ナナンのお散歩
ナナンがくちにくわえていた果物をイクサの枕元に転がしたとき、部屋の扉が叩かれました。
ふさふさの尻尾がぴくん、と動きます。
「ナナンさま、起きていらっしゃいますか」
「ナーン」
扉の向こうからのささやくような声にひと声鳴けば、静かに扉が開いて長身の男が滑り込んできます。
ナナンの姿を捉えた切れ長の目が、とろりと溶けました。
「ああ、本日も大変麗しいお姿! 朝日よりもまばゆく、小鳥のさえずりより朗らかなそのお声を耳にできてこのランタナ、胸が張り裂けそうで……っ」
「んナァン……」
にじり、と後ずさってしまうのは本能です。
けれど男、ランタナは距離を一瞬で詰め、ベッド越しにナナンに迫ってきます。遠慮を知らない無粋な男です。
「ナナンさま! あなたのような若く麗しい淑女が、気安く異性の寝床に入ってはならないとあれほど!」
「……うるさい……」
ランタナの小言にそっぽを向いて毛づくろいをはじめていたナナンは、布団のなかから聞こえたうめき声に顔を上げました。
ぬうっと現れた指が布団をつかんで引きずり上げ、そのしたでなにかがもぞもぞと動いています。イクサは寝ざめが悪いわけではないのですが、放っておけばいつまでも布団のなかで過ごそうとします。ナナンのように毛皮がないせいで、布団から出られないのかもしれません。
「お前は起きろ」
冷ややかな目で手を伸ばしたランタナがべり、と掛布団を剥げば、温もりを奪われたイクサが横になったままちいさく縮こまります。
葉っぱのしたで見つかる虫みたいだな、とナナンはその背中をつついてみました。
もぞもぞ動きます。
つんつん、もぞもぞ。
つんつん、もぞもぞ。
「はぁあああああ! 珍妙な動きをする物体をそうっとおみ足でつつかれる姿! なんとおかわいらしいぃぃぃぃ! 動く間はじっと観察して止まると再びつつくなど……! お気に、召したのですね……! お気の済むまでいくらでもつついてくださいませぇ!」
ランタナがうるさいなあ、と思いながらもナナンはイクサをつついていました。
もぞり。
大きく動いたイクサの目が、ゆるゆると開きます。開いてもまだ眠そうです。
「……んー……なにか、用?」
寝転がったままランタナを見上げたイクサが、ぼそぼそと言いました。
途端に、うるさく騒いでいたランタナがぴたりと表情を引き締めます。
「用があるのはお前だろう。昼過ぎにどこかへ行くのではなかったか?」
「…………あー」
むくり、と起き上がったイクサは、寝ぐせのついた頭をぼりぼりとかいています。
寝床に背を向けたランタナは、部屋のすみに置かれた引き出しから手早く服を取りだすと、イクサのひざに置きました。
「早急に着替えを済ませて、朝食を摂れ」
「んんー? いや、いいよ。着替えたらそのまま行くし」
イクサの答えにナナンがいそいそと枕元に向かっていると、ぎらりと目を光らせたランタナが「食事を抜くなと何度言ったらわかる!」と着替え途中のイクサの腕をつかんで歩き始めました。
「ンー」
くわえた果物を落とさないようにナナンが鳴くと、扉のところで立ち止まったランタナが足早に戻ってきて、ナナンを抱き上げました。くちの果物は、そっと取り上げられてしまいます。
「そちらはお夜食に用意していた分ですので。ナナンさまにも、新鮮な朝食用の果物を用意いたします」
にっこり笑ったランタナはナナンを抱え、イクサの背中を突いて食堂に連れて行きました。
せっかく運んだ果物を没収されたナナンはすこしご機嫌が斜めです。尻尾でぱしぱしとランタナの腕を叩きますが「はああ、ナナンさまの尻尾がこの身に与える刺激……!」と喜ぶので、すぐにやめました。
用意されていたたっぷりの食事をほんのすこし食べたイクサは、もっと食べろと口うるさいランタナに睨まれながら町長の屋敷を出ました。
*****
「ナン、ナン、ナン」
てくてく歩くイクサの肩に乗って、ナナンはお供します。
ナナンとしては歩いたって良いのですが「有象無象の闊歩する町中を愛くるしいナナンさまが歩いていて万一、足元がおろそかになっている者に蹴られでもしたらと思うと……!」とランタナがうるさく言うので、イクサがしぶしぶ肩に乗せ、ナナンも仕方なく肩に乗っているのです。
イクサが歩くのに合わせて、ナナンの尻尾もゆらゆら。
「ナーン、ナーン、ナン」
ぽかぽかのお天気とにぎやかな町並みにご機嫌なナナンが歌っていると、人ごみの向こうから誰かの声がしました。
