9.「うん、俺には無理」
ぐ、とイクサの背中を踏みつけた犬が跳躍する。
その瞬間、まるで時間が引き延ばされたかのようにイクサには感じられた。
にたにたと笑っていたタンブリンの顔が引きつり、驚きの表情へと塗り替えられていく。
イクサを踏み台にした犬のむき出しになった牙の合間から、よだれが滴るのが見える。
凶悪に歪められた獣の目には、命令に従う理性的な光ではなく獲物を見つけた喜びに染まっている。
その目を向けた先に艶やかな青い毛並みが見えて、イクサは迷わず牙の前に腕を突き出した。
「あっ……ぐぅっ」
左腕に食い込む獣の牙。
獲物の肉を裂くためにあるその牙はイクサのたよりない腕をやすやすと食い破り、ひどい痛みと衝撃をもたらす。
飛び起きたばかりだというのに、ふたたび地面に転がってのたうちたくなる。
なるほど、捕えられた獲物が逃れられないわけだ。このまま食い殺されるかもしれない、という恐怖が毒のように染みてくるのを感じながら、けれどイクサは犬を腕に食いつかせたまま、空いている右手を腰に伸ばした。
指先に触れた冷たい塊、回転式拳銃を引き抜いて、イクサは自身の左肩にすりつけて撃鉄を引き上げた。撃鉄をぶつけるようにした肩が痛むが、構っていられない。
気づいた犬がくちを離す前に、撃った。
「ギャインッ」
悲鳴とともに飛び散ったのは、犬の血かイクサの血か。
転げるようにイクサから距離をとる犬を見るに、弾は犬の首のあたりをかすめただけらしい。
「こぞ、小僧! なんてことするんだな! その犬は、大地主さまに借りてきた犬なんだな!」
「大地主?」
情けない悲鳴をあげる犬以上に、泡を食った様子のタンブリンがわめいた。
ナナンを背にかばいながらイクサが首をかしげれば、タンブリンの頭が激しく上下してわびしい毛髪が夜闇になびく。
「そっ、そうなんだな! 大地主さまはこの町から見える山のすべてをお持ちなんだな。お前なんかにはわからないだろうけど、とっても偉いおかたなんだな!」
「ふーん、つまり、すごく金持ちってわけか。そんな大地主がなんでこの珍獣を狙ってる?」
尻尾をまたに挟んだ大型犬を視界のはしにおきながら、イクサはタンブリンを見据えた。蒸気燈のほかにも武器を隠し持っている可能性がある。油断はできない。
「その珍獣の鳴き声は、ひとを癒やすらしいんだな。ご高齢の大地主さまはいくら積んでもいいから、その珍獣が欲しいとおっしゃってて……あ! 何を言わすんだな、この小僧!」
タンブリンがあわてて自身のくちをぷっくり膨れた指で抑えるが、もう遅い。
「つまり、その大地主さえなんとかすればナナンに手を出すやつはいなくなるわけだ」
「そそそ、そんなことお前みたいな小僧にできるわけないんだな!」
つぶやいたイクサにタンブリンが唾を飛ばす。
ぷるぷる震える顔の肉に乗っているのは、相手を侮り下に見る色だ。
イクサはそれに憤りを覚えるでもなく、あっさりとうなずいた。
「うん、俺には無理」
「およよ? 素直なんだな」
「でも、無理じゃないやつにナナンを渡せば済む話だ」
きょとん、と意表をつかれたような顔をしたタンブリンにイクサが応えれば、タンブリンの顔が一気に赤くなる。脂ののった顔が真っ赤に染まるさまは、まるで豚の丸焼きのようだ。
「なっ、この小僧! それじゃあわしが困るんだな。いい子だから、おとなしくその珍獣を渡すんだな! さもないとこの蒸気小火器が火を噴く……ってなに逃げてるんだな!」
腹を立てたタンブリンがしゃがんでごそごそと背負ったのは、蒸気小火器だ。弾の代わりに圧縮された蒸気で対象を撃つ銃は、蒸気が切れるまで連射が可能な優れものだが、蒸気を作るための水タンクを背負うため機動力が落ちるのが難点だ。
そして、タンブリンがその水タンクを背負っているあいだ、待ってやる義理はイクサにはない。
無事な右手でナナンを抱えあげ、さっさと町長の家に向かって駆け出した。
「ま、ま、ま、待つんだな!! ええい、誰かあの小僧を止めるんだな! まったく、こんなときにあいつらはどこいったんだな。なんのために金を払って雇ってやったと思ってるんだな!」
ぜえはあと息を切らしながらもわめくタンブリンを後目に、イクサは左腕から血を滴らせて町長の家を目指す。
蒸気小火器のもうひとつの弱点は、遠距離では威力が発揮されない点だ。噴出した蒸気は近距離ならば脅威となりうるが、離れてしまえばただの水蒸気だ。
蒸気機関に噴出ノズルを付けるだけで作れる安価なもので、主に害虫駆除に使われる。タンブリンが他の武器を出してこないあたり、大地主とやらは資金提供をしているわけではないらしい。
「はあっ、もう、ほんと、布団に帰り、たいっ」
「キュウゥ……」
満身創痍、疲労困憊のイクサがだるい体に鞭打って走るその腕のなか、ナナンが申し訳なさそうにイクサを見上げている。
もともと垂れている耳をさらにへしょりと萎れさせた珍獣の視線は、心配と申し訳なさとを乗せているように感じられた。
「お前は」
ナナンから視線を外し、まっすぐ前だけを向いて進みながらイクサはつぶやく。
「お前は望まれてるんだから、生きなきゃだめだ。お前のいる未来を望んでるひとが、たくさんいるんだから」
言い聞かせるようにことばをつむぐイクサの腕をナナンの柔らかな毛がくすぐる。
今はすこしだけほつれているけれど、その艶やかな毛並みは丁寧に手入れされていたことをうかがわせる。不安げに見上げてくる瞳にイクサへの疑いがないのは、ナナンをこれまで世話してきたひとがやさしく慈しんできたからだろう。
そうやって大事にされてきただろうナナンは、なんとしても町長の元へ帰さなければ。
イクサが静かに心を決めたとき。
「待ぁてぇ。小僧うぅぅぅぅ!」
背後から、それも思ったよりも近いところからタンブリンの声が聞こえた。
振り向いたイクサは驚きに思わず足を止めかけ、慌てて前を向き走り出す。
「うわ、あのおっさん、何考えてるんだ。そんなので突っ込んできたら、ナナンまで……!」
「キュキュキュッ!」
焦り、ぼやいたイクサはすぐにくちを閉じて真面目に走りだした。体が痛いだのと言っていられない。人生において大変珍しい全力疾走をするべきときはいまだと、イクサはひたすら脚を動かす。
「待あぁてええぇぇぇ!」
それを追うタンブリンが操るのは、蒸気三輪車だ。
馬なし馬車の運転席に乗ったタンブリンが、夜の通りを爆走してくる。その後ろに慌ててついてくる人影が見えるので、おそらく誰かの持ち物を強奪したのだろう。
「俺、走るの、嫌いなんだけど、なああ!?」
迫る蒸気三輪車の蒸気音に肝を冷やしながら、イクサは必死で駆け続けた。