7.「止まるな、逃げろ!」
かり、と指先が回転式拳銃に触れた瞬間。
「おっと、無駄な抵抗はやめておけよ」
「ぃぎっ!」
そばに立つ男の足が、イクサの手の甲を踏みつけた。
地面に押し付けられた手のひらに小石が刺さる。じわじわと踏みつける力が強くなって、今にも手の甲から骨の軋む音が聞こえそうだ。
「おいおい、そんな強く踏んだらかわいそうじゃねえか。あんまりイジメると泣いちまうぞ?」
「ちゃーんと加減してるさ。痛みと熱が置き換わらないように、やさしくやさしく踏んでやってるから、大丈夫」
痛みに耐えるイクサには男たちの顔を見る余裕などない。けれどわざとらしい哀れみを含んだ口調から、その顔はきっと暗い愉悦に歪んでいるだろうと想像できた。
痛い。蹴り飛ばされて転げた身体も、踏みつけられている手も酷く痛むが、イクサの目は諦めていなかった。
男たちの視線は、痛めつけられたイクサに向けられている。
それはつまり、ナナンへの注意が薄くなっているということだ。
勝手に漏れるうめき声を我慢せず、身じろいだイクサに男たちが笑ったとき。イクサは短く息を吸い、叫んだ。
「ナナン! 逃げろ!」
「キュイッ!」
イクサのことばが通じたのか、ナナンが応えるように鳴き声をあげて体をよじる。
ふわふわの毛皮は注意の逸れていた男の手からするりと抜けて、青色の獣は地に降り駆け出した。
「馬鹿野郎! なに逃がしてる!」
「だってよ、あいつが急に暴れて!」
「いいから追え! 逃がすな!」
「うるせえ、お前も追いかけろ!」
怒鳴りあう男たちの間をすり抜けたちいさな獣は、とてて、と走ってすぐそばの斜面を登る。柔らかな毛並みを艶めかせる背中を見送って、イクサがほっと息を吐いた、そのとき。
「キューアッ」
斜面を登って一段高いところにたどり着いたナナンが、脚を止めてくるりと振り向いた。
つぶらな瞳を心持ちキュっと引き締めたナナンは、四つ脚でしっかりと立って斜面を登る男たちを見下ろした。
「止まるな、逃げろ!」
叫んだのはイクサだ。
「よーし、いい子だ。おとなしくしてろよ」
「逃げねえなら、やさしくしてやるからなあ」
うれしそうな声をあげたのは男たちだ。
三人から見つめられたナナンは、踏ん張る脚に力を込めて額の石を光らせる。
「光ってる……?」
陽光を弾いたのとは違う。ナナンを中心にしてぼやりと空気に色がついたかのように、イクサには見えた。
痛みも忘れ、青色の獣を見つめた次の瞬間。
「アァァァー!」
ナナンが歌った。
いや、鳴いただけなのかもしれ。けれどその鳴き声は高く細く、イクサの耳から入って頭のなかに響き渡る。
まるで歌うように音程を変えて鳴くナナンに向かってにじり寄る男たちが、不意にぐらりと傾く。
「え?」
イクサがぽかんとくちを開けている間、男たちは体勢を整えるでもなくそのまま倒れた。
どさどさと折り重なるように男たちが倒れてしまうと、ナナンは響かせていた声を途切れさせ斜面を駆け下りてきた。
倒れたままのイクサの前まで来たナナンは、ちいさな前脚でほてほてとイクサの頭を揺する。
起きろ、と言いたいのだろうか。
地にほほをつけたまま視線を空に向ければ、夕焼けが闇に飲まれつつある。もうじき日が暮れる。できればこのまま寝てしまいたいところだが、そうもいかない。
ふらりと起き上がったイクサは、恐る恐る倒れた男たちの顔を覗き込んだ。
「……寝てる」
斜面に寄りかかるように倒れた男たちは、ふたり揃って目を閉じ穏やかな顔で眠っていた。
イクサがぼんやり見ていると、ふがふがといびきまでかきはじめる。
「これ、お前が……?」
戸惑いながらナナンを見下ろせば、青色の毛皮がぐっと波打つ。
なんだ、としゃがんで観察すれば、ナナンはちいさなくちをキュイっと持ち上げて、心なしかむふんと胸を張っているように見える。
「なんかわからないけど、助かった」
抱きあげてナナンの頭を撫でる。光ったように見えた額の石は、元のとおり光を反射するだけに戻っていた。
見間違いだろうか。少しだけ考えたイクサだったが、すぐに思考を放棄した。
「まあいいや、お前が無事だったし。それじゃ町長のとこに……」
行こうか、と言いかけてイクサは足元を見る。
倒れた男がふたり。なぜか寝ているようだが、いつまで寝ていてくれるかはわからない。
ひと晩くらい寝ていてくれるなら放置しても良いが、ほんの数秒後に目を覚ましてふたたび襲ってこないとも限らない。
そして、そのときはきっと、ナナンを守りきれない。
「愛玩動物を捕まえるだけのはずなのになあ」
どうしてこんな面倒なことになっているのか、とため息をついたイクサはゆるりと首をまわりしてあたりに視線をやった。
朽ちかけた材木にかけられたロープが目について、よろよろと歩きだす。
「いててて……」
歩けば蹴り転がされた身体のあちこちが痛む。落ち着いてくるほどに、じくじくずきずき痛みが主張してきて、イクサの歩みはいつもよりさらに遅い。
「まあ、折れたり血が出てないだけましか」
のろのろと動いて、ようやく男たちの足首を縛り終えたときには太陽は地平線の向こうへ去っていた。
「あー、今日は働き過ぎた。もうここで夜を過ごしたい。ごろごろしたい」
「キュウゥ……」
しゃがんだままイクサが呟くと、傍らにちょこりと座ったナナンが鳴いた。
どことなく寂しげな鳴き声をあげるナナンは、なんとなく残念そうに見える。
男たちから逃げ回って丘にたどり着いたのだとしたら、ナナンは昨夜、このあたりで野宿をしたのだろう。
他国に友好の証として贈られるくらいなのだから、きっとこれまでの暮らしは良いものだったに違いない。でなければこれほど毛皮の色艶良く、懐っこくなるわけがない。
そんな箱入りで育っただろう獣がふた晩も野宿をすることになったなら……。
「……帰るか」
イクサはよっこらせ、と立ち上がる。ぴょん、と飛び上がったナナンを肩に乗せて暗い丘の道を歩いて行く。
裏門番の老女は朝が早いぶん、夜も早い。
真っ暗な老女の家の前を難なくすり抜けたイクサは、くちうるさい町のひとびとと顔を合わせないルートを選んで町の暗がりにそろりと溶け込んでいく。
珍獣を見られないため、と言い訳しながら傷ついた体を引きずってもたもたと町長の家を目指すのだった。