運命論
いつものように利玖の家に行くと、既に雅がいて何やら漫画を読んでいる。利玖の物だ。原作は完結しているが、第二シーズンが連載されるとか話をしていたな、とぼんやり記憶をたどりながら、朔也は鞄から小説を取り出す。
「朔ちゃん、化粧濃くない?」
雅が一瞬眉を動かし、困惑するような目つきになった。
「アイラインな」
自覚はしていた。厚い雨雲に覆われた空からは微かな光すら落ちてくることはなく、電気をつけるべきだとわかっていたのに、その薄暗さについ心を掴まれてしまい、化粧の手元が狂った。紺色のアイラインと、グレーに近いブルーのアイシャドウ。どれも、よく使っている。色の白さを自覚しているので、青系の寒色をメイクに取り入れるのが好きだった。
ここ数日、雨が続いた。五月の長雨は単調で、気持ちがいい。静かに降り続く長い雨を見上げ、少し開けた窓から通り過ぎる雨音に耳を傾けていたら、何となく暗鬱で幸福だった。精力的に何かをしなければ生への等価価値が得られなくなりそうな不安から、分断されている閉鎖的な日々。恍惚とそんな日々に浸かっていたら、うっかり大学をさぼりすぎた。買い物にも行っておらず、不意にこのままでは本当に現実から分断されてしまうと、まだ何とか繋がりを持った意識で考え、ここに来た。本当のことを言ったら、ここはリハビリ施設じゃないと一刀両断されそうだ。
「いいよね、化粧が似合う人は」
一度嵌ると抜けだせなくなる、という忠告は恐らく必要がないだろう。
さっき利玖から貰った棒付きのキャンディーの包装紙を破り、口にくわえる。表面が蕩けた頃、甘さが広がる。
「朔ちゃん。運命って、過去の事?それとも、未来?」
顔を上げた雅が、漫画の小さな一コマを指さす。主人公が過去の因縁に気付き、狼狽するシーンだ。
「運命に任せるともいうし、あれは運命だったって言うこともあるでしょう?でも、運命って言葉には、過去と未来どっちを示す意味があるんだろうって、不思議に思うんだけど」
朔也はふっと息が漏れるようにくすぶりを揺らされた。唇に触れた棒付きのキャンディが、甘く痺れる。
「雅はどっちだと思うんだ?」
質問に質問で返すのは時間稼ぎだ。答えがないからこそ、脊髄で答えなくてはならないというのに、雅の少し気真面目ない性格を見ていると中途半端な言葉はむしろ、彼女にとって毒になる。
いるんだよな、と朔也は嫌味ではなく考える。
ちょっといい大学の名前に無意味に食いついて、人格とか性質とかを一切無視して答えだけを求める人間。
雅がそういう類の無知さがあるとは言わないまでも、純粋すぎるのは少し手に余る。
あしらいにくいのだ、とにかく。
しかし、雅は嫌な顔もせず
「きっとどっちでもないんだろうなって思う」
問いかけてきたくせにすっきりとした笑顔を浮かべる。
唇を舐めると、コーラ味の甘さの奥に、リップクリームの苦みが追ってくる。
考え込んで眠れないほど痛みを繰り返す心がなければと思う一方で、あっさりと思考を放棄して心を開く雅を、羨ましくも妬ましく思う。
「都合のいい言葉だよな」
朔也は言いながら、自分がひどく陰湿なことを言っていると気が付く。気の強さで己の弱さを救える程器用ではないとわかってはいるものの、根底にあるのはコンプレックスと自尊心のバランスの悪さだ。
自分のプライドの高さは正直、手に余らせている。いつまで経ってもプライドの鎧ですべてをカバーしようとしている。大人げない。
「そもそもさ、運命って、どこまでの距離を指すんだろうね」
またもや難解な疑問を提示してきた。朔也はさすがに脳が追い付かず、
「手の範囲は超えているけれど、見える範囲は超えてないことじゃねーか」
と、無責任に言った。
しかし、雅は妙に納得した顔で、
「なるほど。じゃぁ、過去でも未来でも、記憶の追い付く限りは運命?」
本格的にただの感覚的な会話になってきた。
「運命って、運の命ってことだろ?なら、運ってものが既に限りある命ってことじゃねーの」
