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健全不健全

朝起きて歯を磨いているとき、思いついたように誰かと暮らす想像をする。

リビングからする朝ごはんの火を使う音と匂いで目を覚まし、洗面台を交互に使い、駅までの道のりを二人時計を気にしながら急いだり。

そんなごく当たり前の家庭的な生活を、してみたいと考える日がある。

そして、その難題に眉にしわを寄せたついでに、せめてそんな思い出があれば、と考える。


 ここで問題が起こる。

彰葉の仕事は夕方から夜がピークなので、朝早い時間に起きることなど特になく、むしろ朝方の自由時間にくつろいでいる。


今日とて、目が覚めたのは九時も過ぎていた。朝ごはんなど当然なく、それどころか冷蔵庫の中にまともな食糧があるのかも怪しい。

如何せん、食事処で仕事をしているが故、自分が何をしないでも食事には困らない。

困るのは今日みたいに、うっかりオフなのに予定を入れ忘れた時くらいだ。


 それでも。

彰葉は歯磨きを終え、洗面台の鏡に映った自分の顔を眺める。

健康的に白い肌に、大きな口。夜のバーには少し不釣り合いなほど健全だと、我ながら思う。

同僚のアルバイトの華やかすぎる身なりや軽薄すぎる言動を見れば、自分の自由かつ奔放な生き方など可愛いレベル。


 寂しさがあるのかと聞かれると少し違う気がするけれど、自分の持つ感情の大きな部分を人に伝わりやすい感情に当てはめるとすれば、一番近い言葉が寂しいとか切ないとかになるのだろう。


静かな朝に爽やかな気持ちになりながら、静寂に人を置く隙間を感じる。


自分の家族が他の家庭に比べて放任的だと気付いた十歳の夏休み。あれから自分はどれだけの孤独と出会ったのだろう。そして、それを自由の裏側と割り切れなくなったのはいつの日か。

 ネグレクトだと指摘をされた時は本気で抵抗した。認めるわけにはいかなかったのだ。勿論、自分自身の為に。


リビングに移動し、レースカーテン越しに見た空の青さに心を許す。綻びから零れ落ちる本音を、口にするにはまだ割り切れないことばかりだけど。


寂しくて、不安で、焦燥感に駆られたりはしない。それでも、誰かの傍にいたい気持ちになるのはいつだって、こんな眩しい朝だろう。






朔也の家に来たがる気持ちを言葉にして示し、実際に行動するのは彰葉だけだ。

 

 基本的には雅や利玖に会う時は駄菓子屋だし、紅花に呼び出されるのも彼女の家や職場が多い。蓮に関してだけは、どちらも互いを物理的に求めあうような関係ではないので、そういう状況にならなければ顔を合わさない。

その距離感も嫌いではなかった。


 彰葉にしたって、その気になればバーに呼び出せばいいのだ。夜型の朔也にとってあの静かなバーは居心地もいいし、食事も味が良くて気に入っている。誘われれば、よほどのことがない限り、赴くことはやぶさかではない。

あそこでは駄菓子屋にはあまり来ない蓮や紅花に遭遇することも多く、そうでなく一人ならば、読書にも向く。

 出不精だ、人嫌いだといわれる朔也だが、それらの言葉に抗う気がなくとも、簡易的で誰にでも当てはまる習性だけで言い表されてはたまらない。


「朔也くんって、意外と収集癖あるよね」


 それでも、彼は、気軽な態度で家に来る。駄菓子屋が常に開かれた場所であるから行きやすい気持ちは朔也も持つ感情だが、それに近い軽さで入り込んでくるので、拒むのもおかしな気がするのだ。

軽い調子で来られるとこちらも同じ軽さで対応した方が楽だ、というのを教えてくれたのは彰葉だった。

 彼はハイキングロードを歩くようなフットワークで誰にでも接する。利玖の情緒纏綿な優しさには常々感服しているが、彰葉の軽やかさもまた、特別だと思う。


「そうか?」


 彰葉は床に腰を下ろし、小説を並べた本棚を眺めるように見ていた。

確かに、本への出費は惜しまない。数少ない趣味であり、自分の核になるものだった。


「もう、字の圧がすごい。活字が襲ってくる」


 傍の一冊に手を伸ばして開き、大きな眼をくるくると回す。


「あれだよね。眠れない夜に読んでみるといいかも」


 要するに、見ていると眠くなるらしい。


「字が滑って内容が入らないから、最早眠くもならねーよ」


「否定はしない。知識はあるけど興味はないものが一番、琴線に触れないよね」


 そもそも彼に、眠れない夜というものはあるのだろうか。勝手な印象で言えば彼は、眠って忘れるタイプだと思っていた。


 人をもてなすという行為がよくわからないので、とりあえず彰葉が手土産に持ってきたペットボトルのミルクティーを開ける。朔也の好きな、甘めのものだ。

 