「おーい、何でも屋!」
ぴくぴく、とナナンの耳が動きます。
「おいおい、聞こえてないのか、何でも屋ー!」
「……はぁ」
ナナンがたしたし、とイクサの肩をたたくと、彼はため息をついて声のしたほうに足を向けました。
その先にいたのは、道具屋の店主です。顔が広く声も大きい店主は整理整頓が苦手なようで、何でも屋をしているイクサにたびたび倉庫の片付けを頼んできます。
「何でも屋お前、聞こえたんなら返事くらいしろよ」
「んー。でも、俺以外の何でも屋を呼んでるのかもしれないし」
大股で近寄ってきた店主はばしばしとイクサの肩を叩きました。ナナンは転げ落ちないように、尻尾をイクサの首に回して踏ん張ります。
「相変わらず商売っ気ねえなあ。まあ、町長のとこで忙しくしてるんだもんな。汗水たらして働く必要はないか」
「おー。そういうこと」
ナナンの身体にそっと手を添えて、イクサがうなずいています。いかにもやる気のない様子ですが、イクサが金髪の町長エリスアレスに頼まれた以外にもあれこれ仕事をしていることをナナンは知っています。
それは道具屋の店主も同じです。
「ははは。じゃあ、暇つぶしにうちの仕事手伝ってくれよ」
「え、嫌だ。倉庫整理ならこの間したし」
イクサは本当に嫌そうです。けれど店主は気にする風もなく、イクサの肩をバンバン叩きます。ナナンはぐらぐら。
「いやあ、今日は違うんだよ。一気に注文が入っちまってな。そのくせあれこれ細かい確認が必要なもんだから、ひとりじゃ時間がかかってよ。お前さんは俺が読み上げる数を紙に書いてくれればいいからさあ、ちょっと手伝ってくれよ」
「……すこしだけなら」
「助かるよ!」
ナナンは、なんだかんだでイクサはちょろいのだ、とエリスアレスが言っていたことを思い出しました。
イクサが店主を手伝っている間、ナナンは窓辺でうたた寝です。
「いやあ、助かった!」
店主の大きな声でナナンが目を開けると、倉庫のなかがさっきよりもなんだかすっきりして見えます。
「店の売り子たちは『倉庫の整理と在庫の管理は店主の仕事でしょう!』って手伝ってくれないからさあ。掃除までしてもらえて、すっきりしたよ」
どうやら、イクサが掃除をしたようです。
「べつに、ついでだから」
めんどくさそうにつぶやくイクサの肩に飛び乗ったナナンは、ふさふさの尻尾でイクサの頭をなでてあげます。
素直じゃないイクサだけれど、とっても親切で優しい良い子なのをナナンは知っているからです。
「そのついでが助かってるんだ。ほら」
店主が言って、何かをイクサに放りました。
受け止めたイクサの手のなかをのぞくと駄賃の入ったちいさな袋に、何か布が括り付けてあります。
「?」
イクサが不思議そうな顔をしながら広げると、それは、手袋のようでした。
「なんか、変わった乗り物もらったんだろ? 馬車屋のやつに聞いたよ。そのときにでも使ってくれ」
「……うん」
素直にうなずいたイクサに店主がうれしそうに笑います。この店主も、イクサが良い子なのを知っているのだな、とナナンはご機嫌に尻尾をゆらしました。
「あ、そうだ。料理屋の女将がお前を見かけたら寄こしてくれって言ってたな。昼飯の配達があるんだとか」
「……はあ、わかった」
イクサはもうあれこれ言うのも面倒になったのでしょう。ため息をついて引き受けました。
道具屋の倉庫を出たイクサが、空を見上げます。
「近場ならいいけど」
見上げた先には、町長の屋敷の時計塔。時刻は、正午のすこし前を指しています。
「すこし、急ぐか」
つぶやいたイクサはナナンを抱えて走り出しました。
二本の針がてっぺんで重なるころ、イクサが待ち合わせをしているのをナナンは知っています。約束に間に合わせるために走りだす彼はめんどくさがりでもなんでもないのです。
*****
「ああ、何でも屋! 良かった。あんたが来なかったら、客にでも頼もうと思ってたんだよ」
昼が近づいて混みあう店の裏口を叩くと、すこしして料理屋の女将が顔を出しました。
かと思えば、ずいっと大きな包みを突き出します。
「これを郵便屋に届けとくれ」
「ん」
はずむ息を整えながらイクサが両手でしっかりと受け取ると、女将は包みのうえにちいさな包みを乗せました。
「駄賃はこのなか。頼んだよ!」
言うだけ言って女将は店のなかに戻っていきます。厨房の向こうから客が呼ぶ声がしています。