言いながら、流石に無理があると思ったが、最早訂正する気にもならなかった。運命なんて言葉で前も後ろも、左右されたくない。
「なんか朔ちゃんと話してると、だんだん意味が分かんなくなってくる」
雅はそう言って、寝転がった。流石に腹が立ったが、自分でももう一度吟味する気にもならないので、無視してコーラ味のキャンディを転がした。
窓の外で、雨音がする。雨音。雨粒が何を穿つ音に、その名がついているのか、朔也はいまだにわからない。
「運命に憧れているんです」
強い言葉と真っ直ぐな瞳に、紅花は一瞬面食らったものの、正直慣れている言葉でもあった。にっこりと、胡散臭さを自覚できる笑顔で、素敵ですねと返す。
目の前の客は、大学二年生と言っていた。絶妙に、世界が甘やかに感じる時期かも知れない。時間に余裕があって、自由が一番きいて、大人であると錯覚している時期。
「大丈夫。これから、出会える様に運を向かせましょう」
紅花はタロットカードを混ぜる客の、手にいくつも重ねられたリングを眺める。手の甲は白くて、滑らかで、人生の苦労を知らない手だなと勝手に結論をつける。
こんな場所で働いていると、物質的な問題や経済的な問題、人間関係や生まれ持った性質よりも、価値観と自己意識が人生を左右するものだと気付かされる。
極論で言えば、幸せだと思えば幸せになれるというのは、恐らく全くの出鱈目でもないのだ。問題は、その心理的余裕をどう自身の状況から見出すか、なのだろう。
目の前の彼女が心の奥底で臨んでいる物がどうであれ、おそらく無難に幸せな奥さんにおさまるだろう未来が予想できる。それが幸せなことなのか不幸なことなのかは、彼女が死ぬ間際に決めればいい。
近い将来結婚をする、子宝に恵まれると告げたときの、幸せな笑顔。
彼女は紅花のその言葉をお墨付きをもらったとばかりに心に留め、この先の人生設計をする。
誰かに出会い、結婚し、子育てをして生きていく。
そんな普遍的で優しい未来を何よりの目標に生きていくらしい。
去っていく客を見送りながら、彼女いう「運命」という言葉を反芻する。
運命的な出会いを、運命的にしたい。
どれに対しても規範のない、夢物語ではある。
でも、相手を限っているようで指定はしないところは、慎ましい。
女性が髪を切る理由の一つに、失恋がある。それが果たしてどこまで事実なのかは定かではないし、蓮には髪を切る女性に失恋の気配を探すほど暇でもないければ興味もない。
しかし、本人がはっきりと口にすれば別だろう。
「ほんと、結婚するだろうなって、思ってたんですよ。五年も付き合って、こっちの方が年上だっていうのに。転勤をにおわせてはいたんです。でも、私はそれを、だから一緒に来てくれのサインだと思ってたんですよ。思い上がってたんですかね。まさか、転勤を口実に別れを切り出されるなんて思ってもみませんでした」
つらつらと語られる言葉は、蛇口をひねったように真っ直ぐと落ちていく。それだけに、誰かに言葉にしたかった彼女の痛みを知るようで、多少の同情は湧いてくる。
紅花と同じか、少し上くらいの女性に、悲哀よりも強い自尊心を感じて、それが一層彼女の弱さを縁取っているのことに、本人は気が付いていない。
結婚したかったのだろう。その夢が目の前で壊れ、一から作り直すことに彼女が既に消極的なことが読み取れて、この出来事が彼女の運命をどう左右するのだろうと考える。
例えばこれをきっかけに彼女が仕事に打ち込んで自立した人間として生きていくのかもしれないし、別の誰かと結婚をするのかもしれない。
少なくとも、転勤相手について行くのとでは、あまりに違う人生になっただろう。
今朝も雨が続いていた。入れ替わる客の傘が一様に濡れそぼっているのを見るに、今日も雨が続くのだろう。ここ数日続く雨は、世界を塞ぐように重たくのしかかっている。
美容院は雨になると客足が遠のくので喜ばしくはない。