 独り暮らしの家に勿論ペアの食器などないので、色も形も全く違うグラスを二つ並べる。注いだミルクティーの量がだいぶ偏っていたが、気にも留めない。


「ほんと、すごい量」


 懲りずに、今度は洋書を取り出して目を細めていた。

 それを横目に、朔也は一瞬窓の外を見る。


 まだ午前中なだけあって太陽の明るさにも濁りがなく、ものというものに光が乱反射してる。

午後から、大学にレポート準備のため行く予定だったが、彰葉次第では取りやめようと考える。

 明るい日の大学は居心地が悪い。こういう気温も天候も過ごしやすい日は、大学生は妙に精気を帯びていて、朔也は心許無い気持ちにさせられる。


「まだ実家にもあるんでしょ?」



 引き付けるような口調に導かれ、彼を見る。薄い色のデニムに白いシャツを合わせた彼のファッション。似合っているし、朔也のイメージする彰葉はまさしくこういう姿だった。


「まぁ、大体は向こうに置いてきた。そこに並んでるのはほとんど、こっちに来てから買った」


 実家の自室には、これの三倍の本棚があると言ったら、彰葉はどんな顔をするだろう。きっと大袈裟に顔を歪める姿を想像したら、胸の奥の方が微かにくすぐったく感じた。


 朔也にとって読書は生活の一部分となって久しい。集団生活の中で他者と一線を画すのに手っ取り早いのが本の世界に逃げ込むことで、しかし一人になったところで結局、自分を遠ざけるように夢中でページを捲った。


読書が趣味、というのは陳腐と世間で言われやすいのは、わからなくもない。

でも、付け加えるように「頭がよさそう」という感性は理解できない。


 「賢そう」が誉め言葉だと思っている人間があまりに多いけれど、そんな感情の要らない賛辞、言われない方がましだ。


「つくづく思うけどさ、俺らって、どうしたって交わらない人生歩んでるよね」


「そうか?」


「俺と朔也くんじゃ階級が違うでしょ」


 莞爾とした笑顔で、卑屈さはない。

 でも、逆に薄ら寒い。

 よく、蓮も言う。

 生きてきた世界が違うって。

 

 所詮自分は何不自由なく育てられた、苦労知らずのお坊ちゃんとして見られている。


 それを無意味に否定しても仕方ないのだろう。

荒地だという己の足元を貶さずに隣の芝生を眺める余裕こそが、彼らのアイデンティティなのだから。


 ただ少し、買被りが朔也の後ろめたさを刺激してくるだけだ。


 不意に彰葉は立ち上がり、朔也が言葉を探す代わりに差し出したグラスを笑顔で受け取った。

小柄な身体付き、華奢な肩幅。


「もしも俺たちが、自分たちのあるべき姿に従順に生きていたら、おそらく出会うことはなかったよね」


彰葉は朔也の隣に腰を下ろす。

広くない部屋に、寝転んで小説を読みたいという願望のために買ったソファ。黒いビニール張りの安物だけど、二年も部屋に置けば自分に馴染んで、居心地がいい場所になっている。