ありったけの鍋を火にかけた厨房で、女将の旦那がイクサに目をむけてこくりと頷きました。
それを合図に、イクサは扉を押さえていた足をどけて、店に背を向けます。
「郵便屋なら、ぎりぎりだな」
時計を見て、包みを見たイクサは急ぎ足。料理をこぼさないよう気遣うイクサのために、ナナンは駄賃の入ったちいさな包みをくわえてお手伝いです。
ひとの波を縫って、郵便屋へと進みます。
途中、代筆屋の窓辺に桃色の髪を見つけてイクサの歩みがすこし遅くなりました。けれど立ち止まることなく、また歩き始めます。
もうすこしで郵便屋にたどり着くころ、前から荷運びの一団がやってきました。荷物を満載した馬車とすれ違うとき、警護の男の目がイクサを捉えました。
「ウォルフ」
「ああ」
イクサが名前を呼んで男が応えて、それだけのやりとりで男は行ってしまいました。
足をとめないイクサの顔をナナンはそうっとのぞいてみます。
いつも通りのぼんやりした顔で、だけどちょっぴりだけ口元が緩んでいます。
ナナンはさっきの男が好きではありませんが、イクサがご機嫌ならナナンだってご機嫌です。
ふんふんと尻尾を揺らして、辿りついた郵便屋に料理を渡しました。
「あ、何でも屋さん! 今日はね、ナオが。リサの赤ちゃんに歯が生えたから、お祝いなの! いっしょに食べていかない?」
料理を渡した受付の女性に誘われて、イクサはふるふると首を振りました。
「約束があるから」
「そう、残念ね。あ、だったらせめて、リサとナオに会っていって! 今呼んでくるから」
立ち上がりかけた受付の女性に、イクサはやっぱり首を振って懐を漁ります。
「また今度、家に寄るからいい。代わりにこれ、お祝い」
ベストの内側にしまってあったのは、布でできた人形です。道具屋の店主にもらった端切れを縫い合わせて、イクサがちまちまと作っていたのです。
早めに屋敷を出たのは、この人形をリサの家の郵便受けに押し込むためだったのをナナンは知っています。
別のひとに捕まって時間はなくなりましたが、渡せればいいやとイクサは考えたようです。
「わあ、かわいい! ナオにきっと渡しておくからね、ありがとう!」
まるで母親のようにお礼を言う受付の女性に見送られて、イクサとナナンは郵便屋を出ました。
「……郵便屋のみんなの子みたいだな、ナオ」
ちいさく笑ったイクサはうれしそうです。受付の女性のほかにも、ナオの名前でにこにこしていたひとがたくさんいたのを見ていたのでしょう。ナナンもうれしくなって「ナァン」と鳴きました。
その拍子に、くわえていた袋がぽとりとイクサの手のなかに。
「……? なんか、重たい」
つぶやいたイクサが袋を開けると、なかには駄賃。それからもうひとつ、ちいさなちいさな袋が入っていました。
「クッキーだ」
なかをのぞいたイクサがむずがゆいような顔をしています。料理屋の旦那は何かとイクサに食べ物を食べさせようとするので、いつものそれでしょう。
その気持ちはナナンにもよくわかるので、食べるようにイクサの手をたしたし、と叩いてうながしました。けれど、イクサは袋のくちを閉じてしまいます。
「急ごう」
振り仰げば、時計の針はいよいよてっぺんで出会おうとしていました。
イクサの腕に転がったナナンは、不満を「んナン」のひとことに込めて我慢してあげます。
走って、走って、だんだんひと気が無くなった町中をもっと走って。
ようやく走るのをやめたイクサは、息を整えながら歩きます。
「あ! イクサ! おっそいぞー!」
町のいちばん外れの家の前で、ちいさな影がぴょんぴょん跳ねています。
「ナーン、あそぼ!」
もっとちいさな影がこちらに向かって走り出しました。
「ころぶぞー」
だらだらと歩くイクサは、まるで急いできたようには見えません。
だけどナナンは、彼がここまでずっと走ってきたことを知っています。懐に入れたクッキーをあのちいさな子たちに全部あげてしまうことも、知っていました。
「あんたたち、家に入りな。何でも屋は放っといてもこっちに来るんだから」
子どもたちを引き留める老婆も、たぶんイクサが走ってきたことを知っているのです。だけど、イクサがクッキーをあげてしまったことには気づいていないようです。
だから、ナナンは決めました。
今日の夜も、部屋に用意された果物をイクサに分けてあげるのです。
そのためにも、今日はどうやってイクサの部屋に潜り込もうかと、考えるナナンなのでした。