そう考える度に、朔也は喜んでいるのだろうなと考える自分が癪だった。
最近、利玖と朔也の違いを強く感じることが増えた。
不思議なことだけれど、おおらかで人望のある利玖より、利己主義で人となれ合わない朔也の方が愛され慣れている、と感じさせてくるのだ。
性質の差だ。
裕福な家庭で何不自由なく暮らした朔也は、その恩恵と賢しさによって、シューシポスの岩運びの様な思考で常に彷徨い、居場所を失っている。
一方の利玖は、アイデンティティの確立期に足元が常にぐらつく環境下で耐え抜いた強さが根付き、その分だけ他者に対して開けている。
朔也の方が愛され慣れているけれど、利玖の方が人望がある。
全く、人間関係は複雑で面倒だ。
カラー材を塗っている最中、彼女が一瞬の逡巡ののち、尋ねてきた。
「雪宮さんは、結婚とか考えているの?」
担当と、客。
その距離感は、存外心地が良い。
程よい信頼関係と、程よい他人行儀。
「全くないです」
蓮の意図を、どのように汲み取ったのかは分からない。蓮にとって、その言葉は混じりけのない本心だ。
彼女は微かにほほ笑んだ。
望まない答えを無理やり飲み込んだ、大人の女の表情だった。
「いや、お見合いって、理想的な出会いよ」
いちご味のカクテルを片手に、セミロングでクール系の格好をした一人が言う。
「そうかなぁ」
もう一人は、上品なワンピースを着ている。いかにも高価な生地とデザインは、品のよい顔立ちを引き立てている。
ずいぶんと仲が良さそうにアルコール片手に話しているが、醸し出す雰囲気はまるで違う。
話の流れを汲むに、高校の同級生らしい。
「だってさ、お見合いって、他者の視線で釣り合いが取れている人間が宛がわれるのよ。ハードルの高さが同等って時点で、いくつもの問題がクリアされている」
そう思わないですか?
彰葉の方を見て、クールな彼女は同意を求めてくる。
「それはあるかもね。結婚って心理的な相性だけじゃなくて、物理的な相性がいくつも必要になるもんね」
学歴、出身、宗教、家庭環境。
あげだしたらきりがない。
他者の介入に寄った破談なんて、珍しくもない。
同意を得て、彼女はにっこりとそうでしょうと言った。
一方、ワンピースの彼女は納得していない。
「でも、こう、恋愛をして出会いたいじゃない。お誂え向きに相手を宛がわれるのって、何と言うか…」
これまた、窺うような視線が上目遣いで送られる。
「まぁ、うん。運命的に出会いたいのはあるよね」
彰葉の本音としても、出会いたいと思ってしまう彼女の深層心理には共鳴はする。
もっとも、彰葉にはそういう話を持ってくるような人間もいないし、結婚をさせようとする人間も、周囲を見渡しても一人として見当たらない。
クールな彼女はいちごカクテルを飲み干し、カルピスサワーをオーダーしてきた。
彰葉はバーテンダーである必要性が皆無だなと思いながら、黙って酒を造る。
「恋愛結婚は確かに素敵だけどさ、運命的に出会っても運命的に分かれるかもしれない訳じゃない?なら、必然的に出会って幸せになりたいよね」
そんな言葉を聞いていると、彼女の地に足が付いた恋愛観が、妙に正しいものに感じられるのはなぜだろう。
「私は、恋をしたいんだろうね」
ワンピースの彼女は手元のお手拭きで何度も指先を拭っている。マニキュアの薄いピンクが、てらてらと光っている。
「お見合いって、この人と結婚をしますっていう前提で会うから、恋をするって感じじゃないでしょ?勿論何が悪いわけでもないけど、恋愛って感じがしないじゃない。古文みたいよね」
「とはずがたりとか、まさにそうだよね。結婚したのと、好きな人は別にあるって感じ」
「そうそう。私、ちゃんと恋愛の過程を踏んで結婚まで行きたいんだよね」
すっかり出来上がっている二人の自由な会話を聞きながら、彰葉は何とも言えない気持ちになっていた。
この二人は、未来に結婚という選択肢があることを信じて疑っていない。
それって、本当はすごいことだよ?