黒に統一した家具。テレビ台から本棚からデスクから何から何まで、黒にした。

蓮が来た時は陰気だといわれたけれど、彼の部屋は殺風景なだけだった。


「それを言い出したら、蓮にしたって利玖にしたって、どうして出会ったのか不思議なくらいだ」


 彰葉はガラステーブルに空になったグラスを、ガラス同士がぶつかる音をたてないように丁寧に置いた。


「実際、どうやって出会ったの?」


「利玖と、か?」


 そう、と、彰葉はソファの背もたれに身体を沈めた。


「拾われたんだよ。駅でな」


 彰葉が軽やかな笑い声を出す。


「それ、俺と一緒じゃん」


「蓮と?」


「勿論」


 彰葉は基本、化粧はしない。

 生まれながらに、綺麗な肌と際立つ瞳を持っている。


「奇遇だな」


 朔也はそう返すに留め、自分のグラスを空にした。


 少し、間ができた。

 彰葉が突然身を起こすまで、朔也は思い出すでもなしに、初めて出会った利玖の表情を思い浮かべていた。

 あの日、自分は物理的に参っていたけれど、利玖は精神的な欠落を抱えて一人、誰かを求めて縋る瞳をしていた。

 当時まだ十八歳の未成年。黒髪で、綺麗な好青年だった利玖。

 一目ぼれじゃないけれど、もしもあの日利玖に一緒に死のうといわれたら、朔也は断りはしなかったと思う。積極的ではないまでも、受動的に受け入れただろう。

 マイナスな感情を共鳴させ合った結果、たがいへの心理的距離のハードルが必要以上に下がってしまったのだ。


「朔也くん、映画も見るんだ」


 本棚の一部に並べたDVDを見つけた彰葉は驚いたように声を上げ、近寄ってタイトルを眺めていた。


「洋画ばっかり」


 彼はそう言って振り向いた。


「意外なんだけど、こういう世俗的なもの、見るんだね」

 

 彼の小さな手が、並べたDVDを撫で上げる。


「好きなんだよ、そういう、わかりやすいコメディとか、フューマンもの」


 素直に答える。

ラベルのタイトル、フォント、色使い。

後ろめたさを感じさせない一過性の作風。


「起承転結がはっきりしてるし、忙しないストーリーに反して視聴者が置いていかれない感じはさすがだと思うし、ライトに楽しませてくれるだろ」


 もう一杯、ミルクティーを注ぐ。


「全滅からの全部うまくいく感じのお決まりのストーリー、朔也くんは好きじゃないと思った」


「パターン化されてても自分好みなら、別に飽きはしない」


「それもそうだね」


 彰葉は一つのケースを棚から取り出した。


「ねぇ、これ見たい。つけてもいい?」


「どうぞ」


 朔也は時計を見る。

黒にローマ数字の小振りの壁掛けの時計。大型の量販店で購入したのだが、選んだ朔也に一緒に買い物に行った蓮が意外だという顔をした。


「そんな安物買うのな」


 そう、まったく悪気なく言われ、心臓が爪でひっかかれた気分になった。

 蓮にとって自分は興味の向かない存在なのだ、と改めて思った。


 蓮から見た自分は、視野の狭い拘りの強いお坊ちゃんでしかないのだろう。


 別に値段がどうのじゃなくて、自分の趣味にきちんとはまるかどうかが購入基準なのは、誰だって同じだろうに。

朔也はただ、その許容範囲が狭いだけだ。


「彰葉、カップ麺食う?」


キッチンの戸棚の下の段にはカップ麺と袋菓子が大量にストックされている。


「食べる」


 テレビの電源を入れ、DVDをセットしながしていた彰葉は手を止めて、キッチンにきて隣でカップ麺を選ぶ。


「この、蕪雑な生活の代名詞が戸棚に整然と並んでる感じ、何とも朔也くんって感じするね」


「そうか?」


「俺の家なら、こんなに綺麗に並べないよ。何なら、袋のまま放置。ストックとかしないし」


 それはそうだ、とは言いにくかった。

 

宵越しの銭は持たない、という言葉の裏側の憶測には様々なものがあり、どれも妙に腑に落ちるところがある。

明日への楽観視と眉を顰める気持ちも、明日への不安のなさへの羨望も、残らなかっただけという現実的な理由も、どれもわからなくはない。


 でも、彰葉の物をため込まない性質は、あからさまな無頓着が原因だろう。


 カップ麺を彰葉は塩味を選び、朔也は醤油にした。ポットで湯を沸かしている間、とぎれとぎれに聞こえる彰葉の鼻歌を聞いていた。今から見る学園コメディの主題歌だ。映画よりも一世を風靡した。


 冴えない主人公が手違いで強豪の部活に入り、青春を謳歌する有りがちなサクセスストーリー。テンポもいいし、強烈な脇役も人間味があって魅力的だ。

成長譚という位置づけで予想通りに酸いも甘いも嚙み分ける姿はまっすぐで、悪役もいないので期待を裏切られることもない。


 朔也は露骨な当て馬やかませ犬がが出てくるものは好きじゃない。

自分に重ねてしまうからだ。


 沸騰した湯をカップに注ぎながら、あそびの部分を泳ぐ乾燥麺の塊を眺める。


 泳がされて、表面的な魅力に塗り固められて、努力だ運だに全部持って行かれちゃたまんない。


「朔也くん。これ、もしかして字幕?吹き替えにしてよ」


 英語なんてわかんないと唇を尖らせた彼に呆れながら、設定変更をしていると、後ろでセットしていたタイマーが鳴った。



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