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8.「帰ったらもう寝よう。すぐ寝よう」

 イクサは夜の町をぶらぶら進む。

 陽が落ちた町は、昼間の賑わいはどこへやら。埃っぽい通りはがらんとして、どこかの飲み屋で騒ぐ酔っ払いの声と店や家からこぼれた明かりだけが細く頼りなく夜闇に伸びるばかり。


 のんびり歩くイクサに舌打ちをするせっかちな通行人はおらず、ときおりすれ違うのはカンテラを持ったどこかの使用人や明かりをぶら下げて走る馬車くらいなものだ。


「これだけ暗いと見えやしないだろうけど」


 ナナンの青い毛皮は暗がりにあっても艶めきを失ってはいなかったが、きっとさほど気にするものもいないだろう。それでもすれ違うひとの中にナナンを狙うごろつきの仲間がいないとも限らない。

 肩に乗ったナナンに布をかぶせて、イクサは痛む身体でずるずると進んでいた。 


 遠く見えていた町長の家の時計塔がじわじわと近づいてくる。夜でも明かりに照らされた時計の針が示すのは8の数字。


「あー……帰ったらもう寝よう。すぐ寝よう。飯はあした食べるし、寝る子は育つっていうし」

「キュッキュツ」


 怠惰にまかせて食事をおろそかにする発言をしたイクサに、ナナンが不満げに声をあげる。つぶらな瞳は愛らしいしふかふかの毛皮を持つ体は抱えられるほどの大きさで怖くなどないのに、なぜか料理屋の女将を思い出させた。

 

「お前もちゃんと食えってうるさいのか……? そんなわけないか。見つかるから静かにしててくれ」


 イクサが勝手にげんなりしてナナンの頭に布をかぶせなおした、そのとき。


「ウォン!」

「そこの少年、止まるんだな」


 野太く吠える声とともに誰かがイクサを呼び止め、イクサの身体が白い光に照らし出された。


「なんだ……?」


 まぶしさに腕で顔をかばったイクサが振り向くが、照らす光が強すぎて声をかけてきた相手の姿は見えない。

 カンテラの明かりではない。ゆらゆら揺れる不安定な火ではなく、夜をかき消すほどの明かりを生むそれは、蒸気燈(ライト)のそれだろう。


「少年、お前からわしの探しものの匂いがするんだな。怒らないから、さあ返すんだな」


 蒸気燈の光の向こうから先ほどの声が告げる。猫なで声のつもりだろうか、言うことを聞かない幼児に言い聞かせるような粘ついた物言いだ。


「……眩しくて、そっちに行けない。明かりを消してほしい」


 光を言い訳にイクサが動かないままに応えれば、明らかに舌打ちする音が返ってきた。ハアハアと荒い犬の息遣いも聞こえてくる。

 けれどすぐに光は消され、猫なで声とともに重たい足音が近づいてくる。


「ほぅら、消してやったぞ。さ、返すんだな」

「ウルルルル」


 いっしょに聞こえる軽い足音は、唸り声をあげている犬のものだろう。

 光に焼かれた目ではぼんやりとしか見えないが、イクサはたるのような体をした男と男の持つ鎖につながれた大型の犬の姿を確認して地を蹴った。


「ナナン、しっかりしがみついてろ」

「あ! ま、待つんだな!」


 男の声を無視してイクサは走る。町長の家までもうすぐだ。駆け込んでしまえばあとはどうにでもなる。

 そう考えて走った。だが。


「ガゥルルルッ」


 唸り声が聞こえたかと思うと、イクサは一瞬で地面に引き倒されていた。それに気がついたのは衝撃が体を襲ったあとだった。

 受け身も取れずに打ち付けた顎に力が抜けて、押さえつけらえた胸からは空気が押し出され体が強張る。


「あっ、ぐぅ!」


 辛うじてもれた声は悲鳴にすらならず、耳元をくすぐる熱い獣の息にかき消されるほど弱弱しい。

 それでも、背後から飛びかかられたのだろうということはわかった。そして、肩に乗っていたナナンが吹き飛ばされず、しっかりとしがみついたままでいるのも確認できた。

 かぶせていた布は倒れた拍子に外れたのだろう。青く艶めいた毛皮が闇のなかに浮かび上がっている。


「ほっほう、やっぱりそうだったな! 珍獣ナナン! さあ、わしに返すんだな!」


 男の目にもナナンの姿が映ったのだろう。声を弾ませて、ついでに突き出た腹を弾ませて男が駆け寄ってくる。


「く、っそ、逃げ、ろ……町長は、あそこ、だ!」


 踏みつけてくる大型犬の重みに耐えながら、イクサはどうにか時計塔を指さした。

 見えている場所ならば、ナナンひとりでも駆けていけるだろう。

 そう願って漏らした声に反応したのは、たるのような体をした男だった。


「違う、違う、ちっがーう! あそこにいるのただのいけ好かない小娘なんだな。あれは、本当はわしの屋敷なんだな!」


 地団駄を踏んで叫んだ男を思わず見上げたイクサは、太く短い脚、ベルトを引きちぎりそうなほど膨れた腹、趣味の悪いど派手なシャツのうえからでもわかる垂れた乳と似合わない金のネックレスのうえの顔に見覚えがあるような気がして、状況も忘れてぼうっと考えた。


 短い首に埋もれるような顎、ちまちましたパーツのなかで鼻だけがやけに大きく生やした髭がむしろ威厳を損なっている顔。やたらと濃いのに情けなく下がった眉のうえには、抜け残ったのを必死で伸ばしている髪の毛。みっともなく髪の毛が点在する頭のうえは、まるで荒野に転がる回転草(タンブル・ウィード)を見ているようで。

 その頭頂部を見たイクサは、ようやく相手の正体に思い至った。


「あ、回転草(タンブル)禿げの町長だ」


 町長の顔など覚えないイクサは、町であだ名されていたその呼び名しか知らなかった。だから、ついうっかりその不名誉な名を声に出してしまったのだが。


「タンブリン・ウィドーだ! 町長の名前くらいしっかり覚えるんだな!」

「あ、でもあんた、もう町長じゃないっぐぅ!?」


 言いかけたイクサの背を大型犬がぐり、と踏みなおす。命令をくだしたらしい男、タンブリンは、くわえていた音の出ない笛を握りしめて額に青筋を立てた。


「わしは町長だっ! わしが町長なんだ! あの小娘は親の金で権利を買っただけの無能者なんだな、いまにわしに頭を下げて町長の座を返すことになるんだなっ!」


 じたばたと短い手足を振り回したタンブリンが、荒い息のままどすどすとイクサのそばに立った。


「そのためにも、この珍獣は返してもらうんだな」


 脂ぎった顔にいやらしい笑みをたたえたタンブリンの目がナナンを捕らえた。

 イクサを守るかのように離れずにいたナナンが、ぶわりと青い毛をふくらませる。

 その額の石がきら、と光の雫をこぼしたとき、イクサを押さえつける犬がハッと熱い息を吐いた。

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