まさかそんなこと、言わないけどね。
すっかり考え込んでいる朔也の横顔は、艶美に映る。
朔也は目鼻立ちがくっきりと彫りが深く、欠点がない。母親に似たというが、納得できる女性的な整い方で、そこに雅が引くほどの化粧を載せているのだから、お姐さんと街中で声をかけられるのは必然だろう。肩に着くほどの髪だって、女性よりも女性らしかったりする。
出会ったばかりのころは、朔也に対し、不思議だと思うことは多かった。
容姿がいいのに恋愛への興味や異性への関心が全くなくて、けれども美しさには執着している。いい大学に通っているくせに、そのことを褒められてもあまりいい顔をしない。いい人ぶることもないし、言いたいことは好き勝手口にするし、慣れ合うことも嫌いで引きこもりがち。プライドは高いが人の上に立とうとはしたがらない。芸術への造詣が深く、そのくせ絵心は皆無。超が付く夜型で、朝は起きてから十五分は危険物。
本当に、理解ができない。
おまけに人嫌いで気付いたら姿を消しているくせに、案外情緒纏綿とした愛情を見せたりする。
だから長いまつげを揺らすこともなくじっくり考えに耽っている彼の横顔を見つめながら、利玖に出来ることはないのだ。
しかしほんの少し可能性があるというのなら、昼頃に雅の残していった、運命って云々の話だろうと思う。
朔也はそういう、所謂答えのない想像の中を生きている節がある。
いいのか悪いのかは知らないけれど。
「朔」
名前を呼ぶと、見上げるようにこちらに黒目を寄せた朔也の、癖のない輪郭。滑らかな首筋。皮膚が薄くて、無意味に力を込めたらほつれてしまう気がする。
美しさは、裏返す不健全さだ。
「ご飯にしようよ」
夕方の五時ごろ、子供たちの帰宅に合わせて、雅も実家へと帰って行った。両親と暮らしている、数駅隣の一軒家。
それでも、実家に帰る雅はここにいられない不満を抱きはしても、帰りたくないという明確な拒否はない。
朔也は、一人で暮らすアパートに帰りたくはないらしい。
帰りたくて仕方なくて、すっかり他人を寄せ付けない日もあるというのに。
やはりわがままで、捉えきれない。
けど。
「朔はさ、誰かに出会いたいと思う?」
朔也は緩やかに眉をひそめた。アイブローなんて使わない、鋭く整えられた眉。
「この先、友人になる人、恩師になる人、結婚する人。少なくとも今はまだ出会っていない誰かを、求めたくなる?」
朔也は静かに顔を歪め、気持ち悪いと吐き捨てた。
「そんな妄想すんなよ」
辛辣さの裏に余りに明確な不安が見て取れると、その言動を咎めるよりも気遣って慰めたくなってしまう。
全く、悪い癖だ。
「妄想じゃなくて、未来設計だよ」
誰かに出会う未来と、もう二度と誰とも出会わない人生なら、取捨選択も変わるし、選択肢にも変化が出る。
想像は時間潰しの手段じゃないし、現実逃避の産物じゃない。
今の為に過去を反芻し整理することと、未来の為に今を選び取るのは当然のことで、その過程で人為的でない部分や絡み合った眼前の事実に、人は運命という言葉を宛がっている。
ただ、それだけのことだ。
「なんでもいいけど、腹減った」
なんか食おうぜ、と平然と言ってのける朔也の、髪が蛍光灯に艶めく。
あのね、俺は食事の準備をしているし、既に煮込んだトマトの匂いがしているでしょ?朔が考え事に耽っていたから邪魔しないように声かけなかったんだよ。
そこまで言葉を考えてから、諦めた。
朔也のことは正直よくわからない。
でも、わからないままでいいことを学んだ。
そして、利玖は、朔也を相手にしたときは自分を受け入れてもらう必要がないことに、むしろ救われているのは自分の方だと知っている。
朔也と利玖の関係を知る人間は、自堕落で欠落気味な朔也と、規則的で情に厚い利玖の対照的な関係を照らし合わせ、利玖が如何にできた人間かばかりを口にするけれど、本当に何もわかっていないと思う。
少なくとも、その考えが正義でそうと思い込んでいるのなら、その人は利玖を全く理解していないということだった。




