葉に関わる程度の人にとっては、彰葉を空気を多く含んだシフォンケーキのような存在だ。


 でも、彼はその軽さの裏に、酷く残酷な一面を隠している。

 朔也のようにはっきりと見せずに笑顔で誤魔化す分、朔也よりも性質が悪い。


「人を好きになるのは簡単だけど、好きでい続けるのって難しいね」


 大きな口でにっこりとほほ笑んだ彰葉を、年下だと思いたい欲が出る。

 雅を可愛らしいと思うのと同じ感情で彰葉に向き合っていられるのなら、そんなに楽なことはないのだ。







 黒板は昔本当に黒かったのだと教えてくれたのは、勿論朔也だ。聞いた時はちょっとした感心があったけれど、教室の壁に設置された緑色の大型の板に対して感性を響かせたことが、今となっては不思議なことだった。


 でも、真っ白いチョークを際立たせるキャンパスだと思えば、少し夢がある。

時折黒板アートなるものがネットで話題になるけれど、あの作品の一番素晴らしい点は、直ぐに消されてしまうという儚さだろう。永遠性のないキャンパス。

そういえば、昔キャンパスが高かった時代には、売れなかった絵を塗りつぶしてまっさらのキャンパスにしたとかいう豆知識も聞いたことがある。


一点物は美しい。そこはかとない虚無感が、確かな絶望感が、切り取られる永遠性に勝る甘美さを持っている。


黒板に板書された争いごとに奪われた一点物は、どの時代にもある。そのすべてに名残惜しさを感じるには無理があるけれど、遠い何処かの誰かの人生の軽さに自分の命を重ねると、生きていくための枷ばかりが重たく感じる。

世界史の授業はいつも駆け足だ。日本史に比べて世界中のことを、はるか昔の文明にまでさかのぼるのだから無理はない。

人、モノ、文明を学ぶ面白さを凌駕する、記憶力勝負にはうんざりしながら、悪趣味に教室の端から端まで生徒に発言を促す教師がいないことだけは救いだった。


雅は基本、学校ではあまり話さない。友達が一切いないという程深刻ではないが、話をできるのはごく一部の生徒に限られ、特別悪態をつかないまでも従順じゃない雅は教師受けもいい方ではなかった。


むしろ。と考える。

むしろ、一見大人しそうな印象なのに意思を曲げず気が強いからこそ、悪い方の印象が残るのだろう。


居心地は当然悪い。放課後の時間を逆算しながら、溜息がこぼれる毎日。明確な苦しみは掴めないまま、ただ漠然とした重苦しさに浅い呼吸を繰り返している。


窓の外を眺めて青空の一つでも見えれば心は晴れるだろうに、校舎を囲む高いアスファルトの壁。

此方が守られているのか、此方から守っているのか。

定かじゃないけど、興味もない。

わかるのは、此処も此処以外も、絶対的な幸せなんかないってこと。

ここに一度来たら、所定の時間まではどうすることもできない。ならば初めから来ないという選択肢を安全に思ってしまうのはなぜだろう。

未完成な肉体と未完全の精神で、悪い事の行きつく先だけは覚えた。傷つくことの恐怖は覚えた。抜け出す方法はまだ、知らない。


教師が黒板に、大きな世界地図をはった。丸めて運んでいた端を伸ばし伸ばし、磁石で固定する。あちこちで起こる戦争を、簡易的に図にしたものだった。

地球儀は好きだけど、世界地図は好きじゃない。円には始まりも終わりもない。その永遠性が、地軸の不安定さによって救われている。


雅は海外旅行の経験はない。

ギリシャに行ってみたいと、紅花に話したことがある。

雅は神聖な雰囲気を好むので、宗派に関わらず寺や神社、城や教会などの壮大な建物に惹かれる。中でも、パルテノン神殿が一番心を奪っていった。神話やら伝説などに片足を突っ込んだのは間違いなく朔也のせいだ。


「いい趣味ね」


 雅の答えに対する紅花の答えは、不思議なものだった。肯定でも否定でもない、柔らかな好意だったと思う。


 紅花に愛されているという確信が、雅を生かす瞬間がある。十六歳の雅にとってまだ、愛だ恋だは遠い空想の世界でも、他人の好意が自分を満たすことくらい、経験上知っている。痛みという経験から、学んだ。


 ギリシャって、あの辺?

 瞳で世界地図をなぞりながら、雅はそこまでの道中を考えてみるも、空港までの電車の乗り換えで辟易としそうな自分を思い、辞めた。


 まずは今日、帰ることを考えないと。

 この次が体育で創作ダンスなんて、死にたいくらいやりたくない。


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